2009/11/11

中国ににっかつはなかった  映画

TIFFや演劇鑑賞ならびに鼎談準備&鼎談そのもの、さらには数多のシナリオ打合せなどを挟んでようやく、短篇四十枚と長篇連載九十枚を終えた。結果、せっかく時間割まで書き写した岡田茉莉子特集に一歩も足を向けられず。今日だってほぼ徹夜でこれから寝ないと、死ぬ。

そんななか、増村の『黒い福音』を見た。私はこの手(驚くべき経済原則)を決して使わないと心に決めたが、ぜひどなたか、というか万田さん、やっていただきたい。白人神父の歌がいい。かつては当たり前のように見ていたわけだが、宇津井健への演出はやはり尋常ではなかった。

なんだか呆然としてしまったので、ついでにロウ・イエ『天安門、恋人たち』も見る。必ずしも悪くとは言わないのだが、うむ、この際苦言を呈しておきたいのは、陳凱歌『大閲兵』以来中国映画は、描きたいことより伝えたいこと、つまりメディアとしての側面に多くを負いすぎた結果、視覚からいつまでも脱却できずにいる気がしてならない、という点だ。つまりそれは映画が最終的に触覚に到達しないということだ。あの一回こっきり見ただけの『大閲兵』の異様な触覚性をいまもって忘れられない者にとって、これはとても惜しいことだという気がする。もちろんこの国とは比較にならない厳密な検閲がいまだ足枷になっていることは百も承知だ。だが、あの巨大な国から侯孝賢やキアロスタミのような存在がひとりも出てこないというのは訝らざるを得ない。もしかして知らないだけなのだろうか。
そのような感想をある先達に送ったところ、映画は結局高度資本主義の産物だとの答えが返ってきた。なるほど、私にとって触覚とはなにより神代や曽根などのにっかつロマンポルノの映画体験であり、にっかつこそは「高度資本主義の産物」だったと言えなくもない。ここでのベッド・シーンにはひとかけらの触覚も感じなかった。まるで市川昆の形骸化したエピゴーネンといったものでしかなかった。
うん、まあ眠くてこれ以上は思いつかないが、なんかそういうことだった。


……え? なんだよ、超自然スリラーって!!!
http://www.allcinema.net/prog/news.php#5020
しかももう撮影中なんですか!? 信じられない創造意欲!!!
9



この記事へのトラックバックURLはありません
トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ