2010/1/7

「ゲーム」から「ライフ」へ  映画

そしてとうとう『アバター』である。
見る前に「ガースー黒光りパンドラ」を舞台に「絶対笑ってはいけないアバター24時」という企画がふと頭をよぎった。「おまえら〜、ちょっとあの鳥に乗ってくれるか〜」という藤原のとぼけた声がしてきそうだ。にしても、この3Dは面白すぎないか。いわゆる「映画」とはまたべつの体験だという気がするが、面白さには変わりない。見ながらどんどん頭が痛くなり、その頭痛が半端なくなってきたところで戦闘シーンがピークに達し、そのうち乗り物を完璧に乗りこなしたというような爽快さで頭痛は消えていった。そんな生理的な現象をもともなうのが3Dということか。『アビス』の「水中呼吸」に慣れる感覚によく似ているが、あれはスクリーンのなかのひとのもので、これは見る側のものだ。ジェイクもアバターに入るのにあれほどの仮死体験はなさそうだった。
で、この乗りこなし感だが、昼に来月出る拙著『シネマ21』のゲラを読んでいてちょうどキャメロンの部分に差し掛かっていたんだが、そこに「キャメロンの映画は全部キャメロン自身の見た目」というようなことが書いてあり、この新作もズバリそのとおりだったので、まったく変わらないその姿勢に胸を打たれた。ただ、乗りこなし感といってもキャメロンの場合「見た目」であることはいわゆる「ゲーム感覚」とは一線を画し、「ゲーム」はいつしか「ライフ」へと、のっぴきならないところへと自分を賭けていく感じまで到達するんで、そこでもさらに胸を打たれるものがあった。もっともこの「ライフ」は日本語に訳したときの重みを欠いた、タワレコのキャッチコピーに現れるときのようなカジュアルな装いのそれではあるが。ともあれ『タイタニック』(そして比較するまでもないが『2012』)に対する『アバター』の圧倒的な優位は、終始展開する空前絶後の運動感覚(特に、飛行)にあることは言うまでもなく、この運動感覚こそが3Dの生理反応とともに「ゲーム」から「ライフ」への移行を促すのである。
話は『小さな巨人』ではあるけど、ナヴィのプリンセスが最初にジェイクを矢で狙うときふとあのいそぎんちゃくみたいなくらげみたいなクリオネみたいな生き物が蝶のようにふわりと矢の先に舞い降りたところで絶句(『殺しの烙印』じゃん!)し、以降完全に武装解除。途中でラストカットがどういうものであるか、予想がついて、最後までわくわくしながら見ることができたのだが、いかんせんとにかくこの映画を乗りこなす=戦うのに精一杯で、感動するということができなかった。ホントは、犀の群れが突進してくる辺りでちょっと落涙したけど。一方、隣ではクライマックスに至り妻が珍しく鼻をズビズビ言わせているので、きっと「ゴジッカ」のことを思い出されたのだろう、と微笑ましかった。
ともあれタランティーノしかり、キャメロンも二十年同じことをしながら順調に洗練されてきてもいて、実に頼もしいかぎりだ。
もう一回見に行こうと思う。
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