2009/11/11

中国ににっかつはなかった  映画

TIFFや演劇鑑賞ならびに鼎談準備&鼎談そのもの、さらには数多のシナリオ打合せなどを挟んでようやく、短篇四十枚と長篇連載九十枚を終えた。結果、せっかく時間割まで書き写した岡田茉莉子特集に一歩も足を向けられず。今日だってほぼ徹夜でこれから寝ないと、死ぬ。

そんななか、増村の『黒い福音』を見た。私はこの手(驚くべき経済原則)を決して使わないと心に決めたが、ぜひどなたか、というか万田さん、やっていただきたい。白人神父の歌がいい。かつては当たり前のように見ていたわけだが、宇津井健への演出はやはり尋常ではなかった。

なんだか呆然としてしまったので、ついでにロウ・イエ『天安門、恋人たち』も見る。必ずしも悪くとは言わないのだが、うむ、この際苦言を呈しておきたいのは、陳凱歌『大閲兵』以来中国映画は、描きたいことより伝えたいこと、つまりメディアとしての側面に多くを負いすぎた結果、視覚からいつまでも脱却できずにいる気がしてならない、という点だ。つまりそれは映画が最終的に触覚に到達しないということだ。あの一回こっきり見ただけの『大閲兵』の異様な触覚性をいまもって忘れられない者にとって、これはとても惜しいことだという気がする。もちろんこの国とは比較にならない厳密な検閲がいまだ足枷になっていることは百も承知だ。だが、あの巨大な国から侯孝賢やキアロスタミのような存在がひとりも出てこないというのは訝らざるを得ない。もしかして知らないだけなのだろうか。
そのような感想をある先達に送ったところ、映画は結局高度資本主義の産物だとの答えが返ってきた。なるほど、私にとって触覚とはなにより神代や曽根などのにっかつロマンポルノの映画体験であり、にっかつこそは「高度資本主義の産物」だったと言えなくもない。ここでのベッド・シーンにはひとかけらの触覚も感じなかった。まるで市川昆の形骸化したエピゴーネンといったものでしかなかった。
うん、まあ眠くてこれ以上は思いつかないが、なんかそういうことだった。


……え? なんだよ、超自然スリラーって!!!
http://www.allcinema.net/prog/news.php#5020
しかももう撮影中なんですか!? 信じられない創造意欲!!!
9

2009/11/9

韓米はなぢ勝負  映画

宿酔でグダグダだったが、なんとか奮起して夕方渋谷へ。シネマライズで『母なる証明』とシネタワーで『スペル』。
なんだか妙な邦題の『母なる証明』だが、内容はほとんど覚えていないほど当たり前すぎかつ「で、何?」的な流れで終始拍子抜け。こういうのやれ、と先日某プロデューサーから進言されたが、ごめん、無理だわ。面白がれるところがなくて私には無理です。ジュノ君だってホントに乗ってやってるのか、これ? 息子逮捕の直後、警察車両をおふくろが追ってくるのにビビッて刑事が事故るところだけは笑ったの覚えてるけど。というかその後の『スペル』が(これも邦題の意味がよくわからんけど)やってくれちゃっていたので、全部すっ飛んじゃいました。
『スペル』はかなり雑な作りではあるのだが、雑でも怒涛のテンポを択んだところに大いに共感を持った。『スパイダーマン』シリーズの唯一の不満は丁寧すぎる点だったが、ここではサム・ライミのがちゃがちゃしたところが復活している。そして怖かった、というか久しぶりに椅子から飛び上がるくらいビビッた。あの婆さんの家のパーティというか葬式だったのかな、あれは、とにかく近親者が集って婆さんの遺体を囲んでいるところだが、この感じ……と思ったのは『グラン・トリノ』だったんだが、あれほど流麗ではなくむしろ取ってつけたような感じで、さらにまた『オープニング・ナイト』さえ思い出した。婆さんの孫娘のチグハグなほどの異常な美しさもいい。そうしてあそこで棺をひっくり返すというとんでもないスラップスティックが見事。シナリオ上の、痛いコンプレックスを積み重ねつつストレスを膨らませていく辺りの構成も巧く行っている。夜、轢きかけたじいさんの激怒もかなり怖かった。
両方ともシネスコで、しかも寄りが多いにもかかわらず、『スペル』のほうがほんのちょっとだけ引いていて、というか寄りとして正確で、そこがやはりハリウッド映画とそれ以外の違いなのだ。ピーター・デミングだし、やはりわかっている。
ブルース・キャンベルがとうとう出なかったのがちと残念で、こういうものにこそ出ていてほしかった。タランティーノで言えば『デス・プルーフ』に相当する、といってもいい出来で、今年CEの二本の次、第三位はこれになりそうだ。
表題は双方の犠牲者による流血が共通していた驚きについて。軍配はそのとっぴな物量作戦で、やはり米軍の勝利。
18

2009/11/7

清張と小倉  書物

木曜はアテネフランセにおける万田邦敏監督の特集上映に赴き、小出豊監督によるドキュメンタリーを見た。もう少し編集に手を入れる余地があるように感じられた。終了後、万田さんと水道橋「天狗」でワインを呑んで、始発まであれこれ食っては喋った。こういうのは昨秋のパリ以来だ。シテ島内のレストランだったか、あの日は吹雪だった。それはそうと、最近の万田さんは小津などと一緒に写真に収まっている里見トンにそっくりだ。

金曜は松本清張デー。短篇「黒地の絵」「張り込み」「西郷札」「ある「小倉日記」伝」などなど、片っ端から読んだ。朴訥な感じが好かれたのだろう。地元関連で言えばいまもある地名やすでに失われた地名が混在し、正確に特定できる場所もあればなぜかぼやかしている地名もある。様々な配慮もあったのだろう。ただ位置の描写や移動時間などに若干混乱を感じるところもあり、清張が必ずしも(たとえば大西巨人のような)厳密なリアリズムに徹したわけではない感は残った。「黒地の絵」のモデルになった事件は1950年。母は二十歳で、小倉の大学に通っていたはずだ。そのときのことを聞きたいが、さすがに言葉が出ないだろう。父は当時熊本にいた。母より五つ下の叔母に訊けばなにかわかるかもしれない。と、いろいろ調べているうちに増村が『黒い福音』をドラマ化したものがDVDで出ていることを知り、慌てて注文した。感想は後日記す。

夜更けに事務所にいると、外から呼ぶ声がするので振り返るとA氏連載取材を終えたA社編集者I氏、カメラマンI氏が通りの向こうにいる。手を振って招きいれ、しばし歓談。目と鼻の先に住む編集者I氏は座るなり泥酔。カメラマンI氏とは拙作撮影終了時以来数年ぶりで、四方山話に花を咲かせた。秋の椿事。
13

2009/11/4

いくつかの訃報  追悼

マサオ・ミヨシ、村木与四郎、クロード・レヴィ・ストロースの各氏、相次いで逝去の報。
謹んでご冥福を祈る。

いよいよ重鎮たちの訃報に直面せざるを得ない時期にさしかかってきた感がある。覚悟しておかねばならない。レヴィ・ストロースはオリヴェイラと同年齢だ。話を聞くべき人には早めに聞いておかなければ。
16

2009/11/1

女優 岡田茉莉子  書物

某シナリオを読んで、終戦直後の東京(またはその再現)の意匠を再確認すべく『長屋紳士録』『風の中の牝鶏』『浮雲』と立て続けに見た深夜、それらの見事さに心底打ちひしがれつつ疲れきってうとうとしかけ、ふと昼間に文芸春秋社から届いていた書籍小包に気づき、なんだろう、と開けてみるとなんと『女優 岡田茉莉子』だった。言うまでもなくついさっきまでブラウン管に映っていたひと、岡田茉莉子氏の自伝である。慌てて読み始め、気づけばとめどなく涙を流し、めくるめく映画人生に寝る間もなく五時間ぶっ続けで読みきっていた。数々の「神話」が惜しげもなく披瀝される絢爛たる(かつ、おきゃんな側面もたっぷり垣間見える)内容にかぎらず、最近では珍しい、きわめて薄く柔らかな上質の頁をめくる指の感触にも魅了され、かつ泣かされた、とも言える。
途方もなく贅沢で美しい書物である。
後半に至って気づいたのは、数々の舞台をおやりになっている岡田氏がなぜか洋物の舞台にお出になっていないことである。おそらく日本で最もクリュタイムネストラ(そしてあるいは『エレクトラ』のリメイクである『ハムレット』のガートルード)の似合う女優だろうとかねて想像していただけに虚を衝かれた。だが、それらが準主役であるがゆえに神話的(と同時に反=神話的)スター・岡田氏にそれらをオファーする向きのない畏れ多さというのもあるだろう。しかし同時に『エレクトラ』や『ハムレット』にとって真に強靭に描かれるべきは「裏切る母」であるという解釈も可能であり、そこに重点を置かれたことというのはかつてあるのだろうか。いまからでも遅くない、岡田氏をお迎えして『エレクトラ』や『ハムレット』を企画するひとはいないのだろうか。
さらに勉強不足で知らなかったが、吉田喜重監督の演出で『好色五人女』を三本おやりになっていることに大変嫉妬した。まさにいま、西鶴を勉強中だっただけに。見たかった。

そう言えば、と慌ててポレポレ東中野で行われているはずの特集上映のことをチェック。多忙のなか、すっかり失念していた。もうすでに二日目だ。
自戒をこめて明日以降の日程を書き写しておく。
(トークショーなどの詳細は以下)
http://www.mmjp.or.jp/pole2/okadamariko-time.html
11月2日 11:00 山鳩 13:10 舞姫 15:10 芸者小夏 ひとり寝る夜の小夏
  17:30 流れる 20:00 やくざ囃子
11月3日 11:00 旅路 13:20 山鳩 15:30 流れる
      19:00 集金旅行 21:10 悪女の季節
11月4日 11:00 霧ある情事 13:00 離愁 15:40 女の坂
      18:00 春の夢 20:20 集金旅行
11月5日 11:00 悪女の季節 13:20 霧ある情事 15:20 春の夢
      17:40 女の坂 20:00 離愁
11月6日 11:00 集金旅行 13:10 悪女の季節 15:30 霧ある情事
      17:30 春の夢 19:40 女の坂
11月7日 11:00 離愁 13:00 女舞 15:10 秋日和 18:50 河口
      20:50 熱愛者
11月8日 11:00 愛情の系譜 13:20 今年の恋 15:10 女舞
      18:10 秋日和 20:50 河口
11月9日 11:00 熱愛者 13:10 愛情の系譜 15:30 今年の恋
      17:30 女舞 19:40 秋日和
11月10日 11:00 河口 13:00 熱愛者 15:10 愛情の系譜
       17:30 今年の恋 19:30 秋津温泉
11月11日 11:00 愛染かつら 13:10 続・愛染かつら 16:00 香華
       20:00 真赤な恋の物語
11月12日 11:00 秋津温泉 13:20 愛染かつら 15:20 続・愛染かつら
       17:20 香華 21:20 真赤な恋の物語
11月13日 11:00 香華 15:00 真赤な恋の物語 17:00 秋津温泉
       19:20 愛染かつら 21:20 続・愛染かつら
11月14日 11:00 水で書かれた物語 13:30 女のみづうみ 15:40 情炎
       18:50 炎と女 21:00 樹氷のよろめき
11月15日 11:00 妻二人 13:00 情炎 15:10 秋津温泉
       18:20 水で書かれた物語 20:50 女のみづうみ
11月16日 11:00 炎と女 13:10 樹氷のよろめき 15:20 女のみづうみ
       17:30 告白的女優論 20:00 妻二人
11月17日 11:00 妻二人 13:00 炎と女 15:10 樹氷のよろめき
       17:20 情炎 19:30 告白的女優論
11月18日 11:00 煉獄エロイカ 13:30 さらば夏の光 16:20 鏡の女たち
       19:00 エロス+虐殺(ロングヴァージョン)
11月19日 11:00 さらば夏の光 13:10 鏡の女たち 15:50 煉獄エロイカ
       18:20 エロス+虐殺(ロングヴァージョン)
11月20日 11:00 告白的女優論 13:20 さらば夏の光 15:20 鏡の女たち
       18:20 水で書かれた物語 21:00 煉獄エロイカ


……それにしても『長屋』と『牝鶏』、あまりに山中的ではないか。『長屋』は『百万両の壷』だし、『牝鶏』には文字通り「紙風船」がふわりと転がる。
25

2009/10/27

すかいらーくがなくなる  日常

いまでこそほとんど出入りしないが、かつてはしばしばファミレスというもののお世話になった。しかしファミレスを字義通りに使ったことは一度たりとない。つまりファミレスにファミリーで入ったことはないということだ。友人やスタッフと入った場合を例外として、ファミレスにはつねにひとりで入った記憶しかない。だがファミレスのファミレスたる所以は、たぶん子供を連れたお母さんの友人たちとのランチにもっぱらそのニーズが偏っていたから、だと推察される。なにしろ子連れヤンママだらけだったから、私の知るかぎり。そして、そこでなにが話されていたかも、社会学的にひとつの文化史を形成するだろう。ファミレスの語る文化史というものは、きっとあるはずだ。
すかいらーくがガストに移行しはじめたのは私がまだ助監督のころだから、九〇年代前半のことだろう。ロケハンといえばファミレスだった時期のことだ。学生時代はファミレスでさえ懐具合によったが、卒業後の食事をもっぱらファミレスに頼っていたのは上野毛時代のジョナサンと大森時代のデニーズで、いま近所にあるロイヤルホストには一度か二度しか入ったことはない。桜上水時代や自由が丘時代は近所の定食屋がほとんどだったのでファミレスの記憶が薄い。大森時代は、やたらと独り者の率が多かったのが印象に残っている。二人掛けのテーブルに一人で座り、スイーツを嗜むヤンエグなどけっこう目撃したものだ。しかし当時の私がヤンエグでさえなかった、そのことが記憶の中核をなしている。
最近だとごくたまに、ダビング作業中、スタジオ食堂の日曜休みなど、麻布十番のジョナサンには入っていた。そういえば実際には、外食で食い物に頓着するということ(いわゆるグルメ)がほとんどないのだった。家にいたほうがうまいものを食える、という認識のほうがずっと強い。
それでもすかいらーくがなくなるのは、なぜかちと寂しい。

本日のDVDは『ミスター・ノーボディ』と『天保十二年のシェイクスピア』。いろいろと参考にはなったが、舞台だろうと映像だろうと、芝居というのは結果論でしかありえない、つまりメソッド化は無理、ということが実によく分った。つねにナマモノってことだ。その事実こそが私の確認したかったことなのだが。それにしても、すでに五年前になる『天保〜』の高橋洋と鞠谷友子のからみは驚嘆すべきではなかったか。演劇の批評というのは読んでもほとんどアホらしいし、無に等しいが、これはひとつの事件だろう。ここで騒がれなければおかしい。鈍感というだけでなければ、ナマモノを言葉にする危うさをサボタージュしているに過ぎないのだと痛感する。
36

2009/10/24

続・TIFFどっきりマル秘報告  映画

今年もなかなか新作に足を運ぶ気になれず、結局唯一の新作はホン・サンス『よく知りもしないくせに』だった。が、これだけにしといて正解だった。いや〜、面白かった。これで三本目のホンさんのノリはだいたいわかってたし、れいによって勝ち抜き二の腕ギャル合戦と腕相撲大会にデレデレと流れていくばかりなのだが、まさかあの『浜辺の女』再びとは思ってもいず、こうなるとこれだけダラダラ・グズグズな代物さえ感動的に思えるから不思議だ。あの女優、ほとんど橋田スガコワールドにいても全然不思議じゃない演技なのに、結果韓国アート系の花であることがなんといっても楽しい。てゆうか、なんだあの尺取虫! とか、石投げるのかよ! とか、鎌はヤバいだろ、とか、お前も惚れてたのか! とか、もうつっこみどころ満載で、私はもはやホンさんワールドのとりこである。……いるよなぁ、ひとの部屋で呑み明かした挙句、片付けもしないで帰る奴ら。てゆうかひとの部屋でセックスすんなよ、とか。イケてる監督ゲットの脱ぎ系女優をママも応援、とか。まあ、でたらめかつ超リアルな展開が、たんにゆるゆる描かれるだけなのにこんだけ面白い、というのがいいよ、やっぱ。ホンさんみたいな映画作ってみたいとかはあんまり思わないけど、でも大好きです、ホンさん。

夜はその延長線上でダラダラ食事し、飲酒して、ギヨントークへ。一年ぶりに高橋さんと喋った。ア・ロウンという名前がマジでaloneであったことが可笑しくてしかたなかった。しかしア・ロウンははだしのゲンにそっくりだとあらためて思う。ギヨンワールドはどこか「はだしのゲン」に似ている気がする。それは楳図より似ているのではないか。

NAL8、高橋の四人であちこち梯子した結果、拙事務所へ。私は早々に寝たが、起きてみるとちらかしっぱなしで、ほら見ろ、ホンさんワールドはシュールリアルさ、と起き抜けから笑わされたのだった。

で、今年も映画祭シーズンは終わった。そして冬が始まる。
13

2009/10/22

TIFFどっきりマル秘報告  映画

キム・ギヨン『玄界灘は知っている』。いや、もう、信じ難い映画。これ必見です。増村とギヨンの共通点は昨年かなり感じていましたが、本作のナレーション、『陸軍中野学校』そっくりですから! そんでもってまたしても、「世界よ、ありがとう」な感じです。開いた口が塞がらなかった。抗日・反日どうでもいい、てことです。そんなちいせえとこで映画撮ってないよ、ギヨンは! ラスト、ほとんど「音のあるソ連サイレント映画」みたいになるところなど、圧倒的! 明後日もっかい上映(21:10〜、シネマ2、トーク付)あるから、ぜひとも皆様に駆けつけていただきたい。
ちなみに本作は、はじめて「具合が悪く」ならないギヨン作品でした。

スコリモフスキ『身分証明書』。処女作にして、おそらくポーランド時代の最高傑作。というかこれと二本目『不戦勝』の間で迷うでしょう、普通。最初の暗闇のマッチだけで勝負あった! みたいな。徴兵検査の待合室で審査官の登場で歌が不意に中断する呼吸や、階段の上から灰皿みたいなのをガターン! と階下に落とすシークエンス、超秀逸。あと子供たちが縄跳びしていてパンすると不意に主人公が現れてトラックバックするところも、意味もなくいい。名高い路面電車飛び乗りは言うまでもなく。ラストはなぜかソクーロフ『アレクサンドラ』を思い出した。
それにつけても思うのは、こうした、ジャンルとも個人映画とも切り離された、宙ぶらりんの個を描くだけの映画というのはいつごろ発明されたのだろう。もしかするとスコリモフスキこそ、その発明者なのかもしれない。つまり本作こそがヴェンダース『サマー・イン・ザ・シティ』やジャームッシュ『パーマネント・ヴァケイション』などの先駆なのじゃないだろうか。

この二本(『不戦勝』を入れたら三本)を超える作品は今年の映画祭にはまちがいなく存在しないだろう、たぶん。

ホセ・ルイス・ゲリン『イニスフリー』。ゲリンのフォード愛は痛いほど分る。しかし『静かなる男』で厳密に「演出上」、ジョン・ウエインとモーリン・オハラが「最初に会う」のは教会ではない。森のなか、煙草を点けたウエインと羊を追うオハラの遠い視線の交わしあいが、たとえそれが予感だとしても「最初」である。その事実を忘れている点で、失格。そしてあまりに長すぎる。余計な寸劇は興を殺ぐばかりであった。殊に子供たちのはしゃぎっぷりなど、やけに鬱陶しかった。フォードと同じキャメラポジションに入ったショットだけ、合格。爺さんたちの顔も悪くない。どっかで見たような車の走りの主観ショットがあったが、忘れよう。
あ、終盤近く、ひねくれた子供が登校していく歩行を大ロングのパンで追っかけるうちに子供を置いてきぼりにして数頭の羊に被写体を移すショットはなぜだかよかった。あと、肥料用の海草をひきちぎってはぶん投げる場面も。でも、ウエインが黒い山高帽を投げる一瞬の抜粋にすべては雲散霧消してしまう。それを承知で挿入した度胸とその後の『シルヴィア』に通じるブレッソン的なアプローチを試みたショットの確かさに免じて、これ以上の悪態は胸にしまう。
11

2009/10/21

馬(と小鳥と蛇)とサイレント  映画

はっと気づくと数日経っている、というようなめまぐるしさ。そのうち仕事でない時間が否応なく多くなっているのだが、かといって景気がいいわけではもちろん、ない。

日曜、昼間は夫婦でさいたままで出張って蜷川『真田風雲録』。しょっぱなから涙腺直撃。戦災孤児のつっぱり、なんて泣くしかないだろう。ましてや若い俳優たちが全身で演じている様がこれほど美しいとは思わなかった。それだけで満点だ。加藤泰の記憶も久しぶりにあれこれと思い出され、目が腫れた。よこちんはまた表現の幅が膨らんでいた。
帰りに妻と代官山で中華を食べてから、日仏へ。フィリップ・アズーリらによるギィ・ドゥボールのシンポジウムを聞きに行く。フィリップが「呼吸」と言ったことが印象的だった。まさに「映画監督に著作権がある」としたらそれは作品に持続的に宿った「呼吸」のようなものに対して付帯するだろう、と考えていたから。断片化した瞬間にそれは「呼吸」を失い「情報」と化す。そしてそれは映画ではなく、ただの映像断片である。どれほど巧妙に再構成されようと、それは作家の「呼吸」を孕んだ作品とそれとは、なんら関係のないものである。ドゥボールも、ひとつながりの作品に宿る「呼吸」までは破壊できてはいない。

月曜、前夜の打ち上げゆえに遅い起床後、K社担当者氏が事務所にゲラを持参してくださってそれを受け取り、加圧に行って恵比寿神社の祭りでべったら漬けが売られていることの謎を考えた。が、まあよくわからない。夷様とべったら漬けの関係と言うのがあるらしいが。
で、六本木シネマートへ。三〇年代上海の中川信夫、馬徐維邦のサイレント『怪奇猿男』とトーキー『麻風女』。製作年九年の開きで人間こうも上達するものか、と訝るが、自分のことを考えてもそりゃそうか、と納得し、同時に後者にはサイレント経験者にしか不可能な演出がいくらでも見つけることが出来て、ひたすら興奮。なぜだかスタンバーグを見たくなったのは、中国だから、だけではないと思う。このひときっとどこかで見ているはず。同時に、歌謡シーンでイントロ部分の尺が足らず、カチンコマンが見切れている部分まで使っていたのは、中国ならではの大らかさか。継母に虐待を受け家出する場面でのメジロが鳥かごからふっと飛び立つ瞬間など溜息が出るくらいよかった。それにしても世界同時多発的な三〇年代の偉大さにあらためて驚愕した。基本的には素人並みの作りの『怪奇猿男』でさえ、馬の走りにはバルネットやフォードに通じるサイレント作家ならではの活劇性(このひとと中川の類似性は怪奇に留まらず、こうした場面――中川なら『高原の駅よさようなら』――にも現れている)が見られた。

火曜、朝は事務所でAERAさんの取材。午後はシナリオミーティング。といってもNAL8ではない、プサンがらみ。夜はDVDで蜷川『タイタス・アンドロニカス』。ムーア人エアロンを小栗旬が演じる再演ヴァージョン。再演のせいかどこか堅実な感じが否めないが、策略にかかった者が復讐すべく策略を練り、ギリシア悲劇タンタロスの呪いを下敷きにして、敵にその子の肉を食べさせるという残酷設定には大いに感じ入るものがあった。虐げられし者の悪の権化エアロンはイアーゴやミュッセ『ロレンザッチョ』の原型か、さらに遡るなら変形されたオレステスということになるか。但し辛いことを言うようだが、小栗の台詞回しに難(驚くべき身体の速度に比べてへんに鈍重なのだ)があり、やや不満が残った。道化でグレート義太夫が登場する場面、原作にない細部があって、そこが秀逸。
トリッパー『S・F』第八回着手。十二枚。

忘れていたが近日中にユーロスペースでカネフスキー三本のリバイバルがあることを、イメフォーの予告で知った。久しぶりに見てみたい。
12

2009/10/18

ありえたかもしれないKK  映画

TIFFの審査委員長はスコリモフスキと聞いて、おやおやそりゃまたずいぶんハイカラになったこと、と感心していたらまったくのガセで、イニャリトゥなんていう何の陰謀で監督名乗っているのか怪しくて仕方ないやつだったと知り、あーあやっぱダメだな、としたくもないがっかりをしてしまったその日の、加藤和彦自死の報にも、なんとも釈然としない思いだけが残り、三日ぶりに酒を呑む。といっても蕎麦屋で常連氏やご主人との語らい、という実にホームタウンなムードの。

一昨日はDVD三昧。初見の『ア・ウォーク・オン・ザ・ムーン』と何度目かの『ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス』というヴィゴ二本立て、そして『マイ・ボディガード』。『ア・ウォーク・オン・ザ・ムーン』は原題で、DVDは『オーバー・ザ・ムーン』になっているのだが意味が分らないので原題のまま書くが、だってこれ、ちょっと月面を歩きましたけどやっぱり地上に留まりますよ、って話でしょう? 出来は必ずしも悪くないのだけど、周囲の白眼視がないのが気になった。ヒッピーにあれだけ目くじら立てる連中が不倫妻に寛容なんて、なんかドラマとして片手落ちな気がする。サーク的な残酷さが欠けている。
クロネンバーグはやはりこれが最高傑作だと再認識。最初から最後まで構成・編集に隙がない。早朝、手前にポストが見えていてヴィゴがひとり店に歩いていくショット、素晴らしい。ひとつ、なぜジョーイの記録が警察にさえまったくないのか、気になるけれどそこはまあ。
トニスコも何度目かわからないが、死に場所を求めた兵士の末路としてはデンゼル・ワシントンにちょいと役不足は否めなかった、というのが今回の発見。やはりそれには晩年のバート・ランカスターやジョージ・C・スコットの貫禄が必要、なんて。でもまああそこまでやってくれたものにそれはないものねだりけど。
『ウォーク・オン・ザ・ムーン』のダイアン・レインがヴィゴのバスに拾われるときと『マイ・ボディガード』のデンゼルがウォーケンに庭で電話するときの雨は、悪くなかった。

で、昨日は『ボヴァリー夫人』を見てきた。デジタルの、実に爽快な使用法。カーセックスならぬ馬車ファックはノーカットで見たかったが、ないものねだりはよそう。製鉄所の謎の発炎筒と機械の動き出しに心底痺れた。あとラストの三重の棺のでかさ。近年のアンゲロプロスの「でかいもの趣味」より堂に入っていて、呆然とした。さすが本場である。ところで、こうして見ると、ソクーロフって「ありえたかもしれない黒沢清」じゃないか、と連想してしまうのは私だけか? なんか『ココロ、オドル』にそっくりではないか、これ。黒沢さんに全部アフレコで、と依頼したらきっとこんな感じになると思う。てゆうか棺含めて、ムルナウ系だよなあ、というのも黒沢さんっぽい。
ムルナウといえば、東北の方で著作権の話が紛糾していたようだけど、リミックスに著作権もくそもあるまい。使ってくれてうれしい、的な発言はメディア批判王であり、かつ「映画監督に著作権はない」の著者ラングもしている。かれら十九世紀人のほうが複製芸術のなんたるかをよおくわかっていたのではないか。

で、呑んだ後、いろいろ思い悩んだ末に再びシェイクスピアシリーズ。今夜は『ペリクリーズ』だったのだが、いやはや、あえて己の無知を晒すけれど、シェイクスピアって晩年のロマンス劇が最も秀逸だったんですね。参った。というか自分の最も弱いところをつつかれて大いに号泣してしまった。戦場の水飲み場(2003年の上演)を設えたセットを含めた蜷川の演出も冴えに冴えている。一人で何役もこなす俳優諸氏の底力にも脱帽。これは『マクベス』を超えている。ここには化け物はいないが、演出次第で民主主義でも凄くなる、という『ユートピアの岸へ』に繋がる意思の萌芽を見ることができた。なかで、どんどん輝きを増していく田中裕子が素晴らしい。
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