2010/4/3

新聞を取った/初歌舞伎  演劇

日ごろ、行きつけの蕎麦屋でのみ読んでいて、しかしいつも夕刊のコラムが面白いので毎日読みたくなって新聞を取ることにした。大学時代以来、二十年ぶりかもしれない。三大紙ではなく、東京新聞である。で、隅から隅まで読む。面白い。このネット時代になにをやっているのか、と嗤われるかもしれないが、面白いのだからしかたない。
今日は投稿欄が面白かった。ソフトバンクがお笑いに賞金一億出したのを批判しているのが特に面白かった。

で、今日はいまの歌舞伎座が改築するというので、というかあるひとにご招待を受けたのだが、とにかく観に行った。嗤われると思うが、歌舞伎座に入ったのはこれが生れて初めてである。父は子供のころ大好きでよく行ったと言っていたが、そのせいかなんとなく敬して遠ざけてきた。だがやはり観てみると非常に感化されるものだ。演目は「実録先代萩」と「助六由縁江戸桜」。何より感心したのは、よく聞いていたが本当にストーリー全部やらないのだな。いわゆるサワリだけ、ということなんだろうか。ま、それにしちゃ「助六」なんて2時間近くあるわけだが。もしかしたら本当に台本あれだけ、なのかもしれない。だとしたらますますポストモダンだな。大変気に入りました。
幕間にサンドイッチ食べてスパークリングワイン呑んで、地下から三階までざっと見てまわった。新しく建て替わったら、今度は桟敷席というところでお弁当食べながら見よう。ちょっと楽しみがひとつ増えた感じだ。
終幕後、楽屋へお邪魔した。昔ながらの楽屋。埃っぽさと年季の入った暖簾。木の名札。『残菊物語』やら『人生とんぼがえり』やらバックステージものをいろいろ思い出して、グッと来た。

昨夜西麻布で呑んでいたのは覚えているが、そこから先の記憶が曖昧で、朝起きると右腕周辺が傷だらけだった。どこかに挟まれた覚えがうっすらあるのだが、それがどこだったかなどまったく頭から消えている。でもまあたいしたことはない。問題は今後仕事をどうやっていくか、なんだが……。
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2010/3/18

高岡蒼甫を見た!  演劇

月曜、某企画の取材のために、新宿で某氏らと会う。初対面だがかねてから非常に尊敬する人々。思ったとおりの人格者たちで和やかに、そして綿密に取材は捗った。あとはこれをどう料理するかだが……。

火曜、『ヘンリーY世』@彩の国芸術劇場。蜷川シェイクスピア版『仁義なき戦い』シリーズ一挙上映、みたいな爽快さ。吉田=広能(文太)以下、星=松方、横田=室田、池内=北大路、長谷川=渡瀬、瑳川=名和、みたいな常連陣のおそるべきチームワーク(いったい新川=川谷は何度殺されたことか!)が実に痛快で、かつ大竹=山守(金子)という仕掛がこれまた気が利いているのだが、このたび新たに三人ほど瞠目すべき人々を知った。ひとりは『仁義〜』だと誰に当たるのか、前半をリードするトールボット卿を見事に演じられた原康義さん。成田三樹夫になりそでならないところがよくて、全篇で唯一その死の場面で泣けた。いまひとりは、無実の罪で決闘させられる徒弟ピーターを演じた大川ヒロキさん。高橋洋さん以来久しぶりにとてつもなくうまい、と思った人。そしてのちのリチャード三世を演じた高岡蒼甫さん。まだまだ粗削りながら、千葉でしょ、これ!と思わず嬉しくなってしまうほど、威勢がいい。表現力の豊かさ、声量もじゅうぶんあるし、背中向きでもはっきり通る声質も舞台向き。あと数年したら再度『リチャードV世』をぜひ彼で見てみたい。見ることのできなかったカルメロ・ベーネのそれを、つい想像させてくれる。とにかく、いまダントツで、将来が楽しみな俳優に出会うことができた。

というわけで、水曜は気持ちを切り替えて延々とシナリオを直した。調べても調べても、直しても直しても、なお飽き足らない。ほとんど原作にはない場面がショウロンポウの皮みたいに肉汁ごと包み込んでいるような状態。しかし、これでいいのだ。久しぶりにがっちり仕事している手ごたえを覚える。
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2009/12/1

世にアル中の種はつきまじ  演劇

日曜、PARCO劇場にて『海をゆく者』。作/コリン・マクファーソン。演出/栗山民也。
『ブラック・バード』につづいて1セットものの海外新作の栗山演出だが、こちらは五人もの芸達者が揃い、見事におっさんたちの体臭を感じさせてくれて、その生々しさがよいほうに転んでいた。一番年下の吉田鋼太郎氏が最年長(小日向氏は年齢不詳だが)を演じるという変化球的キャスティングも効を奏していたが、なかで出色だったのがアイヴァンを演じた浅野和之氏である。これしかない、という芝居に徹して微動だにしなかった、というと皆さん、そうなのだが、特にアイヴァンは台詞の細かなニュアンスだけで壊れかねないかなりの難役と思われ、しかしそれが完璧だと思われたので非常に感銘を受けた。これまで氏のことをなにもしらなかった自分の無知を恥じる。学生時代、食わず嫌いで避けていた夢の遊民社など小劇場系と呼ばれたムーブメントのなかにも、瞠目すべき存在があったことを肝に銘じておかねばならない。音響、セット、ライティング、どれも素晴らしかった。私の中の幻影としての(ウイスキー臭にまみれた)アイルランドとぴったりマッチしていた。
作者は71年生まれというのにこんなおっさんらの生態をよくもうまく捉まえたものだ、と感心したが、ダブリンという設定のせいか、『ユリシーズ』の冒頭を換骨奪胎・引き延ばししたもの、という読みもできた。


夜、テレビでボクシングを見た。両陣営ともに番組宣伝などで「家族」やら「一家」やら担ぎ出して盛り上げようとしている。それはとってつけたようなものではあるが、そこに「戦う根拠」を押しつけている様は非常に見苦しい。試合のほうは、元々亀田が勝って当たり前だと思っていたが、あんな消極的な戦法ではただつまらなかっただけだ。それとレフェリーがでかすぎる。フライ級の試合にどうしてあんなでかい外人が必要なのか。考えるべきだ。

月曜、家事、銀行作業、ゲラ直しを終えて、深夜カサヴェテスBOXのメイキングを全部見た。結果、日本におけるカサヴェテス解釈はほとんど間違っている、と感じたがそのことは、先日行ったロウ・イエ監督との対談とも併せて次号の映画芸術でしっかり書かせていただくので、ここには書かずにおく。

河出書房新社様より宮沢章夫氏の『時間のかかる読書』いただく。こういうバカな連載をやりたいものだ、と「一冊の本」の間からあこがれていたが、しかしそうか十一年か。宮沢さん、ホントにおかしなひとだ。
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2009/10/11

四大悲劇、制覇。  演劇

電話すると言った相手が電話して来ず、一晩待ちぼうけを食わされた。

どうにも落着かないので再び蜷川『マクベス』をDVDで。どうもこの辺りで明らかに演出が変わった、としか思えない。これまで見たDVDのなかでは最高傑作だと思われた。唐沢寿明は映像の仕事より断然よくて、驚いた。当然だが剣戟シーンも非常に巧い。こういうひとを日本映画はそっちの方で使っていないのはひたすらもったいないとしか言えない。また、エンディングの勝村政信の演技、秀逸。マグダフはマクベスを倒したのち、新国王の前にその首を差し出して「国王、万歳」と叫んで倒れる。原作では「スコットランド、万歳」(*訂正。もう一度よく読んだら「スコットランド国王、万歳!」となっていた)となっており、マグダフが倒れるという記述はない。つまりここには冒頭からの音響同様、現代の戦争(太平洋戦争)が重ねられているのであり、悲しきマグダフは勝利者たりえない。そのことはマグダフをこの劇の重要人物にしている。一方で、マクベス夫人の狂気の描写は原作どおり医者と侍女の監視下で演じられるが、これ、この外部の視線なしで演じられた方が面白いのではないか。いや、視線はあるけれど、台詞なし、とか。たとえばヴィデオキャメラで監視していて、顔がスクリーンに映し出されるようなこととかだ。それでマクベス夫人は狂気と他者の監視という二重の拘束を受ける。マクベスが魔女の予言と妻の叱咤という二重の拘束を受けるように。

月曜に加圧ジム通いを再開して、土曜に二度目。
体をガチガチにした後、来年に映画論集を出す算段を立てる打合せ。かつて集めたなかで抜け落ちているものもいくつかあり、それを探し出さなくてはならない。面倒だが、やるしかない。

さらに蜷川『ハムレット』をDVDで。縦糸に赤い横糸を這わせていく場面をはじめとして舞台の組み方が効を奏しているのだが、その多面性も仇となって、DVDだと台詞が満足に拾えていず、いったいどういう録音・ダビングをしたのか、と首を傾げる。しかしDVDのためにあの装置を作っているわけではないので、それはあくまで技術部の問題だ。やはり多面舞台の『グリークス』でもほとんど聞き取れない台詞があった。しかしそれはどうでもいい。市村正親はたぶん喜劇的センスに優れた俳優であり、たとえばオフィーリアの墓穴の場面のような悲劇を演じても胸をかきむしられるようなことはなく、ちょっとした軽妙な芝居の部分の方が印象に残る。ここではだから、むしろ活劇的な場面での活躍を望まれたのかもしれない、という気がする。というくらい、クライマックスのレアティーズとの剣戟場面が秀逸だった。れいによってこちらは戯曲が読めない人間なので今回初めて気づかされたのだが、オフィーリアは父親やクローディアス、ガートルードに説得されてハムレットと面会し、挙句、尼寺へ行けと言われるのか。となると、そのことに先んじて気づくハムレットという描写が強調される必要があるはずだが、DVDでは確認できなかった(この場面の演出じたいは秀逸)。結果、尼寺へ行けと突き放される様を見てもなお、クローディアスのハムレットへの疑念が晴れない、という流れは晦渋に過ぎる。蜷川演出ではハムレットにとってのオフィーリアはそれほど大事ではなく、というかそもそもシェークスピア自身があまり大事にしていないのかもしれない。この劇は仕掛けがあまりに複雑で非常に難しいけれど、ごく通俗的にオフィーリアの犠牲を増幅させれば悲劇性が増すと思うのだがどうか。復讐という大義に赴くだけでは語りきれない気がした。フォーティンブラスのバイクでの登場はさすがにちょっとやりすぎかも。

てなわけで四大悲劇をすべて見たところで、今日からプサン。
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2009/10/9

NINAGAWAに目が眩んで  演劇

NAL8シナリオ第三弾、提出。今度こそ形になってもらいたいもの。

ところで、ここのところNINAGAWAに目が眩んでいる。面白いのかどうか、まだ見極めがつかないのだ、舞台というものが。そんなわけで手当たり次第に注文したDVDで立て続けに見てみることにした。『十二夜』『リチャード三世』『グリークス』、これらはだいたい十数年前の演出だ。あるいは『メディア』、これは五年くらい前だろうか。で、気づいたのだが、私はある種の演技さえあれば途端にスイッチが入るみたいに感動できる仕組みになっている。これらのなかで感動させられたのは『グリークス』のアンドロニケを演じた麻美れいである。とにかくめちゃくちゃいい。完璧な表現力。少なくとも私にとって彼女の芝居と蜷川の魅力は不可分だ。それは『ユートピアの岸へ』第二部のオガリョーフの妻マリアの芝居の素晴らしさへと繋がっている。さらに、これは苦言を呈することにも繋がるが、それ以外の演技には心が動かなかった。どうも雑駁にしか思えないのだ。あ、もちろん平幹二郎は別格だけど。『リチャード三世』でバッキンガム公を演じた瑳川哲郎も。あと、『メディア』の横田栄司はよかった。ということで、十年前から現在もなお継続して組んでいる面々がやはりいい、ということなのだろうか。あと、『グリークス』のコロスの方法は慧眼だと思った。中上健次のコロス解釈にも通じるものがある。

そんななか、長らく中断していた小谷野敦『里見トン伝』ようやく読了。やはり面白かった。映画(小津)のことになるべく口を挟まなかったのが効を奏している。どうやら著者は映画のことはからきしわからないひとのようだから。里見の小説は徐々に講談社文芸文庫などで再認識されてきているようだが、小谷野も書いている全集からさえ洩れた短篇群をぜひ読んでみたい。戦後文学ブームに埋もれた戦前作家の至芸たる仕事は数多くある。里見はその最たる一人だろう。それにしても立原が里見を尊敬していたことは知らずに立原を読んでいたが、たしかになにか通ずるものは感じる。私は先鋭的な現在を書くことにあまり触手が伸びない。それらは本職の作家に任せるとして、私は私の目に映る現在のなかの普遍を探り出してみたいと考えているが、それには里見や谷崎、志賀、そしてもちろん荷風や漱石の方法に繰り返し温ねる必要があると考える。文豪ということではない、ただ独自な仕方で編み出された普遍についての叡智を、かれらの作品からは嗅ぎ取ることができる。

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2009/10/4

COU通し!  演劇

シアター・コクーン『ユートピアの岸へ』二回目は12時から22時までの通し。
前回の三日連続の一部ずつの鑑賞と違い、今回は異様な緊張と迫力が漲った。さらには全員の息がぴたりと合って、ほとんど奇蹟のようにうまく行っていたように思えてならなかった。殊に前回からの長谷川博己さんと松尾敏伸さんの成長ぶりには目を見張るものがあった。こういう言い方はいかがなものかと百も承知であえて書くが、とよた真帆さんの演技も押しも押されぬ確固たるものに昇華していた。さらに水野美紀さん、栗山千明さん、紺野まひるさん、美波さん、高橋真唯さんら若手女優の達成も著しい。
ヴェテラン勢の堂々たる至芸については言うまでもなく、前回やや懸念を残した音響設計も実に絶妙のタイミングを獲得していた。欲を言えばラスト、嵐が来る!というタイミングをさらにもう数拍、そして雷鳴の轟をさらにもう数拍、遅らせてみてはどうだろう、しかもはじめは小さな、そしてやがて大きな雷鳴にとフェイドインする、とか。でもいまでもじゅうぶんだけど。

さて、明日は千秋楽である。おまけに聞けば作家トム・ストッパードが見るとのこと。
各人の緊張もやぶさかではなかろうが、ひたすら大成功を祈念したい。

それにしてもこうした巨大な仕事を見ていると、自分が仕事をしていないことが心底不甲斐ない。私自身だけでどうにかなるわけでないことはわかってはいるが、それにしてもひたすら呆然とする。
20

2009/9/18

あの子は聞えなくても呼ばれていることがわかるんだ。  演劇

そんなわけでトム・ストッパード作・蜷川幸雄演出『ユートピアの岸へ』を三日に分けて鑑賞。
ふと気づいたのはこの戯曲、新作である。しかし新作でこれほど古典の風格とポストモダン風のけれんを併せ持つ見事な傑作が成立しえるのか、という恐るべき質の高さ。新作にほとんど興味を持てない私にも、この目論見の巨大さは大いに魅力的だった。

第一部『船出』を見るとこれがもろにヴィスコンティとベルトルッチ『1900年』の間を意識して貴族またはブルジョワの黄昏、そして革命の予感を端緒にして書き起こされていることが分る。それにしてもここでメインのひとり、不遇の批評家ベリンスキーを演じる池内博之の驚嘆すべき頑張りはどうだろう。あらゆる器官から体液を大洪水させながら獅子奮迅の活躍を見せている。阿部寛=ゲルツェン、勝村政信=バクーニン、別所哲也=ツルゲーネフら主演陣にいささかのひけもとらない。バクーニンとの丁々発止にこの劇の誕生が託されている。またバクーニン家四姉妹のコラボレーション、ときおりインサートされる麻実れいの余裕を漂わせる軽妙洒脱の妙味、そしてエンディングにおける瑳川哲朗の堂々たる夕陽の終焉。この第一部だけでこれが演劇史的な大きな一ページをこの年に刻むことになるであろうことが分る。

で、第二部『難破』ともなれば各演技者の技の繰り出しに興味は集中する。いよいよ本領発揮となる阿部寛のダイナミズムにただただ脱帽。第一部からの変身を見せる勝村政信と池内博之にも。そしてラスト、石丸幹二=オガリョーフの精妙なる発声がもたらす一陣の風のような抒情。また、これら男優陣に同等に相対する女優陣の熱量にも圧倒された。その意味で第二部では、これが「政治」の劇であると同時に「性事」の劇であることを理解する。たった1シーンしかないが、この戯曲全篇のちょうど真ん中に位置する場面での麻実れいの演技は尋常ではない。そこで語られる性の革命とでも指し示すべき制度からの切断こそ、本作の中心命題だと確信しえるだろう。結局ゲルツェンもオガリョーフもバクーニンも、欲望に盲目的な女たちに振り回される己の旧弊さに、言葉を持たぬ子供としての革命(それは終幕になってようやく、オガリョーフによって見出されるにすぎない)を見失い続けるのであり、その切断の苦痛を主要人物各人が徹底的に味わうのだ。蜷川演出もその点に向かって集中している。そうしてセックス・ウォーが一旦過ぎ去ったあとの荒波に素肌を晒すような孤独がゲルツェンを囲繞する。このような劇がいまもって新作として可能であることに再度感銘を受けた。

そして第三部『漂着』。さらに性も政治も混迷を深め、各人が崩壊の危機に晒されながらそれでも旧友たち(阿部ゲルツェン、石丸オガリョーフ)がそれでより強靭になりさらに結束し立ち直っていく様がひたすら麗しい。第二部からの谺としての手袋のモチーフがひどく痛ましいが、革命はかろうじて片方だけのこの手袋としてゲルツェンの手に残ったというわけだ。この巨大な劇には、一方で余裕としてのスラップスティックな笑いもふんだんに盛り込まれていて、第三部では勝村バクーニン(かれだけは第一部での切断の痛苦から隔たって解放されている)のデブ着ぐるみ芝居に大いに笑わされた。また、ワイト島で別所ツルゲーネフが出会う若者が池内二役だからベリンスキーの亡霊に見えてしかたない。あそこでいっそ「あなたを見ていると懐かしい旧友を思い出す。恩人でもある。あなたとかれはよく似ている。だがかれはニヒリストじゃなかった。その正反対だった。いつだって熱狂し苦悩していた」「そのひとはいまどこに?」「安らかに眠っている」とまで語ってもらえたら気持ちよく泣けただろうが、それはこちらの勝手なおねだりだ。二役で言えば第一部でスタンケービッチを演じた長谷川博巳が第三部でチェルヌイシェフスキーになるのだが、声音を変える芸達者ぶりに驚かされた。
そして大団円。生きている仲間と家族が老いたゲルツェンの周りに集まってくる。そしてあらし(最後の発見と描写、もうすこしゆっくりとなにげなく、でもよかったのではないか)も訪れる。だがそれにしてもユートピアはやはり存在しないユートピアに過ぎなかったのか。ゲルツェンの台詞「歴史はつねに千の門を叩いている、その門番の名は偶然だ」に惹きつけられた。その決着は、革命とその崩壊を経験した百数十年後の現在までついていない。ただゲルツェンの主張する暴力革命の否定だけは門番もその正当性を認めるだろう。折しも昨日、オバマは東欧でのミサイル計画の変更を発表した。

今回は三日間通って一部ずつ観たが、もう一度終わり近くに通し公演を観る予定。それはまた違った熱気を帯びているだろう。必ずしも問題がないわけではないいくつかの点(たとえば第三部の音楽。選曲の良し悪しではなく、段取りとしてそれでいいのかどうか気になった)がどうなるかにも興味が残った。
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2009/5/24

頭と心臓の問題、ふたたび  演劇

三軒茶屋シアタートラムにて、清水邦夫・作、生瀬勝久・演出『楽屋』。演出は申し分なく、それに応える俳優陣も実に安定した力をみせている。力作である。ただ、これほどの才能を結集してもどこかのボタンが掛けちがっている気が私には残った。なんだろう。これは自分でも全く答えが出ない、きわめて厄介な話であり、現代において演劇をやるひとたちはそんな議論など飽きるほどなさっておられると思うので、後追いに過ぎない問題なのだろうが、私はこの戯曲を漱石ふうにいう「頭」の問題だと感じた。つまり「思考」とか「想念」とかそういうものである。しかし、演劇が飛び抜けるとき、それが「心臓」の問題、「存在」の問題になる、というようにここ最近見ていて、思う。この戯曲でも、ことによるとそれも可能だという気もしたが、ここでは最後まで飛び抜けることはなかった。なぜだろう。あるいは、このことはいくら考えても答えの出ない難問なのかもしれないし、答えはたった一回の公演によって突然生まれ落ちるのかもしれない。
たとえばその問題は小泉今日子氏と蒼井優氏の役をチェンジすることで解決しないだろうか、などとも考えた。実は小泉氏(「総括」という一語の決定的違和)は蒼井氏の役の芝居のほうが向いていて、蒼井氏は小泉氏の役に向いている、と。年齢などは無関係に。でもやはりわからない。困難な問題だ。いずれにせよ「頭」に留まっているかぎり、解決はしない。「心臓」に到らなければ表現が完成しない。同じ清水戯曲の『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』では「衝動」と呼んでいたそれ、そこをめぐって右往左往、七転八倒するしかない。
いずれにせよこれは私自身の問題だ。それがそうなっているかどうか、そこへ行けるかどうかはつねに私自身こそが晒されている場だ。それを前もって、ちゃっかり、用意することは決してできない。映画だろうと演劇だろうとひとがそこに立ち会うとき、その耳に心臓の鼓動が届いているかどうか、その目に関節のごきごき動く様が届いているかどうか、皮膚と衣裳が擦れあっている感触が届いているかどうか、そこだけが問題なのだ。そんなことを考えながら仕事なんかできないよ、と嗤われるかもしれない。だが、これは私の願いだ。目的と言ってもいい。
演技の優劣など、映画のみならず演劇においてもたいした問題じゃあないのだ、ということもよくわかった。そんなことも含めて、重く受け止めさせられた芝居だった。
10

2009/5/13

ラン!オートリ!ラン!  演劇

シアター・コクーンにて、作・清水邦夫、演出・蜷川幸雄による再演『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』。いや、鞠谷友子さんの歌は素晴らしかった、とか中川安奈さんの演技もりりしかった、とか横田栄司さんもダイナミックだった、とかいろいろある、いろいろあるのだが、しかしあらゆる意味で人間としての出来がちがっているひと、いやはたしてもはやあれはひとと呼べるのかどうかさえ自信が持てない存在、いや存在していたと確定していいのかどうかさえわからない、そういうものであるところの鳳蘭が出てきた途端すべては、その恒星の輝きによって一旦視界から消え、鳳蘭だけの世界となった。二時間四十分のうち、鳳蘭が登場する時間はものの四十分というところだろう。それでももういっぱいいっぱいである。あれ以上登場されたら周囲のひとは霞みすぎてやる気をなくすにちがいない。観客としての私も壊れる。きょうのところはこれくらいでかんべんしといてやるわ、的な。これほど反=民主主義的なことが許されていいのだろうか。……いいのだ。女性たちがなぜタカラヅカという場に魅了されるのか、この問いに対する答えは、そこにかつて鳳蘭がいたからだ、しかないのではないか。まあ私の場合男性ですけど、にもかかわらず鳳蘭が舞台のてっぺんに登場した瞬間、全身に震えが来て、涙が溢れましたよ。いやマジで。なんでしょうね、あれは。本当なら見ることのできないものを特別に見ることができた、みたいな感激。権力とも金銭とも性的魅力とも無縁な独自の価値領域を創りだし、その絶対的な美しさ、優しさ、気高さが発する輝きによって世界を一変せしめる。それが鳳蘭である。おそらくこのようなひとこそ、百年に一度、とか不世出、とかいう形容句に相応しいのだろう。私は奇蹟を視た、と言っておきたい。
……といったことを終演後、待ち合わせて明け方まで痛飲しながら某大俳優に語ったところ、大いに納得してくださった。このひとも負けず劣らずすごいんですけど、オーラ。

ちなみに。ラストにタイマーズ版〈デイ・ドリーム・ビリーヴァー〉が流れたので、訊いてみると稽古中にすでに決まっていたそうである。

小沢がついに辞任した。はあ。

それにしても昼から一日じゅう仕事して頭が重い。
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2009/5/2

初別役からクレタ島へ  演劇

演劇は映画館よりずっと他のお客さんが集中しているから、こちらも集中して見ていられる。昔はそんなこともなかったが、いまの映画館はホントにお客さんが落ち着きがないように思う。それでだんだんと映画館から脚が遠のく。
それにしても週に二本も(妻は三本だ)自分が演劇に行くとは思ってもみなかった。木曜日は柄本明演出・主演の一人芝居『風のセールスマン』。自慢じゃないが初の別役実戯曲を見たことになる。暢気な話で終始するのかと思ったらやがて救われない話になっていき、最終的にはむごいのだけどやはりこのタフさを持っていかないとダメだな、と大いに共感しえた。それにしてもあの目はなんだろう。スバルビルの地下にある目によく似ている。一人芝居ということをどうやってやるかと考えていたが、基本的に客席があって、加えてあの目と空に話しかける具合で展開するというかたちになっていた。それはそうだ。それは、文章を読むのではなく口語であることの重要さだなあ、ということだった。犬屋という言葉に惹かれた。犬屋というのが昔実際あった気がした。ただ、犬屋があった昔と話の時代とは必ずしも一致せず、だから犬屋の一言で妙な空間にいる気にもなった。
きっともっと別役実について知った方がいい。けれど戯曲を読むのは難しい。上演されることがあったらまた見に行こう。これだってもう一度見たい。戯曲のためだけではなく、柄本さんのパフォーマンスをもっと細かく見ることができるように思う。それはとても勉強になる気がするのだ。たとえばどこで暗転させるか、などのことももっと考えてみる。

紀伊国屋ホールは満員だったが、昨日の映画美学校でのパウロ・ベンヴェヌーティの公開講座は凄く面白かったのにガラガラで、美学校の生徒もダメになったもんだな、勉強しようという気概がないな、と呆れた。もっともパウロは『魔女ゴスタンツァ』を参考試写したのに新作(DVDで見たが傑作)『プッチーニと娘』の話に終始して、凄く面白かったけど見ていない学生は話についていけなかったかもしれない。
もう九年になるがロカルノでペドロとパウロを同時に知って、それから去年は『シルビアのいる街で』のホセ・ルイス・ゲリンを知って、この三人が年齢は離れているけれどやけに似ている気がする。ペドロとパウロはかつてちっとも似ていないと思ったけど、いまは似ていると感じるのはなぜだろう。気がつくと三人とも地中海に連なっている。そろそろアンゲロプロスの子供世代の監督がギリシアから出てきてもいい、などとも考えた。
そういえば夜、LJでクレタ島だかミコノス島だかの話をした記憶がある。どういう話の流れか忘れたが、牛の頭のお化けの話をしていた。あと、大先輩のロッカーを「この歌唄い」と呼んだら「この動画撮り」と言い返されて、えらく大笑いしつつ尊敬を新たにした。
朝、大きな声で鳴いている鳥がいるな、と見上げるとオナガがいた。
トレーニングによる筋肉痛でからだがガチガチだ。
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