2010/6/7

美しき五月のこと〜その3  ツアー

すでに記憶は曖昧になっているが、つづきを。
そののちの日々、昼はアトリエ会場でいただき、午後は撤収中の、あるいは無人の(この場合は無断侵入である)ジャパン・パビリオンで取材、あるいは打合せなどを続けながら過ごした。で、夜は毎晩、クラウディア・カルディナーレ系美人の給仕してくれるイタリアンで、東京フィルメックスの市山さんや東京国際映画祭の石坂さん(『下女』のリメイクにかなりおかんむりだったのが印象に残った)など、毎度お世話になっている方々を含めた日本の人々と過ごした。で、夜が来ると自然に眠くなる日々。
途中、アトリエのフォト・コールがあって、パレの屋上に行くとホン・サンスとアピチャポンが続けてフォト・コールやっていた。そのときは知らなかったが、いま思うにパルム・ドールと〈ある視点〉グランプリの二人じゃん。ホンさんには声をかけて自己紹介しておいた。
で、最終日はそのホン・サンス『ハハハ』。いや、まあ相変わらず、といえば実に相変わらず。べつに洗練されるわけでもなく、ほとんど『母なる証明』を軽く嘲笑するような、というと穿ち過ぎかもしれないが、なんかそういう話。にもかかわらず、まったく飽きずに見ていられるから不思議。で、相変わらず二の腕の勝利。
同僚、汐巻氏と初日に廣瀬夫妻らと食事した店でランチして別れ、その後再びテリー小山内と会って、パレ近くのゲイ&レスビアンフェスティヴァルの授賞式会場になる、という店でぐだぐだ昼ワインしながら帰路に着く。
帰り道はかなり渋滞していたが、なんとか無事到着。シャルルドゴールでフランス映画社柴田社長とばったり。機内ではべつべつだったが、成田着まで細かくいろいろ重要な話を聞き、JLGのバッジを貰い、大島渚監督へのメッセージTシャツにサインさせていただいた。

で、帰国後もいろいろあったが、割愛。すでに六月である。
第一週は、というか帰国の機内からずっと、四方田犬彦氏との対談のために氏の最近の著作数冊を熟読するのにほとんどの時間を費やしていた。その対談を無事に終え、さらにその翌々日には蓮實先生、黒沢師匠との鼎談最終回。ほとんどこれらの準備だけでへとへとになった。殊に後者は、自分の発案でもあり、かつ人生半ばの大きな仕事のひとつの完結ともなり、終了後はなんだか予想外に感無量な一夜を個人的に過ごした。
で、土曜日は完全オフ、ということで妻と新宿での国際ミネラルフェア。石好き、化石好きの集まる一種独特のコミュ。始祖鳥の化石でどうしても欲しいやつがあったが、七万円とはいまの自分には高額過ぎて断念。漫然と満員の西新宿をあとにした。
そして本日はさいたま芸術劇場まで出かけ、蜷川&井上『ムサシ』。思いのほか、悪くなかった。というか今後の自分の仕事の方針を深く考えさせられた。

というわけで、ようやく現在に追いついた。しかし明日からはあまり書くこともないだろう。

9

2010/5/29

美しき五月のこと〜その2  ツアー

で、カンヌである。
泊まったのは中心部のずっと西側、La Boccaのマルシェ傍にあるCannes Beach Residence。自炊用具付き。ゲストルーム付き。しかし無線ランはロビーのみ。パレまで10分シャトルバスは20時まで。到着は21時、ということで、歩いてみようと歩きはじめたはいいが、方向間違えるわ道に迷うわで一向にたどり着けず。へとへとになり、仕方無しに飯を食う約束をしていた廣瀬純に電話してタクシーで迎えに来てもらう。歩くのは無理、と笑われる。グランドホテルの裏辺り、アンティーヴ通りから少し駅側に上がったところのパテの旨い店で遅い晩飯。ジャ・ジャンクーに「ジャ・ジャンクー」と呼びかけても応えてくれない、という話。ジャ・ザンケみたいな発音が正しいらしい。オリヴェイラ『アンジェリカの不思議な事件』は大傑作、との報。マルシェ横の深夜営業のコンビニで水を買ってタクシーで帰る。

翌17日は朝八時出発。シャトルでパレに着くと、ドビュッシー前にはすでに11時からのJLG上映前の列に廣瀬純が並ぶところに遭遇。しばし立ち話。わが同僚、汐巻氏到着とともにアトリエへ。午前中に七件のミーティング。駅近くのイタリアンで昼食(以前、ここでカトリーヌ・カドゥ夫妻と会食した)後、午後はグランドホテルの庭でミーティングひとつ。別行動の汐巻氏を待っているとプサンでも東京でも会った韓国プロデューサーのイ・テホン氏とばったり。雑談後、かつて世話になったセルロイド・ドリームスのヘンガメ氏とのミーティング。映画祭マーケットでの日本ブースのパーティーに顔を出したのち、イ・テホン氏とともに昼と同じイタリアンで会食。さらに北野武『アウトレイジ』公式上映へ。もうずっと北野作品は見ていなかったが、ここへ来てこれはどう見ても最高傑作だろう、という感触。ひたすら権謀術数と素手なり拳銃なりの暴力による覇権ゲームが繰り広げられるわけだが、これを「コノヤロウ」(字幕ではasshole)を言葉尻につけた台詞のリズムでガンガン前に進めていく、というやり方。『ソナチネ』の頃の方がずっと抒情があったが、今回はかけらもなし。であるがゆえに言葉尻の「コノヤロウ」がほとんど小津の「そうかい」「そうよ」「そうかな」「そうよ、そうよ」に近いような地点に達しているように聞える。素手での殴り、殊にビートたけしさんのパンチの速さは尋常でなく、唖然。あと、三浦友和さんが北村総一郎さんにおでこをはたかれるときの顔は絶品。椎名桔平の殺され方にも痺れた。終了後、マルチネス前のパーティーにちょっと顔を出して、ホテルに戻った。

翌18日も朝からミーティング七件。途中、キャンセルや延期の連絡を事務局の女性が事細かに伝えてくれる。こういう事務が超得意なフランス人とそうでないフランス人がいるが、このひとは前者。で、このテントではマジェスティックからデリバリーされるランチが出る、ということでがっつく。以降最終日まで三日間、がっついた。美味。
この日の午後は、ユニジャパンのジャパン・パビリオンで取材があるとのことで、そこへ行き、歩いてすぐのマルシェのスタンドで赤ワインを購入しつつ、暇つぶし。そこでようやくネットと繋がり、つぶやく。世界で最も日本語のうまいセルビア人らとともにセルビアのプラム酒をたしなむ。取材後は『Film Socialism』。ドビュッシーの前で座っていたら私の後ろには鳩しかおらず、おかしいな、と時計を見たら三十分前、プログラムを見直すとなんとまあ、どんくさいことに上映場所はバザン。間違えていたのだ。慌ててすっとんで行くがすでに長蛇の列。絶望的な気持ちになっていたら、私の後ろ二人で札止めに。やばいところだったが、超満員なのに一番右端とはいえ前から三列目に座れた。で作品は、というと、とにかくJLGだったのだが、No Commentである。豪華客船における社交主義であり、自動車修理工場における動物と子供のサンバであり、『アワーミュージック』の構成をひっくり返しただけだが、これ以上はとにかくNo Commentなのだからしかたない。あきらめてくれ。
終映後、パリから来たテリー小山内とパリシネマのディレクターさんと打合せ。そう、私は再び七月のパリに出向くことになった。談話途中につき、通りかかったベロッキオに声をかけられず。もろもろ話した後、カジノの前から一本入ったところにあるテリーおすすめのイタリアンへ。愛嬌のいい美人のオネエサンがいる。美味。

また長くなった。つづきはまた今度。
23

2010/5/25

美しき五月のこと〜その1  ツアー

五月にほとんど日記を書かなかった(書けなかった)のはツイッターのせいばかりではなく、まとまった形で何かを書く時間がほとんど持てないくらい忙しかったせいだ。連載してきた長篇のまとめと、そうは名乗っていなかったが本人の中ではそのつもりだった短篇連作の最終話のまとめが同時にあったし、シナリオの打合せ、映像作品の編集、鼎談の打合せ、と続いた挙句、カンヌ行きとなった。いやはや、かなりハードなスケジュールだった。どうせ呑んでる時間はあったくせに、とお思いでしょうが、呑むことも決して仕事と無縁ではなく……。
この間に起こったことで特筆すべきことを時系列順に書いておくと、まず3日。ちょっと手術を受けた梅本さんの快気祝いを中目黒で行った。久しぶりに樋口さんに会った。
4日はシナリオ直しのため中野の脚本家先生宅へ。5日は映像作品の音響打合せのために朝霞台の録音技師宅へ。7日はまたべつのシナリオの打合せ。
9日は友人である俳優・松本勝が出演するRISU PRODUCE公演「やすしくんへ」を観に下北沢へ。シネマ下北沢がいつのまにか劇場になっていた。劇の後半、ついにやすしくんに刑の執行が言い渡されるとき、突然「1900年」が鳴りはじめ、ほぼ反射的に涙が溢れてしまい、そこから最後まで涙腺は緩みっぱなしだった。感動を鎮めるために独り三軒茶屋まで歩いた。
11日はペドロと会った。途中で記憶をなくし、二日後にそこでひどいことをして友人やその連れの方、そしてお店の方に大変な失礼を働いてしまった、と知った。慌てて謝罪のメールやら挨拶回りやら。空白の12日にはすでに何食わぬ顔で鼎談の打合せに渋谷に出かけ、帰りに下北沢で山本政志監督と出くわしたりしているのだが。14日はまもなく発売の長篇『ストレンジ・フェイス』の装丁打合せ。15日は日本映画プロフェッショナル大賞授賞式に出席すべく、池袋・新文芸座へ。若松孝二監督と久しぶりにお会いし、夜更けのburaまで同行し、自主配給についての力強く貴重なアドバイスを受けた。

そうして16日からカンヌだ。行きの便で、この間ほとんど中断していた阿部和重氏の『ピストルズ』を読み終えた。大傑作『シンセミア』のあとをどう展開するか、がこの文豪の壁だったにちがいないが、頁をめくるたびに、題名どおり花をそっと置くようなはかなさとともに氏がその壁を乗り越える様を刻々と味わった。しばらく同時代の小説を読むのはよそう、と思った。飛行機のなかで映画を見ないつもりでいたが、小屋で見逃した『シャッター・アイランド』と『シャーロック・ホームズ』をやっていたので、吹き替え版だが見た。『シャッター〜』は『ディパーテッド』で完全に見放したスコシージではあるが、これはなかなかのものだと思われた。してやられた感もあるが、後半で全員のきまずい諦念を湛えた顔が続くのが印象的。なにより、ナチス批判がいつのまにか赤狩りへとすり替わっていく行程がスリリング。もちろん『リリス』や『ショック集団』が意識されているはずだが、それを気負うことなく丁寧に柔らかく仕上げている。『救命士』以来の力作であり、スコシージ最高傑作といっても過言ではない。『シャーロック〜』はホームズとワトソンのキャスティングとキャラクターを決定した製作者ジョエル・シルバーの勝利。これで面白くなかったらどうするんだ、という話だから、あとはガイ・リッチーでも誰でも大丈夫、といった寸法。内容はほとんど記憶にないが、記憶になくて全然大丈夫。その後さらに見た『笑う警官』の、へんに記憶に残ってしまうなんともしれない八〇年代感に較べたらずっとありがたい。
さて、その後カンヌに到着するわけだが……ここから先はまた今度。長くなりすぎるのもなんなので、日を改めてしっかり書く。
24

2010/2/26

The End Of The Dead Road  ツアー

日曜、雪景色の仙台で山中トークw/蓮實先生。帰りの新幹線で、先生からアベル・フェラーラの新作がとんと入ってきていない、という話を聞かされ、吃驚。あのジャンキーおやじ、撮っていたことさえ知らなかった。ということで早速調べてみると、お得意の怪しげな麻薬犯罪ものとこれまた怪しげな宗教もののDVDが出ているだけ(前者はすでに廃盤)で、劇場公開は『ブラックアウト』以来、マジでないらしく、二度吃驚。必ずしも最初から高く評価してきたというわけではない作家だが、ヘルツォークがリメイクしたらしい『バッド・ルーテナント』あたりから徐々によくなってきて、一連のウォーケン爆発ものやら個人的ベスト100には確実に入れる『ブラックアウト』なんかは本当に素晴らしかった。それが、そのウォーケンとウィレム・デフォーの共演作やデフォーの主演作、あるいはチェルシーホテルを題材にしているらしいドキュメンタリーなど、どれも日本公開されていないとは。この際、それらの未見作を米盤取り寄せて見てみようかと思う。

と書いてるうちに、北九州へ飛ぶ。某イベントの企画。小倉で湯布院の伊藤氏にアドヴァイスをいただく。さらに福岡へも行き、福岡アジアフォーカスの諸氏へも挨拶。吉塚のうなぎを食す。翌日は山口YCAM。則文師匠&柳下さんとのトーク。日帰り。

月曜、世田谷PTにて『ジョン・ガブリエルと呼ばれた男』。演出/栗山氏。イプセンはイプセンだとして、なにしろ仲代、米倉、大空、十朱という壮絶な名人たちである。それぞれの空間の支配力を呆気に取られて見ていた。
終わってから打合せ二発。途中で大惨事が起こる。一瞬、自害を考えた。
火曜、棄てる神あれば拾う神あり。ダメならまた次。気分を変えるべく、キャサリン・ビグロー『ハートロッカー』。率直な感想としては「フラーが徴兵映画つって怒るタイプ」。なんだかもったいぶってていやな感じだった。なんかなあ。

水曜、昼までウダウダしてから成田へ。搭乗してから猛然と書き始める。五時間で30枚強。へとへとに疲れて眠る。目覚めればそこは初のロサンジェルス。おいおい、20度ってどういうことだよ! 暑すぎ。USC水田先生に出迎えられ、ホテルへ。The Standard Downtown LA。素敵なお部屋でございました。そこでさらに残りを4時間かけて書き、夜中に推敲して発送。その時点では、残りの日々を延々と時差ぼけの真っ只中で過ごすことになろうとは夢にも思わず。グダグダの状態でシナリオ二つ直すが、どうもうまく行かない。よねやんという肥った友人ができ、かれの案内でコリアタウンの店に連れられ、さらにサンタモニカやベニスビーチのピアーへ行き、アメーバレコードへ行き、グリフィス天文台へも行った。そんでまあ要するにLAだな、と感銘を受けた次第。……そりゃあ自信なくすよ、ここでは。当分映画のことなんて考えたくないけれど、そういうわけにもいかない。
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2010/1/25

NAGO!  ツアー

いやあ、勝っちゃったなあ、新人が。きっと最後になるから辺野古行ってこよう、なんて真剣に金と暇を作ろうと考えていたが。とはいえ、勝ったからって移設されないともかぎらないからな。やっぱ行こう。ってホントはたんに行きたいだけだったりするのだが。
けど今年はきっと沖縄イヤーになると思いますよ。根拠ないですけどね。沖縄というか、本島だけじゃなく八重山がね、熱い。気温じゃなくて。たぶん二回は行くな、今年も。
あと台湾ね。さらにダバオまで行けるといいんだけどなあ。

今年はがんばってお金儲けをして、次に繋げるお勉強をみっちりやりたいと思いますよ。この歳になるとできるかぎり旅行をして世間を知るということは財産ですからね。もっと若いころは想像力だけでやれる、とか過信してましたけど。やっぱ金つくって行けるだけのところに行っておくべきだったね、若いころに。いまからでも遅くないから行きますよ、国内含めたいろんなところに。

そんなわけで名護を含めてますます混迷を深める日本は、活気があって悪くない。
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2009/11/17

ニイハオ、高達……?  ツアー

尚・蘆(ホントは「草かんむり」なし)・高達……さて誰でしょう?

そんなわけで香港に行ってきたわけだが、まっすぐ空港に行ったわけではなく、最初は北品川で鰻を食ったのだ。連れはY大将とK社F氏。食って運河の辺りを見物しながらぶらりと呑み屋にも入り、ようやくANA1275便で20時30分に羽田を飛び立った。
香港着0時30分。エアポートエキスプレスで香港島へ。駅に着くなり、驚くべきものを発見。JLGの似顔絵である。どうやら特集上映があるらしい。

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そこからタクシーでホテル。
ホテルから数分の飲み屋街へ歩いて、最初の雲呑麺を。まあ小腹を満たすだけ。さらに近所のバーで二杯だけ呑んでお開き。

翌朝、八時集合。このときはまだ地理をはっきり把握していなかったので、どこまで行ったのかは明瞭でないままだったが、どうやら上環まで行ったようだ。お粥。そこから中環近くまで歩き、雲呑麺その2。これはなかなかの味。スターフェリーでチムサァチョイへ。重慶マンションで両替し、地下鉄で油麻地へ。鴛鴦(インヨン)なる飲み物を飲む。これはミルクティーとコーヒーをブレンドしたもの。最初は驚くが慣れると美味。

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そこからタクシーで一気に北角へ。自動車修理工場の並ぶ途中に、なぜか旨い店。ここでランチ。蓮の葉で包んで蒸した蝦飯、最高。一度ホテルに帰り、仮眠。
四時再集合。再びトラムで湾仔まで行き、市場でY大将の最大の目的、ハムユイゲット作戦。上機嫌で金鐘近くまで歩き、雲呑麺その3。ホテルに戻り、S社O氏T氏が合流。バーでしばし呑み、大将を休ませて四人で雲呑麺その4。一日三回雲呑麺て、どゆこと? でも食べられるから不思議だ。再びホテルバーで呑み、その後再び北角へ行き、市場の食堂で晩飯。旨かったことは記憶にあるが、なにを食ったかはその後の記憶が重すぎて失念。
(たしか田鰻だった気がするが、自信なし)

深夜、テレビを点けると『デス・プルーフ』のラスト30分で、そのまま見続け、終わってから気絶。ふと再び目覚めるとつけっぱなしのテレビにクラーク・ゲーブルが出てきて、なにやら女性とホテルの部屋みたいなところで派手な大喧嘩を展開していて、それがどうやら旧ソ連らしく、やがてオスカー・ホモルカなんかがでてきてスパイ容疑をかけられたな、と思ったら今度は素晴らしいカーチェイス、いま調べてみたらどうやらキング・ヴィダーの『コムラッドX』という作品らしくこれは未見だし、日本未公開だがその十五分だけ見ても素晴らしいので、皆さん、さらに大声で
キング・ヴィダー! キング・ヴィダー! とシュプレヒコールを! 

で、再び八時に電話で叩き起こされ、中環までトラムで。古い飲茶屋に入る。それから市場とエスカレーターを見学して、お茶。合間に大将、第二の目的=ハムダンをゲット。
そして最強の雲呑麺その5。麺、スープ、ワンタン、なにを取っても他を凌駕している。
そこから再びトラムでハッピー・ヴァレーへ。そこには「鮑魚王子」という人物のやっている店があるらしい。これまた市場の三階。鳩のローストと鮑。美味。
一旦ホテルに戻ってまた仮眠。夜は再びフェリーでチムサァチョイに渡り、この旅最大のイベント、蟹である。いやはや、あまりの凄さに他になにを食べたか思い出せない。とにかくあの蟹味噌。美味を超えて、至福。
帰りにバーで一杯やった後、油麻地の市場をそぞろ歩き。さらに地下鉄で中環まで戻り、ソーホーでさらに一杯。それでもまだ蟹の至福に包まれたまま、ホテルに戻った。

朝、起き抜けにまたもや見たことのない、スペンサー・トレイシーが牧師でミッキー・ルーニーが生徒で、どうやら孤児院らしく、トレイシーの同僚にリー・J・コッブがいて、みたいな感じで、飴玉を欲しがるちびとトレイシーの掛け合いがよかったり、ルーニーと友人三人が病気の子を笑わせようとしてスローモーションで喧嘩するところが笑えたり、犬がえらくよかったり、もうひとりのちびの子役(ワル)がやたらよかったり、最後は大感動だったり、というわけでこれは何? と調べたらノーマン・タウログのかの有名な『少年の町』でした。
さらにジョニー・トー『黒社会』を冒頭数分だけ見て、再び集合。

ホテルから目の前の海に出ると、おばちゃんの操縦するサンパン船が客を乗せている。乗ってみたいのだが、さすがに宿酔が凄すぎるため断念。タクシーで初日の粥屋(の本店)めざして上環まで。だが生憎、日曜休日である。やむなし、と中環まで歩き、屋台の並ぶ店の傍にある店で、粥にありつく。これまた美味。つづけて老舗飲茶。基本的には飲茶にあまりのめりこめない。
だって他が旨すぎる。
地下鉄で油麻地へ行き、また散策。映画館と併設された芸術・学術関係の本ばかり集めた本屋へ行く。そこで『脳内ニューヨーク』のポスターを見て、当て字に笑った。

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いまは『母なる証明』をやっている。
チムサァチョイに戻り、ふかひれスープ。これがまあ、またなんとも言えない。至福その2。そしてハムユイのチャーハン。至福その3。
呆然としたまま、フンハム(紅勘……本当は「いしへん」がつく。これを私はなぜか「べにすけ」と読んでいて、可笑しかった)からフェリーで帰ろうとしたが、船は出たばかり。これでは間に合わない、とS社のお二方はタクシーで帰還。再び元の三人に戻った我々は、九龍城ならびに旧空港跡地を見学。本当はフェリーから見たかったが、天気が悪すぎた。タクシーでホテルへ戻り、ひとり散策。雨の中、ものすごい人、人、人である。香港のパワーをしっかり感じた。HMVでジョニー・トーのDVDを買おうと思ったが、それほど好きじゃないことを思い出してやめた。
再合流後は雨中、中環まで地下鉄で行って、私は「シャンハイタン」で赤星付きキャップ購入。ソーホーの雲呑麺を狙うが、やはり日曜休み。近場のバーで悩んだ結果、再びタクシーでチムサァチョイへ。豆腐のスープと蟹と卵白の炒め物、そしてハムユイ。最終的な至福に浸り、満足しきってホテルに帰還。バーで二人と別れて、独りで香港駅へ。
空港でもバーを求めて彷徨うが、十一時過ぎてやっているところはどこにもない。スターバックスより先には、その時刻になるとなにもないのである。どうにか水だけを手に入れて、ゲート前でどんよりと半覚半睡。飛行機ではほとんど眠っていた。
午前1時発NH1276便は5時45分に羽田に着。
9

2009/8/6

CCAの「庭」  ツアー

わっしょい百万夏まつり、という北九州のまつりを見学し、翌日はそれについての意見交換会、晩は自宅で花火を見て、翌日は市長表敬訪問からCCAを見学して懇親会、そうしてさらにその翌日は清張記念館で九月に行われるイベントの下見、となかなかハードなスケジュールだった。

最も感動的だったのは、八幡CCAの窓から見える庭で、庭といってもかつて小学校だった場所を作り変えて使っているのでこれはグラウンドなのだが、朽ちかけたスタンドと巨大な樹木と雑草と土とが絶妙なバランスで配置され、それはもう自然がつくったインスタレーションみたいに見える。で、なお視線を上げると古びた家屋が丘の上に密集(これがちょっとアンゲロプロスっぽいのだ)していて、さらにその上に皿倉山が聳えている、といったことになっていてちょっと凄い。この、一個の芸術品としての「光景」、どうにかして残すべきである。新しいものをつくるのは簡単で、古いものを残すことは難しい。だが、こういう「光景」の持つ価値を大切にしないと街の文化はどんどん廃れていく。あの「光景」を見るためだけにでも何度でもあそこを訪れてみたい。
近郊の方々、ぜひ一度訪れてみていただきたい。
17

2008/12/2

パリいってこい。  ツアー

原稿を終えて以来、へんにぼんやりしてからだからちからが抜けてきている。月曜に今井と呑んだときはまだ風邪がひどくて咳がひどかったが、翌日に文學界の鼎談を終えてゴールデン街から下北沢まで独りでのんびり呑んでまわったときはもう復調していた。昨日一昨日と日本のフォーク出身のロック歌手たちの最近のライヴを見ていたが、忌野清志郎氏の完全復活(という言葉は実に痛々しいが)武道館ライヴというのはさすがに感動するところがあった。相変わらず仲井戸氏はへただけどチャーミングなギターを弾くなあ、とか小さな歓びはさておき、忌野氏のある時期の作詞作曲能力には天才的なものがあり、やはり〈多摩蘭坂〉あたりはそのアレンジの豪華さも含めてあらためて名曲と呼ぶことを躊躇させない。それとこれはどのアルバムに入っているのか知らないが〈激しい雨〉という自己言及的な曲を今回初めて聴いて、ちょっと驚いた。喉の調子もアクションも後半に行くにしたがって、かつての勢いを取り戻すような感じがした。
しかし実ははじめあまり好きでなかったバンドが、いつのまにかそれを聴いていた頃の自分を思い出させるようになっていることにへんな気分がする。RCサクセションだってボガンボスだってニューエストモデルだって最初はそれほど好きではなかったのだ。そもそも日本のロックなんて好きではなかったのだ。だが周囲がおもしろがっているうちに自分もそこへ巻き込まれた感じだ。しかしそれならYMOやフリッパーズ・ギターやコーネリアスでもありえたはずなのにそうではないところが結局、私という個を規定しているのだろう。光石さんに教えてもらわなければいまだに知らないままだったかもしれないクレイジー・ケン・バンドも、十年もすれば四十代前半を思い出すときにその音が記憶の後ろで鳴り響くようになっているだろう。

と、ここまで書いた後の三日間はさらに風邪で寝込んでしまい、記憶も曖昧で、土曜辺りにようやく恢復し、そうして日曜日にパリへ出発した。ぼんやりしたままの一週間だったと言ってもいい。映画も二本だけしか見なかった。ガレルの新作とジェームズ・グレイの新作。どちらもいい。殊にガレルは、ローラ・スメットが『石の微笑』よりもさらによくて、激しく面食らう。この女優、本物だ。グレイのほうは、グィネスにちょっと乗り切れない。もっかいエヴァ・メンデスという方向はなかったんだろうか。妻の希望でフレンチをほぼ食さず、何度かの例外(二度のホームパーティなど)を除いてヴェトナム料理ばかり毎日食べた。健康的ではあったが、その裏ではワインもえらく呑んだ。最終日は懐かしのベルヴィルで北京ダックを満喫。
肝心のジュ・ド・ポームでのレトロスペクティヴだが、平日の昼こそ半分程度だったものの金曜あたりからはほぼ満席、週末は座れなくて帰ってしまったお客さんもいるほど盛況だったんで、まあ、とりあえずホッとした。
そんなこんなで先ほど帰国。疲れた。
行きの飛行機で『ウォンテッド』と『Xファイル』を見たけれど、どちらもピンと来ず。韓国からの帰りに見逃していたラスト30分をようやく見ることのできた『ハンコック』には少なからず得心するものがあったが。で、帰りは二本の日本映画を……こういう機会でもないかぎり見ないので……見て、いよいよ日本映画はマジでダメなんじゃないか、と本気で危惧しつつも、ケヴィン・コスナーの新作『スイング・ヴォート』でその二本の日本映画の記憶を抹消した。腐ってもコスナー。
1

2008/10/13

明日、踊ろうぜ  ツアー

四泊五日で京都へ。映画祭のお題は「マキノ映画100年」。というわけで、マキノを見まくる日々。山根貞男氏とともによく呑んでよく語った。途中、京都造形芸術大学というところでシンポジウムにも参加したが、自分はたいしたことは喋れず、というよりその直前に見た『阿波の踊子』に脳みそをかき乱されてしまったせいで、惨憺たる状態だった。前夜の鈴木則文・中島貞夫・澤井信一郎の三監督のトークが見事にマキノを語りつくし、なお時間の短さを誰もが惜しんだのに比べても自分の若輩ぶりを恥じずにはいられなかった。しかしその『阿波の踊子』から拝借した上の表題は、そんな「恥ずかしさ」もものともせずマキノに通う自分自身への景気づけに他ならない。
よしなしごとはさておき、今回初めて見たのは『神田祭り喧嘩笠』『抱擁』『大暴れ五十三次』『阿波の踊子』『清水港の名物男遠州森の石松』『肉体の門』といったところで、何回目になるか分らない『破れかぶれ』『死んで貰います』などと併せて、自分の映画的な欲望の大部分が無意識的にマキノに刺し貫かれていることに否応なく気づかされたのだった。本数を多く撮っているのだから見ている本数も当然多くなるわけだが、それだけでなくマキノの運動神経と反射神経がことごとく自分の身体にフィットしていて、それはほとんど衣服の着心地の良さのようなものだ。殊に何年ぶりだかでスクリーンで見た『死んで貰います』には約一時間、延々と泣かされ続け、発熱してしまったほど。しかもその後に見た、教会・橋・廃船・廃墟の床の穴と階段が組み合わさってほとんどシュールレアリズムかよという『肉体の門』の轟夕起子が池玲子に瓜二つ、かつドラマ自体も女番長シリーズにそっくりで、則文師匠に受け継がれたマキノの見えざる血の濃さに唖然とさせられるのだった。あの轟夕起子の高笑いは大友柳太郎のいくつかの作品とも共通し、そんなマキノの悲痛な高笑いというものがあることにもしみじみと思いを馳せた。則文師匠といえば、『抱擁』のBAR山小屋のしみったれた常連たちは『大いなる助走』の地方都市にある文壇バーのそれとこれまたそっくりだった。もちろん則文師匠は見てもいないし意識もしていないはずだが。
それにしても、その『抱擁』の銀座の大群衆のクレーン撮影は凄まじいものだった。おそらくスタジオと思われた(そう言えば街角に日本未公開のはずの『ラスティメン』のでかい英字ポスターが貼ってあった!あれはなんだったのか?米兵向けの上映というのがあったわけか?)が、直線の道路がうねるようで、もしかするとセットを緩やかな円環状に組んで距離を稼いだのかもしれない。雪山の発炎筒を携えた追手は御用提灯を掲げる時代劇の捕り方と同じで、そんな時代劇から現代劇への発想の転換もマキノらしい。
そうして『阿波の踊子』である。あの大群衆のうねりが人間の生を超越してなにか自然現象の運動のように見えるクライマックスと、主たる登場人物がことごとく幽霊のように見えるその不気味な神出鬼没さに、これはホラー映画か、と呟き、謎の浪人三人組には、これは狂犬三兄弟か、と呆れ、自分もまた混沌の渦に巻き込まれたのだった。
マキノの巨大な知性は民衆の知の蓄積そのものだ。かれはそれを繰り返し語った。同じ話を何度でも飽きず語り続けることこそが巨大なエネルギーを呼び起こす。マキノの遺産とはつまりその教訓だ。匿名の集団が毎年毎年、明日踊ろうぜ、と囁きあえばいい。そこに映画の爆発的蘇生の可能性がある。

朝起きてなお体調がよくないため、連休終わりの混みあいも予想して朝の新幹線で帰京。
家に辿りつくと猫六匹が出迎えてくれた。しやわせなり。
2

2008/10/7

韓国は近い、近すぎる  ツアー

酔いどれて眠った翌朝、怒涛の如く家を出発。それほど早く出かける必要はあまりなかったようだが、ごく平穏に羽田で搭乗。初めてお会いする方々もいれば、久しぶりの再会に笑顔を交わし合う方々もいる。席は課長改め団長の隣。江原道(カンウォンド)春川(チュンチョン)へ行く前に清涼里(チョンニャンニ)を見ておくべきだ、という情報。

それはそれとして、自分がいかに集団と狭いところが苦手か思い知らされる日々である。ひとりになると、あるいは広い場所に出ると心底ホッとする。しかし韓国、というかこの文学フォーラムの名称どおりに「東アジア」と呼んだほうが妥当だろうが、そこで望まれていることは「集団化」である。問題なのは、ひとりで部屋に閉じこもって作業をする小説家や詩人とちがって、映画監督というのは他人と面突き合わせつつてめえでその場を仕切る義務感に振り回される時間がかなり長い職業だということ。仕切らなくていいんだよ、とてめえに言い聞かせ、普段部屋に閉じこもっている方々の躁状態にバランスよく合わせているのはかなり大変だ。団長のようにギリギリのところで安定を保っておられる方がいてくれてはじめて、私も居場所を確保できる。

当地に着いて二日間のシンポジウムも終わった頃、チョンニャンニにはもう「飾り窓」=「オーパルパル」はない、との情報を得た団長は、遊覧船での朗読会ののち我々を永登浦(ヨンジュンポ)へと誘ってくださった。その朗読会で故郷の先輩詩人は「無法松の一生」を華麗に斉唱し、それを受けた団長は講談調で返したが、ヨンジュンポではあまりに畸形的な女性らの脚の細さ長さに一同引くばかりなのだった。なるほどそのようなことか、とただ納得しヨンジュンポを去ろうとした私と団長は批評家の口からふと漏らされた「中上が」の一言でさらに誘われ、どこともしれぬ高速道路の下、防音壁の外にある隠された世界(その後そこがミヤリ峠テキサス村……なんでテキサスかは不明……と呼ばれる地であると判明)へと赴くのだった。生命の危機(大袈裟!)さえ感じる今回最大の冒険。街は閉ざされている。だがそこにいる商売上手なおばさんが鍵を開け、サッシ窓と黒いカーテンを乱暴に開くと、白がすべて眩く蛍光するブラックライトの下、謎のドレスを着たお嬢さんたちが座っている。彼女たち、華やかに美しいのだがこちらとは違う意味でまったくやる気ない。その目隠しされた裏通りにある屋台で我々はしみじみと焼酎をもう一杯。一晩ではディープコリアをざっと一瞥したという程度にすぎないが、ただこの街が大阪や北九州のある部分を思い起こさせることはまちがいない。前夜、団長のバックコーラスとダンサーを務め、三か国の文豪たちの前で大いに恥をかき、泥酔し、記憶をなくした私も、日本では清原が胴上げとともにグラウンドを去ったというこの夜の一部始終(と幻滅)についてははっきり記憶している。

とまれ、休日の昼をひとり延々とビル街の(それなりに)高級ホテルの部屋でまたしても酒を呑みながら過ごす外国滞在の典雅さよ。しかし戸外からは謎の大音量で繰り返し聞こえてくる〈ホテル・カリフォルニア〉。いったい人間の進化というのはなにのことを指すのか、どんどんわからなくなっていくソウル滞在なのだった。つい四十年前まで「土小屋」と呼ばれる穴に棲む貧民に溢れていたというこの地に澄まし顔で立っている高層ビルには隠しごとなどできないのに、隠しおおせているかのように振舞うのはナンセンスだ。文学はいまでも生きているふりをして自由を叫ぶが、いくら大声で叫んだっていまその自由は女が春を売り男が春を買う現実の外側にしか存在しない。もちろんそのことは韓国にかぎられた問題であるはずがなく、進歩しない人類すべてに課せられた宿命だ。

それはそうと、井上ひさし氏の義父ということになる米原昶(いたる)というひとのことと、一緒に討論の場に座らせていただいた黄ソ(析の下に日)暎(ファンソギョン)という韓国の小説家に非常に興味を持った。米原について詳しく知りたいし、ファンさんの小説は近いうちにぜひ読もうと思う。
あと、京都の誇る若手宮廷女流の発したあまりに雅なる「ドストエフスキィ」のイントネーションに深い感銘を受けた。……皆様、目を閉じて幻聴されたし。

夜に出かけたインサドンの韓国料理屋はまことに美味で、すっかり上機嫌。そののち団長と合流して行ったテハンノの居酒屋のドンドンジュもなかなか美味であった。その晩はすぐに眠りに就いたが、明け方目覚めてからへんに不安定でヤバくなる。なんとか荷作りしてチュンチョンに移動。が、行きのバス内で心臓がバクバク言い始め、腰から上がひん曲がるような痛みを覚える。何度もバスを停めて東京へ帰ろうという気になっている。どうにか近くにどでかい青空マーケットが見えたチョンニャンニの駅で電車に乗り換えてもなお、この苦痛は消えない。田舎の風景が広がってくるにつれてようやくいくらか落ち着きを取り戻す。キムユジョンという今年生誕百年の夭折した国民作家の名を冠した駅で下りそこからバスと船(今年はよく船に乗る)で「冬ソナ」で有名らしいナムソムとかいう遊園地に移動、食事と自由時間。食事中、団長が雷オヤジと命名した中国の大詩人による見事な即興書画をゲットして大喜びの故郷の先輩詩人と故郷の若き文豪、そして酒豪女流らとともにドンドンジュを求めてウロウロ。そのうち時間となり、そのキムユジュンの生家を建て直した文学村のイベントに輸送される。そこでの長い長いイベントと日が落ちてからの寒さの過酷だったこと。しかしそれを超えて余りある美味なる食事。夜も更けてようやくホテルにチェックインした我々は選伐隊を組織、車で十五分ほどの場所にあるバーへ。やっと寛ぐ。泥酔。

翌日は朝九時から「本業」。大学で二時間ほどのトーク。昼飯は近所でのんびりと思いきやまたしてもバス移動して冷麺。これはうまいなあ、と思っていたのは日本側(てか俺)だけのようで、通訳の子たちには不評だった模様。また大学へ戻り、上映前のトーク。これで自分の役目は終わり、通訳さんとともに近所のカフェで麦酒。夕方になり上映を見てくださっていた酒豪女流がどこからともなく登場。曰く、上映は途中で強制終了、全員追い出されたと。画面サイズは間違ってるし、部屋は明るいしトホホとしか言えない。ま、DVD上映ですんで。夜はなにを食べたかどうも思い出せず。二次会は三国対抗カラオケ大会。私は二番手並びに故郷の若き文豪のニルヴァーナでヘッドバンギングダンサーを演じた。最後は上半身裸、さらに一緒に踊った中国の年上作家に握手を求め、各国のド顰蹙を買う。中国では年下から握手を求めてはならないそうだ、ってああ、日本でもそうか……でもまあそういう役割だし、てことでへろへろになり、その後のことは曖昧。

そんなわけで帰国した。心の底から安堵。アカデミスティックな文学空間とのお付き合いもこれが最後だ。ちなみに帰りの飛行機では爆睡する酒豪女流のお隣で『ハンコック』を見たが、鍵爪の爆弾魔がハンコックの搬送された病院に現れるところで終了。韓国は九十分の映画も終わりまで見れないほどの距離なのだ。さすがに再度二番館に確認に行くのも面倒なので、すでに見ていた義母に、ディテールはともかくオチだけは聞いておいた。

しかし帰ったと思ったら〆切二連発。慌てふためきながらなんとかやりこなす。特に二個めは某賞授賞式と重なっており、しかしそのまま呑んだくれるよりいまは日銭を稼ぐときだと早々に引き揚げた。で、今日は今日とてケーブルテレビをめぐる家のドタバタに収拾をつけるべく奔走、それだけで毛沢山であったとさ。
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