2010/4/29

ついにベロッキオ!  映画

四月末日、とうとうベロッキオと会うことになる。しかも大学の同期、赤坂大輔とともにだ。これ、個人的にひどく感慨深いことなのだ。赤坂とは大学時代、アテネ日仏はもちろん、法政学館ホールやドイツ文化センターと並んでイタリア文化会館が毎週の溜まり場になっていて、あそこの上映がなかったらカルメロ・ベーネもマルコ・フェレーリも、そしてベロッキオもこんなにたくさん見て来れはしなかっただろうし、当時のあの鑑賞とその後の赤坂との夜更けのおしゃべりがあったから現在があるという自覚は深い。『第一ページの怪物を叩け』や『父の名において』、『虚空への跳躍』、これは違う場所(銀座文化?)だったが『凱旋行進』、さらにそもそものきっかけとしての『ポケットの中の握り拳』(すでに何度も言っているがこれを見なかったらルー・カステルと映画を作りはしなかったろうし、そもそも『Helpless』を作ってなかっただろう)などがあり、一般公開された『肉体の悪魔』や『サバス』なんかは本当に感無量な思いを味わった。その後、ときには「?」と判断停止なときもありはしたが、最新作『勝利を』は初期のパワーを一気に取り戻したようなド迫力の傑作だ。ぜひとも一般公開をお願いしたい。
ベロッキオといえば、叫びとささやきの作家だ。そのタイトルの作品を持つ北欧のひととは比べ物にならない熱量の「叫びとささやき」のひと。どこかでヴィスコンティ最良の一本『イノセント』を継承するかのようなその「叫びとささやき」が『勝利を』でも全面展開する。主演女優の圧倒的なパワー。そうして、今世紀に入って雪がこれほどまでに美しい映画があっただろうか、と思われるその描写の周到かつ繊細な手捌き。
会って話したいことは山ほどあるが、まずは新作の大成功を心から祝福したい。
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2010/4/22

二週間ぶり  映画

ではなかろうか、ある事情で購入したDVDを見た。『ハッスル』『シシリアン』の脚本家スティーヴ・シャガンによる『真実の行方』。このひとの書いた『ジェネシスを追え』という、ジョージ・C・スコットとマーロン・ブランドが共演している未公開の作品(テレビでやったのかな?)をふたりが生きている頃から見たいと願っているが、いまだに適わず。とはいえそれが理由ではなく、決して嫌いではない法廷物であるこれを見たのは、エドワード・ノートンのため。なるほど、これがスター誕生の瞬間か、などと余計なことを考えてしまう。ネタ的には、出オチですか、懐かしいですね、『情婦』でしょ、などと意地悪も言ってみたくなるが、それはこないだ『絞殺魔』見ちゃったせいで、しかしいかにもアメリカのTVMっぽい演出(不必要なシーンが多い)が必ずしも不快ではなく、むしろシュアで、納得できる。昨日の夕方ぼんやり見てた『マーシャル・ロー』の、ダッサいハイスピードなんかより全然いい。あのアネット・ベニングはどうも大根な気がするのだが、こちらはうまいけどどうしても地味なローラ・リニー。バーでぐるっと振り向くところなんかいいんだけどな。
最良の場面は、判事室で女性黒人判事が弁護士と検事双方に酒を勧めるところ。女性検事は受け取り、弁護士は断る。と、判事は弁護士に差し出したグラスから自分のグラスに注ぎ変えてそれを呑むのだ。意味は判然としないが、へんに面白い。
しかし、法廷物というのはよっぽど取材とか勉強とかやってさらにアドヴァイザーしっかりつけないと怖くて手を出せないジャンルだな。取材しすぎて飽きて非現実的なこと考えはじめるまでやんないとダメな気がする。
……というわけでアイデアとしては、却下。

二日間の断酒に成功。だが明日からは呑むだろう、間違いなく。

舛添がどうか知らないが、杉並区長なんざプチ石原だ、つくる会教科書支持者なんかに国を任せられるか!。。。と今日乗ったタクシーの運転手さん(自称・元二等兵)が叫んでおられました。完全に同意いたします。
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2010/1/7

「ゲーム」から「ライフ」へ  映画

そしてとうとう『アバター』である。
見る前に「ガースー黒光りパンドラ」を舞台に「絶対笑ってはいけないアバター24時」という企画がふと頭をよぎった。「おまえら〜、ちょっとあの鳥に乗ってくれるか〜」という藤原のとぼけた声がしてきそうだ。にしても、この3Dは面白すぎないか。いわゆる「映画」とはまたべつの体験だという気がするが、面白さには変わりない。見ながらどんどん頭が痛くなり、その頭痛が半端なくなってきたところで戦闘シーンがピークに達し、そのうち乗り物を完璧に乗りこなしたというような爽快さで頭痛は消えていった。そんな生理的な現象をもともなうのが3Dということか。『アビス』の「水中呼吸」に慣れる感覚によく似ているが、あれはスクリーンのなかのひとのもので、これは見る側のものだ。ジェイクもアバターに入るのにあれほどの仮死体験はなさそうだった。
で、この乗りこなし感だが、昼に来月出る拙著『シネマ21』のゲラを読んでいてちょうどキャメロンの部分に差し掛かっていたんだが、そこに「キャメロンの映画は全部キャメロン自身の見た目」というようなことが書いてあり、この新作もズバリそのとおりだったので、まったく変わらないその姿勢に胸を打たれた。ただ、乗りこなし感といってもキャメロンの場合「見た目」であることはいわゆる「ゲーム感覚」とは一線を画し、「ゲーム」はいつしか「ライフ」へと、のっぴきならないところへと自分を賭けていく感じまで到達するんで、そこでもさらに胸を打たれるものがあった。もっともこの「ライフ」は日本語に訳したときの重みを欠いた、タワレコのキャッチコピーに現れるときのようなカジュアルな装いのそれではあるが。ともあれ『タイタニック』(そして比較するまでもないが『2012』)に対する『アバター』の圧倒的な優位は、終始展開する空前絶後の運動感覚(特に、飛行)にあることは言うまでもなく、この運動感覚こそが3Dの生理反応とともに「ゲーム」から「ライフ」への移行を促すのである。
話は『小さな巨人』ではあるけど、ナヴィのプリンセスが最初にジェイクを矢で狙うときふとあのいそぎんちゃくみたいなくらげみたいなクリオネみたいな生き物が蝶のようにふわりと矢の先に舞い降りたところで絶句(『殺しの烙印』じゃん!)し、以降完全に武装解除。途中でラストカットがどういうものであるか、予想がついて、最後までわくわくしながら見ることができたのだが、いかんせんとにかくこの映画を乗りこなす=戦うのに精一杯で、感動するということができなかった。ホントは、犀の群れが突進してくる辺りでちょっと落涙したけど。一方、隣ではクライマックスに至り妻が珍しく鼻をズビズビ言わせているので、きっと「ゴジッカ」のことを思い出されたのだろう、と微笑ましかった。
ともあれタランティーノしかり、キャメロンも二十年同じことをしながら順調に洗練されてきてもいて、実に頼もしいかぎりだ。
もう一回見に行こうと思う。
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2010/1/2

Best 2009  映画

昨年中に飼い猫のジジが亡くなったので、喪中につき年賀メール等は控えさせていただいていますが、代わりに愚にもつかないベスト10を。というのも大晦日と元日の晩はDVD三昧と決めていたのだが、元日に見たものがあまりに素晴らしかったので、これを作る気になった次第。

1、チェンジリング/グラントリノ(クリント・イーストウッド)
3、アンナと過ごした四日間(イエジー・スコリモフスキ)
4、サブウェイ123(トニー・スコット)
5、スタートレック(J・J・エイブラハム)
6、スペル(サム・ライミ)
7、リミッツ・オブ・コントロール(ジム・ジャームッシュ)
8、イングロリアス・バスターズ(クエンティン・タランティーノ)
9、よく知りもしないくせに(ホン・サンス)
10、パブリック・エネミーズ(マイケル・マン)

次点 春風沈酔の夜(ロウ・イエ)
   クリーナー(レニー・ハーリン)
   プッチーニと娘(パウロ・ベンヴェヌーティ)
   ボヴァリー夫人(アレクサンドル・ソクーロフ)

こんなに心地よく感動した順に並べることのできた年も久しぶりだ。本数は確実に減少しているが、それでもここまで択ぶことのできる喜びを享受できた。しばしば一作家一作品などということを考える素で官僚的なひとがいるが、こういう年は素直に両方入れるのが当然。甲乙つけがたいに決まっている。
で、元旦に見たDVDというのは『ターミネーター4』と『スタートレック』だったんだが、準主役のサム・ワーシントン(『アバター』は未だ)とカイル・リース役の少年アントン・イェルチンが棄てがたい『T4』はしかしそれ以上ではなく、直後に見た『スタートレック』の引き立て役(ここにもイェルチンが登場)となった。これについてはいずれちゃんとしたことを書きたいが、とにかくかなり興奮するものがあった。
個人的には昨年はホン・サンス発見の年でもあった。ああいうひとが近くにいてくれることに心底感銘を受けた。塩田明彦監督や佐々木浩久監督に、これからああいう路線をやってもらって対抗してほしいものだとつくづく期待するが、しかし相変わらず日本映画は一本も見ていないのだった。最終的に『ベンジャミン・バトン』は消えた。感動した箇所はいくつもあるが、やはり言葉に凭れすぎた。また『チェ』二部作、殊に第二部はソダーバーグにしては悪くなかったものの、いくつかの決定的過失でこれも落選。

また昨年は舞台も十三本と飛躍的に増えた年だった。分けても『コースト・オブ・ユートピア』には本当に感動した。年末のNHKの放送でまた見てしまった。
音楽は湯浅湾とブラック・ジョー・ルイスに尽きる。だが秋以降はヤナーチェク、コダーイ、ラヴェル、パガニーニに終始していた。
小説も荷風・志賀・谷崎・里見という戦前のローテーションを延々と繰り返すばかりだった。エリクソン、大江、古井、矢作など次々に出版される新刊が溜まっていくばかりだ。
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2009/12/7

ウェルマン・木下・黒沢  映画

土曜、シアターコクーンにて作/レジナルド・ローズ、演出/蜷川幸雄『十二人の怒れる男』を。子供のころ、テレビでルメットのあれを見て感動に震えて以来のことだが、やはりこの話はもっと小学生や中学生に見せるべきだ。今回は戯曲を正確にやることが目的と思われたのでそうした提案はお門違いだろうが、仕分けされた子供向けの劇団などはこの戯曲こそを巡回して見せてまわるべきだろう。時代が違うとか国籍が違うとかといって敬遠するのは間違っている。この普遍こそを子供は感じ取るのだ。
それにしても中井喜一さん、かっこよすぎだ。身のこなし、特に振り向き方は現代の俳優にはない。完全にお父上を超えたのではないか。

日曜、原稿を書くために木下恵介『お嬢さん乾杯!』とリチャード・C・サラフィアン『バニシング・ポイント』をDVDで。久しぶりに見たこの木下にはウィリアム・ウェルマンの演出を参照している箇所がある。また、木下という演出家はひどくモダンなギャグをちりばめる人で、そんなところも黒沢清に通じる何かを感じるのだが、ウェルマン〜木下〜黒沢という流れを考えるとなにやら奇妙に納得できるものがあり、唸った。デビューしたての佐田啓二がガットギターをつまびいて唄うのだが、それが失敗していてもそ知らぬ顔でOKしている。ここらへんも黒沢っぽい。バイクで二人乗りして東京じゅうを走り回るところなども、そういう場面は撮らないけれど妙に黒沢さんっぽい。
『バニシング・ポイント』は、相変わらず『バニシング・ポイント』だった。笑って流した。
19

2009/12/3

眼は脳の一部である……  映画

見ろ見ろと薦められてようやく『脳内ニューヨーク』を。
題名どおり、昔懐かしい「脳の映画」NY版、と呼んで差し支えあるまい。見ている間は気にも留めなかったが、原題のsynecdocheは「提喩・代喩」を意味する。「類で種を、また一部で全体を(またはその逆)表す比喩」なのだそうだ。冒頭の歌や途中で出てくるナプキンの「スケネクタディ」というNY州北部の田舎町(たぶん郷愁=歴史の「代喩」だ)の名前がひっかけてある。たしかにそのものずばりな意思は感じ取れる。ロケしながらわざわざCGで空に天蓋を描きこみ、サマンサ・モートンの役をエミリー・ワトソン(たしかにこの二人、ときどきどっちがどっちやら、と混乱する)が演じ、フィリップ・シーモア・ホフマンをトム・ヌーナンやダイアン・ウィーストが演じる、その部分に亀裂(ひとは「代喩」たりえない)を生じさせつつもそれをオブラートに包むように主題として前面に押し出さないのはチャーリー・カウフマンの公明正大な倫理というか良心にはちがいない。また、体験から追体験へ移行する編集の、既視感を援用した速度などは実に見事な手捌きである。撮影にフレデリック・エルムスを起用する辺り、ニューヨーク派を襲名せんとする意気込みも買おう。だがそうした「問題作」であることは認めつつ、どうしても支持したいと思わせない。好きになれない、というか。どこか1カットでも、おっ、というショットがあればそれで全面的に肯定したかもしれないが、一切そんなショットはないのだ。それを禁欲的と賛美することも不可能ではないが、いまさら禁欲などされたってなあ、という感じだ。というよりむしろそういうショットの撮り方を知らないのではないか、という懸念がある。これはスパイク・ジョーンズの映画を見ても同じことを感じる。それとちょっと長すぎる。これを80分〜90分でやってのけていたらそれだけで、お見事!と認めていただろうが。
どうやら週刊誌では「ひとりよがり」などという言葉で批判されているらしいが、それはとんでもない言いがかりであり、お門違いだ。これほど滅私奉公的な映画も最近珍しい。そもそも「脳の映画」は、作家個人の外部に設けた厳密にアカデミックな理論に基づく設定を構築した上でドライヴするしかつくりようのないもので、そこでは独善はそれこそ「禁欲」せねばならない。だからそこが麗しくもあり、同時に弱点でもある。魅力的な「ひとりよがり」=ショットがない、というのはそういう意味だ。「脳の映画」全般の限界も、だからそこにあったにちがいない。
現代において映画がもし弱くなったとしたら、誰もがそのような魅力的な「ひとりよがり」をなす術を忘れてしまったせいではないだろうか。ほとんどいわゆる自虐史観的に忘れさせられた、とでもいうか。自虐どころかあらゆる「史観」を欠如させた、ぶざまな「ひとりよがり」だけが『26世紀青年』ばりに(見てないけど)そこらじゅうに溢れている。
かといって、では「身体の映画」が勝利したかと言えば全然そんなことはなく、むしろこちらのほうが先にダメになっていった。日本でのカサヴェテス解釈の根本的な錯誤がその見本だろう。

なんにせよ、考えさせられた作品であることはまちがいない。

ちなみに主人公の名前ケイデン・コタードはあきらかにJLGにひっかけてある。ガッデム、ゴダール、といったところか。


北朝鮮でデノミ暴動の予感。うーむ。もしかするともしかする。
14

2009/11/12

欲望という名の温泉  映画

晩飯後、原稿チェックのあと、なにを血迷ったか、エリア・カザン『欲望という名の電車』などはじめて観始めて、冒頭の、路面電車をあんなにつまらなく撮るか、というところから三十分我慢したが、あまりのことに途中で止めてしまった。えええっ! これが名作なんすか!? と思わず呟いた。いや、私にはまったくわからなかった。初見の映画を途中でやめたのは久しぶりだ。三十分間で、ブランドの二の腕の異常な太さだけが印象に残った。

で、とりあえず中和しようとその正反対のほうへ行くべく、何度目かの『秋津温泉』。特集に出かけられない腹いせもある。どこかで誰かが書いていらした(どなただったかは忘れた)ように記憶しているが、周作が「新子さん」と呼ぶところと「お新さん」と呼ぶところの微妙な変化、感動的だ。なにかあまりめったなことでこの映画を好きだと言いたくないし、ひとが言うのも聞きたくないのだが、しかしやはり好きなのだ、あの赤いマフラーが。橋を見下ろすロング・ショットが。寝そべって煙草を吸う河原が。これをリメイクするなんてまったく考えないが、初めて見たときから私は『秋津温泉』のような映画をつくってみたい、と激しく欲望してきた。後半、駅で握手して別れたあと、汽笛が鳴りはたと顔を上げ、結局見送ることになる辺りから以後の、身を切るような切なさがたまらない。私なら、と考える。私なら十七年ののちに新子と死ぬだろうか。それは私にとって人生の問題ともいうべき、永遠の問いだ。
22

2009/11/11

中国ににっかつはなかった  映画

TIFFや演劇鑑賞ならびに鼎談準備&鼎談そのもの、さらには数多のシナリオ打合せなどを挟んでようやく、短篇四十枚と長篇連載九十枚を終えた。結果、せっかく時間割まで書き写した岡田茉莉子特集に一歩も足を向けられず。今日だってほぼ徹夜でこれから寝ないと、死ぬ。

そんななか、増村の『黒い福音』を見た。私はこの手(驚くべき経済原則)を決して使わないと心に決めたが、ぜひどなたか、というか万田さん、やっていただきたい。白人神父の歌がいい。かつては当たり前のように見ていたわけだが、宇津井健への演出はやはり尋常ではなかった。

なんだか呆然としてしまったので、ついでにロウ・イエ『天安門、恋人たち』も見る。必ずしも悪くとは言わないのだが、うむ、この際苦言を呈しておきたいのは、陳凱歌『大閲兵』以来中国映画は、描きたいことより伝えたいこと、つまりメディアとしての側面に多くを負いすぎた結果、視覚からいつまでも脱却できずにいる気がしてならない、という点だ。つまりそれは映画が最終的に触覚に到達しないということだ。あの一回こっきり見ただけの『大閲兵』の異様な触覚性をいまもって忘れられない者にとって、これはとても惜しいことだという気がする。もちろんこの国とは比較にならない厳密な検閲がいまだ足枷になっていることは百も承知だ。だが、あの巨大な国から侯孝賢やキアロスタミのような存在がひとりも出てこないというのは訝らざるを得ない。もしかして知らないだけなのだろうか。
そのような感想をある先達に送ったところ、映画は結局高度資本主義の産物だとの答えが返ってきた。なるほど、私にとって触覚とはなにより神代や曽根などのにっかつロマンポルノの映画体験であり、にっかつこそは「高度資本主義の産物」だったと言えなくもない。ここでのベッド・シーンにはひとかけらの触覚も感じなかった。まるで市川昆の形骸化したエピゴーネンといったものでしかなかった。
うん、まあ眠くてこれ以上は思いつかないが、なんかそういうことだった。


……え? なんだよ、超自然スリラーって!!!
http://www.allcinema.net/prog/news.php#5020
しかももう撮影中なんですか!? 信じられない創造意欲!!!
9

2009/11/9

韓米はなぢ勝負  映画

宿酔でグダグダだったが、なんとか奮起して夕方渋谷へ。シネマライズで『母なる証明』とシネタワーで『スペル』。
なんだか妙な邦題の『母なる証明』だが、内容はほとんど覚えていないほど当たり前すぎかつ「で、何?」的な流れで終始拍子抜け。こういうのやれ、と先日某プロデューサーから進言されたが、ごめん、無理だわ。面白がれるところがなくて私には無理です。ジュノ君だってホントに乗ってやってるのか、これ? 息子逮捕の直後、警察車両をおふくろが追ってくるのにビビッて刑事が事故るところだけは笑ったの覚えてるけど。というかその後の『スペル』が(これも邦題の意味がよくわからんけど)やってくれちゃっていたので、全部すっ飛んじゃいました。
『スペル』はかなり雑な作りではあるのだが、雑でも怒涛のテンポを択んだところに大いに共感を持った。『スパイダーマン』シリーズの唯一の不満は丁寧すぎる点だったが、ここではサム・ライミのがちゃがちゃしたところが復活している。そして怖かった、というか久しぶりに椅子から飛び上がるくらいビビッた。あの婆さんの家のパーティというか葬式だったのかな、あれは、とにかく近親者が集って婆さんの遺体を囲んでいるところだが、この感じ……と思ったのは『グラン・トリノ』だったんだが、あれほど流麗ではなくむしろ取ってつけたような感じで、さらにまた『オープニング・ナイト』さえ思い出した。婆さんの孫娘のチグハグなほどの異常な美しさもいい。そうしてあそこで棺をひっくり返すというとんでもないスラップスティックが見事。シナリオ上の、痛いコンプレックスを積み重ねつつストレスを膨らませていく辺りの構成も巧く行っている。夜、轢きかけたじいさんの激怒もかなり怖かった。
両方ともシネスコで、しかも寄りが多いにもかかわらず、『スペル』のほうがほんのちょっとだけ引いていて、というか寄りとして正確で、そこがやはりハリウッド映画とそれ以外の違いなのだ。ピーター・デミングだし、やはりわかっている。
ブルース・キャンベルがとうとう出なかったのがちと残念で、こういうものにこそ出ていてほしかった。タランティーノで言えば『デス・プルーフ』に相当する、といってもいい出来で、今年CEの二本の次、第三位はこれになりそうだ。
表題は双方の犠牲者による流血が共通していた驚きについて。軍配はそのとっぴな物量作戦で、やはり米軍の勝利。
18

2009/10/24

続・TIFFどっきりマル秘報告  映画

今年もなかなか新作に足を運ぶ気になれず、結局唯一の新作はホン・サンス『よく知りもしないくせに』だった。が、これだけにしといて正解だった。いや〜、面白かった。これで三本目のホンさんのノリはだいたいわかってたし、れいによって勝ち抜き二の腕ギャル合戦と腕相撲大会にデレデレと流れていくばかりなのだが、まさかあの『浜辺の女』再びとは思ってもいず、こうなるとこれだけダラダラ・グズグズな代物さえ感動的に思えるから不思議だ。あの女優、ほとんど橋田スガコワールドにいても全然不思議じゃない演技なのに、結果韓国アート系の花であることがなんといっても楽しい。てゆうか、なんだあの尺取虫! とか、石投げるのかよ! とか、鎌はヤバいだろ、とか、お前も惚れてたのか! とか、もうつっこみどころ満載で、私はもはやホンさんワールドのとりこである。……いるよなぁ、ひとの部屋で呑み明かした挙句、片付けもしないで帰る奴ら。てゆうかひとの部屋でセックスすんなよ、とか。イケてる監督ゲットの脱ぎ系女優をママも応援、とか。まあ、でたらめかつ超リアルな展開が、たんにゆるゆる描かれるだけなのにこんだけ面白い、というのがいいよ、やっぱ。ホンさんみたいな映画作ってみたいとかはあんまり思わないけど、でも大好きです、ホンさん。

夜はその延長線上でダラダラ食事し、飲酒して、ギヨントークへ。一年ぶりに高橋さんと喋った。ア・ロウンという名前がマジでaloneであったことが可笑しくてしかたなかった。しかしア・ロウンははだしのゲンにそっくりだとあらためて思う。ギヨンワールドはどこか「はだしのゲン」に似ている気がする。それは楳図より似ているのではないか。

NAL8、高橋の四人であちこち梯子した結果、拙事務所へ。私は早々に寝たが、起きてみるとちらかしっぱなしで、ほら見ろ、ホンさんワールドはシュールリアルさ、と起き抜けから笑わされたのだった。

で、今年も映画祭シーズンは終わった。そして冬が始まる。
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