2009/10/22

TIFFどっきりマル秘報告  映画

キム・ギヨン『玄界灘は知っている』。いや、もう、信じ難い映画。これ必見です。増村とギヨンの共通点は昨年かなり感じていましたが、本作のナレーション、『陸軍中野学校』そっくりですから! そんでもってまたしても、「世界よ、ありがとう」な感じです。開いた口が塞がらなかった。抗日・反日どうでもいい、てことです。そんなちいせえとこで映画撮ってないよ、ギヨンは! ラスト、ほとんど「音のあるソ連サイレント映画」みたいになるところなど、圧倒的! 明後日もっかい上映(21:10〜、シネマ2、トーク付)あるから、ぜひとも皆様に駆けつけていただきたい。
ちなみに本作は、はじめて「具合が悪く」ならないギヨン作品でした。

スコリモフスキ『身分証明書』。処女作にして、おそらくポーランド時代の最高傑作。というかこれと二本目『不戦勝』の間で迷うでしょう、普通。最初の暗闇のマッチだけで勝負あった! みたいな。徴兵検査の待合室で審査官の登場で歌が不意に中断する呼吸や、階段の上から灰皿みたいなのをガターン! と階下に落とすシークエンス、超秀逸。あと子供たちが縄跳びしていてパンすると不意に主人公が現れてトラックバックするところも、意味もなくいい。名高い路面電車飛び乗りは言うまでもなく。ラストはなぜかソクーロフ『アレクサンドラ』を思い出した。
それにつけても思うのは、こうした、ジャンルとも個人映画とも切り離された、宙ぶらりんの個を描くだけの映画というのはいつごろ発明されたのだろう。もしかするとスコリモフスキこそ、その発明者なのかもしれない。つまり本作こそがヴェンダース『サマー・イン・ザ・シティ』やジャームッシュ『パーマネント・ヴァケイション』などの先駆なのじゃないだろうか。

この二本(『不戦勝』を入れたら三本)を超える作品は今年の映画祭にはまちがいなく存在しないだろう、たぶん。

ホセ・ルイス・ゲリン『イニスフリー』。ゲリンのフォード愛は痛いほど分る。しかし『静かなる男』で厳密に「演出上」、ジョン・ウエインとモーリン・オハラが「最初に会う」のは教会ではない。森のなか、煙草を点けたウエインと羊を追うオハラの遠い視線の交わしあいが、たとえそれが予感だとしても「最初」である。その事実を忘れている点で、失格。そしてあまりに長すぎる。余計な寸劇は興を殺ぐばかりであった。殊に子供たちのはしゃぎっぷりなど、やけに鬱陶しかった。フォードと同じキャメラポジションに入ったショットだけ、合格。爺さんたちの顔も悪くない。どっかで見たような車の走りの主観ショットがあったが、忘れよう。
あ、終盤近く、ひねくれた子供が登校していく歩行を大ロングのパンで追っかけるうちに子供を置いてきぼりにして数頭の羊に被写体を移すショットはなぜだかよかった。あと、肥料用の海草をひきちぎってはぶん投げる場面も。でも、ウエインが黒い山高帽を投げる一瞬の抜粋にすべては雲散霧消してしまう。それを承知で挿入した度胸とその後の『シルヴィア』に通じるブレッソン的なアプローチを試みたショットの確かさに免じて、これ以上の悪態は胸にしまう。
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2009/10/21

馬(と小鳥と蛇)とサイレント  映画

はっと気づくと数日経っている、というようなめまぐるしさ。そのうち仕事でない時間が否応なく多くなっているのだが、かといって景気がいいわけではもちろん、ない。

日曜、昼間は夫婦でさいたままで出張って蜷川『真田風雲録』。しょっぱなから涙腺直撃。戦災孤児のつっぱり、なんて泣くしかないだろう。ましてや若い俳優たちが全身で演じている様がこれほど美しいとは思わなかった。それだけで満点だ。加藤泰の記憶も久しぶりにあれこれと思い出され、目が腫れた。よこちんはまた表現の幅が膨らんでいた。
帰りに妻と代官山で中華を食べてから、日仏へ。フィリップ・アズーリらによるギィ・ドゥボールのシンポジウムを聞きに行く。フィリップが「呼吸」と言ったことが印象的だった。まさに「映画監督に著作権がある」としたらそれは作品に持続的に宿った「呼吸」のようなものに対して付帯するだろう、と考えていたから。断片化した瞬間にそれは「呼吸」を失い「情報」と化す。そしてそれは映画ではなく、ただの映像断片である。どれほど巧妙に再構成されようと、それは作家の「呼吸」を孕んだ作品とそれとは、なんら関係のないものである。ドゥボールも、ひとつながりの作品に宿る「呼吸」までは破壊できてはいない。

月曜、前夜の打ち上げゆえに遅い起床後、K社担当者氏が事務所にゲラを持参してくださってそれを受け取り、加圧に行って恵比寿神社の祭りでべったら漬けが売られていることの謎を考えた。が、まあよくわからない。夷様とべったら漬けの関係と言うのがあるらしいが。
で、六本木シネマートへ。三〇年代上海の中川信夫、馬徐維邦のサイレント『怪奇猿男』とトーキー『麻風女』。製作年九年の開きで人間こうも上達するものか、と訝るが、自分のことを考えてもそりゃそうか、と納得し、同時に後者にはサイレント経験者にしか不可能な演出がいくらでも見つけることが出来て、ひたすら興奮。なぜだかスタンバーグを見たくなったのは、中国だから、だけではないと思う。このひときっとどこかで見ているはず。同時に、歌謡シーンでイントロ部分の尺が足らず、カチンコマンが見切れている部分まで使っていたのは、中国ならではの大らかさか。継母に虐待を受け家出する場面でのメジロが鳥かごからふっと飛び立つ瞬間など溜息が出るくらいよかった。それにしても世界同時多発的な三〇年代の偉大さにあらためて驚愕した。基本的には素人並みの作りの『怪奇猿男』でさえ、馬の走りにはバルネットやフォードに通じるサイレント作家ならではの活劇性(このひとと中川の類似性は怪奇に留まらず、こうした場面――中川なら『高原の駅よさようなら』――にも現れている)が見られた。

火曜、朝は事務所でAERAさんの取材。午後はシナリオミーティング。といってもNAL8ではない、プサンがらみ。夜はDVDで蜷川『タイタス・アンドロニカス』。ムーア人エアロンを小栗旬が演じる再演ヴァージョン。再演のせいかどこか堅実な感じが否めないが、策略にかかった者が復讐すべく策略を練り、ギリシア悲劇タンタロスの呪いを下敷きにして、敵にその子の肉を食べさせるという残酷設定には大いに感じ入るものがあった。虐げられし者の悪の権化エアロンはイアーゴやミュッセ『ロレンザッチョ』の原型か、さらに遡るなら変形されたオレステスということになるか。但し辛いことを言うようだが、小栗の台詞回しに難(驚くべき身体の速度に比べてへんに鈍重なのだ)があり、やや不満が残った。道化でグレート義太夫が登場する場面、原作にない細部があって、そこが秀逸。
トリッパー『S・F』第八回着手。十二枚。

忘れていたが近日中にユーロスペースでカネフスキー三本のリバイバルがあることを、イメフォーの予告で知った。久しぶりに見てみたい。
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2009/10/18

ありえたかもしれないKK  映画

TIFFの審査委員長はスコリモフスキと聞いて、おやおやそりゃまたずいぶんハイカラになったこと、と感心していたらまったくのガセで、イニャリトゥなんていう何の陰謀で監督名乗っているのか怪しくて仕方ないやつだったと知り、あーあやっぱダメだな、としたくもないがっかりをしてしまったその日の、加藤和彦自死の報にも、なんとも釈然としない思いだけが残り、三日ぶりに酒を呑む。といっても蕎麦屋で常連氏やご主人との語らい、という実にホームタウンなムードの。

一昨日はDVD三昧。初見の『ア・ウォーク・オン・ザ・ムーン』と何度目かの『ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス』というヴィゴ二本立て、そして『マイ・ボディガード』。『ア・ウォーク・オン・ザ・ムーン』は原題で、DVDは『オーバー・ザ・ムーン』になっているのだが意味が分らないので原題のまま書くが、だってこれ、ちょっと月面を歩きましたけどやっぱり地上に留まりますよ、って話でしょう? 出来は必ずしも悪くないのだけど、周囲の白眼視がないのが気になった。ヒッピーにあれだけ目くじら立てる連中が不倫妻に寛容なんて、なんかドラマとして片手落ちな気がする。サーク的な残酷さが欠けている。
クロネンバーグはやはりこれが最高傑作だと再認識。最初から最後まで構成・編集に隙がない。早朝、手前にポストが見えていてヴィゴがひとり店に歩いていくショット、素晴らしい。ひとつ、なぜジョーイの記録が警察にさえまったくないのか、気になるけれどそこはまあ。
トニスコも何度目かわからないが、死に場所を求めた兵士の末路としてはデンゼル・ワシントンにちょいと役不足は否めなかった、というのが今回の発見。やはりそれには晩年のバート・ランカスターやジョージ・C・スコットの貫禄が必要、なんて。でもまああそこまでやってくれたものにそれはないものねだりけど。
『ウォーク・オン・ザ・ムーン』のダイアン・レインがヴィゴのバスに拾われるときと『マイ・ボディガード』のデンゼルがウォーケンに庭で電話するときの雨は、悪くなかった。

で、昨日は『ボヴァリー夫人』を見てきた。デジタルの、実に爽快な使用法。カーセックスならぬ馬車ファックはノーカットで見たかったが、ないものねだりはよそう。製鉄所の謎の発炎筒と機械の動き出しに心底痺れた。あとラストの三重の棺のでかさ。近年のアンゲロプロスの「でかいもの趣味」より堂に入っていて、呆然とした。さすが本場である。ところで、こうして見ると、ソクーロフって「ありえたかもしれない黒沢清」じゃないか、と連想してしまうのは私だけか? なんか『ココロ、オドル』にそっくりではないか、これ。黒沢さんに全部アフレコで、と依頼したらきっとこんな感じになると思う。てゆうか棺含めて、ムルナウ系だよなあ、というのも黒沢さんっぽい。
ムルナウといえば、東北の方で著作権の話が紛糾していたようだけど、リミックスに著作権もくそもあるまい。使ってくれてうれしい、的な発言はメディア批判王であり、かつ「映画監督に著作権はない」の著者ラングもしている。かれら十九世紀人のほうが複製芸術のなんたるかをよおくわかっていたのではないか。

で、呑んだ後、いろいろ思い悩んだ末に再びシェイクスピアシリーズ。今夜は『ペリクリーズ』だったのだが、いやはや、あえて己の無知を晒すけれど、シェイクスピアって晩年のロマンス劇が最も秀逸だったんですね。参った。というか自分の最も弱いところをつつかれて大いに号泣してしまった。戦場の水飲み場(2003年の上演)を設えたセットを含めた蜷川の演出も冴えに冴えている。一人で何役もこなす俳優諸氏の底力にも脱帽。これは『マクベス』を超えている。ここには化け物はいないが、演出次第で民主主義でも凄くなる、という『ユートピアの岸へ』に繋がる意思の萌芽を見ることができた。なかで、どんどん輝きを増していく田中裕子が素晴らしい。
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2009/10/3

ケツ触られても笑って見過ごしてやってくれ。  映画

まあ誰も本気にはしていなかったとは思うが、2016年五輪は東京ではなくリオに決まった。わけわかんない工事とか始まらないことがわかって、ホッとする。
DVD三昧は続く。ジョルジュ・P・コスマトス『カサンドラ・クロス』。ちゃちな愚作だが、リチャード・ハリス&ソフィア・ローレンの夫婦とリー・ストラスバーグの描写(演技、ではない)は悪くなかった。メルヴィル『賭博師ボブ』。ノワールの鉄則である因果応報(ファム・ファタル、アホな若者、手練手管のヒモ、油断するベテラン)の最も秀逸な例。あの、悪魔のような美女はその後何かに出ているのだろうか、と思って調べたらマウロ・ボロニーニの六〇年代の映画に出続けて、ロッセリーニ『ヴァニナ・ヴァニーニ』でキャリアを閉じている。見直してみよう。テテなし子である自分を吐露するボブの台詞、秀逸。レオーネ『ウエスタン』。たぶん六回目。ここでのジェイソン・ロバーズの芝居は超微妙。ほとんどダメなのだが、結局泣かされるのはいつもクラウディア・カルディナーレと彼のくだりだ。一度大声でダメ出ししながらそれでも擁護するということをしたい。ま、カルディナーレみたいな女優なんていまひとりもいやしないが。
某誌編集者と痛飲。ある小説からある小説へと繋がった「因果応報」が新しい展開を見せた、という、あまりに愚かしい情報に嬉々とする。それを受けて新企画が浮上。タイトルだけは決まった。『ワン・ツー・3里塚 パート4』である。ひとつ穏便に、と懇願する編集子のMっぷりに応えて。
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2009/10/2

DP、ではなくJBとTSの関係について(笑  映画

ウェス・アンダーソンの新作コマ撮りアニメ『ファンタスティック・ミスター・フォックス』のトレイラーがすでに流れている。めちゃくちゃ面白そうだ。私にまつわる「アニメ嫌い」「アニメは映画ではないと公言」という風説をよそに現在、極私的に期待度ナンバーワン。そしてナンバー3(ナンバー2はサム・ライミ『スペル』)の『2012』は早くも11月21日公開だというからのけぞる。こう並ぶとめっちゃミーハーな映画好きのようだが、実際そうなのだから文句言わせない。
それらを早く見たいとやきもきしながらのDVD三連発。ピーター・イエーツ『エディ・コイルの友人たち』。初見。めっちゃ(カット割が)冷酷なハードボイルド。とはいえその点では八〇年代の工藤栄一に乗り越えられている感あり、なのがやや残念。タラ『ジャッキー・ブラウン』。たぶん五回目。今度も、ボビー・ウーマックがイントロを弾き始め、ジャッキーのリップスティック・トレースを唇に残したまま去るマックスのアウトフォーカスした後姿から、ウーマックとともに宿命の歌を口ずさむ車中のジャッキーへ繋がるエンディングに思わずこみ上げた。ここ、何度見てもいい。カレル・ライス『ドッグ・ソルジャー』。何度目か思い出せない。メキシコのギャングだか悪徳刑事だかが山上の顛末を麓で待っているときに石を空き缶にポーン、ポーンと放る手持ち無沙汰の演出と、断崖の巨大なピースマークまで構図に入れたロングショットが誠に素晴らしい。マイケル・モリアティが悪漢どもに捕えられて車に押し込められる段取りも見事。本当にきびきびしたいい映画だ。誰かさんの記憶どおり〈雨を見たかい〉はかかりませんでした。
で、深夜に某おいらんものの日本映画をテレビで見たんだけど、製作委員会に名を連ねた人々の頭数の多さに吃驚。もちろん、そんだけ集まって……という意味で。安藤君によってかろうじて(というか安藤君が単独で出ているショットだけ)映画になっていたのだが……しかし、それにしても……。

ああ、忘れていたが昨日はシャブロル『ナダ』とヒューズ兄弟『フロム・ヘル』を見たのだった。両方、えらく下品で面白かった。シャブロルの、逃走する車がひっくり返るヘリ撮とルーがパチンコで警官のヘルメットをぶち抜いて殺す場面、最高。ヒューズ兄弟といえば何年ぶりかの新作『ブック・オブ・イーライ』も楽しみだ。
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2009/9/15

西部劇「のようなもの」二本立て  映画

気を取り直して、というか新宿ピカデリーでしかやってないと判明したので、やれやれ、と意地を張るのをやめて『3時10分、決断のとき』へ行き、さらにバルト9で『グッド・バッド・ウィアード』を。
マンゴールドのほうは、初めてクリスチャン・ベイルをいいと思ったが、ベイルを見るとどうしてもこれよりあとに作られたはずの『ダークナイト』を想起させられ、ほとんどホモでサイコなやつが登場するという点も『ダークナイト』と同じで、するとこれがいかにも、こないだ書いた「『スパイダーマン3』以後のアメリカ映画」に見えてしまうから、いささか中途半端な古典派と思えていたマンゴールドもついに白旗か、しかしむしろそのほうが気楽でよかろうとも思われた。始まり方や主人公の肉体的ハンディに自身の刻印を持ち込もうとしている作家主義的感性は認めるけれど、果たしてそれで先達を乗り越えられるだろうか。いや、乗り越えるとかそんなことはどうでもいいと思っているのではなかろうか。もはや、西部劇なんだからキメのロングショットぐらい見せろ、とか、抒情がしっとりと画面を濡らす瞬間を見せてくれないものか、なんてないものねだりをしてもはじまらないのだ。この「のようなもの」感や潔し、ということにしてあげたい。同世代のいまひとりのジェームズ、グレイの新作『Two Lovers』でも濡れ場を披露していたヴィネッサ・ショウがこちらでも麗しきケツを露にしており、個人的にはこちらのほうが好みだった。

それにしてもどうも前半、DLP上映だった気がしてしかたない。途中からどうでもよくなってしまったが。DLPだとしたら損した気分になるのは、ただこちらの貧乏根性に過ぎないのだろう。

『グッド・バッド・ウィアード』のほうは、western byなどと調子に乗った監督クレジットを入れているが、たとえばタランティーノは『イングロ』が「戦争映画」でさえなく、ただ「これは自分の映画である」という孤独な宣言とともにしか映画にはなってくれない、という状況に苛酷なまでに自覚的だったのに対して、そうした悪ふざけがあくまで映画史におもねったように見えて全然イケてない、ということをわかってない。その上、演歌な泣き節を入れてくれないレオーネもどきなどレオーネもどきでさえないからそこにも失敗している。こうした出来損ないとタランティーノを分けるポイントはそこに尽きる。役者陣の頑張りに対して、さして気の利いているわけでもないあれこれをおつまみに出すだけで気づいたらメインディッシュはなし、というか、あれがメインだったの? みたいな惨憺たる結果に終わるしかないのだった。カツゲキに手を出すのは百年早い、という感じ。メリハリのない長ったらしいアクションシーンで眠くなったのはいつ以来だろう。せっかくの機会だったのに残念だった。でも平日の昼間なのにお客さんはよく入っていて、いまだって金をかければこの程度の映画もちゃんとヒットするのだ、と教えられた。
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2009/9/10

アラン・スミシーまでもう一歩  映画

前夜、けたたましい勢いでNAL8シナリオを直したせいで、起き抜けから脳貧血気味。それでも猫病院から猫飯屋へとまわる。帰ったら、論創社様より可能涼介著『圧縮批評宣言』、届けられている。なにをいまさら「宣言」などと大げさな、と野次のひとつも飛ばしたくはなるが、このなんとなくの「かつての同僚」感に相好を崩さずにはおれない劇作家初の(どんだけ牛歩だったのか)批評集をともあれ祝福しておきたい。

ところで、昨夜はNAL8に執筆上の禁止令を二つ出した。
1、台詞で終わるシーンを書くな。
1、台詞なしの「……」を書くな。

ひとつめは、台詞で終わるシーンなど映画で見たことがないからだ。誰かはなにかしているものだ。それを書くのがシナリオだ。ふたつめの「……」も同様。そのカッコに付された名前の主は、言葉を発さなくとも画面に登場している以上、なにかしていることはまちがいない。ならばそれをト書きに起こせばいい。かといって「誰々、沈黙。」とかいうト書きも言語道断である。それでは何も書いていないに等しい。他のひとのことは知らないがうちではやってくれるな、と。
ただ、いまの企画というのは、どんなに丁寧にシナリオを積み上げていっても、資本が集まっていないことにはGOサインが出ないということがしょっちゅうある。で、資本を集めるためにはシナリオが必要、であり、集まらなければへたすればただ働き、ということもある。驚くべきことだが、そんな本末転倒が平然とまかりとおるのがいまの殺伐とした業界の実態だ。自分のオリジナルならそりゃただ働きにも甘んじるが、持ち込まれた企画でもそういうことがありえる。がゆえに、私のようなお気の毒だが扱いづらそうなロートルではなく、つけいりやすい若者を捕まえては酒代込みの安いギャラで「勉強」させるのだ。これを「焼畑農業」とひとは陰で呼んでいるらしいが、土地は一向に肥沃にならない。もちろん、どこかの才能ゼロなフランス系ヴェトナム人に大作を監督させたりしているかぎり、日本映画の土地は痩せたまんまだ。一方で根岸吉太郎監督がモントリオールで監督賞を取ったりすると、それはそれで実に喜ばしいことではあるけれど、毎度おなじみマスコミの大政翼賛モードによってまるでここが肥沃な土地であるかのような勘違いがまかりとおってしまうのだ。根岸監督のためにもそういう業界内格差をジャーナリスティックに審らかにし、是正に向かうべきではないのか、諸君!!!

……なんつって要はたんに企画が通らないんでひたすら焦ってるだけですけど(涙



それはそうと、ブラック・ジョー・ルイス&ザ・ハニー・ベアーズである。このオルガンとギターとベースとドラムスの関係こそ、私が夢に見つづけた理想郷だ。もうほとんど泣ける。なんてみみっちい、軽っちい音なんだ。久しぶりに、これがやりたかったんです、俺、と誰彼かまわず言ってまわりたい音。おまけにホーンまでトッピングしやがって軽薄な贅沢を満喫している。いま誰より羨ましい連中である。
あと、ジョー・ヘンリー『ブラッド・フロム・スターズ』も悪くなかった。
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2009/9/8

「映画の現在」消滅のお知らせ  映画

同時代の同ジャンルの作品に接していちいちその様相に畏怖を覚えたり嫉妬したり、あるいは軽蔑したりすることこそが作り手の情動というものだろうと思っていたが、いま若い、といっても私より、という程度だけれど、誰も彼も自分のことにしか興味が向かないように見えるのは、自足に甘んじる作り手をもって自他に安心を提供する媒体の差し金なのか、そこはさだかではないものの、すくなくとも「ごっこ」という上目遣いな言葉だけは口にするな、という提言だけをもって全否定したくなるのは「文學界」十月号の特集〈映画の現在〉だ。若手作家を紹介するという趣旨(ウチ一名、ロートルが隙間を見計らって場違いなことを好き放題書いているが)のようだが「さっき見た映画」について誰一人なにも語ろうとしないのはどういうわけだ。この「体温低い感じ」が「いま」なのだろうか。十年古いと思うが、それにしても、だとしたら「映画」に「現在」もへったくれもない。そんなもの、さっさと消えて亡くなればいいのだ。……と編集部も考えていたのだろうか、インタビュアーたちも考えていたのだろうか。この水槽のなかで観察されている自足しきった珍獣たちはいかにもサンプル然としていて、むしろ哀れだ。
それにしても不思議なのだが、佐々木敦にしても大寺真輔にしてもどうして黒沢清より上の世代に出向いていかないのだろう。まさか二人とも本気でここに「現在」があるなどと思っているわけではなかろう。たとえばいまなら白土三平に手を染めた崔洋一監督にインタビューした方が断然歴史的意義を持つと思うが。その仕事をかれらにやってもらわなければ困るのだ。しかしまあ、ここでもまた媒体の不在を憂うばかり、ということか。それとも機を見て敏な「ユリイカ」あたりがやっているのだろうか。だといいのだが。「映芸」で世代間闘争抜きに馴れ合ったおしゃべりで流されても、また閉口する。

なんていううんざりなことを考えた日にいつもの鼎談の末席を濁し、ようやく(すくなくとも精神的には)元気を取り戻した、げんきんな私。
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2009/9/3

腕相撲、そして風に乗る綿  映画

二日連続で映画美学校へ行き、ホン・サンス『アバンチュールはパリで』を見る。この監督のことは前作『浜辺の女』からしか知らないが、実にアホらしく、かつのんびりしていていい。現代韓国映画ではいまのところ最も好みだ。このひとを紹介するのにしばしばロメールが引き合いに出されるが、あまりそんな気がしない。それを言うならトリュフォーに近いのではないか。あるいは、撮影があまりにいいかげん(褒め言葉)なのでそうは見えないものの、ブレッソン。なにしろこのひと、二の腕のひとだ。今回も妻が出てきたとき、なるほどこの二の腕だな、と笑った。そうして手が二の腕を掴み、手と手が結び合い、やがては腕相撲が始まる。さらにそれは南北腕相撲となって爆笑を誘う。いやあ、実にアホらしい。不意に小鳥が出てきたりなんかするのだが、かといっていささかも奇蹟など信じていない。奇蹟といっても侯孝賢のような奇蹟のことだ。その辺に、ジャームッシュ以降の同時代性を強く感じる。そういえば二日連続で太極拳の練習を見た。ブルース・リー世代の象徴だろうか。ただ、これは昨年の作品だからややずれがあるのかもしれないが、日付やナレーションはやはりすでに邪魔だろう。日付画面の代わりに夜景など差し挟んでおけば事足りるはずだ。
(ちなみに、ひとを国籍で判断したり感性のいささかお気の毒な方々のためにあえて申し添えておくと、私はホン・サンスを「韓国映画は嫌いだけどヨーロッパで評価されているから」という理由で顕揚しているのではない。信頼のおける友人、ドミニク・パイーニとジャン・マルク・ラランヌに、面白いからおまえ見ろ、と薦められ、たまたま都合が合ったので見て、かれらの意見に同意しつつ感銘を受けたからだ。まあそういうことであれこれ毒を吐くやつはそう言われてもなんのことやらわからんだろうが)

試写室を出て、原宿へ行き、機材撤収。

一昨夜、廣瀬純から送られた山中論(蓮實先生の論考を大胆に読み変えるところから出発する傑作論文)を読んで大いに刺激を受け、おれもそろそろなにか用意しなきゃ、と二十年間読まずに封印してきた山中監督作品のシナリオをついに読みはじめた。手始めに『抱寝の長脇差』と『口笛を吹く武士』。あっと驚く忠臣蔵物の『口笛を吹く武士』には、風来坊の主人公がどちらへ行こうと、手にした綿をふっと吹いて「風」に乗せる描写がある。え、これ、ひょっとして『用心棒』のあれか、黒澤、そのつもりだったのか、と思わされると、そこから読み進めれば進めるほどどう考えてもこの話が『赤い収穫』に思われてくるので、調べてみると『赤い収穫』発表が1929年、『口笛を吹く武士』が32年。おそるべき同時代性だ。あるいはこんな小説がアメリカで出版されて、と話題だけパッと掴んで使ったのかもしれない。しかし、綿を風に乗せるなんて描写はハメットにはないだろう(もしあっても翻訳されてないのだからそこまでは引っ張れないだろう)から明らかに山中の創作と思われるし、クライマックスなんてほとんど『ペイルライダー』だ。当時どういう評価だったか気になるので、今日はそこらへんを洗ってみよう。

山中へ行ってしまったので、小谷野敦著『里見トン伝「馬鹿正直の人生」』は中断。しかしやたら面白いので、山中が終わったら再開するつもり。
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2009/9/1

NO LIMITS NO CONTROL  映画

この数週間の活動で徹底的に疲れてしまい、しかもなかなか恢復せず、これは年齢だろうか、と不安になってくる。昼になっても眠くて仕方ないので、諦めかけたけれど、とにかく行くだけ行ってみようと山手線内で朦朧としながら、映画美学校へ。
着くとすでに満員で、通路に座布団で座る。
だが始まってしまえば、一瞬たりとも見逃しようもない画面連鎖にしびれっぱなしで、あの手首を捻って拳銃を奪い取るつなぎなんてもう、みたいなジャームッシュの最高傑作と呼んで差し支えなかろう『リミッツ・オブ・コントロール』なのだった。
とにかくイザック・ド・バンコレの存在だ。いささかもぶれることなく、圧倒的に存在している。あまりに圧倒的過ぎて、矛盾した言い方かもしれないがほとんどその存在を信じることができない。そのことも含めて、本作は『コロッサル・ユース』や『オリヴィアのいた街で』と多くの共通点を持つ。これはスペインで撮影されている。ニコラス・レイが『キング・オブ・キングス』と『北京の55日』を作って死にかけた場所だ。その同じ場所でジャームッシュは強力極まりない映画を作った。まるで復讐するように。作中の台詞には、復讐など意味がない、とあったけれど。
音楽が驚いたことに日本のバンドBorisの楽曲で、それが自分たちが土日に演奏したやり方にとても似ていて、また驚いた。
帰宅して、相変わらず疲れていて、寝たり起きたりしていたが、でもやる気を失いかけていた映画への意志がジャームッシュのおかげですこし復活していることに気づいた。
いやしかしそれもまあいつまで続くことやら、だが。
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