2009/2/23

底抜け掃除屋稼業も楽じゃない  映画

ふらりと銀座まで出て、レニー・ハーリン『クリーナー』を。
ひととおり前振りを経てさてこれから物語が動くな、という10分あたりでふとラストカットを頭に思い浮べて、正解した。こういう経験をさせてくれる映画も最近珍しい。尺も九十分ジャスト、実に清々しい。題名からギャング映画だとばかり思っていたら本当に掃除屋さんの話だったので驚かされた。しかも殺人現場の掃除専門だから、どこかの国のヒット映画と非常に近しいのだが、この掃除屋の聡明な娘は父親の職業を「けがらわしい」などとは決して言わないので、上品だ。それだけタフな世界に生きているから当然だ。パパは誰かがやらなければならないことをやっているだけなのだから。その聡明さはあまりに悲しい聡明さだけれど。
サミュエル・L・ジャクソンはきちんと暮しながら例によっていつ335を持ち出して弾いてもおかしくないような態だし、エド・ハリスがまたもや(こないだはDVDの『ゴーン・ベイビー・ゴーン』だったか)神経衰弱ぎりぎりのおっさんをわかりやすく演じていて、満足。ルイス・ガスマンやロバート・フォスターにもぐっと来た。
ただ一点、またしてもエヴァ・メンデスだ。いや、これまた彼女のせいではないし、ハーリンのせいでさえないかもしれないのだが、なぜ彼女が物語上ファム・ファタルでないのか、という問題だ。これは要するに映画におけるPC問題なのではないか。つまり社会的弱者である女性を悪として描くのはよろしからんことだという暗黙の了解が世界的に浸透している、そんなような気がしてならない。結果、『過去を逃れて』ばりの悪女ものなどもっての他、ということになる。その点、『恐怖のメロディ』を監督デビュー作に持つイーストウッド先生は『チェンジリング』でも精神病棟にものすごい顔の女性看護士をずらり並べたりしてこの問題をあっさり解消し、やはり偉大だと思わされたのだが、どうなのだろう、いまやファム・ファタルというのは不可能なんだろうか。女の悪役、いつ以来見ていないか、ちょっと考えてみたい。
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2009/2/21

前略、イーストウッド先生  映画

先日予告致しましたとおり、初日に『チェンジリング』拝見いたしました。最近こそ怠惰なことに試写での拝見が多くなったものの、かつては先生の作品を初日に見ることは敬虔な宗教者が教会に礼拝に行くのと同様の儀式性を帯びていましたから、今回もこんな晴れやかな気持ちでシネコンに入ったのは初めて、というほど清々しい気分に浸ることができました。そうしてもちろん、心の底から感服いたしました。すでにこの作品から先生は完璧なる大天使へと移行されておられたのですね! 開巻十分ほどでしたか、急な仕事が出来たけど暗くなる前に帰るから、と出かけるアンジーを窓辺からみつめるウォルター坊やを捉えたトラックバックこそは先生の刻印に他ならず、あの瞬間にああもうこれでこの母子ははなればなれになってしまう、と気づき、さらに帰宅時、赤い路面電車を切羽詰った勢いで追いかけながら逃してしまったアンジーの悔しそうな表情から再びそれと同じショットが、今度はトラックアップで最終的にアンジーの後姿を一瞬捉えて、取り返しのつかない事態がはじまった、と感じさせるのもまた先生の刻印であるのは一目瞭然なのに、にもかかわらずそのような刻印をまるで初めて見る出来事として震えるような胸騒ぎとともにわれわれに届けてくださる。これこそが大天使たるゆえんでしょう。
そこから先のことはもうなにも書く必要はございません。ああ、あのアンジーを助ける弁護士の俳優、どことなくゲーリー・クーパーに面影の似た(あるいはジョゼフ・ロージーでしょうか)長身の紳士、おそらく舞台俳優さんでしょうが、あのように優れた未知の方を知ることの出来た喜びを特筆させてください。そうしてしばしば窓辺に立ち、柔らかな光を浴び続けながらありとあらゆる微細な表情を手中にしたアンジーの、俳優としての大収穫をも同時に祝福させてください。これほど週明けが待ち遠しいこともありません。誇り高きローラースケートの足元を見せたアンジーがあの赤い唇とともに栄冠に輝くことを心から祈ります。
ところで先生、もしや先生はかつてパリで先生のことを「ミスター・ホンキートンクマン」と呼んだ、同い齢の映画監督のことを気にかけておられるのでしょうか? かれの新作が届かないことを? それであんなに感動的な、赤い路面電車をお使いになったのでしょうか? そんなことは偶然でしょうが、もしそうだとしたらあのひとも幸せなひとです。実は私のほうこそあのひとの新作を心待ちにしているのですが、残念ながらニュースはありませんね。あのひとは先生とちがって最後まで「宇宙人」として生きることでしょうし。
それとこれは余談ながら、マルコビッチ氏に「アイム・ゴーイング・ホーム」とアンジーに言わせるあの演出には、ついついポルトガルの大天使のことを思い出してしまいましたよ。もちろんこれまた偶然のことでしょうけど。
さて次なる大天使のお仕事は、すべてを「仕方ない」の一言で済ませてしまう厄介な黒人俳優を迎えた偉人伝ですね。心から期待しております。そのときまでしばしのお別れです。
くれぐれもご自愛ください。
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2009/2/20

冬の光の安寧のあとで  映画

『ベンジャミン・バトン』が描いているのはアメリカ二十世紀史のようでいて、実はそうではないように思われた。ここにあるのは、マルカム・カウリーが書く、二つの世界大戦の間で「移境と帰還」を繰り返したごく限られた世代に属する一群の人々の精神だろう。ベンジャミンは二人の身近な存在に自分が求めたわけではないある光景を見せる。朝の光の昇る別荘地の海がそれだ。ひとりは自分を棄てた父。死を目前にしたこの父がもともとその朝の光をベンジャミンに教えた。さらにもうひとりは自分の心から愛する、しかしすべてを失った女性。のちに父が自分を最初に見たときに覚えた恐怖を追体験することにベンジャミンは怯えるが、それが取り越し苦労だったとしてももはや自分のための朝の光を求めることはない。かれらはすべてを求め、絶望し、やがて小さな安寧を手に入れてそれでよしとするにしても決して己を憐れむことをしなかった。そしてその後の時間を、あの二つの戦争に挟まれた時代の熱狂をただゆっくりと摩滅させることに費やした。結局、あのチェルシー号の激しい戦闘が代弁する、といってもまさに言葉を失うしかないような過酷さのあとでできることはそれしかなかったのだ。
エリック・ロスがこの脚本の初稿を書いたのは九十年代初頭だという。湾岸戦争以前である。だからカトリーナ台風の上陸を目前とする現在時制は今回の映画化にあたって新たに書き足したものだろう。そのとき、ロスはベンジャミンの日記の朗読を棄てようとしなかっただろうか。現在のロスは『アリ』や『グッド・シェパード』のように年号もナレーションもなしで時代を描く方法を発見しているのだから、かれにとって『ベンジャミン』のこの手法はいかにも古いものにちがいない。だが、ナレーションの廃棄を思いとどまる理由があるとしたらそれをケイト・ブランシェット演じる老婆が子供の頃おばあちゃんに読んでもらった「午後五時のカンガルー」の絵本のように、今度はベンジャミンの物語を自分の娘に朗読してもらうことがこの作品に最も相応しい方法だという結論に至ったからではないか。摩滅しきった薄れゆく意識のなかで冬の光の安寧はそのような形でしか取り戻しようも伝えようもなかったのだろう。いまのアメリカにおいて「ロスト・ジェネレーション」を語る唯一の方法だという説得力を感じた。
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2009/2/19

よき羊飼い  映画

あのどうしようもなくくだらんコールドプレイがグラミー3冠の背後で、最強ギタリストが逮捕されたけんちゅうてその作品を出荷停止にする会社がどこにあるんや、作家と作品は別物やんけ、ほなストーンズもビートルズもディランも売るな、あ、それはちがう会社か、今回はFテレビ系列やな、このアホさ加減は……

と、この国「独自」の文化程度の低さを憂う今日、エリック・ロス脚本作『グッド・シェパード』をDVDで。167分かかっても仕方がない。デニーロ監督作ということでなめていたのが間違い。へたすると全篇、シナリオにカット割書いてあったのではないか、というくらい繊細な手捌き。アンジーが愛されない妻ってそんなバカな、というひょっとして空前絶後のミスキャスティングか……でも1stFUCで妊娠、というのはアンジー以外説得力ないかも……を除けば、文句なしの傑作。それも「諜報員」が真に愛せたのは「聾唖者」という差別すれすれの設定があるゆえだろう。ともあれ、まずまちがいなく元総理も総理も財務相も警視庁もマスコミもみんな揃って国民に軽蔑されてしかるべきこの国では決して成立しないだろう、おそるべき(そしてもちろん吐き気のする)CIAの世界を無二の悲惨として描いた映画。映画を目指す者はDVD見ながらシナリオ起こしとかカット表作成とかしてこの手捌きを勉強なさい。文化程度の低い会社ならびに国家に投石する(相当肩強ないと届かへんで。鍛えな)のはそれからでも遅くはない。
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2009/2/17

ちぇっ!まあいいか。  映画

池袋シネマロサで『チェ28歳の革命』を。まだるっこしい映画だ。寄りすぎてすぐにはなにが映っているのかわからないモノクロ画面そのままに。そのくせ日付だの朗読だのがいちいち言い訳のように挿入される(やっぱりこういう方法はもう古い)から、作品がどっちを向いているのか、チェ曰くの「革命に必要な狂気」なのだかそれとも「歴史に忠実な再構築」なのか、どうも判然としないせいでソダーバーグのモチベーションがもうひとつ腑に落ちないのだ。フライシャー版に漂っていた濃厚な死の匂いもここにはない。ベネ・トロは、もうこれはオマー・シャリフ以上にチェに瓜二つで文句はないが、ただし受けの芝居なのであって主役としてはどうなのか。だから途中参加の女子大生がいかにも意味ありげに輝いている。屋上からの狙撃による着弾はいいしバズーカ発射→着弾のキャメラ位置の正しさを喜ぶこともできるし、列車転覆の薄味な描写も気に入った。しかしいざ人間に向かうと途端に甘くなる。フライシャー版にはいきなり密告者を拳銃で処刑する最高の瞬間があったが、ジャングル内での脱走兵処刑シーンのどうにも気弱な描写はまったくいただけなかった。パート2でソダーバーグは革命後粛々と行われる処刑の残虐さを克明に描けるのだろうか。
といった不安を抱きながら、渋谷へ移動。期待の『ベンジャミン・バトン』を見ようとするが満員御礼門前払い。ロサもよく入っていたし、平日はがらがらだが週末ともなればみんな映画見ているのだ。仕方ないので急遽所用を済ませてから痛飲。二件め以降の記憶なし。
でもどこかで失くしたと諦めていたキャップが翌日寝床に忽然と現れ、それはそれで呆れた。
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2009/2/13

拝啓、イーストウッド先生  映画

昨日、先生の最新作『グラン・トリノ』を拝見いたしました。あと何度、この作品を見直すことになるでしょう。なにしろ相変わらずの先生の御雄姿を拝見できるだけで多忙な俗世から解放され、至福の時を過ごすことができますから。ワンカットで見せるべきシーンはさらりとワンカット、バックショットの構図/逆構図でも丁寧に前進、とあくまで落ち着き払った演出の手捌きに今回もとことん魅了されました。
しかしながら、この作品こそ先生の数ある傑作のなかで最も優れており、かつ最も好きである、と私が告白するまでしばらく……そう、あと三十年ばかりご猶予を下さい。
まだもう少し、私は『許されざる者』の側にいたいのです。
先生が椅子から立ち上がる際の、あの老人特有の手が少し前に出た身体所作、それがつい先日デトロイトによく似た北九州という町にある親の家を訪れたときに見た父(先生と同い齢でございます)の仕種にそっくりで、それから以降、涙が止まらなくなってしまいました。また雨が降るたびにこれも一々、うぅ、と嗚咽してしまうのでした。
こんなことではいけない、しっかりしなくては、と懸命に堪えようとしたのですが無理でした。そんな堪え性のない自分への戒めの念も含めて、私はいましばらくこの偉大なる天使の領域ではなく『許されざる者』の堕天使の領域にとどまりたく思う次第です。
まったく未熟者とは重々承知しておりますが、実際私はまだ先生が『アイガー・サンクション』をお作りになったときの年齢でしかありませんので、どうかそこを情状酌量いただけたらと存じます。
それではまた。
来週末には、未見の前作『チェンジリング』も拝見しますので、そのあと再度お手紙いたします。
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2009/2/12

あえてベスト5  映画

そもそも年間ベスト行事は虫が好かない上に『トロピック・サンダー』を未見のまま公表するのはまことに不本意だが、どこでもこの一本を見つけることができないので、疑問を投げかける意味を含めて紀元節を過ぎたここらで。

1、『ダージリン急行』
2、『ジャン・ブリカールの帰還』
3、『トウキョウソナタ』
4、『メルド』
5、『誰でもかまわない』

順位はきわめて厳密なもの。見つけることのできないこの一本とは、もちろん「1」のことである。近年あれほどスリリングなカツゲキ的運動に身を委ねたことはなかったが、みんなあんまりそんなこと重要じゃなかったのか。それともあのような運動の感受こそが映画を見る根拠なのは俺だけなのか。人物のまったく出てこない「2」が、画面上の存在たちが心から素晴らしい(たとえば「5」のチンピラは昨年見たどんなギャング映画の男どもよりセクシーだった)と思えた「3」以下の作品より上位にあるのもまた(視線の)カツゲキ的運動への固執のためである。本当は「3」にはスコリモフスキが入るはず(いや、もしかすると『トロピック・サンダー』かもしれない)だが、来年以降正式公開時にベストワンに据えるためにあえて除外した。

昨夜は茂木正男を送る会に出席するため、高崎へ。そこで知った今年の高崎映画祭の授賞結果はひどかった。もし茂木さんがあんなこと(どんなことかは発表を見ればわかる)したら私は食ってかかっただろう。それに、洋画ベストセレクションに『ダージリン』が入ってないことにも。
8

2009/1/28

政治と経済、脳と身体(復習篇)  映画

寒さのせいだろうか、左脚が痛くてまともに歩けない。加圧のコーチに整形外科を紹介してもらった。
月曜は加圧後、銀行作業など行って、ヴェーラへ。『藍より青く』と『高校さすらい派』。
両方ともかつて見ていたことを思い出した。が、それとはべつにどうも釈然とせず、帰ってから『こことよそ』と『うまくいってる?』をDVDで見て、ようやく落着いた。なんというかまあ、そういうことだ。ピント外からピント内へ入ってくる被写体を撮るとき、やはり大写しでないとしっくり来ない。
そんなわけで火曜は午前中爆睡してしまい、午後にあれこれと家の用事を済ませてから某試写に出かけたが、満員で門前払い。経済的な逼迫が、往復の時間はいいから運賃八百四十円だけ返してくれ、と俺に心で呟かせる。仕方がないから仕事場で『映画史(2)』を最後まで読みきる。なんだ、この既視感は。先日、DAと電話で話しているときに出たアルトーの話とそれに続く身体の話はえらく面白かった。
夜、忘れていた原稿の催促があり、慌てて書く。脳みそ疲れついでにあれこれやっつけた挙句、いろんな理由で『ファイト・クラブ』を見直したのだが、やっぱり「で?」という初回と同じ感想しか浮ばなかった。結局中途半端なのだ、「身体の映画」としても「脳の映画」としても。あ、乗ってる飛行機がぶっ壊れる妄想だけはよかった。
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2009/1/22

ないものねだりをやめて、ゲームの不規則に興じること。  映画

まだ一月だというのにもう疲れはじめている。仕事はいつまでも終わらないどころか、雪ダルマ式に増え続ける。投げ出す気になることはないが、他のことはなにもできず、一日でいいから休みたい、などと思うほど。

それでもなんとかヴェーラに足を運び、見逃していた『喜劇・特出しヒモ天国』を見る。冒頭の殿山泰司の説教から強引に引きずり込まれ、さらにこの芹明香は凄すぎて、なにか「いい芝居」をしようとしているように見える池玲子が霞んでしまう。というかこの池玲子の使い方、間違っているような気さえする。山城・川谷は当然のごとく、藤原釜足も凄ければ中島葵も凄いし、芹が川流れしかけると火事で亡くなるという呼吸もなんだか大変なことになっている。その葬式でまた芹の「黒の舟歌」とストリップが……。警察を馘になった川谷の暴れる屋台に工藤・深作・名和などなど東映の錚々たるお歴々がカメオ出演していて、森崎監督がいかに歓迎されていたかよくわかった。それにしても、これだけ堂々たる群像劇が78分という事実にはひたすら呆然とするばかり。ちなみに、比較するわけではなくただ覚書的に書いておくと、これまた呆然とするしかない神代『特出し21人』77分はこの前年である。

まあそうしたプログラムピクチャーの栄光をないものねだりと諦めると、エリック・ロス脚本の『ラッキー・ユー』(ヴェーラへ行く途中、HMVで買ったのだ)はやはりなかなかの秀作だと思われた。スティーヴ・ザイリアンが『ボビー・フィッシャーを探して』で師弟関係を軸にしてチェスというゲームを描いたように、ロスとカーティス・ハンソンはポーカーを父子=師弟関係の相克を軸として描く。決してパッとしないむしろ地味な印象の映画だが、エリック・バナとロバート・デュヴァルがテーブルを挟んでカードを取り出すとその身のこなしだけでピリッとくるものがある。ここで描かれるゲーム/ギャンブルはポーカーだけでなく、ありとあらゆることがギャンブル化されうるのだが、それはフォレスト・ガンプの行動決定と同じだ。気まぐれなようでいてすべてはスキルに裏打ちされており、運命のようでいて偶然に左右される。『ミュンヘン』の素人暗殺集団が見舞われる危機的状況も同じだ。そんな「呪われた自由の国・アメリカの物語」ばかり書いているひと。どこか『荒馬と女』を想起させるのも、ラスヴェガスというよりポーカーのテーブルがロデオのアメリカによく似ているからだろう。予定調和の男フィンチャーによる『ベンジャミン・バトン』の出来が俄然楽しみになってきた。
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2009/1/19

エリック・ロスについての覚書  映画

とうとう金が底をつき、事務所に詰めて仕事をしながらギリギリの生活を送っている。まあ、今週中には何とかなるはずなのだが。
そんななか、エリック・ロスという脚本家について考えた。フィンチャーの新作『ベンジャミン・バトン−数奇な人生−』のことを知りたくてネット検索し、つとその名に行き当たったのだが、驚くべきことに『フォレスト・ガンプ』あたりから始まり、『アポロ13』『ポストマン』『インサイダー』『アリ』『ミュンヘン』『グッド・シェパード』と、ここ数年特に気にしていた映画ばかりが並んでおり、デヴィッド・コープや一時期のブライアン・ヘルゲランド並みに(傑作『ポストマン』は二人の共同脚本だ)作家性の濃い脚本家である。いままで気づかなかった自分の勉強不足を恥じる。ひとつ前はカーティス・ハンソンの『ラッキー・ユー』という作品だが、これはポーカーの話らしい。一種、運命論と複雑系が咀嚼され、絡み合って成り立っているような構成で、一見緻密に見えないようでいて実に緻密な「分散的シチュエーション」がこのひとにはある。一方、ひととひととは「ことさらに弱い結びつき」で関係しており、多かれ少なかれひとびとは「さすらい」、「クリシェ」が「意識化」されており、ときに「陰謀」が「告発」される……というドゥルーズが現代映画の条件として挙げた五項目をすべて含んでいる。未見の『ラッキー・ユー』が見たい。でもカードが止まっていて、アマゾンで買えない。……HMVへ行くか。
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