2009/1/9

ホントっぽさより嘘から出たまことちゃん  映画

疲れた。五日間酒を呑まなかったのはまあ上出来として、そうすると必要以上に仕事をしてしまうので体がネを上げてしまう。毎朝飯を作って夫婦で食い、食器を洗い、仕事場に出かけた。そこから加圧に行ったり、映画に行ったり。で、だいたい十二時まで仕事場であれこれやってから家に帰る。そういう生活だ。これが意外とリズミカルだ。宇宙の原理に則っているというか。
……まあ、大げさに言ってみただけだが。

昨日は銀行で外国送金とかしたあと、劇場初の『アンダーカヴァー』に行ってきた。面白くないわけがないのだが、なにかどっかで乗り切れない。これは同じロシアン・マフィアの世界を扱った『イースタン・プロミス』でも感じたことだが、どうしてナオミ・ワッツもエヴァ・メンデスも殺されないのか。いや、殺されるところが見たいわけではなく、どうも「本当っぽさ」が片手落ちの気がしてしまうのだ。それは雨中のカーチェイス&銃撃戦でも感じられ、というのもスクリーンで見るとはっきり感じるのだが、あの距離でデュヴァルがライフルで撃たれているのにかなり先まで走った後に車を降りてようやく死ぬというのはリアリティを欠いている気がしてしまう。またマーク・ウォルバーグが顔面を撃たれて死なないというのも、事実そういうケースがあるのは知っているが、にしてもなんだか必要以上にやばい存在として描かれているロシアン・マフィアがあの距離で撃ち損じ、しかも車に火炎瓶まで投げこんでいるのに、と見ていて思うのが人情というものだろう。殊に『復讐は俺に任せろ』好きなひとなら、車は爆発するのが当然だし、その場にいる人間は死んで当たり前、というのが映画の鉄則だと信じてきたはずだ。だがデュヴァルもウォルバーグも簡単には死なないし、エヴァ・メンデスも殺されたという話は出てこない。あまりにいかにもなプエルトリカンのメンデスだが、ああいう段階で出て行くのは、いかんせん説得力が希薄。その辺は、大して好きでもない『グッド・フェローズ』のほうが少なくとも説得される。もちろん、あそこで出て行ったメンデスが捕らえられたらたんに射殺だけでは済まないだろう。この世のありとあらゆる汚辱を受けた上で殺されるはずだ。そんなもの、誰も見たくはない。それはそのとおりだ。であれば、あんなところで出て行かせてはいけないのではないか。作り手の都合で動いている、と批判されても反論できないような感じなのだ。自分と世界の対立においては世界に加担せよ、というか。何事も匙加減ひとつ、というか。あと、あの葦野原に火をつけて燻りだす戦法だが、どんどん入っていくのはいいが煙が目にしみたり咳込んだりしないのか、みたいな重箱の隅的に気になってしまいもする。あるいは、オヤジの拳銃を、もう必要ない、なんつってオヤジのかつての同僚に渡しておいて、警察学校卒業で幕、というのも腑に落ちない。どちらかをやめるべきではなかったか。……などなど、小言親父かお前は、と自分につっこみたくなるほどグレイ君(ホアキンをグリーンていう姓に設定するあたりからして、自意識過剰気味)には期待かけてるんで、あえて。
帰ってから、まつりの続き。昨夜は『最後の人』を。ひたすらカール・フロイント、天才!と舌鼓打ちまくり。いまさら言うまでもなく大傑作である。あれらの移動ショットをすべてファインダー覗かずに撮ったなんて信じられない。自分がトリック撮影(見破り)狂であることを思い知りもした。いやあ、トリック撮影ってホントにいいもんですね〜。全部大嘘なのにめちゃくちゃ説得力あるんだよな、これが。でもそれが映画ってもんですよ。姪の姑がお弁当作って仕事場に来るときはピーカンなのに、出て行くときロングの俯瞰に入るせいか路面が濡れてるのも、いいんだよ。そのあと側溝に水が溜まってて路面は乾いてるのも、いいんだよ。そう、あれが説得力というものだ。で、あれだけ目いっぱい語って90分以下。そこへ行くと『アンダーカヴァー』、さすがにちょっと長過ぎる。
なお表題は、言うまでもなくエミール・ヤニングスの造型が某赤ボーダーの漫画家先生に多大なる影響を与えていると毎度ながら確信した、の意。

本日は事務所で打合せして、二本めのシノプシスを書き始めたので、まつりはお休み。近所にある行きつけのイタ飯屋が二月いっぱいで閉店と知り、ショックを受けた。
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2009/1/7

ムルナウまつり二本立て  映画

一日お休みした翌日は二本立て。『ノスフェラトゥ』と『ファントム』。
『ノスフェラトゥ』はやはり海辺の墓地(なんで墓地?)で療養中の若妻を従妹夫婦が訪れるところなど非常に素晴らしいのだが、今回は不動産屋兼ノスフェラトゥの自称弟子の御茶ノ水博士を追っかけて群衆が案山子を引っこ抜いて暴徒と化す、あのシーンにびっくりした。ロングのフィックスとはとても思えないスリリングな躍動感。ペストが来たからみんな家の窓を閉ざせ、と公布する太鼓叩きの孤独な行進もやっぱりいいし、同じ通りを黒い棺が行進していくのもいい。あと今回のリストア版ではっきりわかったのが、森をノスフェラトゥの御する馬車が走るところのネガ反転。あれもいいなあ。もちろん好き嫌いでは言えないけどドライヤーの『吸血鬼』のほうがちょっとだけ好きなんだけど、本作も大傑作であることはまちがいない。夜明け(という設定だよね)の街をひとり、棺を抱いて歩く場面なんてホントに心洗われた。

一方の『ファントム』はこれが初見なのだが、よくもまあこんなにくだらない話をムルナウがつくったもんだ、と呆れ果てた。これ、要するに馬にはねられてアホになった男が一族郎党を不幸のどん底に落とす、というとんでもない話でしょう。あるいは、本ばかり読んでいるとこんなアホになる、という解釈も可能。どアホ文学青年の逆ギレ人生。お春坊(テア・フォンさんのこと)、もうちょっと何とかならなかったのか。まあ、馬にはねられるところじたいは悪くないんだけど、そこから怒涛のアホ展開が……。すんごいへったくそな雨降らしとか出てきてさらにがっかりするし。
そうそう、ドキュメンタリーに出てきた処女作の『青い少年』のスチルを見るとすでにいい雨のシーンがあったみたいだ。それも『最後の人』同様ナイターだったけど。
それにしても『ファントム』、建物がぐにゃあとか曲がったりしなかったら、まったくの愚作としか思わなかっただろう。撮影後半、監督病欠みたいなことライナーに書いてあったけど、どうなんだろうか。なぜか夜中に郵便屋が来たりしてピンチ、みたいな終盤のドタバタでようやく息を吹き返したように盛り上がるのが救い。しかしこの男に同情の余地など皆無。生き恥を晒し続けるがいい、としか思えない。それほど嫌いになれるってことは、そういう意味でよくできていると言わなければならないのかもしれないけど。映画史上、最も心洗われない一本。

そうこうしている間に、シノプシス(まだ叩き台)一本脱稿。
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2009/1/6

ようやっと、の二本。  映画

といっても片や数十年、片や数ヶ月という違いがあるのだが。

まずはヴェーラ。藤田敏八『横須賀男狩り 少女・悦楽』は大学時代に見たくて、しかし何度か見逃してしまううちに諦めてしまった因縁の作品。これと『実録不良少女 姦』が両方77年作品で、ちょうど秋吉久美子黄金期が終わり、なんとなく小休止気味のパキさんが森下愛子で復活するまでの過渡期にあたる。しかも今年見ることになるとは偶然ながら、長篇二年休んで同い年。四十五歳。ロマンポルノとニューアクション(混血の主題も)の接続を再度試みたと見えるところもあるが、なかなかピタッとはまってくれなくてやきもきしているような全体の印象。高橋明、異常に場違いだし。ラストはなんとか夕陽をバックに爆破までよくぞこぎつけた、といったところか。ロックバーの様子とか見ていると、パキさんどれくらい洋楽知ってたのかとつい気になる。音楽の「荒野忠」って誰だろう。この名前でにっかつ何本かやってるけど、誰かの偽名ではないか。矢崎滋が洋ピン見に行った先でかかる映画内映画でムーグかなんかがビコビコ鳴ってるのが面白かった。

その後、夜の更けるのを飯食ったりしながら待って、去年内に見逃したロメロ『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』を。俺はあらためてゾンビが怖いということをひしひしと実感。悲鳴こそ上げなかったけどいちいちビクビクしていたし、まさかと思いながら背後を気にしている俺は映画監督ですがなにか? 怖いもんはしかたない。どこがいちばん怖かったって、最初の卒業制作の撮影で木の陰からミイラが出てくるところがいちばんビクッ!てした。でも今回いちばんおいしいのはアーチェリーが得意で戦争にも行った映画学校ののんだくれ講師でしょうね。ヒロインの弟を壁に固定したり、飾り物の剣で元生徒の頭叩き割ったりなど、大活躍。最終的に髭剃ってるし。ところでかれらはあれをどこでどうやって編集したのか。あの監視室に編集設備があったのか。バッテリーはやるけどテープチェンジはしないのか、とかね、まあそういう細かいことはどうでもいいけど。きっとテキサスのねえちゃんが仲間(元州兵の黒人チームかも)を連れて助けに来たのだろう。携帯忘れてったし。というわけで、つづく、のか!?www……期待してます。それにしても黄色いSWATの突入映像、唐突だったなあ。あそこもめちゃ良かったけど。至近距離で逆側にも味方がいて、という状況での狙撃は、ためらい含んでいて盛り上がる。ああ、面白かった!と、とりあえず言っておこう。(いや、最後のゾンビシューティングで破壊されたゾンビの涙なんて『ディパーテッド』のラストの鼠並みに必要ないよ、と思い、若干マイナス点……)
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2008/12/14

二十三年目の『コクーン』  映画

夕方、テレビを点けたらロン・ハワードの『コクーン』をやっていて、延々と泣く。
公開からもう二十三年も経って、当時はスティーヴ・グッテンバーグどころかウィルフォード・ブリムリーの孫の男の子(あの投げ釣りの場面でもう嗚咽ばりばり)のほうに近かったというのに、いま見ると感情的には老人たちのほうに近いことに気づく。というか、当時は自分の親も元気だったがいまやいつ死んでもおかしくない状態にあってこれを見ると、真剣に身につまされる。父が母の死をあのように迎える、と想像しただけでたまらない。二人の傍にいたいとは思うが、仕事は仕事で重要なので簡単には東京を離れられない。もっと自由の利く経済状態にあればよかった、とつくづく考えるが、後悔してもしかたない。時は本当に経ったのだ。
それにしても『コクーン』のように何十年も経ってあらためて身に沁みる映画を作ることは素晴らしいことだ、とつくづく思う。あの頃、いろんな人たちと交わした会話が思い出されながら、自分が当時考えていたことの「若さ」に気づく。いったいなにを見ていたのだろうか、と。
ロン・ハワード万歳!
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2008/12/13

満月のはらわた  映画

赤坂で某センセの豪奢な忘年会に顔を出した後、電車で吉祥寺へ。
篠崎誠・藤井仁子両センセとのトークに遅刻してしまった。しのやんの『殺しのはらわた』は、ほぼ誰も知らないことだけど、私も大学時代にそのタイトルで自主映画を作ろうとしていたのだ。もちろんこんな立派なものになるはずはなかったけれど。しかもこのタイトルはたぶんいろんな自主映画作家がつけようとしただろうし、もしかするとすでにどこかに存在してさえいるかもしれない。いずれにせよ自分が作らなくてよかった。しのやんがこのタイトルのこんな立派な作品をこのタイミングで作るのが正解。その意味でも日本じゅうの自主映画作家、いや映画狂に見ていただきたい作品である。
ご本人に言い忘れたが一個だけ注文をつけさせていただくなら、タイトル後の帰宅した島田さんを迎えて長宗我部さんが台所から出てくるシーンだが、長宗我部さんの寄りはあそこではなく、島田さんが奥の部屋に眠った子供を抱いていくところであるべきではなかったか。もちろん撮影時間の短かったことは百も承知の無理な注文であることはわかっているが、それでも子供を抱いて背後を通過する手前に妻、という構図が見たかった。
……とまあ、他の映画についてのこういう細かいことをトークでも小姑のようにぶつぶつ言っていたっけか。

昨日は満月だったせいかそれとも小津のおかげか、赤坂でも下北沢でも懐かしいひとにどしどし会った。なんか自分の知らないところで世界がいい方向にまわってくれている気になれた一夜だった。
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2008/12/11

戒律「三粒で一度おいしい」の感動  映画

猫を手術に連れて行ったあと、学生時代以来久しぶりに借金というものをしてみた。これも革命のためである。本当は倍借りたかったが、なかなかそうは問屋がおろさないものである。でもなんとかなるだろう。
で、家に帰って仮眠してアテネへ。『ヨーロッパ2005年、10月27日』『アルテミスの膝』『ジャン・ブリカールの道程』という新作三本立て。『ヨーロッパ2005』の反復に「犬にキュー出し」と赤坂大輔は笑っていたが、実にいいタイミングで犬が鳴く。続く『アルテミス』はアクションつなぎのないことがダニエル・ユイレの不在を物語るようで寂寥とする。しかしこの木漏れ日の凄まじさ。まるで露出を絞ったような芝居部分のラストショットについてしばし考える。それに最後の五、六カットのパン実景の最初のひとつは軸補正のための短い移動をしていなかったか、と考えもする。しかし普通の作家だとそんなこと気にもしないのになぜストローブだとそんなことまで気になるのか、自分でも不思議だが、つい気になるのだ。そして最後の『ジャン・ブリカールの道程』はあまりに素晴らしく、いつしか感動はひとつのシステムに対する怒りにまで及んだ。そのシステムとは、Aという有名なひとがBという作品を褒めたとして、そのことをCというひとがBを擁護するために紹介する、そのことはかまわないが、このCがたとえばストローブ=ユイレを敬愛しており、しかしAがストローブ=ユイレのことを知っているかどうかさだかでないとしても、CはBのためにそのことを気にしない、というものだが、果たしてそれはBのためになるのだろうか、というのが私の疑問だ。AもBもCもたぶん間違ってはいない。おかしいのはこのシステムだ。もっとも、私が怒りまで感じるのは、Aがストローブ=ユイレを見に来ないことをべつにおかしなことだと誰も思わないことだ。いや、ホント、俺だってすべての優れた映画を見ているわけでもなく見てない映画のほうが多いに決まってるが、それでも『ジャン・ブリカール』のような映画を見ると、これを見ずに映画についてなにか語るなんて不可能だとかつい思ってしまう。それくらい一瞬一瞬が濃厚な運動に満ちている。リュプチャンスキーのモノクロも素晴らしすぎて、自分もまたいずれモノクロで撮影したいと胸が躍る。そうしてあらゆる音響に逐一覚醒させられる。
で、この三本立てについて思うことは、昔「一粒で二度おいしい」とかいうお菓子の宣伝文句があったけれど、そういう資本主義の甘言にうまうまと乗せられてはならず、ストローブ=ユイレを見る際は「三粒で一度おいしい」というつもりで己を戒めるべきだ。この三本を見て、ストローブ=ユイレのどの作品とも共通する感動を一本分、得ることができる。そういうものでなければならない。

なぜかまったく予定のない呑みで、朝まで優れたエチュードのような映像を見てああだこうだみんなで語り合っていた気もするが、よく憶えていない。おかげで本日の加圧も打合せもとんでもなくぐだぐだだった。
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2008/12/9

革命のためにもう3db(MONO)!  映画

相変わらずぐだぐだでもう酒を呑む気もせず、打合せを終えて家の近所でぱっと飯食ったらさっさとおうちに帰り、もうすぐ個人的に起こる革命に備えるのだが、それまでなにをするかというと、一日にやることの量を決めて、それが終わったら深夜にオペラを聴きながら趣味として一日一ページ英語の小説の翻訳をやるのだ。ずっとやろうと思ってきたことなんだけど、ようやくその日が来た。なんの小説かはヒミツ。終わるまで一年かかる予定。きっと間違いだらけだと思うけど、十数年ぶりにランダムハウスとか開いた。重いの重くないの。
本日はその革命のための諸準備に奔走。へとへとになりつつも、見逃していた『放蕩息子の帰還/辱められた人々』を見にアテネへは行く。冒頭のクレジット(「49年カンヌ映画祭音楽大賞」って書いてあったような気がしたが、どういうことだろう?)からエドガー・ヴァレーズとクレジットの出た音楽がモノラルで、続くクレジットと白画面にがんがん流れている間、ああ、もう3db上げてくれ、と祈らないでいられようか。肝心の本篇のほうもいつもどおり強靭かつリアルなイタリア語と森の小鳥やら風やらが鳴り渡る。これを爆音でやるとどうなることやら。ポン寄りするたびに胸がキュン!と締めつけられるし、最初はまるでアンゲロプロスみたいな話だな、と思っていたら進むに連れてどんどんあの偉大なる『シャイアン』を髣髴とさせてくるし、途中でいちいち手を挙げて発言したがるおじいさんはフランシス・フォードみたい(いつ痰吐くかと気が気でなく)で笑えるしで、盛り上がりまくり、舞い上がりまくり。ホント、マジ超メッサかっちょえーですわ! そいでもって決して忘れられぬラストショット。……嗚呼!
エンドクレジットのピンクの走り書きに思わず、そうだ、とあらためて溜息が洩れました。

見終わって帰宅するまではたしかに物凄く元気だった。で、いまはまたぐだぐだ。
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2008/11/14

友よ!このネタで哭け!  映画

http://eiga.com/buzz/20081114/4
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2008/11/8

さあ!ストローブ=ユイレ週間だ!  映画

いろいろあるときはいろいろあるもんで、筑紫さんも亡くなってしまい、これまでまったく好きではなかった人の死の報道を見ながら、少なくともジャーナリストとしてちゃんとしたひとだった、と思うと泣けて仕方なかった。

とはいえ、それより重要なのは冒頭二十分を見逃していた『エンペドクレスの死』とまるっきり初見の『黒い罪』を、ストローブ=ユイレ特集@アテネフランセで見たことである。冒頭、女二人の会話でいきなり、あ、マーセデス・マッケンブリッジ?と思ったら、内容自体、ほとんど『大砂塵』の翻案よね?と問いたくなる出来。連日の酒のせいか、前半くらくらと黄泉の世界へいざなわれまくるものの、後半次第に盛り上がり、なるほど、そう来ましたか、と、膝を打つ展開に。さらに第二部『黒い罪』は、五〇年代を死者と生者で見せようというさらなる異常な展開に、さすがストローブ=ユイレ!と脱帽でした。坂を誰も転がっていかなかったのはちょっと不満でしたが、さすがにそれをやると下品と言われかねないしね。
これまで見逃していたのはたんに仕事のせいだったが、ここで見ておいて本当によかった。それにしてもいったいどんくらい別の日にテイクを重ねたんだろう。光はほとんど繋がっていない。
デモソンナノカンケーネー♪!
やはりストローブ=ユイレは一本も見逃せない。

てことで、リンクにアテネを貼っときました。参考までに!
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2008/10/31

宗方のノワールな謎  映画

思ったほどは忙しくはならず、書き仕事のほかはたんにDVDを見まくっている。そんなところへ作品社様より吉田広明氏著『B級ノワール論』なる大著をいただいた。著者は私と同世代、いわばこうしていなければ私もまたこのような書物を書いていたかもしれないという意味で他人とは思えないような存在であり、まだ読み始めたばかりだが、内容的にもおそらくほぼ同意見である予感がする。そんなうれしい書物を傍らにして思わず『宗方姉妹』を見てしまう。あの、背後を通る者の足音に(オフだからわからないがおそらく)振り向きもせず、誰だ、と問う刑事かギャングのような山村聡の、あちこちでの飲酒の退廃っぷりは実にB級ノワールだ。それはそうと熊野川の上流にダムを作る仕事に就いた、という山村の死後、上原謙に別れを告げた田中絹代は高峰秀子に「御所を通って帰りましょ」と誘い、そこで「どうして京都の山は紫なんでしょ」とまともに問うでもなく口にする、この南北朝な感じはなんだろう。まるで南朝の滅亡の責任を北朝が引き受けるような。いや、さらに異様なのはなんといっても葬式の読経のさなかでの笠智衆の戸外での散髪だろう。癌に冒された身でまさか出家ではあるまい。ロングショット一発のあれの謎。シナリオにはどう書いてあるのか。手元にある「作品集」には『宗方』は収録されていない。
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