2009/8/8

文壇VSRCサクセション…?  議論

大学時代に読み始めてすぐ、ちょろいがゆえに時間の無駄、と判断し放擲してしまった太宰なんていま腰を据え直して読んでみたらどうか悩んでいると「すばる」の奥泉&いとう漫談が、べつにいんじゃない? と軽く諌めてくれた気になったんで安心して自分に必要な資料を読み漁っていたのだが、ふとまた届いた「文學界」を手にすると磯崎×保坂対談ならびに松本圭二のエッセイに目を通さずにはおられず、ああ同世代のひとらがいるな、と胸を撫で下ろしつつくれぐれも無理をなさらないように、なんてお前に言われたくないと言い返されそうな余計な心配をし、かと思うと今度は「新潮」に安藤礼二の卓抜な論考が載っていて瞠目するのだが、そこでは主として論じるはずの作品を易々と視界の外へ追いやり、かつて行われた折口と中上の切り返しショットがおそるべき記憶力とともに粛々と語られるばかりというその点こそ瞠目の所以であり、さらにはそこで黒幕的に登場する御仁の連載で安藤が論じるはずだったそのタイトルを一切出さずに、その作品自体を袈裟がけにばっさり斬り、さらにはそれを論じる(であろうと思われる)論者に前もって無効を宣言する、という超アクロバティックな超絶技巧を前にして溜息が洩れ、ほとんどのひとがこの号のページ構成の意味を読み解くことはないだろう、とへんに確信したつもりになったのだが、それにしても折も折、病気が治ったのかクスリをやめたのか変えたのか、巻頭のひとの変貌ぶり(読まずに字面だけで言うのもどうかと思うけど)はどうしたことか。

ともあれ今年は象徴的と思えば象徴的だねえ。忌野逝去の年にあれが出るのは。
だって『羊』のラストは《ヒッピー》(76)のパクリだったでしょう?
♪次の駅で、ボクは降りてしまった、三十分、泣いた♪
14

2009/5/17

切断は闇の中  議論

昨夜、言いそびれたこと。
1、廣瀬純『シネキャピタル』は『闘争のアサンブレア』の副読本として本年度必読書ナンバー2である。
2、「廣瀬純は何をやりたいのか」の本当の答えは「何もしたくない」である。永遠のサボタージュ、I prefer not to.が流行語大賞に向けて船出した「アサンブレアひとり」こと、代書人バートルビーが理想像である。
3、廣瀬純にいちばん似ているものは「湯浅湾」である。
4、70年代アルゼンチン軍事政権下でペロニスタ左派の「行方不明者」三万人。平成十一年以降日本の「自殺者」年間三万人超。平成十年までは二万四千あたりで推移していた。

ともあれ自民党と民主党のショット/切り返しショット化を推進すること、だな、当面のミッションとしては。しかるのちに三人に一人はブラジルの大統領の名前を言える社会にすること。役に立たない情報しか提出しないマスコミを無視すること。いまや誰もテレビなんか見ちゃいない。こんな大変なときに頭の腐ったようなやつらがつくるものなんて誰が暢気に見ていられるものか。廣瀬的に言えば、切断する気も起きないものに用はない。

また仕事の依頼が舞い込んだ。これもやはり断るべきではない、と思う。
41

2008/3/6

コストコ、平板でつまらないものの方へ  議論

午前中に掌編三篇を仕上げてS編集部へ送ったあと、昨夜は打合せへ行き、そのまま呑んだ。といってもてっぺん回る頃には意識なし。二時には家で寝ていた(はず)。
今朝も早起きして仕事。昼飯を摂ってから横浜・幸浦のコストコへ。ジ・アメリカン・スーパーマーケット。こんなの進出してきたらジャスコなんてひとたまりもないでしょう。スケールがちがうよ。車持ってたら用事なくても毎日だって行くよ。帰りは中華街で飯食って帰れるし(実際そうした)。店内カート押して練り歩くだけでメタボにとってはいい運動になるし。
帰宅後はかつて私にレイジの存在を教えてくれた某氏推薦のザ・マーズ・ヴォルタを延々と。たしかにここまで才気走ったやつらは久しぶりだが、いかんせんついていくこちらの体力が足りなくて青息吐息。このスピードだとすべてが同じに聞える。ライヴ盤はオーバーダブなしとは信じ難い異様さ。仮にそうだとしてもどこが生でどこがハードディスク上の音か、もはや判別不可能である。まあノイズ・アーティストなら当り前にそうだろうし、ハードディスク上の音だってそれじたいは生で出ているわけだが。
などと思っていると、推薦者当人から「どお?」という電話が。長電話など久しぶりだ。やはり話はラテンの血の熱さと不可分の条件としてのとりとめのなさ、区別のつかなさといった辺りから「平板でつまらないもの」への指向へ、と当然のごとく進む。これはマーズ・ヴォルタにかぎった話ではなく拙作もその圏内にある。考えてみたら周りはみんなそういう方向へ向かっている気がする。かねてよりテーマとして掲げつつようやくいま達しつつあるこの「平板でつまらないもの」の清々しさを歓待した。
考えてみればIKEAやコストコこそが徹底して「平板でつまらないもの」なのだ。ジャスコなどその辺まったくアミューズメントしていて、脇が甘いからバカにされる。

というわけでマーズ・ヴォルタのつづきは明日にして、小休止にハービー・マン『メンフィス・アンダーグラウンド』を。これこそ「平板でつまらないもの」を根底で支えている音かもしれない。
0

2007/11/25

普通のもの。  議論

友人の廣瀬純から「映画における労働の拒否」と題された、日仏学院で行われたドゥルーズ『シネマ』についての彼の講演の原稿を送ってもらい、読んで心が洗われた。最近やたらと苛立たされたのは、批評的言説において「部分」を語ることによって「全体」への評価が可能であるかのように振舞う怠慢な姿勢であったが、そんなありもしない「部分」や「全体」の区別を廃棄し、ここでは「普通のものから特異なものが生れる」現象としての映画が見事に語られていた。つまり、ひとは言うことがないときに俳優の素晴らしさだとかショットの素晴らしさだとかに言及することによって「だからこの映画は素晴らしい」などと評価を定めがちだが、そうではなくて、仮にそれがどれほど素晴らしいとしてもその素晴らしさを構成しているものが実に「普通のもの」であることを踏まえて素晴らしいなどと口走ることを禁欲し、宇宙に解き放つように評価を留保するのが現在の批評的言説の持つべき倫理であろう、と私には思われてならなかったのだが、ここでは私には説明できなかったそのことの重要性を非常に丁寧かつ念入りに解説してくれている。
評価の留保こそがわれわれにとっての「労働の拒否」であり、そこにおいて「反‐実現」は可能となるのではないか。評価を留保し、反‐実現を目指すことで行われるのは、議論または延々と続くおしゃべりである。そしてそこから新たな映画が誕生してきたのだし、これからもそうなるはずだ。議論をやめたら映画は止まる。もうずいぶん長いこと誰とも議論していない。おしゃべりさえしていない。個別作品の話はしても、大枠の映画全体にかんする議論はない。
ゆえに私の映画は止まっている。

昨日はバンド練習。CDプレイヤーが壊れていたり、アンプのプラグが壊れていたり、といろいろトラブルがあって、いまいち集中力を欠いた。
ヴォーカルがめんどくさい。ヴォーカリストの必要を痛感。

ちなみに、おそらくいま新作映画で「普通のもの」を観ることはほとんどできないだろう。かつての小津作品に言えた「普通のもの」といま呼べるものはトニー・スコットやタランティーノのフィルムにしかないからだ。そしてそのことはほとんど理解されていないように思われる。
6

2007/11/17

「比較」の下劣さについて  議論

ここ最近、作品または作家Aを讃美するときにB、C、Dとべつの作品または作家を列挙し「B、C、DよりもAが素晴らしい」と「比較」することの、批評としての甚だしい幼児性・下劣さにあらためて気づかされることが増えた。というより、そうした「比較」はただの小狡い「後出しジャンケン」であって批評とは呼ばないし、批評家を名乗る者のすることではない。もし「比較」が批評として(ヴァイオレントに)機能するとしたら「最悪のAのほうが最良のBより上」というはっきりレベルが違っている場合の最後通告的用法に限られる、という気がする。
星取表とかベストテン(点数式)などにそこはかとなくおしめの匂い(田舎議員のハメをはずした赤ちゃんプレイみたいな)が漂うのもそのせいだろう。
しかし、そうした批評の倫理の何たるかを学んでいく方法というのはただ先行する文献を「読む」しかないのだろうが、そういう書き方をするひとはきっと読んではいてもおそらく気づいていない。それなりにまともなことを書くひとでさえそんなことがある。いったいいつ気づくのか。こうやって誰が見ているか考えもせず、ブツクサ書きたくもない嫌味をひたすら書き募るしかないのか。ことはネットにかぎったことではないのだろうが。
3

2007/11/7

OZAWAか!  議論

昨夜の記述についてお二方からコメントをいただいた。自分自身、いくらか冷静になって記憶を辿ってみた。で、三つの事象が浮かび上がった。

第一。監督が複数の「批評家」と称する人物たちの取材を断っていること。どうせ話してもつまらない話、もしくは不愉快になる話しかできないから、時間のムダであると判断して断っている。
第二。ある記者によって拙作が「カンヌに落選してヴェネチアへ行った」とどこかのサイト(不詳)に書かれそうになったことについて、製作会社がそれは事実誤認であり、カンヌの《ある視点》部門へは前々作で重複する俳優陣とともに行っているので今回は《オリゾンティ》部門であってもヴェネチアが招いてくれるならそちらに行きたい、と監督自身が希望した、という経緯があってのことだ、として抗議した。
第三。また、ある記者が試写のアンケートにプロデューサーの逆鱗に触れる何か(残念ながら監督自身は読んでいない)を書き、以後弊社の作品の試写にこの記者は出入り禁止にするとプロデューサーが宣言した、という件。

第一について、過密なスケジュールのなかでその思考が間違っている、もしくはバカであると判断しうる人物と話す理由はない、というのは常識的判断だろう。これは伝聞だが他の監督はそれらの「批評家」と称する人物たちを、優れている、として受け容れているようで、つまり監督個人の場合のみオミットされているはずだから営業妨害になってはいないはずだ。
第二はただの事実誤認であり、抗議を受けた記者とそのサイトがどういう関係になったかについて、抗議した製作会社に責任がかかるとは想像しにくい。
第三についても、これはたんなる資本主義の論理である。自社に不利益な言説を発する人物を受け容れる必要が利潤を追求する会社組織にあるはずがない。

これらに対する「〜を貶めると干される」という日本語の使用は間違っているのではないでしょうか。私が怒り、呆れるのはこの点についてです。当該日記執筆者による拙作に対する意見には何ら怒ってはおりません。ただ、何か公的な場に批評めいたことを書きたいならたとえば『小説から遠く離れて』くらいは読む必要があるだろう、とまでは言わないがしかしどんなことが書いてあるかくらいは把握しておくべきだよ、とアドヴァイスしたい。というか、彼の教わっているセンコーがそんくらいの指導せーや、とw
何度か繰り返していますが、私はこの国の言説的インフラとしてのネット上のブログ、日記などに可能性を求めており、そのためには書く側の自覚を促す必要があると考えてこのようなことを書いています。多くの識者たちが「バカはほっとけ」と相手にしなかったためにひどいことになっている現状をどうにかすべき(さすがに某所にまでは赴く必要を感じませんが)だと考えるのは、自分の作品についてそこで様々な言説が流布される当事者としては自然なことでしょう。ゆえに正当な批判も読んで反省すべき点は反省しています。ただ、この手の噂・風評・誹謗中傷については、私はどうでもよいけれど私の仕事仲間に不快を与えることがしばしばあるので抵抗する必要があるのです。
「安易によく知らない人を批判する」ことは決して悪いことではなく、こうした言説空間ではそれがあって当然です。ただそこでさえ最大限の注意を払って言葉を尽くす必要はあるはずです。これは、過去に他人に向かってひどいことを書き殴っていた自分への戒めでもあります。しかしそのときも私は何度も推敲して提示しておりましたが。
ちなみに「日本映画の外にいる青山」=「世界のアオヤマ」という図式ですが、これはフリーペーパー『シネ砦』の認識を故意に誤って受け取った皮肉と考えられ、『シネ砦』の執筆者たちの何人かと長く友情を持って接している人間として非常に不快である、と言っておきます。
2

2007/10/30

映画芸術421号  議論

「特殊な人たちが出てくる映画っていやなんだよ」と編集長が言っている。私も同感である。特殊な人たちしかネタにできない映画は痩せ細る。特殊でない人たちによる価値紊乱こそが映画だと思ってきた。特殊な人たちはまやかしめいた普遍性を信じることを前提にのみ浮上するが、特殊でない人たちは一般性のなかでの不意撃ちを発揮する。ペキンパー、アルトマン、神代、みな例外なくそうだったはずだ。しかし今号には特殊な人たちばかりが出てくる気がしてならない。貴重な話もたくさんあるが、それらの大抵は先の都知事選において石原を駆逐できなかった真面目さとそう変わらなく見える。例によって編集長の後記を真っ先に読んだせいだろうか。都知事に認知された小説家に認知されなかった、と悔しがっている。そんなもの、わかんねえだろうな、ざまあみやがれ、市民権なんかいらねえや、と「シナリオ年鑑」に載らないことをむしろ矜持とすべきではないか。見ていないので何とも言えないが、本誌を読むといまの日本映画には「特殊でないふりをした特殊な人たち」にのみキャメラが向けられ、その当たり障りのなさのなかで価値を温存しつつ萎縮するばかりな気がしてならない。映画は遅れて来る。橋本〜森政権あたりに端を発し、小泉政権が肥大させた歪み(膿?)が次々に問題化している現在、神奈川教委が君が代不起立教諭の名簿を破棄することになった、というちょっとだけ明るい話題もネットで知った。だが本当に明るいかどうか、予断を許さない程度にはわれわれも用心深くはなっている。遅れてくる映画に価値を紊乱できるだろうか。ある映画の手のカットが『ラルジャン』のようだ、と書いている人もいたが、その書き方はスポイルになりはしないか。『ラルジャン』は全篇『ラルジャン』のようなカットで出来ていることを忘れてはいけない。ソクブン師匠の映画は風俗に遅れることを決して恐れず、結局いまも古びることなく価値を紊乱し続けている。
ソクブン師匠は「キミ、映画は不意撃ちだよ」と私に教えてくれた。
4

2007/9/30

ミャンマーその他の謎  議論

中国が支援するミャンマー軍事政権と国交断絶中のアメリカが今回のデモを支持することと、日本政府がジャーナリストを殺されていながら国交断絶に踏み切らないことの間にはどんな因果関係があるのだろうか? ないのだろうか? あるとしたらそれはインド洋上給油とも何らかの関係があるのだろうか?
そもそもインド洋上で給油されるガソリンはどこで産出され、どこで積まれているのだろうか?

ともあれ、インド洋上給油が「国際貢献」ではなく「同盟する一部の国々による侵略戦争への貢献」であることは間違いないように見えるのだが。
0

2007/8/14

活劇と同一化について。  議論

東浩紀・北田暁大の共著『東京から考える』はずっとずるずるべったりに読み続けている本ですが、これの最終章「東京からネイションを考える」のなかでローティというひとの書物から引用された「私がリベラル・アイロニストと呼ぶのは、あらかじめ他者と共有する何らかの認識ゆえに人間の連帯の感覚をもつのではなく、他者の生の具体的な細部との想像上の同一化によってその感覚を得るような人物のことである」という言葉(270ページ)にとても惹かれた。それがリベラルなのかアイロニカルなのかわからないし、そもそもローティというひとが何者なのだかさえ私は知らないが、これは私には説明の付けられない(〈シネマ〉に対する)〈活劇〉の定義のひとつだとしか思えなかったからだ。東君は、それはそのままかれにとっての「ポストモダンの人物像」なんだと言っているが、それもよくはわからない。その後の議論で東君も北田氏も「小さな共感可能性」というものを疑いつつ、しかしそれに頼ることでしか「タコツボ化されたコミュニティを横断するポストモダンな「連帯」はない」という点で一応の合意をしているのだが、この「他者の生の具体的な細部との想像上の同一化」と「小さな共感可能性」とは同じものなのかどうか。少なくとも〈活劇〉は「他者の生の具体的な細部との想像上の同一化」によって出来てはいるがそれは「共感」とは同じではない。なぜなら、〈活劇〉における「同一化」には恐ろしく遅くて、またはあまりの速さによっていわゆる「共感」を分かち合うなど微塵もできないものである可能性があるからだ。それでも「同一化」は「同一化」だ。それが「ポストモダン」であろうとなかろうと、人工的に平板化されたパネルと陳列棚の前を矢印に従って進むジャスコ(またはその先鋒としてのIKEA)的空間には当然のように商業のための「共感」機能が備わっているだろう。しかしそうではなく、偶然によって「共感」の余地のないほど複雑にデザインされた空間で無方向的な運動が展開するストリートにこそ現在の私たちの自我は点滅するように投影され、だからこそ私たちはそこに幽かに見え隠れする「生の具体的な細部」を描写する欲望を喚起される。ここからはじまるのが「想像上の同一化」というものではないでしょうか。少なくとも私の考える〈活劇〉にとっては、そうです。
3

2007/7/21

墓はどこにあってもよい  議論

沖縄が日本であるとかないとか、わかるとかわからないとか、そういうことはまず措くとして、言えることは環太平洋的……ちがうな、汎太平洋的だ……なるものというのは確実にあり、それは熱帯の貌をしているので日本本土にはごく一部でしか見られない。とはいえたとえば石垣島の空気は紀州や高知とよく似ている。そうしてそれはハワイにまで通じている。だが、これは沖縄全体に言えることかどうかもう少し研究しなければはっきりしたことは言えないがことここに関しては、墓地はどこにでもある、という現実を目の当たりにしたのだった。いくらか当惑するほどそれはそうで、それと同等にたとえば竹富島なら御嶽(おん)が島のどこにでもある。生と死のあわいがこれほどあいまいな場所(例外的な場所、たとえば東京東部などがあるにしても)も知らない。大量虐殺の世紀を経て、いまなお身近に死を感じつづけながら、だがその守護・弔いをとりあえずの義務として棚上げしつつ郊外のジャスコ的計画空間に押しこむのではなく、我々と隣りあわせのストリート(というよりほとんどアレイ=路地だ)に点在させるという可能性はいささかも前近代的ではなく、むしろかつてあった歴史を再建=再見させる上でも近未来的必然に感じられた。
たとえば巨大なモニュメントを建てたりするのも実は墓を忌み嫌う後ろめたさの裏返しで、それはすでに時代遅れなのではないか。

そういえばむかし「墓地と基地」てゆう漫才コンビ、おったなぁ。。。
0



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ