13日の盛岡は、暖かい朝を迎えましたが


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先週の木曜日、祖母が亡くなった。この仕事を始めてから祖母がいる盛岡に足を運ぶことはなく、米寿の祝いにもお祝い一つ贈らなかった。
木曜の昼過ぎだったと思う。盛岡の叔母から電話をもらったとき愕然とした。いつかは来るとはわかっていたものの、あまりの突然の電話に放心状態となってしまった。実は夏に叔父が亡くなったのだが、そのことは祖母には伏せられていた。息子が自分より先に息を引き取っては、気落ちするのは目に見えていたからである。その叔父が迎えに来たのかもしれない。
ちょうど週末は忙しくなかったので、仕事のことは妻に任せて私は次女を連れて盛岡に向かうことにした。母の故郷盛岡は、頭の中ではただひたすらに“遠いい”というイメージしかなかったが、行ってみると近かった。東京に出るまで新幹線を使って2時間、東京からもやはり新幹線で2時間半、合わせて5時間ほどで着いてしまうのだ。これにはビックリした。というか拍子抜けした。そして、なんで生前に会いに行かなかったのか悔やまれた。
通夜から出棺、火葬場での拾骨、お寺で告別式と納骨まであわただしく一日が過ぎた。実は私が今の次女と同じ小5のとき、父方の祖母が亡くなり同じような体験をしていた。そのことが今でもはっきりと頭に残っている。口数が少ない次女ですが、きっと何か思うところがあったことだろう。そして私は今回、祖母の遺骨を首から下げるという大役を任された。
祖母は数えで九十二まで生き、満足した一生を閉じたことでしょう。二十歳そこそこで夫を戦争でなくし、三人の子どもたちを女手一つでよく育て上げました。私が祖母のことで思い出されるのは、しつけが厳しかったことと焼きおにぎりの味。年に一度ぐらい盛岡から上京し、私たち親戚のところを周り家事を手伝ってくれた。箸の持ち方から人生の戒め、“口うるさい”が代名詞のような祖母。そして、料理はあまり上手ではないものの、いつもお腹を空かしていた私たちに焼きおにぎりを作ってくれたことは忘れない。そうそう、毎年漬ける胡瓜のお新香とたくわんを添えて。すきっ腹にこたえる味だった。
大人になっても見透かされているようで、祖母に何か言われるのが嫌だった。私以上に母が嫌だったかも。つい最近まで母には愚痴をこぼしっぱなしだったそうだ。卒業してすぐ盛岡を離れ上京したのもうなづける。ところで、冠婚葬祭の場に行くとよく「だれだれに似ている」「何々さんにそっくりだ」「まるで生き写し…」などと言われる。どうしてだろう。皆さんも言われませんか?
私は今回たっぷり言われちゃいました。ほんとに久しぶりに会った人もいたから無理からぬことだと思います。ただ、似ていると言われたその人が「49で癌で死んだ」人の息子となると「はぁ〜」となってしまいます。 いずれにしても祖母の旧姓藤原は、奥州藤原氏の末裔とかなんとか、、、私のスサノウ伝説に新たな1ページが加わりそうです。

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