2019/7/11  23:53

極東の小国06  政治
06 脱亜論
今から5年ほど前にこのブログで「脱亜論」を記述した。その頃、島根県の島というより岩のような竹島に韓国大統領自らが上陸して、多くの日本人は侮蔑の感情を持った筈。その頃「脱亜論」は既に読んでいた。慶応大学の創始者・福沢諭吉が1985年、著わした論文。発見されたのは戦後。いま原文を読み返せば、原稿用紙6枚ほどだが、漢字カタカナ文、句読点が無く改行も無く読みにくい。“脱亜”とは言っているが“入欧”とは言っていない。

明治時代、朝鮮半島の近代化に力を貸したのが福沢諭吉だった。だが内容をよく読めばやはり「脱亜入欧」だ。雑駁な掴み方だが、ペリー来航は1853年、明治維新はその15年後、日本の近代化への対応は早かった。近代化を決意して実行したこの時代の日本は、当時の清国と属国の李氏朝鮮を憂えた。アヘン戦争以来の西欧列強の侵略の危機が迫るのに朝鮮半島は政争に明け暮れ末期的症状だったらしい。

福沢は自主独立の朝鮮開化派を物心で援助したようだ。だが福沢の努力も水泡に帰す。脱亜論が書かれたのは李氏朝鮮の青年政治家が暗殺された1984年の翌年。福沢は10代で、長崎でオランダ語を学んだが、1859年横浜へ出掛けて多分世界の主流、英語に出合いショックを受ける。だがほぼ独学ですぐに英語を学んだのは先見の明があったのだろう。勝海舟、通訳のジョン万次郎らと咸臨丸で渡米する。

その後も西欧の近代を積極的に学んだ(「西洋事情」等)。福沢諭吉の委細はここでは割愛するが政治家の行動力よりも文献の読解力、表現力に秀でたような気がする。以下は脱亜論の最後の部分。解釈は筆者。

≪支那朝鮮ニ接スルノ法モ隣國ナルガ故ニトテ特別ノ會釋ニ及バズ正ニ西洋人ガ之ニ接スルノ風ニ從テ處分ス可キノミ惡友ヲ親シム者ハ共ニ惡名ヲ免カル可ラズ我レハ心ニ於テ亞細亞東方ノ惡友ヲ謝絶スルモノナリ≫
(支那朝鮮が隣国だからといって、悪友と親しむ者は悪友というしかなく私はこのアジア東方の悪友を謝絶する。)

今の朝鮮半島を謝絶できないが、明治時代の福沢諭吉を見習うべき。添付は大分県中津市の福沢諭吉記念館。

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