2010/8/30  23:34

「インパール作戦」とは 02  昭和史
先日、イギリス・ロンドン在住の「ビルマ作戦会会長・マクドナルド昭子」さんの書き込みがあって、「インパール作戦」の事を書いた。この作戦を指揮したのは牟田口廉也陸軍中将で中国の盧溝橋事件でも日本が深入りする元を作った軍人。(「昭和の名将と愚将」P207)

昭和史のあらゆる書を読んでも、誰も評価しないどうしようもない軍人が居るもので、そういう軍人はなぜか、戦後も生き延びているのである。シベリア抑留の密約で知られる瀬島龍三、数々の拙劣な作戦で知られる辻政信・服部卓四郎・田中新一、多くの死者を出していながらフィリピンから台湾へ逃げた冨永恭次、戦争をやりたくて仕方がなかった海軍の石川信吾等々。

牟田口廉也は戦後GHQに拘束されたが、極東国際軍事裁判では、罪に問われなかった。たくさんの日本軍兵士を死に至らしめたのだから連合国には味方したも同然という理由で無罪だった。この裁判は、太平洋戦争の主に日米戦争に関わった軍人が訴追されて、日本軍が惨敗した「インパール作戦」は不問に付されたものと思う。

インパール作戦で100人中91人が死んだ。数少ない生き残りの兵士は、敵は英軍でなく@に司令官(牟田口廉也)Aにマラリアと蚊Bに飢餓、Cにやっと英国・インド軍だったと言う。

前述のように平成05年、NHK特集で6回にわたって放送され、平成07年、角川文庫に纏められた。当時はアナログ放送でパソコンの静止画キャプチャーで容易に映像から画像を保存できた。この放送で「インパール作戦」も司令官の牟田口廉也も、前線から撤退命令を出した31師団・佐藤幸徳中将も知ったに過ぎない。

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2010/8/28  23:04

「インパール作戦」とは 01  昭和史
筆者は、父親が戦死ということもあって、定年後、自分のHPで「私の戦争論」という甚だ恣意的な文を綴っていたが、今は「私解 戦争の昭和史」と名を変えて推敲している。だが昭和史・太平洋戦争の本を読み進んでいくと次々に新事実を知ることになる。書き直しがここ3年続いている。段々完成が怪しくなっている。だがあまり手を入れなくてもいいかな、と思っているのが「第六章 太平洋・大東亜戦争とは何だったのか@帝国・陸海軍は何をしたのか インパール作戦」である。日本の太平洋戦史でも最も悪名高い。

これは一言で表現できない無茶苦茶な作戦である。どういう目的でどういう成算があって立案・実行されたのかが、一人の司令官の目算だけでは済まされないと言える。

ビルマの中央部からインド東部まで500キロm弱の行軍で、食糧・兵器・薬品も3週間分しかなく、あとは密林で食料は何とかしろ、というもの。結果7万人が動員され、死者は6万人、100人中、91人は戦闘ではなく、餓死・病死だった。この記述以後、少しでも真相にたどり着きたい。

当時、15軍31師団の指揮官が上官を指して「馬鹿の4乗」と言ったのは、それだけで軍法会議ものである。実際逆らたっら処分されるのは必定だった。文庫本が多いが、200冊余の本の中でどの部分だったか、2年間、そのページを探したが見つからない。やっと見つかったのが平成05年に録画していたNHKの「太平洋戦争の敗因4・責任なき戦場インパール」だった。角川文庫にも収録されたが、文庫ではそこがカットされていた。解らないわけである。

大本営→総軍(南方軍)→ビルマ方面軍→第15軍の「馬鹿の4乗」がインパールの悲劇をもたらした』と佐藤幸徳は述懐した。命令を出した牟田口廉也(むたぐちれんや)陸軍中将は「大将」の位をほしいだけの作戦だった。上官の命令を拒否して撤退命令を出したのが佐藤幸徳陸軍少将(当時)。これによって救われた兵士は多い。

「馬鹿の4乗」の記述のある本は、『抗命 インパールU』高木俊朗 文春文庫 1976年発行。P273
2017年・平成29年08月追記

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2010/8/25  21:39

「ゲゲゲの女房」  映画TV
NHKの朝ドラマはクライマックス。主人公が九死に一生を得た回想があった。「水木しげる」はラバウルの激戦地で部隊は全滅。米軍の掃討作戦に辛うじて両手で崖にぶら下がっていて命が助かった。この時はまだ左手を失っていなかった。別の部隊へ報告に行くと「なぜ死ななかった」と責められた。これが、大日本帝国陸軍の戦争の最前線だった。

兵士は人間ではなく物の扱いである。死んで当たり前が、軍の上層部の考え。だからこそ食糧・武器・薬品などの補給は無い。あっても補給船は米軍の魚雷で全滅。詳しくはいずれブログに書きたい。

添付は「思い出のメロディ」で「ゲゲゲの鬼太郎」を歌う熊倉一雄。

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2010/8/24  20:42

三橋美智也  昭和史
連想ゲームのようだが「思い出のメロディー」から思い出をひとつ。平成08年01月、演歌歌手・三橋美智也が死んだ。糖尿病による多臓器不全で64歳だった。今生きていればまだ80歳にもならない。年上の青木光一や三浦洸一も頑張っている。

真面目な性格ゆえに地方興行などでは、接待を断り切れずに毎日宴会の連続で酒量が倍増したとは、専属の司会だった玉置宏の弁。その玉置ももう居ない。演歌「三人の会」の春日八郎も村田英雄も糖尿病だった。売れた演歌歌手には酒がつきものだったということである。

筆者の中学生時代は昭和32年〜34年、「明星」「平凡」など芸能雑誌があって、むろん横文字やポップスの歌など無い時代だから、人気歌手ベストテンは皆、演歌歌手だった。筆者の記憶にあるのは昭和33年ころか。のちに神戸一郎、水原弘などが出てくる。

01位 三橋美智也
02位 春日八郎
03位 三波春夫
04位 フランク永井
05位 三浦洸一
06位 藤島桓夫
07位 白根一男
08位 若原一郎
09位 三船浩
10位 青木光一

01位 美空ひばり
02位 島倉千代子
03位 江利チエミ
04位 雪村いづみ
05位 奈良光枝
06位 松山恵子
07位 野村雪子
08位 ペギー葉山
09位 藤本二三代
10位 神楽坂浮子 

といった記憶がある。この頃はレコードはモノラル。ステレオは昭和38年からである。私が三橋美智也を好きだったのは、むろん民謡で鍛えた天性の哀愁を帯びた高音の魅力だった。歌手はいいな、と思うのは今でも再録音されたステレオ演奏でその声がいつでも聞けることである。筆者は三橋の「荒城の月」を所持しているが、これは絶品である。これを聞いたディレクターが高橋掬太郎・細川潤一で作ったのが名曲『古城』である。

三橋美智也の死にざまは自業自得である。酒で声をつぶし、祇園の女遊びが祟って2度離婚し、名義貸しした熱海のホテルは倒産。借財を背負った。奔放でだらしがないと言われればそれまでのこと。筆者が別の見方をするのはその学歴である。中学卒業後、三味線と共に旅回りの民謡歌手だった。これではいけないと思い、三味線一本を持ち、19歳で上京、紹介されて横浜の綱島温泉のボイラーマンとなり、客に民謡も教えることになった。教えた弟子がNHKのど自慢で優勝。キングレコードで録音という快挙になった。ところがこの弟子があがってしまい、録音にならない。三味線伴奏の付き人だった三橋が歌ってみせ、キングでは、この伴奏者の方がいいと契約に及んだらしい。人生どこに転機点があるか分からない。

歌手デビューしても3年間は売れなかった。ドサ回りの人生だった三橋は、勉強を重んじ21歳で「明大中野高校」に入学。何と24歳で高校を卒業している。大学入試も目指して猛勉強したが、皮肉なことに「おんな船頭歌」などにより、ヒット曲を連発。大学どころではなくなったと言う。

どんな死にざまでも三橋美智也の「レコード売り上げ1億600万枚」の数字は、未だに破られていない。お酒を減らし、事業などせず、民謡三橋流の家元に徹していれば「国民栄誉賞」は間違いがなかったとは、猛烈なファンだった立川談志の弁。

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2010/8/22  23:04

思い出のメロディー  映画TV
昨日、毎年恒例の「思い出のメロディー」があった。思い出のメロディーは平成元年、丁度ビデオデッキに高画質のSVHSが搭載されるようになった頃から録画してある。そのSVHSから、8oテープ、HDDディスクと変遷している。筆者は昭和の時代からの録画マニアだからまだ試験放送だったBSの録画番組も多数所持している。

思い出のメロディーは見るが、暮れの紅白歌合戦は見ない。何だかよくわからない横文字のグループやテンポの速い歌でとてもついていけない。演歌の大御所・島倉千代子も都はるみももう出ない。和田アキ子や北島三郎などいつまで出ているのか、よく解らない。

昨日は「いずみたく」生誕80年とかで特集があった。他局のアニメ番組の「ゲゲゲの鬼太郎」が聞けたのは楽しいことだった。熊倉一雄はおん年82歳である。中村雅俊の「ふれあい」もいい歌である。

もうひとつの目玉は「小椋佳」、本名は「神田紘爾」といかめしい名前。中村の「俺たちの旅」美空ひばりの「愛燦燦」はいい。代表曲は布施明の「シクラメンのかほり」。だが「かほり」はおかしいと国語学者・歌人からクレームが当初ついた。現代仮名遣なら「かおり」、旧仮名遣なら「かをり」が正しい。小椋佳は夫人の「佳穂里」に由来していると譲らなかった。日常奥さんを「kahori」とは言わないと思うが…。とにかく今も昔も「東大法学部」出身の方々は人の言うことを聞かない。ついでに言えば「清々しい」と言う形容詞はあるが「清しい」は辞書にも無い。パソコンのキーボードでも出ない。この歌をHPでは戦後最高の歌だと言う人もいるが、それは買い被りというもの。だが小椋にもいいところもある。「南こうせつ」や「堀内孝雄」などもそうだが戦後最高の演歌歌手「三橋美智也」を尊敬していることである。

添付は年齢を感じさせない歌手。歌手名を言うまでもない。

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2010/8/20  22:55

BC級裁判  昭和史
この季節、どうも太平洋・大東亜戦争、昭和史関連の投稿になってしまい、このブログへお越しくださる人には申し訳ない。数年前に藤沢周平の全作品のあと6冊を残して、昭和史の方へ興味が傾いてしまった。定年後にすることは、父親が死ななければならなかった原因を突き止めることが、それがいちばんの供養にもなると思ったからである。最初は「私の戦争論」として駄文を重ねていたが次々に戦争の内実に触れることになり推敲に推敲を重ねている。題名は「私解 戦争の昭和史」。

またまた500ページになんなんとする大部の本を買ってきた。昨年の08月に日本経済新聞社から「東京裁判を読む」という本がでた。いわゆる普通の単行本で四六判(月刊誌のA5判よりやや小さい)である。今年の夏は「BC級裁判を読む」が発刊された。編者は日本経済新聞社の編集委員の井上亮。つまり国立公文書館で厖大な裁判資料が職員によってやっとデータベース化され、専門家でも難儀する目次が作成されたからである。分厚い本なので読み終えるのは大分かかる。つまり「A級」とは平和に対する罪、「BC級」とは国際法違反・捕虜虐待の罪である。ABCの順に悪いという意味ではない。

まだこれから読むのだが大体の結末はわかる。連合国の勝者の裁判だから、捕虜の欧米人を斬首した軍人などが大量に裁かれた。帯にあるように「日本の組織における失敗の最高テキスト」だと筆者も思う。対談者は半藤一利、保坂正康、秦郁彦。

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2010/8/18  23:15

太平洋戦争・昭和史  昭和史
毎年08月15日前後には、NHKはむろんだが民放でも戦争ものの放送がある。筆者はここ数年のNHKの番組のあらかたは録画してある。今年もまた10数本は録画した。DVDデッキのハードがそろそろ満杯である。だが筆者のDVDデッキは数年前のシャープのデッキゆえNHKのデジタル放送は一度DVDにダビングすると元画像がなくなる。ダビング10の高価なブルーレイディスクはまだ買えないでいる。

むろん月刊誌も昭和史関連が多い。筆者がよく購入した「現代」「諸君」「ダカーポ」は廃刊されて久しい。文藝春秋は定期購読しているが、久し振りに「中央公論」を買った。半藤一利・加藤陽子の対談があったからである。同じ東大を出て後者は東大教授だが、昭和史関連では半藤一利にはかなわない。詳しくはいずれ報告したい。

昨年の今頃は何を投稿したのか、検索したら「われ巣鴨に出頭せず」という文庫本の感想だった。作者が人物を間違えているので出版社の編集部に連絡した。出版社はその後何も言ってこない。その間違いとは、

 加瀬俊一(しゅんいち)1897─1956 終戦時のスイス公使
 加瀬俊一(としかず) 1903─2004 終戦時外務省報道官

同じ名前でも全然人物が違うということ。ややこしいのは双方とも外務省の高官であること。昭和20年09月02日、東京湾・ミズーリ号甲板で「降伏文書」の書類に、団長の「重光葵(まもる)」にサインの誌面の場所を促したのは加瀬俊一(としかず)である。だがこの外交官はうそつきである。ハワイ真珠湾の無通告攻撃は外務省の不手際で、駐米日本大使館の責任ではない。またアメリカもわざと日本の通告が遅れるように工作している。つまり日本がアメリカより先に先制攻撃してくるのが解っていたからである。したがって極東国際軍事裁判では、このことは不問に付された。未だに「日本が卑怯な国」と思っている日米双方の人間が、居たら、それは近代史に甚だ無知である。

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2010/8/16  23:36

靖国神社問題  昭和史
このブログを今年になってから、丁寧に投稿していただく宝塚市の「なりひら」様には感謝申し上げたい。

なぜA級戦犯が合祀されて昭和天皇・今上天皇さえ参拝できなくなったのかは、ウィキペディアの「靖国神社問題」、筆者の「無明庵」の「靖国神社考」を読んでいただきたい。そのなかから、問題点を抜き出してみる。昭和60年代、宮内庁長官「富田朝彦メモ」によって発覚した。昭和天皇の述懐である。

<私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡(洋右)、白取(白鳥)までもが、
筑波(藤麿)は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ>


<A級戦犯14人を合祀した当時の松平永芳宮司の主張は「政治的には日本とアメリカその他が完全に戦闘状態をやめたのは、サンフランシスコ講和条約を発効した昭和27年4月28日だ。つまりこの間は国際法では日本は戦闘状態にあったのだ」と考えで、こと松平宮司に関していえば極東国際軍事裁判を戦時下における政治的行為の一種とみなしているらしく、A級戦犯は戦場での死と同じで「昭和の殉難者」であるということらしい。この考えは30年経ても靖国神社に一貫して踏襲されている。いわゆる皇国史観とはこういうことらしいのだが、昭和天皇から内々に「参拝はできませんよ」との意向が示されたにもかかわらず無視したのは、私は間違いなく本末転倒だと思うし、昭和天皇の意向に逆らってまでもA級戦犯を合祀した理由はいかなるものなのか。私にはそうした極端なイデオロギーは理解できない。そこには、昭和30・40年代の旧厚生省の旧軍人グループの思惑、日本遺族会の思惑、靖国神社の最高責任者の宮司の思惑がトライアングルを形成していてことが進んだらしいのである。このへんの経緯はたいへん複雑怪奇でここでは敢えて触れない。>

つまりは今は憲法上「靖国神社」は寄付金だけで運営されているので多額の寄付金を呉れる遺族会を無視できなかったらしい。しかし筆者はA級戦犯が分祀されるのは時間の問題だと思う。

なりひらさんは「後世に語り継ぎたい戦争の記憶」をページにされている。かなりの労作である。7項目にそれぞれ投稿を試みたい。画像は昭和53年以前に分祀されていた祠。

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2010/8/14  21:54

靖国神社参拝  昭和史
明日は「終戦の日」セレモニーのクライマックス。史実に即して言えば、終戦という言葉には矛盾があり「戦勝」か「敗戦」しかあり得ない。実際の「敗戦記念日」は09月02日、昭和20年、東京湾ミズーリ号で重光葵代表が署名した日である。だがこれを正確だからと認めると、昭和20年08月15日以降、侵攻して日本の領土を奪ったソ連の行為を是認することになる。

戦死者が祀られているという「靖国神社」に08月15日、参拝する歴代の大臣が「公人」か「私人」かで最近まで物議をかもした。今の民主党政権の閣僚は全員参拝をしないという。筆者の購入する産経新聞は皇国史観の記者が多いせいか、これにいたく憤慨しておられる。

しかし元々は靖国神社は皇室の守り神として皇居より鬼門の北東の方向に建てられた。経過は省くが「A級戦犯合祀」より昭和天皇は参拝しないし、今上天皇夫妻も参拝しない。昭和天皇の内意を踏みにじった神社の独断専行はやはり問題だろう。先ずここを真摯に受け止めなければ、大臣とて参拝できない。筆者も控えている。

 因みに、昭和天皇が不快の念を漏らさざるを得なかった、昭和53年に合祀されたA級戦犯とは次の14人である。極東国際軍事裁判問題を考慮に入れなくても戦争責任大の軍人・政治家ばかりである。因みに弁護すれば「A級」とはいちばん悪いという意味ではない。「平和に対する罪」。「BC級」とは国際法違反、捕虜虐待の罪である。

◇刑死した者
 東條 英機 内閣総理大臣・陸軍大臣・陸軍大将
 広田 弘毅 内閣総理大臣・外務大臣・駐ソ連大使
 土肥原賢二 陸軍大将・奉天特務機関長
 板垣征四郎 陸軍大将・支那派遣軍総参謀長
 木村兵太郎 陸軍大将・ビルマ方面軍司令官
 松井 石根 陸軍大将・中支那方面軍司令官
 武藤  章 陸軍中将・陸軍省軍務局長
◇刑期中に病死した者
 平沼騏一郎 内閣総理大臣・枢密院議長・終身刑
 白鳥 敏夫 駐イタリア大使・終身刑
 小磯 国昭 内閣総理大臣・朝鮮総督・陸軍大将・終身刑
 梅津美治郎 陸軍大将・関東軍司令官・陸軍参謀総長・終身刑
 東郷 茂徳 外務大臣・駐ドイツ/駐ソ連大使・禁固20年
◇戦犯指定を受けながら判決前に病死した者
 永野 修身 海軍大臣・海軍大将・海軍軍令部総長
 松岡 洋右 外務大臣・南満州鉄道総裁

筆者は個人的には東郷茂徳外務大臣は無罪だと思う。広田弘毅は「見せしめ」で、死刑には値しない。武藤章も中将でありながら個人的私怨により告発された。責任の重い軍人はもっとたくさん居る。

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2010/8/12  17:53

儀式・セレモニー  身辺世相
東北四大祭りというのがある。正確には三大祭りだそうだが、後から山形花笠踊りが加わったらしい。
@青森ねぶた祭り 08月02日、A秋田竿灯祭り 03日、B山形花笠踊り 05日、C仙台七夕飾り 06日。それぞれ歴史ある謂われのあるエネルギッシュで華麗なものである。夏の短い東北の毎年のイベントと言っては失礼だが、わが「平塚の商業的七夕祭」とは違う歴史ある催事である。閑話休題。

最近の世相では日本列島には確実に浸透した儀式が、それも何と三日置きでセレモニーと化している。
 08月06日 ヒロシマ原爆忌
 08月09日 ナガサキ原爆忌
 08月12日 日航ジャンボ機墜落追悼
 08月15日 終戦記念日

それぞれに、それぞれの意味があるのだが、天の邪鬼の筆者には、その日にそのことを情緒的に思いを寄せる儀式に成りつつあるように思う。この儀式に帰省やUターン、高校野球・台風などが相俟って、この季節が過ぎれば、あと一年はあまり話題にはならない。ここに筆者は不満に思う。情緒的に運命的にとらえるのでなく、どうして原爆は落とされたのか、その責任は? どうして戦争は始まり、どうして敗戦の決断は遅れたのか? などもっともっと科学的に物理的に政略的に捉えることができないのか。少なくとも史実に忠実に向き合い感情論を排することから始まる。そうでなければ公称で三百十万人戦争犠牲者は報われない。戦死した人間に抗する術は何もない。

添付は「夏の風」というヘメロカリス。

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