2010/9/4  22:59

「インパール作戦」とは 05  昭和史
今日は5W1Hの「what=何を」、つまり「インパール作戦」そのものを取り上げてみたい。ビルマ方面軍・第15軍司令官、牟田口廉也中将は、インド東部にあるインパールのイギリス軍基地を攻撃する計画を立てた援蒋ルート(蒋介石軍を援助)を断ちきるためである。援蒋ルートとは、大陸中国の国民党軍あるいは重慶軍を率いる「蒋介石」軍に連合国が食糧・薬品・武器などを援助していた道路そのもの、あるいはその行為そのものを指す。

これを断ち切って日本に勝利をもたらせば、戦局を好転させるかも知れないと考えた。不幸なことに15軍下にある、

 第十五師団(祭)師団長 山内 正文少将(陸軍士官学校25期)
 第三一師団(烈)師団長 佐藤 幸徳少将(陸軍士官学校25期)
 第三三師団(弓)師団長 柳田 元三少将(陸軍士官学校26期)

は、みな反対だった。その作戦を3週間で片づけると言いきっていたからである。日本軍の不幸を象徴しているのが、この3人の師団長ほど英米をよく知り、補給も武器・弾薬もお粗末の今の(昭和19年01月)状況からして、勝ち目はないと猛反対をしたことにある。また当時補給部隊は輜重(しちょう)部隊と言って、戦闘には加わらない一般の兵士より格下げで見られていた。輜重部隊が何を言うか、と相手にもされなかった。(「太平洋戦争 日本の敗因04 責任なき戦場インパール」P79)

3週間分の糧秣(兵士・馬などの食糧)を用意し、兵器・他の物資も貧弱で帰還の分は考えてもいない。つまり勝つことを前提にしているから戦利品で間に合うと言う意味か。牛・羊を現地調達して運搬に使用した。牛・羊が動けなくなれば、それを屠殺して食糧にすればいいと牟田口は>「ジンギスカン作戦」といって喜んだらしい。「どこで」の項目で記すが牛・羊はほとんどチドウィン川という大河で流されて仕舞った。こんな作戦を押し付けられた戦場第一線の兵士はたまらない。それでも軍隊は逆らえないのである。

理性的軍人の師団長は、山本五十六元帥が戦死したあとの敗色濃い、18年秋の「学徒出陣」である。無駄な作戦と十分自覚していたに違いない。ところが命令系統が3年違うだけで上官の命令には一切抗えない仕組みになっていたのが日本の軍隊。「なぜ」の項目で詳述したいが、この作戦には、英国の植民地インドの独立義勇軍のチャンドラ・ボースの熱心な期待?もあったらしい。そこに総理大臣の東條英機が淡い期待を抱いたのである。

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