2010/9/7  21:16

「インパール作戦」とは 06  昭和史
「軍国主義日本」に少しでも救いがあるとすれば、明治以降、欧米の植民地で無かったのは、アジアではタイと日本だけである。つまり西欧列国の植民地になるか、帝国主義をとることでしかなかったのが現実で選択肢は狭まれていた。日清・日露戦争で勝利したことが、日本を尊大な国にしてしまった。当時のビルマもインドもイギリスの植民地であったことにある。

太平洋戦争の初戦、昭和17年、日本軍は奇襲してマレーシア・ビルマから統治国イギリスを追い出した。これはあくまで準備の整わなかっただけのこと。

今回は「when=いつ、where=どこで」が問題になる。インパール作戦が、無謀な作戦であると確実視されているのに敢行されたのが昭和19年03月、撤退が07月である。次回「Why」で述べることになるが、19年01月には作戦は了承されていたらしい。

インド東部のインパール、英軍駐屯のコヒマと、ビルマ中心部では100キロほど離れていた。東京─岐阜の距離らしい。今なら首都高速と中央高速で素人でも一日で到着が可能だろう。しかし当時ビルマ─インパール間は、川幅600メートル、水深3メートルのチンドウィン河という大河を越えなくてはならず、しかも両岸は切り立った断崖。そこを超えてもアラカン山脈は2000〜3000メートル級の山々。湿地・沼地も多く兵士そのものも、補給部隊も難儀を極めた。日本の兵士は米を食わないと力が出ないと、どこの戦線でも米俵が付き物だった。作戦はもとより装備そのものが日露戦争から脱していなかった。

牟田口廉也が自画自賛した「ジンギスカン作戦」の牛・馬は大河に流され、兵士も多くが流された。牛馬が2000メートルの山を超えられる筈もない。トラックが走る道さえなく、トラックを分解して兵士が部品を担いで山を越えた。因みに日本軍兵士で車の免許を持っているのは、このころ20人に1人だった。イギリス軍は、暗号解読で日本軍の行軍を十分に察知していた。この日本の貧弱な装備の兵士の凄いところは、それでもコヒマに到着して戦闘を交えた。だが作戦はここまでだった。イギリス軍は、日本軍を十分に引きつけて近代兵器と戦闘機で簡単に駆逐した。

コヒマは地図上部左、インパールは地図中ほど左側である。地図最下部の距離指針が30キロである。到着しただけでもう戦力とはなっていなかったのが実情である。

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