2010/9/9  22:16

「インパール作戦」とは 07  昭和史
「インパール作戦」の最大の眼目、「why=なぜ」を、知る限りにおいて読解する。現場の指揮官誰もが反対を唱え、軍事作戦として無謀で「勝ち目」は無いと進言したにも関わらず、なぜ決行された。そしてかくも無残な結果に終わり、作戦立案者で司令官の牟田口廉也陸軍中将は生き残ったのか…。

ビルマ方面軍下の一司令官がどんなことを考えようと上官の許可がなければ、作戦は決行されない。誰かが止めれば、牟田口も不名誉にならず、3師団7万人の91%の6万人の死者は出なかった筈である。ここでは牟田口の陸軍の地位と履歴を知らなければ、「なぜ」の説明がつかない。

先に日本軍は内閣と大本営、陸軍と海軍の対立があって統一された戦争をしておらず、自分のセクトのことだけ考えていたと述べたが、さらに陸軍・海軍ではそれぞれ二つの派閥に分かれており、敵は英米でなく、先ずは各々の派閥の争いが第一だった。陸軍は「皇道派」「統制派」に割れ、英米・中国より憎む相手だった。大日本帝国陸軍・海軍は、相手国より内側の戦いに重点が置かれていた。これでは全く戦争にはならない。詳細は避けるが昭和11年、二・二六事件を起こしたのは「皇道派」で昭和天皇の逆鱗に触れた。

牟田口はなぜか「皇道派」と目され、以後戦争最前線に追いやられ、中央の陸軍省や参謀本部に迎えられることは無かった。「俺より能力の無いやつが中央にいる」が牟田口の怨念になったらしい。エリート軍人がエリート街道を外れると、そこから這い上がるのには、軍人には武功しかない。

牟田口には、武功を持って中央に錦を飾るのが、常に頭にあったと言っていい。昭和19年01月、作戦はなぜか了承された。03月に作戦は開始されたが、このとき参謀本部総長も東條英機になっていた。総理大臣・陸軍大臣・参謀本部総長を兼ねる異例の事態だった。統治権も統帥権も主権は昭和天皇だが、政治は輔弼、統帥は輔翼といって信任された存在で、むろん信任者にすべての責任がある。「インパール作戦」の決行は、やはり許可した統帥部(戦争作戦)に最大の責任がある。

次回も「なぜ」の続編を記述して終わりとしたい。

左下が河辺正三(まさかず)陸軍中将、馬上が牟田口廉也

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