2011/6/22  14:18

清廉潔白の総理大臣  昭和史
昔々、もう70年も前の話ですが、能吏と誰もが評価する「大日本帝国陸軍軍人」がいました。この軍人が兄とも慕う永田鉄山陸軍少将は、日本陸軍が生んだ最高の逸材で秀才で誰もが認める日本軍人のエリート中のエリートで、将来を託されました。ですが日本の近代史は暗殺・テロの繰り返しです。昭和04年には浜口雄幸(はまぐちおさち)首相、昭和07年には犬養毅(いぬかいつよし)首相が暗殺され、昭和11年には、あの二・二六事件が起こり、高橋是清・齋藤實(さいとうまこと)元総理が暗殺されました。永田鉄山は期待されながら、前年の昭和10年、白昼、執務室で惨殺されました。51歳でした。世に云う「相沢三郎事件」です。近代日本の不幸はここから始まりました。この軍人が生きて居れば「日米戦争」など無かったとも云われています。その永田の子分の軍人が能吏ゆえに陸軍内に地歩を固めていくことになりました。

この軍人は、明治時代末期、陸軍大学に三度も受験に失敗しました。そこで夫婦で作戦変更、出そうな問題は一年間かかって全て丸暗記しました。大正元年めでたく合格、卒業時は05番以内の「恩賜の軍刀組」といわれる優秀さには、程遠い下位の成績でした。司馬遼太郎は、戦後「村役場の受付で仕事をテキパキとこなす職員、およそ町内のことは犬・猫さえも知悉する町内会の会長さんのような人」と評しました。およそ陸軍内のことは、その日のことは人事・機構・出来事を必ずメモしました。週末にはそれを項目別にメモし直しました。論理明快・数字も確か陸軍では順調に出世しました。

その軍人は今の価値で数十億円の陸軍機密費を私することなく、愛人を囲うわけでなく軍人の鑑で清廉潔白でした。陸軍中野学校の創始者で陸軍省軍務局の岩畔豪雄(いわくろひでお)は、赤坂通いが派手で自分の周囲から遠ざけました。自分の家の女中さんの手を握っただけで、自分の甥を殴りつけました。世田谷区用賀の粗末な木造家屋に子供七人の円満な家庭を築いていました。戦後アメリカの「戦略爆撃団調査チーム」は、そのあまりの質素な生活を容易に信じませんでした。

帝国陸軍に関しては生き字引のような存在でしたが、海軍のこと、世界情勢、捕虜扱いの「ハーグ条約」、中国に関する「九カ国条約」、大正時代末期の「ワシントン条約」、昭和初期の「ロンドン条約」など外交は、殆ど何も知りませんでした。昭和16年まで、毎年総理大臣が交代、15代、12人、臨時代理総理03人が交代しました。

昭和16年、お公家様の「近衛文麿総理」が辞任、明治維新立役者の桂小五郎(木戸孝允)の孫で当時の内大臣木戸幸一は昭和天皇がお気に入り(実はうそ)の陸軍中将を総理大臣に推薦、大命降下されました。謹厳実直・日日是努力で総理大臣の地位に上り詰めました。この昭和前半の「大日本帝国陸軍軍人」の鑑のような人物は生涯、一つの誤りを犯しました。昭和天皇の「英米との戦争には反対の意向」を護れなかったのです。陸軍・海軍の中枢部、朝日・毎日新聞などメディアの催促、世論の昂揚を交わしきれませんでした。「日米開戦GO」を決定してしまったのです。昭和16年12月08日の前夜、天皇の意向を守れなかったその軍人総理は世田谷区用賀の自宅で、夜中に皇居の方向に頭を下げ、さめざめと泣きました。天皇に申し訳ない、と。

その軍人総理の名は「東條英機」と言いました。詰らないエピソードですが、メディアは「英機撃墜せむ」という言葉は避けました。東條英機は中国戦線での20万人の戦死者・英霊に申しわけないと中国大陸からの撤兵を終始拒みました。組織の論理で拒めなかったのです。お陰さまで終戦時には筆者の父親を含めて一桁多い310万人の戦死者を出しましたとさ……。

オオキンケイギク・特攻花

クリックすると元のサイズで表示します
6


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ