2011/8/30  20:27

日米開戦への道03-1  昭和史
統帥権(とうすいけん)」とは何か。

国民的作家・司馬遼太郎が晩年(平成07年02月死)エッセイで度々取り上げたのが「統帥権」と「土地問題」である。(『この国のかたち4』文春文庫)バブル経済における「土地問題」も重要だが、ここでは割愛する。司馬遼太郎が統帥権を声高に語るのはそれなりの理由がある。自身も学徒出陣で徴用されたからである。昭和18年11月、大阪外国語学校を仮卒業。翌年04月に、満州四平(まんしゅう・しへい・スーピン)の四平陸軍戦車学校に入校し12月に卒業。生死を分けたのは、戦車学校で成績が良かったからである。つまり愚かな「大日本帝国陸軍」の更に愚かな「本土決戦」作戦によって戦闘も経験せずに済んで昭和20年、栃木県佐野市に小隊長として配属されたからである。作家になってから折に触れて追及する統帥権は、帝国陸軍の戦車の愚かさを通して経験的・合理的・科学的にこれでもかと徹底的に明らかにした。『歴史と視点』(新潮文庫)に詳説されているのでこれも割愛する。

司馬ファンなら誰でも知っている「大日本帝国陸軍の愚かさ」をここでは一つ紹介する。司馬は陸軍少尉としてこの地で終戦を迎えた。エピソードは昭和20年05月の敵上陸の想定演習の件である。≪敵上陸を想定しての演習があった。そのとき、たしか高崎経由で南下する要路だったと思いますが、東京からの避難民が大八車に家財道具を積んで逃れてくる。当然ながら混維が予想されるので、交通整理はどうなるのか聞いた。すると、大本営から指導にきていた東北人の少佐参謀がずいぶん考え込んだあげく「轢き殺して行け」といった。『司馬遼太郎対話選集6・戦争と国土』P45≫つまりは国民の生命を守る筈の軍隊が、アメリカとの決戦しか頭には無く、戦車隊としては組織の都合を優先したわけで、司馬遼太郎でなくても怒りが湧く。当時の国道など今の県道以下で舗装もされていなかっただろう。いざ戦争になったら自分たちの戦術・戦闘以外は、国民の命にさえ思考力が及ばなかったことにある。

当時の「大日本帝国憲法」では、統帥権と統治権(とうちけん)は次の通り。

第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム


戦前の大日本帝国憲法下でも三権分立は存在した。議会・内閣・司法(大審院)である。だが今日のように主権在民でなく主権は天皇にあった。

第03条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

とある。(「ヘカラス」は“べからず”だが、大日本帝国憲法は濁音が省かれている。)従って内閣・行政は政治家が輔弼(ほひつ)、軍部は輔翼(ほよく)といって天皇に信任された者が責任をもって政治・軍事を遂行した。憲法上、天皇はいわゆる「無答責」だったと云える。つまり統帥部とは、天皇が持つ統帥権を付与された機関であり、軍事の最高機関だった。

昭和史で多くの識者に指摘される軍部の「省部」とは、
◇陸軍省・海軍省 = 軍事の予算・人事・編成
◇統帥部 = 軍事の戦術・作戦・戦闘

とくに統帥部は、陸軍は「参謀本部」で責任者は、参謀総長、海軍は「軍令部」で責任者は、軍令部長だった。この統帥部の作戦部・作戦課は、陸軍大学・海軍大学を優秀な成績で卒業した一握りの軍人のみが担当していて秘密主義だった。陸軍・海軍大学とも年度卒業者50人のうち1割の5人は「恩賜の軍刀組」と云われ、天皇から軍刀が下賜された。ここに云わずもがな特権意識が芽生える。現今の「東大法学部卒」「国家公務員上級職」取得といったところか。この統帥大権は大元帥の天皇ゆえに、行政側の内閣総理大臣さえ介入することは許されなかった。つまりよく知られているA級戦犯として処刑された東條英機でさえ統帥部には一切口出しは出来なかったことにある。このいわば縦割り責任の弊害が日米開戦へ導くのである。このメカニズムを知らないからこそ、昭和天皇は「敗戦の決断」が出来たのだから「開戦の決断」も阻止出来た筈、といった安易な主張となる。

参考書
◇『あの戦争とは何だったのか』 保阪正康 新潮新書
◇『統帥権と帝国陸海軍の時代』 秦郁彦 平凡社新書

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2011/8/28  21:20

日米開戦への道・余話01  昭和史
『戦争を鼓舞した四字熟語』

昭和16年12月08日、大日本帝国海軍がアメリカ「ハワイ真珠湾」を攻撃して太平洋・大東亜戦争が始まったのはあまりにも有名なのだが、ことの是非はともかく「東京日日新聞」(現在・毎日新聞)が、その日の朝刊でこのことをスクープしたのはあまり知られていない。どうしてスクープできたのか涙ぐましい努力があったが、その詳細はここでは省く。ニュースソースは日米開戦反対の海軍関係者だった。とにかくずばり“日米戦争への突入”とは書けないので、見出しが四字熟語の羅列となった。国民は素直に「欣喜雀躍」したのである。

 東亜撹乱・断固駆逐・一億憤激・邁進一路・聖業完遂

新聞メディアは、連日「見出し」には「四字熟語」が躍った。

 尽忠報国・挙国一致・神州不滅・鬼畜米英・勇戦力闘・無敵皇軍
 一億玉砕・忠君愛国・滅私奉公・堅忍持久・忠勇無双・八紘一宇

筆者がここで言いたいことは、極めて単純である。戦争に勝つということは戦闘行為だけではない。そこに怜悧な戦略や政略があってはじめて戦争に訴えるということだ。あくまで戦争とは国家の政治的行為なにものでもない。戦いを挑んで負けるのが判っているのなら何故、他の方法・他の政治決断がなされなかったのか。戦争とは感情論・精神論・運命論ではなく数字・物理・科学の世界である。敢えて「開戦」を容認するなら「敗戦」が確実になって、国民に多数の犠牲者が日に日に増大する現状に、政治家も外交官も無論軍人もなぜ沈着冷静な戦略・判断・決断が出来なかったのか。戦いの最前線は、日露戦争以来の基本的には「白兵」という三八式歩兵銃・一振りの軍刀・手榴弾だけの「肉弾攻撃」から一歩も出なかった。精神論だけで勝てる戦争など古今東西ありはしない。太平洋・大東亜戦争の戦死者310万人(あくまで公式数字)の90パーセントは昭和20年の敗戦の半年間である。

軍部を批判した代議士として当時民政党の「斎藤隆夫」の名を知ってはいた。いろいろな著書も多いそうだし、その気骨を称える昭和史の書も多いし、NHKの「その時歴史が動いた」でも紹介された。昭和11年「二・二六事件」後の廣田弘毅内閣での「粛軍演説」、昭和15年の米内光政内閣での「反軍演説」はあまりにも有名である。むろん当時は完璧な「非国民」である。圧倒的多数で昭和15年03月除名処分になる。詳しくは知らないが、多分戦争中は「特別高等警察」に終始監視されていたに違いない。一代議士で国をリードする政治家や軍人ではないので、テロや暗殺を免れたのかも知れない。それが勲章となったのか戦後は「第一次吉田茂内閣」の国務大臣となる。今では出身地の兵庫県出石町(現・豊岡市)に記念館がある。この斎藤隆夫が昭和19年に著した論に「天佑神助論」があった。今でも切実に感じることが既に昭和19年に著されていたのである。日本列島戦時一色だが、思ってはいても口にできないのが当時の世相。「天佑神助」なる熟語が、日本の戦争観をよく著わしている。戦争最前線に神様はそうはたやすくやってはこない。天佑神助があれば310万人の戦死者の70パーセントが餓死・病死とはならない。

昭和15年2月2日 第75帝国議会の演説「泥沼の支那事変をどう処理するか」
この演説以降斎藤隆夫は圧倒的多数の議決で除名される。この演説の削除された部分がこの書に抄録されている。そこに天佑神助の表現は無い。インターネットの『斎藤隆夫関連』に斎藤の演説・論・遺稿などが掲載されている。「自由に使用してよい」との但し書きがあるので「天佑神助論」をここに取り上げさせていただく。

『戦争が始まってから度々天佑神助と云う語を耳にする。是が学問もない理屈も分らない人々の口から出るならば別に怪しむには足らないが、実際には左様ではなくして随分学問もあり世間からは知誠階級と見らるる人々の口からも出る。殊に是が軍人仲間に多きように思わるるのは一層不思議である。近頃出征軍人が或る大将に日の丸の旗に揮毫を求めると、其の大将は毎度「天佑神助」と大書することに決めて居るが、余は此の有様を見て実は是等の人々の頭を疑って居るのである。天佑神助とは如何なることであるかと言えば、詰り此の世の中に天とか神とか云うものがあって、特に我が日本を援助すると云うことであろうが、今日左様なることが夢にも想像し得べきことであるかないかは考えるまでもないことである。一体天とは何であり神とは何であるか、由来宗教家や何にかは此の世の中の森羅万象がさっぱり分らぬものであるから、是等は天とか神とか名づくる者が作ったものと決めて居るが、我々には左様なる人々の相手にはなる訳には行かない。我々は分らないことは分らないと決めて居るが、分って居る限りに於て天とか神とか云うものを認める訳には行かない。…』

◆斎藤隆夫反軍演説『昭和史探索5』 半藤一利編 ちくま文庫P31

画像は、昭和15年11月・皇紀2600年式典。「日録20世紀・1940」講談社刊

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2011/8/23  19:59

またばかのかお  身辺世相
筆者は読んでいないのだが、最近号の「週刊文春」のグラビアに次の民主党代表候補の顔が載ったらしい。紹介の題名が「またばかのかお」、週刊誌の記者は、なかなか目のつけどころがいい。

ま 前原 誠司 昭和36(1962)生 京都大学法学部 外務大臣
た 樽床 伸二 昭和34(1959)生 大阪大学経済学部
ば 馬淵 澄夫 昭和35(1960)生 横浜国立大学工学部 国土交通大臣
か 海江田万里 昭和24(1949)生 慶応大学法学部 経産省大臣
の 野田 佳彦 昭和32(1957)生 早稲田大学政経学部 財務大臣
か 鹿野 道彦 昭和17(1942)生 学習院大学政経学部 農林水産大臣
お 小沢 鋭仁 昭和29(1954)生 東京大学法学部 環境大臣

この中から民主党代表が選ばれ、次の総理大臣になるのだろうが、どうも小粒で長続きしそうもない。だが現総理菅直人よりは、いいと云った程度。昨年09月の代表選では菅・小沢の票は国会議員の数は拮抗しているのに、サポーター票で圧倒的に差をつけられた。むろんこの中には大量の在日外国人の票があったと云う。では外国人が日本の総理を決めたことになるのか!

権力にしがみつく市民運動出身の総理大臣は、もしかしたらとんでもない政治家だったかもしれない。北朝鮮「よど号事件」の関係者や「拉致事件」にも関連する市民団体に、どの程度か判然としないが、献金していたと云うから開いた口がふさがらない。もう告発されているので捜査関係者はここは集中的に調査すべきだ。総理がこれなら拉致被害者など帰る筈もない。

筆者は、天の邪鬼だから総理大臣は、断然、小沢一郎にすべきだと云うのが、ここ20年間の考え。根拠は実に簡単、総理に成りたければ、20年前、竹下登辞任のあと総理大臣になっていた筈。もうとっくに一丁上がりの政治家だからである。小沢一郎は「背広を着たごろつき」「議員バッジを付けた不動産屋」などと揶揄されている。何よりもあの“悪人顔”が嫌われている。筆者は「睦山会事件」は≪国策捜査≫の疑いが濃い、と思っている。しかし当分は「検察審査会強制起訴」で身動きがとれないのだから、反小沢勢力も、意外と本人もそれでいいと思っているかも知れない。強制起訴は多分に感情的なものだから無罪になるように思う。政治家が、身辺が清廉潔白なほど小粒なのは、もう十分に歴史が証明している。イタリアのベルル・スコーニ首相などこの10年、汚職と少女買春など猥褻行為に満ち満ちている。政治家はプライベートなことなどどうでもいい。国民生活が向上する結果を残せばそれでいいのだ。政治に関してはイタリア国民のほうが少し大人かも知れない。

次の総選挙では民主党は多分「ぼろ負け」である。左翼勢力が潜んでいる民主党なら壊したほうがいい。だが政権がまた自民党に戻るなら更に「霞が関官僚」の言いなりに決まっている。消費税などは直に20パーセントだろう。官僚機構は盤石・日本経済沈没は間近い!

月末の仕事が入りました。ブログは少し滞ります。
「日米開戦への道」次は、日本を滅ぼした「統帥権」を考えたいと思います。司馬遼太郎が晩年度々取り上げた命題である。

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2011/8/21  21:45

日米開戦への道02-2  昭和史
近衛文麿という政治家

前回、近衛文麿の政治履歴を大づかみで叙述したが、今回は昭和史の書に著わされているエピソードを紹介して、その人となりを考察してみたい。近衛文麿とは、軟弱でいい加減な性格で総理大臣には相応しくない人、むりやり総理大臣を押し付けられて気の毒だった人、果ては「共産主義者だった」などという本まである。

現在「文藝春秋」で『昭和天皇』を連載中の福田和也氏は≪伊藤博文から小泉純一郎までの明治・大正・昭和・平成の総理大臣を点数方式で論じた著書の中で、そのあまりの無責任さがゆえに近衛に歴代総理の中での最低の評価点を与えている(『総理大臣の採点表』文藝春秋)フリー百科事典『ウィキペディア』 ≫とある。これは読んでいないからよく解らないが、昭和天皇を賛美する地慣らしでなければいいが、が筆者の感想。

◇『戦争と狂気の世紀に生きて』という文で評論家・村松剛氏は、戦前戦後、大蔵大臣を務めた賀屋興宣(かやおきのり)に近衛文麿とは、どんな人物か問うている。賀屋の返事は≪あのひとは自分がハンコを突くと責任が発生するということが、どうしても呑みこめなかったのですよ。何しろあの家は、平安朝いらい駆けったことがない≫村松氏も指摘するように、当時は公家出身者は「長袖族」と言って、急いで歩くことができない、転じて非常時は何も役に立たない、という認識があった。つまり文法的には可笑しいが「駆けった」ことがない、という指摘は、大蔵官僚の賀屋興宣にしては云い得て妙である。
『新潮45・昭和63年12月号・追悼昭和文化革命』P64

◇近衛文麿の人となりを著わすエピソードとして多くの昭和史に引用される件である。≪近衛公爵は私に向かって「いよいよ仏印の南部に兵を送ることになりました」と告げた。私は「もう船は出帆したんですか」と訊くと「ええ、一昨日出帆しました」という。「それではまだ向こうに着いていませんね。この際、船を途中、台湾かどこかに引き戻して、そこで待機させることは出来ませんか」「「すでに御前会議で論議を尽して決定したのですから、今さらその決定を翻すことは、私の力ではできません」との答えであった。「そうですか。それならば私はあなたに断言します。これは大きな戟争になります」と私がいうと、公は「そんなことになりますか」と、目を白黒させる。私は「きっと戦争になります。…」と言った≫英米を知悉する外交官・幣原の予言は的中する。松岡洋右も本能的に危険を察知していて期せずしてエリート外交官も野武士のような外交官も英米の本質を理解していたことになる。知らないのは政治家・軍人だった。ここも重要なポイントなのだが「英米可分論」という希望的観測が軍部を支配していた。思えば日本軍部は開戦から敗戦まで希望的観測のオンパレードだったと言っていい。
外交五十年』幣原喜重郎 中公文庫 P209

◇近衛の古い友人、山本有三(作家)の晩年の手記の秘話である。近衛が昭和12年、最初の大命降下(総理大臣になれと云う天皇の命令)の頃、≪彼は、弟の秀麿といっしょに、軽井沢へ、自動車で行ったことがあります。その日は、あいにくの吹き降りだったので、中仙道では、行きちがう車もなく、歩いている人にも、ほとんど出会いませんでした。車は狭い街道を、どろ水をはねあげながら、本庄から高崎へ向かって走っていました。と、遠くに、黒い、何かが見えたと思っているうちに、道ばたに、車を避けていたおばあさんと、小さい女の子を、またたくまに、追い抜いてしまいました。近衛は、とっさに車をとめさせ、やがてバックを命じました。「あのおばあさんと子ども、どこまで行くのか、聞いてごらん」近衛がそういうと、運転手は不服そうに『あの、ばあさんにですか?』『とにかく、尋ねてみたまえ。』『車がよごれますがねえ。』『そんなことは、どうでもよい。』……ふたりは、かぶっていた雨よけのゴザをぬいで、車に乗りましたが、雨はすでに着物にまで滲みとおっていたようです。おばあさんは、くだくだしく礼も言わず、そのまま運転手の横に、娘といっしょに、腰をおろしました。この年寄りの動作は、飾りけがなくて、そこに自然の美しさを見たと、秀麿は言っています。もとより、おばあさんは、この車の主が、誰であるか知るはずがありません
このエピソードは近衛の性格と心情を如実に示す。自分が、華族出身の身分を疑問に思い「機会の平等」を言い、後年、共産主義者に見まがわれるような「分配の平等」を言った。この書は、近衛の私生活まで描ききっている。近衛秀麿とは異母弟で指揮者。
われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子 中公文庫 P161

◇保阪正康氏は3000人もの戦争関係者を取材している。昭和天皇が倒れた昭和63年秋、細川護貞に取材している。前回、記述したように、細川は近衛の秘書にして近衛は岳父。子・護煕は平成05年、総理大臣になる。保阪氏は肝腎なときの近衛の弱さを執拗に追及した結果が次のようなものだった。あまり話したくはなかったらしい。≪「あのころ、その昭和16年10月半ばのことになるわけだが、近衛さんはひどい“痔”に悩んでいたんだね。痛くて痛くて、たまらないらしく、医者に診てもらっても、すぐには痛さはとれなかった。それに耐えながら、執務をしていた。陛下のもとに上奏にいかれた帰りなどでは乗用車の座席に座っていることもできずに、前かがみになってね、痛さに耐えていた。お尻を少しだけ椅子に乗せるという状態でしたね≫痔疾の痛さは、なった者でないと解らない。筆者も経験済みである。
≪日米開戦か、外交交渉か、と東條英機につめよられながら、近衛は、痔の痛さに耐えながら、その不快さに人間味を丸だしにして、東條と衝突していた。近衛にすれば、肉体の痛みは、開戦をひたすら主張する東條の強硬論でさらに倍加したはずであった≫近衛は後継首相を決める重臣会議を欠席する。それすら責任回避・逃避と執られたらしい。≪岡義武の『近衛文麿』にも「近衛は病いを理由として欠席したが、この会議において木戸は後継首班として東條を推し、重臣多数はこれに賛成した」と書かれているに過ぎなかったのだ。「病いを理由として」というのは、…実は、痔であった、と私はわかったのである。…近衛の痔の痛さは言語に絶するものであったのだろう≫
昭和史 忘れ得ぬ証言者たち』保阪正康 講談社文庫 P205

筆者は、近衛文麿は戦争責任者である、という立場はとらない。事実上、宮廷bQのむしろ担ぎやすい、自分たちの云う事よく訊いてくれる陸・海軍の策略だったと思う。近衛文麿に日米開戦へのポイントで決断できないのを大方の軍人は知っていたに違いない。最後に近衛文麿の歎きと遺書を紹介しておく。いずれも“『近衛文麿─「運命」の政治家』 岡義武 岩波新書”からの引用である。(この本は絶版になっているがネットでは古本が流通している。)

「戦争前には軟弱だと侮られ、戦争中は和平運動者だとのゝしられ、戦争が終れば戦争犯罪者だと指弾される。僕は運命の子だ」。また、「人間の一生は棺を蔽うてからでなければ、分らない。いや棺を蔽うて何十年も何百年も経つて後の歴史家が公正に判断してくれるだらう」。そして、「僕は運命の子だ。僕の周囲に今まで去来した数々のいろいろな分子、右といはず左といはずいろいろな人々が僕を取巻いたことが、否、取巻かれてゐたことが、今日の僕の運命を決定したのだ。これは僕の責任でもあり、悲しい現実であるのだ」P228

「僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、所謂戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪へ難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽したのである。その米国から今、犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへそこに多少の知己が存することを確信する。戦争に伴ふ昂奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語と是等一切の所謂輿論(いわゆるよろん)なるものも、いつかは冷静を取り戻し、正常に復する時も来よう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。」P233

画像は昭和16年01月場所前の、双葉山・前田山の申し合い。

近衛文麿の画像すべてに云えることだが、その視線には常に、難問を押し付けられた「なぜ自分が」という猜疑・懐疑・不信の心情がほの見える。

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2011/8/20  19:31

日米開戦への道02  昭和史
総理大臣・近衛文麿
前回、ポイント・オブ・ノーリターンは「松岡洋右」を取り上げたが、私見を添えるのを忘れていた。末尾に記したのでご案内します。このシリーズ、必ず末尾に筆者の天の邪鬼の私見を述べてみたい。尚「ポイント・オブ・ノーリターン」は、題名が長いので訂正します。

「日独伊三国同盟」が締結されたときの政権は「第二次近衛文麿内閣」である。ここでは近衛文麿とはどんな人物で、どういう風に「太平洋・大東亜戦争」に加担したのか、述べてみたいのだが、およそ近代史・昭和史の書物に「昭和天皇」と「近衛文麿」は出てこない書は無い程の政治家である。近衛文麿に関する重要事項を列挙しただけで長文のブログ記事になってしまうので、昭和史において避けて通れない事項は「見出し」にとどめ、「暗殺されても仕方がない」と覚悟した昭和16年09月の“アメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルト─近衛文麿、頂上会談”を考察することにする。

近衞文麿(このえふみまろ)は、明治24年(1891)生れ─昭和20年(1945)12月16日、GHQ出頭命令当日の深夜自殺。出自は遠く藤原鎌足まで遡る。平安時代の「藤原忠通」がはっきりした祖先だが、天皇家を「近く」に居て「衛(まも)る」ところから、近衛姓を名乗る。いわゆる五摂家の筆頭格である。ただ江戸時代上期に近衛信尹(のぶただ)に子が無く107代・後陽成(ごようぜい)天皇の第4皇子を養子にする。つまり近衞家の第30代目当主だが、後陽成天皇の12世子孫にあたる。

全体の行数で詳細は控えるが、ミュージカル『異国の丘』の主人公・近衛文隆は長男。終戦間際、中国大陸に居てソ連軍に捕まりシベリアに抑留され、昭和31年帰国寸前病死。誰が考えても粛清である。次男通隆は、近衛が青酸カリ自殺したとき隣室に居て防げなかった。大正12年生まれで元東大教授、健在である。次女・温子(よしこ)は23歳で早世するが、秘書でもあった熊本細川藩末裔の細川護貞との間に二人の子を成す。長男は平成05年、79代総理大臣に就任した細川護熙、次男は護輝。忠てる(火+軍)と改名して近衛家を継ぐ。妻は三笠宮家の長女・やす子(宀+心+月)。長男の忠大(ただひろ)は、「宮中歌会始」などで朗詠する姿が見られるが、近衛文麿の曾孫になる。「近衛家の戦争」(平成16年放送・録画)を見たが、曾祖父に貌がよく似て居て同じく英会話も堪能である。同時出演の日系五世が、日本語が喋られないのは情けないことではある。(忠てる・やす子は“文字化け”のため)

近衛文麿は、第三次まで内閣を組織するが、とくに二・二六事件のあとの4年間に総理大臣を任され、国家予算の70パーセントを費消する軍部を最後まで抑えきれなかった。本人にしてみれば「天皇の次に偉い自分の云うことは誰もが承知する」と安易に考えていた。この点が評価の分かれるところだが、日本の軍国主義者連中は、中国本土の「関東軍」のように昭和天皇・大元帥の「日米避戦」の思惑さえ無視した。今日では出先機関の暴走は「関東軍」と揶揄される。日本の軍人は「軍事攻勢が富国」を最後まで信じて疑わなかったことになる。

◇大正07年(1918)に、論文「英米本位の平和主義を排す」を執筆。
◇学習院中等科時代の木戸幸一(内大臣)・原田熊雄(西園寺公望秘書)と友人となる。
◇昭和08年(1933)政策研究団体「昭和研究会」発足。「ゾルゲ事件」の尾崎秀実(おざきほつみ)も参加していた。
◇昭和12年(1937)06月04日に、元老・西園寺公望(さいおんじきんもち)の推薦で、第1次近衛内閣を組織した。就任時の年齢は45歳。
◇昭和13年(1938)01月11日、御前会議でドイツの仲介による「トラウトマン工作」を参謀本部が求める方針だった。しかし関東軍の暴走を止められず、近衛は01月14日に和平交渉の打切りを閣議決定、01月16日に「爾後國民政府ヲ對手(あいて)トセズ」の声明を国内外に発表、講和の機会を閉ざす。
◇昭和15年(1940)07月22日に、第2次近衛内閣を組織。09月23日、北部仏印進駐。09月27日に「日独伊三国軍事同盟」を締結。
◇昭和16年(1941)07月18日に、第3次近衛内閣を組織。07月28日に「南部仏印進駐」を実行。これに対するアメリカの「対日石油全面輸出禁止」等の制裁により日本は追いつめられる。09月06日の「御前会議」で「帝国国策遂行要領」を決定。アメリカ、イギリスに対する交渉期限を10月上旬に区切り、要求が受け入れられない場合、アメリカ、オランダ、イギリスに対する開戦方針が決定される。
◇昭和20年01月、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏、戦争の早期終結を唱えた。

近衛文麿政権末期の昭和16年09月06日の「御前会議」が最も重要で、近衞はようやく日米首脳の頂上会談による解決を決意し、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーに極秘のうちに会談を申し込む。腰の重い、なにごとも決意できないでいる近衛にも「日米開戦」が現実味を帯びたことを認識したに違いない。事態が切迫していることを察知したグルーは、直ちに首脳会談の早期実現を要請することを本国に知らせた。だが、このあと度々叙述することになるが「マジック」という暗号解読で日本の軍事的、政治的方針などアメリカ本国ではとっくに承知していたことになる。

日本政府は陸海軍の随員、郵船会社の「新田丸」の徴発など、近衛文麿の命を賭した計画の「近衛書簡」をアメリカ側に提出した。ところがこの内容がアメリカのメディアに洩れてしまう。天の邪鬼を気取った筆者のような素人でも、どう考えてもこれはアメリカ政府の意図的な情報流失としか考えられない。情報が伝わった日本のメディアと右翼、世論までもアメリカと戦わずして屈服するのか、と非難轟々となるのは自明の理。今では殆んど理解されないが、当時は「日米非戦」など非国民以外なにものでもなかった。右翼KYが「新田丸」に乗るため横浜港へ出向く近衛文麿一行を、多摩川にかかる六郷橋に爆弾を仕掛けて暗殺する計画が事実あったらしい。あとは軍部を説得できない近衛は辞任するしか方法は無かったことになる。

近衛文麿の遺書・評価・その人となりのエピソードは次回にする。
エピソードには、近衛文麿の性格を表す記述が「昭和史」の書には多々ある。

この項の参考書
◇『近衛文麿─「運命」の政治家』 岡 義武 岩波新書
◇『あの戦争になぜ負けたのか』 半藤一利・保阪正康他 文春新書

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2011/8/16  18:02

日米開戦への道01  昭和史
外務大臣・松岡洋右

「日独伊三国軍事同盟」を推進した第一人者は、「松岡洋右」。昭和15年(1940)07月22日に成立した第二次近衛文麿内閣で、近衛に請われて外務大臣に就任した。内閣成立直前の07月19日、近衛が、松岡、陸軍大臣・東條英機陸軍中将、海軍大臣・吉田善吾海軍中将を別宅「荻外荘」(てきがいそう)に招いて行った「荻窪会談」で、松岡は、軍部になびいている外交のリーダーシップを強く要求。自らの強い信念とそれまでの大人しい外交に大いに不満を持っていたからである。結論から言えばその唯我独尊的な“松岡構想”の思惑が外れ失敗に終わることになる。

昭和15年・16年頃の「日米間対立」「日米間交渉」は、筆者の「私解 戦争の昭和史」で現在詳しく推敲している。ここでは先に10人ほどの政治家・軍人などの重要点を列挙すると、それが「日独伊三国軍事同盟」だけでなく太平洋・大東亜戦争の≪ポイント・オブ・ノーリターン≫ともなる。

松岡洋右は、明治13年(1880)、現在の山口県光市室積に生まれる。生家は≪今五≫(今津屋五郎左衛門)と謂う廻船問屋の四男だった。≪今五≫は幕末の長州藩の下級武士のスポンサーで高杉晋作や山縣有朋などを支援していた。父親が事業に失敗し破産したこと、父親の親戚が渡米して成功を収めていたことなどから13歳で渡米する。だが留学とは名ばかりで苦学してオレゴン大学法学部を明治33年(1900)に卒業する。母親の健康状態悪化などを理由に明治35年、九年振りに帰国。直木賞作家で元読売新聞記者の三好徹氏によれば、帰国せず東部のコロンビア大学、ハーバード大学に学んでいれば、松岡の「二流のトラウマ」はなく、日本の近代史は変わっていたかも知れないと云う。後年、松岡が元勲・山縣有朋に「今五」の倅であることを告げると山縣の別荘・目白の椿山荘(ちんざんそう・文京区関口)に招かれ上座に置かれてもてなしを受けたと云う。筆者はもうこの時から松岡は長州出身の選良意識が芽生えたのではないかと想像する。

松岡はアメリカ西部の二流大学夜間部出身だが頭脳は極めて優秀、明治37年(1904)に外交官試験に首席で合格した。このことはまだ明治時代末期なのに、もうすでに≪東大法学部卒・いわゆる各省庁のキャリアが主流≫を、松岡は感じ取っていた。キャリアは頭脳優秀だが、現実の外交には、松岡には、ひ弱で役立たずに思われた。その矛先をひとり挙げれば、戦後、昭和20年10月より半年間だが総理大臣にも就任した幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)である。幣原は大正時代末期から何度か外務大臣に就任。妻は三菱財閥創始者の岩崎弥太郎の娘だった。東大法学部卒・華麗な閨閥で、イギリス勤務のときは本場で英語の個人レッスンを受けた。流麗な英語を駆使し、“欧米協調外交”を展開する幣原には、松岡は欧米流の外交官を真似しただけの「鹿鳴館」もどきにしか映らなかったと思う。

ここでは近代史で知られている松岡洋右に関する事項を4点に絞る。

@大正08年(1919)からの「パリ講和会議」には、随員だが報道係主任として派遣され、サイレント(沈黙・おとなしい)の日本政府のスポークスマンとして英語の弁舌で力を発揮。初代総理大臣・伊藤博文の息子により紹介され、同じく随員であった近衛文麿とも出会う。近衛は全権代表の西園寺公望の将来を託した単なる随員だった。この会議には戦後の総理大臣・吉田茂、外務大臣になった有田八郎・重光葵(しげみつまもる)もおり、吉田茂の岳父・牧野伸顕(まきののぶあき)も代表の一人だった。

A満州鉄道勤務のあと政友会の衆議院議員であった松岡は、昭和06年(1931)01月(満州事変が勃発するのは09月)、濱口雄幸(はまぐちおさち・昭和05年11月、「特急つばめ」に乗るために東京駅に来たところを狙撃される。翌年死亡)内閣の幣原喜重郎外務大臣による「欧米協調外交」を批判した。その演説で有名になったのが「満蒙は日本の生命線」なるフレーズ。満州事変以降よく使われたスローガンになった。たとえば「龍角散」のキャッチコピーに引用され「咽喉は身体の生命線、咳や痰には龍角散」がそうである。濱口雄幸の暗殺はその後、五・一五事件の犬養毅、二・二六事件の高橋是清・斎藤実両元首相の暗殺とエスカレートする。総理大臣暗殺が戦争をもエスカレートさせたことは十分立証されている。

B昭和06年(1931)の「満州事変」の後、国際連盟は「リットン調査団」を派遣、その報告書が09月に提出。ジュネーブ特別総会での採択を待つ。松岡は同総会に日本の首席全権として派遣された。その類まれな英語での弁舌で12月08日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。「十字架上の日本」と解釈できる内容。演説自体は絶賛の拍手を浴びる。だが翌年02月24日、行われた総会で「満州国は認められない」との報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=タイ)の圧倒的多数で可決。松岡は予め用意の宣言書を朗読して退場。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を決意する文言はないが、昭和07年03月08日に日本政府(斎藤実(さいとうまこと)内閣)は、脱退を決定(同27日連盟に通告)。翌日の新聞には『連盟よさらば/連盟、報告書を採択、わが代表堂々退場す』の文字が一面に大きく掲載された。満州事変以降は、新聞・雑誌メディアは、ナショナリズム一辺倒だった。とにかく「満州事変」より新聞は大いに売れたのである。傷心して帰国した松岡は逆に「英雄」として迎えられた。演説のあと、ジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは独裁体制を確立していたムッソリーニ首相と会見。紙数の関係で詳細は省くが、アメリカ・オレゴンに寄り、東洋の少年・松岡をも分け隔てなく接して育ててくれたオレゴン時代の大恩人ベバリッジ夫人の墓を詣で、墓を造り直してもいる。

C第二次近衛文麿内閣で20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰。重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、「革新派外交官」の白鳥敏夫を外務省顧問に任命。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させた。このいわゆる「松岡人事」は、ことの是非はともかく今でも歴代外務大臣では最低の大臣として記憶されているらしい。このあとの日米開戦通告の遅れなどは殆ど「外務省中枢」のサボタージュと云われている。今も昔も役人人事はする方もされる方も国益は無視である。

「日独伊三国軍事同盟」は昭和15年(1940)09月27日成立し、松岡は翌年昭和16年(1941)03月13日、同盟成立を名目としてドイツ・イタリアを歴訪、ヒトラー・ムッソリーニと首脳会談を行い大歓迎を受ける。帰途モスクワに立ち寄り、04月13日には「日ソ中立条約」を電撃調印。シベリア鉄道で帰京する際には、スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面もあった。松岡ならずとも有頂天になるだろう。この訪欧の最大の眼目が、スターリンとの会談だった。いわゆる松岡の外交構想は、「大東亜共栄圏」(このフレーズも松岡が公人としては初)の完成を目指し、ソ連と「不可侵条約」を結んでいるドイツと共に“ユーラシア枢軸構想・四国連合構想”を完成させ、米英との勢力均衡を土台にして、アメリカ・ルーズヴェルト大統領と日米交渉をすることだった。

だが帰国する前に正規のルート以外で「日米交渉」が行われていた。結論として松岡の「四国連合構想」も、外務省のサボタージュで浮き上がっている海軍大将・野村吉三郎駐米大使らの「日米交渉」も米国国務長官コーデル・ハルには、信用できないと相手にされなかった。独ソ戦争が勃発すると松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して「対ソ宣戦」することを閣内で主張したりする。近衛文麿や軍部の「南部仏印進駐」を閣内で一人だけ強行に反対した。近衛は07月16日内閣総辞職し、松岡外相を更迭した上で第3次近衛内閣を発足。唯我独尊の松岡も「南部仏印進駐」が対米英戦争の原因となることを察知していた。それが証拠に訪欧時にヒトラーに何回となく催促されたイギリス植民地の「シンガポール攻略」だけは拒否していた。

松岡は、自分がアメリカへ乗りこんで決着させる日を夢見ていたが、昭和16年12月06日、「日米開戦」を知り「三国同盟は、僕一生の不覚であった、死んでも死にきれない」と周囲に漏らし涙を流した。外相更迭の頃から「結核」に倒れて昭和20年、敗戦の頃は別人のように痩せ細っていた。A級戦犯容疑者として連合国GHQの命令により逮捕されたが、結核悪化のため極東国際軍事裁判法廷には一回しか出席できなかった。昭和21年06月27日、東大病院で病死、66歳。辞世の句は「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉(よみじ)」。すべて日本的なるものへの決別の意味もあり、臨終のわずか数時間前、カトリックの洗礼を受けた。洗礼名は「ヨゼフ」。

筆者は、松岡洋右は学歴・閨閥に関係なく能力のみで、当時サイレントにあった日本の外交の舞台に踊り出て、本音で日本の立場を考慮したことを評価する。失敗に終わったが、今も昔も日本の外交官は、エリート意識の強い官僚で、していることとしたらマニュアル通りで情報・諜報に関しては北朝鮮にも劣る。当時の外交官は、世界の情勢を把握しているのに軍部に逆らえない役立たずだった。少なくとも松岡は、それを打破しようと己の能力に賭けた。

実妹・藤枝の子が「佐藤寛子」、寛子は従兄の佐藤栄作と結婚。栄作の兄は岸信介。義理の甥の二人は東大法学部卒。戦後、兄弟共に総理大臣になったのは、むろん松岡は知る由もない。最後に病床を見舞ったのは若き佐藤寛子・佐藤栄作夫婦だった。

主要参考書
◇『松岡洋右』 三輪公忠 中公新書
◇『松岡洋右─夕陽と怒濤』 三好徹 人物文庫
◇『日米開戦への道・上』 大杉一雄 講談社学術文庫
◇『フリー百科事典・ウィキペディア』

2列目右側が松岡、左から2番目が東條英機。

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2011/8/11  22:32

日独伊三国同盟  昭和史
日独伊三国同盟とは、1940年(昭和15年)09月27日に日本、ドイツ、イタリアの間で締結された同盟関係。いわゆる第二次世界大戦時の枢軸国と呼ばれた。1937年(昭和12年)の「日独伊防共協定」を具体化し、アジアにおける日本の後の「大東亜」という地位とヨーロッパの独伊の覇権の相互確認で、他国から攻撃されたら相互に援助すると取り決めもなされた。

ナチス率いるドイツと対立するイギリスやオランダとの関係が悪化し、アメリカの対日感情も悪化することに懸念はなかったのか、今となっては何とでも言えるが、軍部の主流は、国力はそっちのけの帝国主義的発想で、何としても中国本土や東南アジアでは、一等国の地位を手放す気持ちはなかった。昭和06年の「満州国成立」は、日本の為政者、軍部がソ連の共産主義革命に怯えたというある種の理由は存在していたのは確かだが…。ナチス・ドイツは、日本の思惑などどうでもよく、ヨーロッパ戦線におけるアメリカの参戦を牽制する意味合いが濃かった。三国はイギリス・スペインなど欧州の主流に比べると植民地獲得が少なく、それぞれの国情が一致したに過ぎない。よく考えれば、日本が遠く離れたドイツやイタリアと軍事同盟を組んでも得するものは無かった。

締結以前、昭和14年には、英米協調派が少なからず居た海軍には反対が多く、米内光政(海軍大将・総理も経験)・山本五十六(海軍中将)、井上成美(海軍少将)のトリオは、実利のない条約には猛反対で「条約推進派」を怒らせた。だが昭和14年・1939年、ドイツのポーランド進撃に始まる大勝利が、日本の陸軍はおろか海軍、外務省、国民までも熱狂させた。前年の昭和13年にはナチス親衛隊の“ヒトラーユーゲント”が来日。張り切ったのが朝日新聞、日比谷公会堂で「歓迎講演会」など文部省と共催して大いに盛り上げた。この新聞の罪は重い。

日本は、既に日中戦争で莫大な戦費を費やしており、蒋介石政権を支援するアメリカと対立しつつあった。「日独伊防共協定」を発展させ、アメリカを牽制することで、日中戦争を有利に処理しようとしていた。日本がアジア太平洋地域の英仏蘭の植民地の支配を事前にドイツに了解させる意図もあった。ドイツが完全に勝利することを疑わなかったことになる。

フリー百科事典「ウィキペディア」参照。

画像は首相官邸の祝賀会。右からオット・ドイツ大使、インデルリ・イタリア大使、外務大臣・松岡洋右、企画院総裁・星野直樹、陸軍大臣・東條英機。何故だか総理大臣・近衛文麿が居ない。

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2011/8/10  21:23

ポイント・オブ・ノーリターン  昭和史
このブログで御厚誼頂いている関西の方から質問がなされたので可能な限り、筆者が知る限りにおいてその設問に応えてみようと思う。それが自分の勉強・確認にもなるからである。

日米戦争に至る日本が≪「引き返し不可能地点」まで来てしまった元凶は誰(複数)なんでしょうか?≫が設問である。この日米開戦のポイント・オブ・ノーリターンはおおよそ次の事変が考えられる。

@昭和16年07月29日 南部仏印進駐
 この時点ではもう遥かに後戻りできない感がある。南部仏印はフランス領インドシナ、当時のビルマ・ラオスでシンガポールは近い。英米との対立は、当初はイギリスであってアメリカではない。
A昭和15年09月27日 日独伊三国同盟締結
 昭和12年の「日独防共協定」を発展させたもの。英仏と対立するナチスドイツと手を組む、という協定は今日では考えられない。簡単に言えばアメリカの本音は“無法者”のヒトラー、ムッソリーニのファシズム国家と提携する日本にはもう妥協する余地は無い。
B昭和12年07月07日 盧溝橋事件、日中全面戦争
 ウィキペディアで検索するとA4で16頁にもなる。「満州国」という傀儡政権を創ってからは後に引けなくなった。10万人の英霊・戦死者をだしたのが撤兵できない軍部の理由。関東軍の暴走ではあるが、帝国と言いながら貧しい日本全体が、中国人・朝鮮人への侮蔑は恒常化していた。
C昭和06年09月18日 満州事変
 関東軍の暴走によって新国家を造ってしまった。ひとこと弁明すれば中国は今では広大な国家だが、当時は群雄割拠だった。日本民族のような単一民族ではなく、漢民族・朝鮮族・満州族・モンゴル族など統一された国家ではなかった。孫文の革命は志半ばだった。関東軍作戦主任参謀の石原莞爾と高級参謀の板垣征四郎の謀略により事変は引き起こされ政府は追随した。蛇足ながら文化勲章受章者で指揮者の小澤征爾はこの二人から名を頂戴している。

筆者は「日独伊三国同盟」がポイント・オブ・ノーリターンだと思う。この分岐点超えた元凶を10人ほど挙げてみたい。昭和15年・16年は、一人の政治家乃至は軍人がリードしたわけでは決してない。あらゆる責任は、現今の日本と同じく権限が縦割り状態で、唯一決断できる昭和天皇は大日本帝国憲法でがんじがらめにされていた。厳密に当時の憲法に照らせば「終戦の決断」こそが重大な憲法違反になるのである。

昭和61年04月、NHK特集で「ドキュメント昭和」という特集があったらしい。筆者は見ておらず録画もしていなかった。これが角川文庫で9冊出版されている。第一巻の『理念なき外交「パリ講和会議」』のP222の画像である。「パリ講和会議」とは大正08年・1919年、第一次世界大戦の終戦処理だった。日本も世界の5大国として参加したが、サイレント・パートナー(沈黙する人・沈黙せざるを得ない人)だった。文庫本の見開きだから画像は不鮮明である。前列左から3人目が松岡洋右、6人目が重光葵、8番目が吉田茂、中段右から10人目が近衛文麿、前列折目の右側が全権代表・西園寺公望(第12代総理大臣)、左が牧野伸顕(大久保利通次男・吉田茂の岳父)。随行団の若手は、昭和になってから節目に存在する外交デビューとも云える。

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2011/8/6  21:06

昭和16年  昭和史
今年は2011年、昭和だと86年、70年前の昭和16年12月08日、米国ハワイ真珠湾を日本海軍が攻撃して日米の戦争が始まった。今思えば、随分馬鹿なことをしたと云うのはたやすい。どのメディアも何らかの検証をしているだろうが購読する“産経新聞”では月に一度「日米開戦70年目の検証」を掲載している。02月から07回目、今月は、本日06日「あと4カ月」のサブタイトルがある。

昭和16年07月26日、帝国陸軍は“南部仏印(当時のフランス領インドシナ、ビルマ・ラオス付近)”に進駐。08月01日にアメリカから「石油禁輸」の措置を受ける。当時海軍の艦船には必須の石油はアメリカから90パーセントを輸入していた。日本軍部はフランス領なら構わないだろうぐらいの安易な計算だった。前年の「日独伊三国同盟」締結で、もうとっくにポイント・オブ・ノーリターン(歴史的引き返し不能分岐点)を過ぎていたが、この事実が決定的な日米開戦に繋がる。今では解っている事実だが、アメリカは、日本の外務省・軍部の情報などは「マジック」と言われて、暗号は解読され、日本の作戦は筒抜けだった。「それは駄目ですよ」というシグナルも無かったようなので、アメリカは日米開戦を望んでいたことが明らかである。

筆者は、個人的に『戦争の昭和史』を何度も書き直している。平成20年に「@帝国陸・海軍は何をしたのか」で、昭和19年の「インパール作戦」、平成21年に「A帝国陸・海軍とは何だったのか」で「東條英機の人間関係」を推敲して以来、第三章の「日米間対立」「日米交渉決裂」に関わる参考書を二年間かけて読みなおした。「日独伊三国同盟」を推進した当時の「松岡洋右外務大臣」がいちばん悪い政治家と安易に思っていたが、真相はやや軌道修正を余儀なくされている。今では政治家で誰がいちばん悪かったと云えば、内大臣・木戸幸一であり、メディアでは徳富蘇峰、陸軍では杉山元、海軍では永野修身である。東條英機は、今も昔も変わらない、総理大臣は「軽くてパア」が良かったのである。木戸幸一は、近衛文麿に責任を転嫁、昭和52年まで生き、徳富蘇峰に至っては江戸時代末期の生まれで昭和31年まで生きた。

そして「日米開戦」を何よりも望んだのは真相を何も知らされなかった国民・世論だった。つまり朝日・毎日新聞には大いなる責任が存在していたことは間違いない。その証拠に、太平洋・大東亜戦争の主要な画像は、そのほとんどが朝日・毎日新聞に著作権?を有することにある。

画像は昭和16年04月13日(日)の「日ソ中立条約」調印式。サインするのは松岡洋右。右はヨシフ・スターリン。この時、ヒトラーが既に「独ソ開戦」を決意していたが、二人ともその情報を無視していた。講談社『日録20世紀1941』より。

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2011/8/2  16:44

東京電力02  身辺些事
「東京電力」はマンモス企業である。他の大企業、政府、学者、マスコミに何かしら資本・人事・開発費・広告と隅々まで援助が行き渡っている。だからどうだか解らないが「福島原発メルトダウン」と世界的な大事故でも首脳陣の土下座で、一件落着のおもむき。

東北の人間は、ほんとうに忍耐強い。関西だったらこうはいかないのではないか。もうそろそろ5か月に達するのに、瓦礫・仮設住宅・漁業・放射能と問題は山積。みな各省庁の縦割り行政・裁量・法律に阻まれて、復興の前進は牛歩である。英邁な総理大臣を輩出できない現政権政党の責任は重大。菅直人総理大臣がいちばんのガレキと言われる所以。

ところで筆者の家の前の電信柱は、木造で古く西側に倒れ掛かっても居て、つっかい棒がしてある。NTTや有線放送のコードも絡み合ってまことに見苦しく汚い。NTTは光ケーブルは設置してもアナログ線は撤去しないままだ。

拙宅の前の家の媼(おうな・おばさんの意)は真っ当で強力である。たくさん税金を納めている自負もあるだろう。東京電力に、この「汚い電信柱を何とかしろ」と抗議した。だが担当者はケンモホロロだったらしい。業を煮やした媼は、東京電力の社長に直接、手紙を書いたらしい。社長はこれに応えたかたちになるのか、言ってみるものである。昨日より木造のヨレヨレの電信柱を撤去、電圧計や送電線も最新のものにする工事が始まった次第。画像は拙宅の二階から撮影。したがって筆者のマイカーは「ベンツ」ではないが、車庫前の工事につき4日間は出ることができない。猛暑につき「高みの見物」もいい。

東京電力は「福島の原発」も早急に撤去、放射能汚染も早急に解決すべきである。これも媼に手紙を書いて貰えば解決が早まるかも知れない!

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