2011/8/30  20:27

日米開戦への道03-1  昭和史
統帥権(とうすいけん)」とは何か。

国民的作家・司馬遼太郎が晩年(平成07年02月死)エッセイで度々取り上げたのが「統帥権」と「土地問題」である。(『この国のかたち4』文春文庫)バブル経済における「土地問題」も重要だが、ここでは割愛する。司馬遼太郎が統帥権を声高に語るのはそれなりの理由がある。自身も学徒出陣で徴用されたからである。昭和18年11月、大阪外国語学校を仮卒業。翌年04月に、満州四平(まんしゅう・しへい・スーピン)の四平陸軍戦車学校に入校し12月に卒業。生死を分けたのは、戦車学校で成績が良かったからである。つまり愚かな「大日本帝国陸軍」の更に愚かな「本土決戦」作戦によって戦闘も経験せずに済んで昭和20年、栃木県佐野市に小隊長として配属されたからである。作家になってから折に触れて追及する統帥権は、帝国陸軍の戦車の愚かさを通して経験的・合理的・科学的にこれでもかと徹底的に明らかにした。『歴史と視点』(新潮文庫)に詳説されているのでこれも割愛する。

司馬ファンなら誰でも知っている「大日本帝国陸軍の愚かさ」をここでは一つ紹介する。司馬は陸軍少尉としてこの地で終戦を迎えた。エピソードは昭和20年05月の敵上陸の想定演習の件である。≪敵上陸を想定しての演習があった。そのとき、たしか高崎経由で南下する要路だったと思いますが、東京からの避難民が大八車に家財道具を積んで逃れてくる。当然ながら混維が予想されるので、交通整理はどうなるのか聞いた。すると、大本営から指導にきていた東北人の少佐参謀がずいぶん考え込んだあげく「轢き殺して行け」といった。『司馬遼太郎対話選集6・戦争と国土』P45≫つまりは国民の生命を守る筈の軍隊が、アメリカとの決戦しか頭には無く、戦車隊としては組織の都合を優先したわけで、司馬遼太郎でなくても怒りが湧く。当時の国道など今の県道以下で舗装もされていなかっただろう。いざ戦争になったら自分たちの戦術・戦闘以外は、国民の命にさえ思考力が及ばなかったことにある。

当時の「大日本帝国憲法」では、統帥権と統治権(とうちけん)は次の通り。

第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム


戦前の大日本帝国憲法下でも三権分立は存在した。議会・内閣・司法(大審院)である。だが今日のように主権在民でなく主権は天皇にあった。

第03条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

とある。(「ヘカラス」は“べからず”だが、大日本帝国憲法は濁音が省かれている。)従って内閣・行政は政治家が輔弼(ほひつ)、軍部は輔翼(ほよく)といって天皇に信任された者が責任をもって政治・軍事を遂行した。憲法上、天皇はいわゆる「無答責」だったと云える。つまり統帥部とは、天皇が持つ統帥権を付与された機関であり、軍事の最高機関だった。

昭和史で多くの識者に指摘される軍部の「省部」とは、
◇陸軍省・海軍省 = 軍事の予算・人事・編成
◇統帥部 = 軍事の戦術・作戦・戦闘

とくに統帥部は、陸軍は「参謀本部」で責任者は、参謀総長、海軍は「軍令部」で責任者は、軍令部長だった。この統帥部の作戦部・作戦課は、陸軍大学・海軍大学を優秀な成績で卒業した一握りの軍人のみが担当していて秘密主義だった。陸軍・海軍大学とも年度卒業者50人のうち1割の5人は「恩賜の軍刀組」と云われ、天皇から軍刀が下賜された。ここに云わずもがな特権意識が芽生える。現今の「東大法学部卒」「国家公務員上級職」取得といったところか。この統帥大権は大元帥の天皇ゆえに、行政側の内閣総理大臣さえ介入することは許されなかった。つまりよく知られているA級戦犯として処刑された東條英機でさえ統帥部には一切口出しは出来なかったことにある。このいわば縦割り責任の弊害が日米開戦へ導くのである。このメカニズムを知らないからこそ、昭和天皇は「敗戦の決断」が出来たのだから「開戦の決断」も阻止出来た筈、といった安易な主張となる。

参考書
◇『あの戦争とは何だったのか』 保阪正康 新潮新書
◇『統帥権と帝国陸海軍の時代』 秦郁彦 平凡社新書

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