2011/9/30  22:53

日米開戦への道05-2  昭和史
参謀本部&軍令部02

前回、昭和15年・16年当時の統帥部(参謀本部・軍令部)の人事を叙述したが、違うところは日米開戦が近付くと、華族・宮様の総長は交代している。これは宮中の都合に他ならないが、統帥中枢部の戦争への高揚を危険視していたからである。中国戦線はもはや泥沼だった。軍令部総長の「伏見宮博恭王」は単なるお飾りでなく日独伊三国同盟に実質GOサインを出した宮様である。問題は昭和16年になってからの参謀本部総長・杉山 元(すぎやまはじめ)、軍令部総長・永野修身(ながのおさみ)である。この二人の経歴も長くなるので省く。敗戦後は、20年09月に杉山夫婦は責任を感じてピストル自殺する。永野はA級戦犯だったが、判決前に病死している。死者に鞭打つのではないが、両総長も中枢部の突き上げを抑えられる人物ではなかった。

敗戦後「極東国際軍事裁判」通称、東京裁判で明らかになったことだが、昭和天皇の前で重要な政策・軍事を報告して決裁を求める「御前会議」があった。国民には知らされてないことで、メディアも同罪である。この御前会議の内容は別の機会に稿を改める。事実上はセレモニーだった。

あらゆる昭和史の書で触れられるのが昭和16年09月06日の御前会議である。ここで直接政治・軍事に命令を出せない仕組みの大日本帝国憲法の範囲内で、昭和天皇は日米開戦反対の意思表示を間接的に表現した。だが政治家も軍人もそれを守れなかった。御前会議の最後に天皇が、明治天皇の御製を読み上げた。それが天皇の精一杯の抵抗だった。

 四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ

 四方(よも)=世界 はらから(同胞)=人類 波風=対立・戦争

近衛文麿首相は、米国ルーズヴェルト大統領との“日米頂上会談”に固執しているうちに09月03日「帝国国策遂行要領」が決まる。昭和天皇は「これをみると、一に戦争準備を記し、二に外交交渉をかかげている。何だか戦争が主で外交が従であるかのごとき感じをうける」と納得しなかった。急遽、09月05日夕刻、杉山参謀総長、永野修身軍令部総長が呼び出される。同席した近衛文麿の『失はれし政治』に書かれている有名なくだりがある。(半藤一利著『ドキュメント太平洋戦争への道』P292〜295)毎度玉虫色の上奏だが、さすがに天皇も危機感を抱いたに違いない。軍事作戦の専門部門であれば、外交など添え物である。孫引きだが少々長い

天皇 日米に事おこらば、陸軍としてはどれくらいの期間にて片付ける確信があるか。
杉山 南洋方面だけは三カ月で片付けるつもりであります。
天皇 杉山は支那事変勃発当時の陸相である。あのとき陸相として「事変は一カ月くらいにて片付く」と申したように記憶している。しかし四カ年の長きにわたり、まだ片付かないではないか。
杉山 支那は奥地がひらけており、予定どおり作戦がうまくゆかなかったのであります。
天皇 支那の奥地が広いというなら太平洋は、なお広いではないか。いかなる確信があって三カ月と申すのか。
杉山は答えられず永野がそばから助け船をだした。
「統帥部として大局より申し上げます。今日の日米関係を病人にたとえれば、手術をするかしないかの瀬戸際にきております。手術をしないで、このままにしておけば、だんだんに衰弱してしまうおそれがあります。手術をすれば、非常な危険があるが、助かる望みもないではない。……統帥部としては、あくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は、思いきって手術をしなければならんと存じます……」
二人の統帥部の長の不満足な、矛盾した説明に対して、天皇は大いに不満だった。そこで天皇は訊ねた。
「それでは重ねてきくが、統帥部は今日のところは外交に重点をおくつもりだと解するが、それに相違ないか」両総長は「そのとおりであります」

天皇は納得しなかったが、それ以上は追及しなかった。できなかったのが正解か。元勲・西園寺公望の方針は、天皇は「君臨すれども統治せず」だった。ただし西園寺は前年15年に死去している。内大臣・木戸幸一は天皇の発言要請を押しとどめている。ここに木戸幸一の最初の重大な過誤があった。木戸は天皇の「君臨非統治」の方針もさることながらテロによる自分の命の危険を察知していたのが、今では明らかになっている。

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2011/9/25  19:11

日米開戦への道05-1  昭和史
参謀本部&軍令部01

統帥権(とうすいけん)と統治権(とうちけん)は前述した通りだが、ここでは統帥権を実際に動かした「参謀本部」「軍令部」とは何か知り得る限りで叙述したい。だが、後付けの感情論で戦前の軍国主義の象徴で「国民を苦しめた産物」と決めつけるのは容易い。明治維新後の富国強兵の国是は、極東の貧しい一島国が欧米の植民地に成らなかったのに大きな役割があったのは否めない。だがそれ以上に日本国民・アジア全体に多大な惨禍をもたらしたのも事実である。

 大日本帝国憲法 第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

統帥とは≪軍隊を統(す)べ率(ひき)いること、である。英語では指揮(コマンド)というにすぎず、統帥権も最高の指揮権(supreme command)というだけのことである。英米では統帥権は国家元首に属する。むろん統帥権は文民で統御される≫(『この国のかたち四P135』司馬遼太郎)

大日本帝国憲法では「統治権」も「統帥権」も天皇にありながら実際には天皇から付与された輔弼(内閣)と輔翼(軍事作戦)が最大の責任者。この軍部当事者は自分たちの組織の存続ゆえに天皇の「日米避戦」の考えを折々の上奏で誤魔化して無視したのも事実。外務大臣や総理大臣でさえ口出し出来ないのは、実際、近衛文麿を初め多くの政治家が困り果てた。歴史に刻まれているが、総理大臣33代「林銑十郎」、35代「平沼騏一郎」、36代「阿部信行」、41代「小磯国昭」など歴代首相に名を残して居るだけの人物で重要な政策など皆無である。特に林・阿部・小磯などは予備役で云わば一丁上がりの軍人であり、世界を見渡せる実力ある陸軍大将「宇垣一成」首相就任を阻止するためだけの組閣だった。昭和天皇から昭和12年に「大命降下」があり、その後、16年、19年と重臣より二度の推薦がありながらである。統帥部の頂点は大元帥であるところの昭和天皇である。統帥部のエリート軍人は忠君愛国・臣道実践など見せかけに過ぎない。不忠の臣ばかりと断定して間違いがない。

昭和15年(1940)09月時点
参謀本部総長 閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)
参謀本部次長 沢田茂
参謀本部作戦部長 富永恭次

軍令部総長 伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)
軍令部次長 近藤信竹
軍令部作戦部長 宇垣纏(うがきまとめ)

昭和16年(1941)10月時点
参謀本部総長 杉山元(すぎやまはじめ)
参謀本部次長 沢田茂
参謀本部作戦部長 田中新一

軍令部総長 永野修身(ながのおさみ)
軍令部次長 伊藤整一
軍令部作戦部長 宇垣纏

参謀本&軍令部の解りやすいエピソードは昭和史に満載されている。その解り易く面白い事実を次回、紹介したい。月末の仕事につき、4・5日休載します。

添付は戦前、港区赤坂にあった参謀本部。

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2011/9/23  22:48

俳優・入川保則  映画TV
年金生活者でパソコン大好き人間としては、電源ON、HPを開けば先ず「YHOO JAPAN」、次に「グーグルニュース」を開く。そこでのニュースを見ると有名人・芸能人の生死に関わるニュースが逸早く出ている。これはテレビ・新聞よりも早い。今日は名優・杉浦直樹が79歳で亡くなった。

脇役だが、存在感があり現代劇・時代劇にも活躍した「入川保則(いりかわやすのり)」の記事が出ている。71歳だが、すでに末期癌であるらしい。俳優がプライベートを売り物にするのは、いかがなものかと思うが、芸能人だからこそ売り物にしていいと解釈もできる。入川保則は、昭和37年の「てなもんや三度笠」にも出演とあるから芸歴は長い。昭和14年生。入川保則と云えば、インテリヤクザなどの悪役も多かったが、例えば「水戸黄門」などの時代劇で「越後屋、お主も悪よのう」などのセリフの悪代官役などでは天下一品だった。

昨年07月、精密検査で直腸に癌が見つかり、今年02月の時点で余命、半年から10ヵ月と宣告されたことを公表。本人は自らの死期を覚悟、延命治療や手術などはせず、既に葬儀の手続きも行った。三度の結婚・離婚歴があり、元女優のホーン・ユキは三度目の妻で、三人の子をもうけたが、平成16年に離婚。最初の妻は死去。二度目の妻には二人の子がいて既に孫もいるらしい。『余命半年の生き方』を出版したが、その後、最初の余命宣告を受けてから半年が経過した後も健在で、医師によると当初の予想よりも癌の進行が遅く、この09月の時点で無事に年を越せる可能性が高くなったとの由。

筆者の10代、20代は丁度、昭和30年代、40年代だった。むろん娯楽の王様は映画である。封切りは必ず02本立てで、五社協定というルールもあった。東宝・松竹・東映・日活・大映の五社。日活・大映はもう無い。従って三船敏郎・石原裕次郎・勝新太郎の共演は、独立プロの作品に限られた。

筆者の初めて見た映画の記憶は、10歳・小学校04年生だったのか、小学校の授業での映画見学で『二十四の瞳』だった。主演は、昭和の元号とほぼ同じの年齢の高峰秀子。もっとも好きな女優の一人であったこの高峰秀子も昨年12月28日に亡くなった。昨年は、20代の頃、音楽喫茶“銀座ACB”のクレージーキャッツショーも見に行ったことのある谷啓が亡くなり、岡本太郎と従兄弟であるという池部良、軽妙・重厚な演技の小林桂樹、藤田まこと・名ナレーターでもあった佐藤慶も亡くなった。佐藤慶は謄写版の筆耕の名手でもあった。「昭和は遠くなにりにけり」である。

筆者は天の邪鬼だから男優では、脇役が多く且つ「悪役・殺され役」の俳優がファンだった。いずれこのブログで掲載してみたい。必ずや顔は見覚えがあり、名前は聞いたことがある俳優である。宮口精二・藤原釜足・伊藤雄之助・天本英世・山形勲・潮健児・小池朝雄・成田三樹夫・佐藤慶・沼田曜一 等々。

この項目、記事は「ウィキペディア」、画像はヤフーを引用。

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2011/9/17  23:36

日米開戦への道・余話02  昭和史
昭和史の中で宮崎龍介・柳原白蓮の夫婦と云えばどうしても柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)の方が有名である。殊に白蓮は、華族令嬢の歌人、三度の結婚、三度目は不倫とくれば、今日であれば多分テレビの「ワイドショー」が放っておくわけはない。また今日でも白蓮を主題にした小説も多い。

ここでは昭和史のある分岐点で登場する宮崎龍介(みやざきりゅうすけ)が何時、何に関わったか述べてみたい。昭和12年(1937)07月07日、「盧溝橋事件」が起こり、いわゆる日中全面戦争が始まった。この愚かな事変を起こしたのは、筆者の『無明庵』で述べているが、今でも太平洋・大東亜戦争で最も愚かな軍人として誰もが異存ない「牟田口廉也(れんや)陸軍中将」である。

昭和12年06月04日、多くの人々に期待されて第一次近衛文麿内閣は発足。だがこの近衛の不運な生涯を象徴するように07月に「盧溝橋事件」が起こり、08月には「第二次上海事変」が起こる。近衛が終生、戦争を欲して無かった傍証は数々あるが、暴走する関東軍や陸軍を止められなかった事実と、毅然とした態度が無かった事実も証明されている。ともあれこの昭和12年は二・二六事件の翌年で、陸軍では粛清された「皇道派」に代わって「統制派」という勢力が勢いを増し、ついには日米戦争にまで突き進む。日中戦争を終わらせようとしたドイツの駐華大使「トラウトマン工作」もあり、何より当時の軍事作戦を担当する「参謀本部」は「満州事変」の当局者・石原莞爾(最終的には陸軍中将)が作戦第一部長、参謀本部次長は多田駿(はやお)陸軍大将で、中国国民党軍・蒋介石と最後まで交渉するつもりで日中戦争不拡大の態度だった。尚、当時の参謀本総長は皇族で閑院宮載仁(ことひと)親王。

中国革命の父・孫文(そんぶん)は、宮崎龍介の父・滔天(とうてん)や近衛の父・篤麿(あつまろ)が支援者で、日本に逃れて来た時には「横浜中華街」に匿ったこともある。蒋介石は孫文の弟子である。当時は、参謀本部は中国戦線拡大反対、陸軍省中枢部は、杉山元(はじめ)大臣以下強硬派だった。この頃の日本・中国国民政府・アメリカ・ドイツの関係は国益・人間共に複雑多岐である。一つ云えることは、近衛文麿の「昭和研究会」「陸軍省軍務局」などにソ連・コミンテルンがすでに浸透しつつあったことは、些か調査不足だが事実のようでもある。なにしろ中国全土で日中戦争が拡大・継続すればいちばん得するのはスターリンでしかない。まだこの頃、日米間は対立していない。

本来は、近衛文麿・蒋介石会談が望ましいが陸軍が承知しない。近衛は旧知の“宮崎龍介”を密使として、和平協議のために中国を訪問させようとした。これには石原莞爾も応援していた。だがこれに反対する陸軍が憲兵隊を使い中国に渡ろうとする宮崎を神戸港で逮捕した。この経緯については謎が多く詳細は不明。近衛は、これを秘密にしたのか、杉山元に了解を執ったのか、聞いたのなら杉山はどう解釈・行動したのか。この陸軍大臣は、日米開戦時の昭和16年には「参謀本部総長」で昭和天皇の怒りを買っている。近衛の「頂上会談構想」は早くも挫折したが、ここで粘り強い態度を示していないのが“お公家様”と云われる所以。杉山の陰に近代史に名を残さなかった梅津美治郎(よしじろう)が居たことは確実である。東條英機など梅津の下っ端である。

宮崎龍介は、明治25年(1892)生まれ。東京帝国大学法学部卒で、大正・昭和期の新聞記者・弁護士・社会運動家だった。華族令嬢の歌人・柳原白蓮と知り合うのは、吉野作造が主宰する黎明会の機関誌であった『解放』の主筆となってからである。執筆者の一人で、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門の後妻となっていた伯爵・柳原家の令嬢・あきこの許を取材に訪れた際に経緯は判らぬが恋仲となる。≪あきこ(火+華→“文字化けのため”子)≫

柳原白蓮は、明治18年(1885)生まれで宮崎より7歳年長である。大正天皇の生母である柳原愛子(なるこ)の姪に当たり大正天皇の従妹になる。明治天皇妃の昭憲皇太后には、病弱で子は出来なかった。あきこは明治33年、14歳で結婚、15歳で「北小路功光」を出産。だが早期に離婚して実家に戻る。明治41年、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に入学、佐佐木信綱に師事「心の花」に短歌を発表。明治44年、27歳で、52歳の九州(飯塚市)一の炭坑王として財をなし、政友会の代議士でもあった伊藤伝右衛門と再婚させられた。生活に何も不自由は無かったが、複雑な家族構成に悩まされる。伊藤家には伝右衛門の兄弟、子供、愛人、親の兄弟などたくさんの人間が同居、数十人の使用人もいた。全く異質な人間関係の懊悩、苦悩のなか、あきこは、ひたすら歌に託す他は無かった。大正04年、処女歌集『踏絵』を自費出版。号を「白蓮」とした。彼女は歌人として名が知られるようになり、大正三美人とも云われた。他の二人は調査不足である。

白蓮は、春秋2回の上京の機会に龍介と逢い、龍介の子を宿す。姦通罪のあった男尊女卑のその頃、不倫は命がけだった。大正10年、白蓮は上京した機会に姿を消す。二日後の「大阪朝日新聞」は≪筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪≫と報じた。内容は「同棲十年の良人を捨てて、情人の許へ走る」というもの。当時も女性週刊誌的発想の記者がいたことになる。同日の大阪朝日新聞夕刊には白蓮名義で≪私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます≫という公開絶縁状が掲載された。

だが絶縁状の公開は大きな社会的反響を呼び、当時の世論は「白蓮」を激しく非難。白蓮は男児を出産した後、断髪し尼寺に幽閉の身となる。だが生涯、文盲であったらしい伊藤伝右衛門は人間の器が大きかったようだ。家族・親戚が白蓮を攻撃することを禁じ、白蓮を話題にすることも許さなかった。更に白蓮が正式に再々婚するまで生活費を仕送りし、以後は結婚しなかった。昭和22年、88歳没。筆者は、伊藤伝右衛門は経営手腕が優れていても文学的素養は無いゆえに、逃げられた若い女房にむしろ畏敬の念を持ち、誇りにさえ思っていたのではないかと察する。

その後、白蓮は龍介と正式に結婚、長男を伴い親子3人の生活が実現。大正14年には長女が誕生。龍介は結核の病気から回復して、その後、弁護士として活躍。長男・香織は昭和20年08月11日、鹿屋(かのや)で戦死。何と終戦04日前で不運としか言いようがない。そのことが戦後は平和運動に参加、熱心な活動家となる。昭和36年、緑内障で両眼失明、龍介の介護のもとに歌を詠みつつ暮す。昭和42年、81歳で死去。スキャンダルの末、没落した実家・柳原家を後目に晩年は平穏で幸せな生涯であったと云う。宮崎龍介は4年後の昭和46年、後を追うように心筋梗塞で死去。78歳。

福岡県飯塚市に「旧伊藤伝右衛門邸」が、平成18年、飯塚市有形文化財に指定された。むろん柳原白蓮の足跡もある。訪問した人のブログに掲載されていた白蓮の歌。

 大自然のちからのまへに人の子はなにをか思はむたゝ祈るへき
 花さきぬちりぬみのりぬこぼれぬと我しらぬまに日へぬ月経ぬ
 そのときのなみだとおもふ大ぞらのくものあゆみのめにとゞまれば
 おびただしく落下すつるや父母のありしむかしのおほろ夜の月
 小鳥きてかたみにくちをふくみあふみちあふれたるよるのしずけさ
 原爆のみたまにちかふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ

読みにくいので勝手に漢字変換してみた。これはタブーだが、あくまで自分のため。筆者は所属短歌会で最も上達しない部類である。だが、さすがに白蓮の5首目は宮崎龍介との結婚が叶い平穏な生活が始まった昭和に入ってからの歌だと解る。

 大自然のちからの前に人の子は何をか思はむただ祈るべき
 花咲きぬ散りぬ稔りぬ零れぬと我知らぬまに日へぬ月経ぬ
 そのときの涙と思ふ大ぞらの雲のあゆみの眼に留まれば
 おびただしく落下すつるや父母(ちちはは)のありし昔のおぼろ夜の月
 小鳥きてかたみに口を含み合ふ満ちあふれたる夜の静けさ
 原爆のみたまに誓ふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ

◇参考書
宮崎龍介 『昭和陸軍の研究・上』 保阪正康 朝日文庫
柳原白蓮 『フリー百科事典・ウィキペディア』

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2011/9/12  17:57

日米開戦がなぜ避けられなかったのか  昭和史
今、ポイント・オブ・ノーリターンを「日独伊三国同盟」に於いて、これに関わる政治家・軍人・事項を叙述している。だがHPで御厚誼頂いている方から、

≪「日独伊三国同盟」や「日米開戦の真実」も重要だと思いますが「日米開戦がなぜ避けられなかったのか」が最大の疑問です。≫

という極めてシンプルな設問があった。筆者は「ポイント・オブ・ノーリターン」そのものが“日米避戦”の真実を語っているのだと思う。だが、そこに関わる軍人・政治家を説明しようとするとどうしても数行で済ませられない内容に満ち満ちているので、自分では解っていることだが、いささか長文になってしまい昭和史の読書で知ったエピソードも増える。まだ4項目だが、ここで中間報告として「日米開戦がなぜ避けられなかったのか」の昭和史から外せない重大な責任者をここで一足先に要約してみたい。

@松岡洋右
最盛時には百万人を超える軍部を抑えることは、一外交官にできるわけは無いのを熟知していた松岡は、ソ連のスターリン、アメリカのルーズヴェルトの世界の二大巨頭と話し合いで決着しようとした。英語はペラペラだが、むろん松岡にそんな力は無い。昭和16年にはすでに肺を病んでいた。通常の外交ルートはすでに破綻していたと云うべき。
A近衛文麿
天皇の次に偉い自分が総理大臣なら誰でも言うことを聞く」と簡単に思っていたようだ。しかしその頃の強大な軍部の力は、もうすでに天皇でさえ抑えきれなくなっていた。軍部は近衛を御しやすいから近衛内閣を支持していたようにも解釈できる。近衛文麿は「日米開戦」の重要な責任者に違いないが、筆者はその権威を利用した陸・海軍の上層部に実質的な責任があるものと思っている。自分が利用されている自覚がないのがこの人物の最大の欠点である。
B“統帥権”
大日本帝国憲法では「統治権」も「統帥権」も天皇にあった。しかし実際には天皇から付与された輔弼(内閣)と輔翼(作戦部門)が最大の責任者である。とくに軍部当事者は自分たちの組織の存続ゆえに天皇の「日米非戦」の考えを折々の上奏で誤魔化して無視した。陰で“「秩父宮」も居るのだよ”とのブラフもあったようにも思う。統帥権については「日米開戦への道3」で詳説した。
C大島浩
“ドイツ大好き”軍人の典型で、アドルフ・ヒトラーに心酔。誤った情報を最後まで軍部に送り続けた。戦後は少し反省?したようである。アメリカの大嫌いなナチス信奉者で責任は重かったが、結果として東京裁判では“5対6”で辛うじて絞首刑を免れる。蟄居してもドイツ語の書籍が手放せなかった。
D東條英機
いつの世も「総理大臣は軽くてパアがいい」の典型。大日本帝国陸軍のことは周囲が重箱の隅も突つけないほど熟知していた。憲兵隊を掌握していたので関東軍や陸軍中枢部にコミンテルンの侵入を察知していたようで、最後まで中国大陸からの撤退を決断出来なかった。陸軍のことのみで、世界情勢や世界条約など知らなかったことが東京裁判で明らかになり連合国を呆れさせた。その清廉潔白な私生活に、アメリカの「戦略爆撃調査団」も大いに驚いた。
E嶋田繁太郎
日米開戦時の海軍大臣である。この海軍軍人も信念はあやふやで、当時の軍令部総長「伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)のドイツ好きを阻止できなかった。伏見宮は日露戦争にも従軍している。嶋田も東京裁判では“5対6”で絞首刑を免れる。あまり知られていないが日米開戦の実質GOサインは海軍である。
F参謀本部&軍令部
外務大臣や総理大臣でさえ口出し出来ない「統帥権」の源、昭和12年からは≪大本営≫と呼ばれた。昭和12年に出来た「大本営政府連絡会議」で決定された事項には、憲法上、天皇にも拒否権は無かった。
G朝日新聞&毎日新聞
大正デモクラシーから昭和初期は、メディアはリベラルだった。軍人が制服で町も歩けず、嫁の来てもなかったほど“軍人は嫌われた”経緯がある。それが一変したのは「満州事変」である。事変勃発をラジオ放送に出し抜かれた新聞は慌てた。詳説は省くが新聞は満州事変の号外に次ぐ号外で、びっくりするほど部数を伸ばした。メディアや産業は、戦争は確実に儲かるのである。これは今も変わらないのではないか。
H木戸幸一
筆者は「日米開戦」に関わる人物で最も罪の重いのは、昭和天皇への確実な情報を意図的に取捨したこの「内大臣」だと思う。昭和16年10月、陸軍を抑えきれず近衛文麿が総辞職したとき、間髪をいれず東條英機を指名した。実はこれは昭和天皇の希望だったと云われて久しいが、多分それも木戸の作り話だと思う。木戸自身は日米開戦はもう避けられないのを熟知していた。陸・海軍中枢部は、これも詳説は省くが“やる気マンマン”だった。開戦を避けられないとみた木戸は、責任は全部、軍部に押し付けるつもりだったようである。「木戸幸一」の項目で仔細に叙述したいが、木戸が終始恐れていたのは、自分への暗殺・テロである。木戸も東京裁判で“5対6”で絞首刑を免れる。日米開戦の責任をすべて親友である筈の近衛文麿に押し付けた。
I昭和天皇
昭和天皇に「戦争責任」があったかどうか、これも永遠のテーマである。「あったか、無かったか」で単純に問われれば、それはあったと云うべきである。だがその「戦争責任」とは何か、と云う設問がすでに曖昧模糊としている。開戦責任・継続責任・遅い終戦決断・国民を苦しめた責任・道義的責任といろいろある。今では100%有り得ないと解るが、日米戦争に勝ったら責任はあるのかないのか?「太平洋・大東亜戦争の全面的責任は昭和天皇にある」と声高に言う人は、昭和史を知らないのと同義語だと思う。

この項目「日米開戦がなぜ避けられなかったのか」の結論は、
@メディア・国民世論の日米開戦支持
A陸・海軍中枢部(佐官クラス)の開戦画策
B陸・海軍上層部の責任回避
C木戸幸一における昭和天皇への決断封じ
D外務省の不作為

によって日米開戦は避けられなかった、と筆者は今のところ思う次第。「日米避戦」の“歴史のif”は確実に存在した。それを今後、明らかにしたい。

しなくてもよかった戦争」ということが確実に云えそうである。

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2011/9/8  22:21

日米開戦への道04  昭和史
駐在ドイツ日本大使・大島浩

「日独伊三国同盟」成立(昭和15年09月27日)のときの駐在ドイツ日本大使は来栖三郎(くるすさぶろう)だが、実質は大島浩(おおしまひろし)だった。むろん三国同盟の推進者は、気宇壮大ともいえる世界戦略の持ち主の外務大臣・松岡洋右だったが、ことドイツに関しては最大の助言者は大島浩をおいて他にない。資料も少なく調査不足だが、当時の外務省は、軍部の圧力もあったのか英米協調派よりドイツ・イタリアとのいわゆる「枢軸派」が主流を占めていたらしい。昭和13年当時の「第一次近衛内閣」のイタリア特命大使だった外交官の白鳥敏夫は、昭和15年当時は外務省顧問だった。枢軸派は、大島と白鳥が大いに関係しているに違いない。「悪いのは英米」というメディアとそれを素直に信じた世論で、政治家も外交官も英米協調派は隅に追いやられていたのは間違いない。昭和16年「真珠湾攻撃通告の遅れ」などは、今では外務省英米派のサボタージュと疑われて久しい。

白鳥は元々外交官出身だが、大島浩は陸軍軍人である。明治19年(1886)生、陸軍士官学校は明治38年(1905)18期、陸軍大学は大正04年(1915)27期卒業。極東国際軍事裁判(東京裁判)で刑死した東條英機は大島より02歳年長である。だが陸大卒は同期である。つまり勉強は東條より大島の方が優れていたことになる。蛇足だが「陸士」20期卒と云えば、ほぼ明治20年生まれという事実がある。筆者は昭和史の本はだいぶ読んだが「大島浩」を主人公にした本は見当たらない。だが「日独伊三国同盟」に関する著書では必ず名前が出てくる。おおむねアドルフ・ヒトラーに魅せられた、日米開戦においては責任の重い軍人大使だった。誤ったドイツ情報を日本の軍部に伝えていたからである。東京裁判の判決では、この大島浩と開戦時の海軍大臣だった嶋田繁太郎、内大臣・木戸幸一の三人は≪5対6≫という評決で辛うじて絞首刑を免れた。インドのパル判事さまさまである。

昭和30年に巣鴨プリズンを出所。以後、数々の誘いを断って沈黙を守った。言い訳をしなかったのは評価するにしても、ドイツ敗戦で逃げたときにオーストリアで連合国によって身柄を拘束され、日本に送還途中ニューヨークのホテルで所持していた日記や機密文書を水洗便所に流したと云われるが、これは卑怯な振る舞いである。だが大島が日本本国へ送ったドイツ上層部に関する秘密電報はすべて連合国に暗号解読されて、その情報が英米の作戦に有利に働いたというから申しわけないが「お笑い草」である。さらにそれはアメリカ公文書館に残っている筈である。

大島は岐阜生まれ、育ちは東京、幼少期より、在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語教育とドイツ流の躾を受けたという。駐在武官となって初めてドイツに赴いてからは、ドイツ人青年に付いてドイツ語を習い、ドイツの方言で歌を歌うまでになるという徹底したものだったからドイツ語、ドイツ文化は、大島の人生そのものだったようである。因みに陸軍士官学校の必修外国語はドイツ語・ロシア語である。陸大卒後の大正10年(1921)以降は、殆どベルリンに駐在、昭和の初めの1926年頃からすでに勃興しつつあったナチス党上層部との接触したのは想像できる。詳しい経歴は避けるが昭和09年(1934)名実ともにドイツ駐在武官に登用される。同時期の駐在イギリス特命全権大使で親英米派であった吉田茂とは対極を成した。その頃からナチス外交部長のリッベントロップと接触。むろん完全にドイツに取り込まれる。

昭和13年、軍人としては予備役(退職)となるが同時に駐在ドイツ日本大使になる。昭和14年の「独ソ不可侵条約締結」で一旦大使は辞任するが、「日独伊三国同盟」締結後、すぐに駐在ドイツ大使に復帰。大島が陸軍中央と提携、枢軸外交実現のために奔走し、ナチス党総統アドルフ・ヒトラーの信任をも得ていたことが決定的だった。「日米開戦への道」は大島の偏ったドイツ情報が多いに働いている。こうした日本人のドイツへの傾斜の理由は、半藤一利氏の指摘は鋭い。日本人とドイツ人の性質が良く似ているのだと言う。「堅実で勤勉、几帳面で組織愛に満ち、頑固で無愛想、単一的民族国家(ドイツはゲルマン民族)なので団体行動、規律、遵法精神に満ち、教育水準は高くよく働く」(「昭和史」P245)

司馬遼太郎の指摘は更に的確である。≪日本がドイツに傾斜したのは国造りの真最中の明治04年(1671)プロイセン軍がフランス軍を破ってからである。その時からドイツ参謀本部の作戦能力の卓越性を学び、法学・哲学・音楽・憲法までもドイツ傾斜が進んだ。統帥権のもとに昭和前半を壟断する陸軍は、一種の国家病だった。…「当時の陸大出でドイツ留学しない軍人は有力な部員・課員になっていない」とドイツ偏重の情実を指摘。近代国家建国の時に一種類の文化を注入すれば薬物中毒になるのはその後の日本が雄弁に物語っている。ドイツ文化そのものに罪はなく、ドイツを買い被っている軍人は多いがドイツをよく知っている人は居なかったと紹介している。(「この国のかたち03」P20)≫大島浩はさしづめ薬物中毒から最後まで抜けきれなかった。

大島浩という陸軍出身のドイツ駐在大使は、世界のなかの日本の国益は考えられず、ドイツとヒトラーが大好きな、さながら“ドイツおたく”だったのではないかと思う。なぜなら日本が昭和16年12月08日「真珠湾攻撃」が成功して欣喜雀躍しているとき、ドイツ軍精鋭部隊は猛吹雪のなかモスクワを目の前にして撤退を余儀なくされる。ドイツ情報が緻密であればナチスドイツ崩壊の序章を知らぬわけは無い。大島も日本軍部も見て見ぬふりだった。

これも蛇足ながら戦後、晩年の大島浩は、筆者の住む平塚の東隣の茅ヶ崎市に在住。平塚市には近衛文麿内閣秘書官の富田健治、西隣の大磯町には吉田茂が晩年を過ごし、ある時期、木戸幸一も滞在した。

◇参考書
『昭和史』 半藤一利 平凡社・平凡社新書
『昭和の歴史05 日中戦争』 藤原彰 小学館文庫

画像は昭和16年04月、松岡洋右の訪欧時、ドイツ軍を閲兵する。中央、右手に帽子を持つのが大島浩、右側の杖を持っているのが松岡洋右。

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2011/9/6  22:01

日米開戦への道03-3  昭和史
統帥権とは何か03 軍部大臣現役武官制

ここまで『日米開戦への道』のポイント・オブ・ノーリターンを昭和15年09月の「日独伊三国同盟」としているが、10回を予定しているのに遅々としている。その頃、すっかりアドルフ・ヒトラーに魅せられた駐独日本大使・大島浩、当時の陸軍大臣・東條英機、海軍大臣・嶋田繁太郎参謀総長&軍令部長朝日&毎日新聞メディア、昭和天皇、そして何よりも内大臣・木戸幸一の順に叙述するつもりでいる。

「統帥権独立」の源流としては、明治時代末期、政党政治に移行する過程で政治家が「統帥権」を手に入れ軍が党利党略に利用される可能性を恐れたことにある。恐れたのは明治維新を成し遂げた江戸末期の下級武士であるところの云わば命を掛けて明治国家を形成した伊藤博文・山縣有朋(やまがたありとも)ら元勲だった。この元勲・藩閥が政治・軍事両面を完全に掌握、軍政(行政)軍令(軍事)運用をしていた。従って後世に統帥権独立をめぐって起きたような問題が顕在化しなかった。軍人出身の政治家でも政治と軍事のバランスはとれていたと云える。ただしそれは「日露戦争」までだった。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いた「日露戦争」は、ここまではあくまで欧米の植民地にはなりたくはないという日本の防衛だったということにある。ロシアの南下が死活問題であったのは、現代の我々が否定することは傲慢だと思う。

昭和の時代に入り、統帥権が一人歩きし始めたのは、前回、前々回の通り。軍事のことは、天皇が持つ統帥権を付与された機関で「統帥部」には何も口出し出来ない実態を叙述した。これをフォローするような軍部絶対の政治情勢を確実にした制度が「軍部大臣武官制」で、これを知らないと、ああまで軍人の政治への跳梁跋扈は語れない。さらにこれが「軍部大臣現役武官制」になるとこれも詳説するなら一冊の本になるほどの事項なので平たく現在の日本国憲法で云えば、防衛大臣が現役の自衛隊の制服組でなければならない、と云ったところか。現在の憲法では66条02項で「内閣総理大臣は文民でなければならない」と定められている。だが戦前の大日本帝国憲法では統帥権も統治権も天皇にあった。

第04条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ(総攬=政事、人心を掌握すること)

因みにHPの「首相官邸・内閣制度」を検索すると≪明治憲法は、内閣総理大臣について特段に規定することがなく、天皇を輔弼する関係においては、内閣総理大臣も「国務各大臣」の一人として、他の国務大臣と同格であった。内閣総理大臣は「内閣官制」によって、「各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承ケテ行政各部ノ統一ヲ保持ス」(第02条)と定められていたが、この「首班」とは、いわゆる「同輩中の首席」を意味しているにすぎなかった。≫とある。主権が天皇にあるのだから総理大臣は、輔弼の筆頭でしかない。

軍部大臣現役武官制とは、軍部大臣(陸軍・海軍)の資格を現役の武官(軍人)に限る制度。現役武官であれば文官、予備役・退役軍人もお呼びでない。つまり内閣総理大臣が単なる代表で現在のように他の大臣の罷免権などないから組閣に軍部の合意が事実上必要で、逆に云えば軍部が内閣と対立したなら軍は、軍部大臣を辞職させて倒閣を行うことが容易だ。この歴史はむろん明治33年(1900)、山縣有朋首相の主導で、軍部大臣現役武官制を規定した。大正デモクラシーの時代、「現役」は削除されたが、再び軍部の影響力が強まったのは、二・二六事件から派生したものである。昭和11年、軍部大臣現役武官制は復活する。これに屈したのは第32代総理大臣・廣田弘毅だから後世、評判が悪い筈である。都合三回組閣した近衛文麿も最後まで軍部の専横を防げなかった。防げないのではなく、そういう仕組みの憲法だったことにある。軍部大臣が現役ということは、統帥部の用兵・作戦に見合う行政の側の編成・予算にも十分に反映される。

「軍部大臣現役武官制」の制定も詳説は避けるが、やはり元凶は実質、陸軍の創設者・山縣有朋の軍事優先の政治のたまものだろう。明治から大正時代になる頃は「第二次西園寺公望内閣」だった。公家出身の西園寺は、日露戦争で疲弊していたのか、緊縮財政による国家財政再建や行政整理を理由に陸軍による「二個師団増設」の要求を拒否した。これを不満とする陸軍は上原勇作陸軍大臣が辞職。陸軍は後任の候補を出さず、軍部大臣現役武官制のために、第二次西園寺内閣は総辞職する。むろん山縣の差し金だろう。初代総理大臣・伊藤博文に目を掛けられて政治家になった西園寺と生粋の軍人の山縣とは年齢こそ違うが政敵だったことは想像できる。

山縣有朋は「統帥権独立」も「軍部大臣現役武官制」も特定の政治家によって軍部がいいように使われるのを嫌ったからと云われるが、西園寺が念頭にあったのかよく解らない。いずれにしても大正11年に山縣は死に、藩閥政治は終わり、西園寺は昭和15年、最後の元老として死ぬ。両者とも日本の軍部が日米開戦をして無様な負け方をしたのを知らない。とくに山縣有朋は「陸軍士官学校」「陸軍大学」卒業のエリート軍人が日露戦争以上の多くの死者を出して陸軍を壊滅せしめたのを、草葉の陰で歎いているに相違ない。

◇参考書
平成15年10月号『文藝春秋・父が子に教える昭和史 岡崎久彦』
『昭和の歴史06 昭和の政党』 粟屋憲太郎 小学館文庫

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2011/9/3  0:32

日米開戦への道03-2  昭和史
“統帥権”とは何か02 「統帥権干犯(かんぱん)問題」

昭和61年、1回45分間、12回に渡り「昭和への道」という放送がNHK教育TVであった。司馬遼太郎が、殆どメモも無しにテレビカメラの前での一人語りだった。録画したがVHSの走りで3倍モードだったので画像も音質も悪くまことに残念の極みである。これはNHKブックスで書として残っている。初回放送の言葉は強烈なものだった。

≪日本という国の森に、大正末年、昭和元年ぐらいから敗戦まで、魔法使いが杖をボンとたたいたのではないでしょうか。その森全体を魔法の森にしてしまった。発想された政策、戦略、あるいは国内の締めつけ、これらは全部変な、いびつなものでした。この魔法はどこから来たのでしょうか。魔法の森からノモンハンが現れ、中国侵略も現れ、太平洋戦争も現れた。世界中の国々を相手に戦争をするということになりました。≫

むろん「魔法の杖」は、“統帥権”にほかならない。だがこれも「統帥権の独立」「統帥権の行使」など、その法的根拠や歴史を語るだけで何冊もの本になる。ここでは統帥権が独り歩きする「統帥権干犯問題」を知ることによって軍部が政治を乗っ取っていく端緒となったことの概略を記したい。だが干犯問題があろうと無かろうと統帥権も統治権も天皇にあったことにある。「統帥権」は政府から独立していたため、総理大臣といえども直接介入できないことが、軍部の暴走の口実となった。そのことを軍人に知らしめたのが、政争に明け暮れる政治家そのものだった。

「日露戦争」のあと大正時代になると明治維新を成し遂げた元勲も表舞台から消え、いわゆる「大正デモクラシー」で原敬(はらたかし)内閣が成立する。大正時代末期には、高橋是清、犬養毅、加藤高明の3人が中心となって、護憲三派を形成、「第二次護憲運動」が始まる。大正14年、第24代内閣総理大臣・加藤高明内閣で「普通選挙法」が成立する。だが就任1年半で加藤が病死したことから暗雲が漂い始める。普通選挙法と抱き合わせで「治安維持法」が施行される。この時は大正15年・昭和元年である。昭和に入って三度も大命降下(天皇から組閣を命令される)のあった宇垣一成(うがきかずしげ)が陸軍大臣で行ったのはいわゆる「宇垣軍縮」という軍人の大量解雇だった。人件費を減らし兵器を近代化するのが本心だったようだ。日米開戦前の「アメリカ憎し」と同じで、世相は軍縮ムードだった。関東大震災にも見舞われて、日本という国の経済が下り坂だったからかも知れない。宇垣軍縮の恨みは、敗戦まで軍部に根強く付きまとう。

余談ながら決して余談とは云えないが、今から思えば極めて真っ当な総理大臣「原敬」「浜口雄幸」「犬養毅」「高橋是清」「斎藤実」の、その時の現職、或いは元職の総理大臣五人は、暗殺されて命を落とす。『日米開戦への道』の最後でこれを取り上げる。また宇垣一成も昭和10年、暗殺された永田鉄山も陸軍では、世界を見渡せる優れた軍人であり、今でも人気のある石原莞爾などよりまともな軍人だったと筆者は思う次第。

いわゆる「統帥権干犯問題」は第27代総理大臣・浜口雄幸(はまぐちおさち)のとき、昭和05年(1930)に起きる。第一次世界大戦後の国際的な軍縮ムードの中で行われた「ロンドン海軍軍縮条約」調印をめぐる政争である。このとき財部彪(たからべたけし)海軍大臣が出席して補助艦総トン数は、対英米比率70%での妥結調印の方向で政府の了承を受けるべく連絡する。03月27日、浜口首相はこれを受け、統帥権を持つ最高司令官たる昭和天皇に決裁・許可をもらった。ここでは長くなるので省くが海軍の「艦隊派」(世界との協調を重んじるのは「条約派」)は、海軍軍令部長などが拡大解釈し、兵力量の決定も内閣が関与すべきでないと主張した。浜口雄幸は立憲民政党総裁である。

昭和05年04月下旬に始まった帝国議会では、与党・浜口を野党が攻め立てた。立憲政友会総裁の犬養毅と鳩山一郎だった。現在の民主党、元首相・鳩山由紀夫の祖父である。軍令部の反対意見を無視した条約調印は「統帥権の干犯である」と政府を攻撃。この騒動は、民間の右翼団体をも巻き込む。昭和天皇は、これを裁可して「ロンドン海軍軍縮条約」は批准した。だが天皇が裁可したのに11月14日、浜口雄幸は右翼の青年に東京駅で狙撃されて重傷、浜口内閣は翌年、昭和06年04月総辞職。浜口は08月に死亡。この頃の幣原喜重郎外相の協調外交は完全に行き詰まった。

戦後、総理大臣にまで成る鳩山一郎は統帥権というより対立する与党の総理をやっつける意味合いが濃かったようである。なぜなら昭和初期は世界大恐慌から連動する金融不安を招き、資源小国日本は、世界のブロック経済をまともに受け「昭和大恐慌」に陥った。都市部のわずかな人々を残し、東北では食べるものも事欠く事態となった。ところが財閥と政治家の贈収賄事件が多発。多くの国民が“清廉潔白”な軍人に評価が高まるのは自然だった。鳩山一郎の「統帥権干犯」追及は、軍人の台頭を招く一つの原因となり、結局自己矛盾に他ならなかったと思うのは、筆者だけか! 「満州事変」が勃発するのは翌・昭和06年である。

城山三郎『男子の本懐』は浜口雄幸、大蔵大臣・井上準之助がモデル。東京駅・中央口通路・10番線の真下あたりの円柱に「遭難碑」がある。筆者は、昭和が“魔法の森”に迷い込んだのは、このときからだと思う。ポイント・オブ・ノーリターンの高々10年前のことである。

◇参考書
『日本の歴史24・ファシズムへの道』 大内力 中央公論社
『太平洋戦争、七つの謎』 保阪正康 角川oneテーマ21

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