2011/9/25  19:11

日米開戦への道05-1  昭和史
参謀本部&軍令部01

統帥権(とうすいけん)と統治権(とうちけん)は前述した通りだが、ここでは統帥権を実際に動かした「参謀本部」「軍令部」とは何か知り得る限りで叙述したい。だが、後付けの感情論で戦前の軍国主義の象徴で「国民を苦しめた産物」と決めつけるのは容易い。明治維新後の富国強兵の国是は、極東の貧しい一島国が欧米の植民地に成らなかったのに大きな役割があったのは否めない。だがそれ以上に日本国民・アジア全体に多大な惨禍をもたらしたのも事実である。

 大日本帝国憲法 第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス

統帥とは≪軍隊を統(す)べ率(ひき)いること、である。英語では指揮(コマンド)というにすぎず、統帥権も最高の指揮権(supreme command)というだけのことである。英米では統帥権は国家元首に属する。むろん統帥権は文民で統御される≫(『この国のかたち四P135』司馬遼太郎)

大日本帝国憲法では「統治権」も「統帥権」も天皇にありながら実際には天皇から付与された輔弼(内閣)と輔翼(軍事作戦)が最大の責任者。この軍部当事者は自分たちの組織の存続ゆえに天皇の「日米避戦」の考えを折々の上奏で誤魔化して無視したのも事実。外務大臣や総理大臣でさえ口出し出来ないのは、実際、近衛文麿を初め多くの政治家が困り果てた。歴史に刻まれているが、総理大臣33代「林銑十郎」、35代「平沼騏一郎」、36代「阿部信行」、41代「小磯国昭」など歴代首相に名を残して居るだけの人物で重要な政策など皆無である。特に林・阿部・小磯などは予備役で云わば一丁上がりの軍人であり、世界を見渡せる実力ある陸軍大将「宇垣一成」首相就任を阻止するためだけの組閣だった。昭和天皇から昭和12年に「大命降下」があり、その後、16年、19年と重臣より二度の推薦がありながらである。統帥部の頂点は大元帥であるところの昭和天皇である。統帥部のエリート軍人は忠君愛国・臣道実践など見せかけに過ぎない。不忠の臣ばかりと断定して間違いがない。

昭和15年(1940)09月時点
参謀本部総長 閑院宮載仁親王(かんいんのみやことひとしんのう)
参謀本部次長 沢田茂
参謀本部作戦部長 富永恭次

軍令部総長 伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)
軍令部次長 近藤信竹
軍令部作戦部長 宇垣纏(うがきまとめ)

昭和16年(1941)10月時点
参謀本部総長 杉山元(すぎやまはじめ)
参謀本部次長 沢田茂
参謀本部作戦部長 田中新一

軍令部総長 永野修身(ながのおさみ)
軍令部次長 伊藤整一
軍令部作戦部長 宇垣纏

参謀本&軍令部の解りやすいエピソードは昭和史に満載されている。その解り易く面白い事実を次回、紹介したい。月末の仕事につき、4・5日休載します。

添付は戦前、港区赤坂にあった参謀本部。

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