2011/11/18  20:02

特別弔慰金  身辺些事
「厚生労働省」のHPに≪「平成21年改正法による「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金(第九回特別弔慰金)」の申請受付期限は、平成24年4月2日までです。≫とあったので、おっとり刀で市役所へ行ってみた。大いなる反対があるにも関わらず、とんと解らないが平塚市は財政が豊か?であるらしく新市庁舎の工事が始まっている。いい思いをしているのはゼネコン? いい思いをしなかった? のはおっとり刀の筆者である。

よく読めば≪戦没者等の遺族に対する特別弔慰金は、戦後20周年に当たる昭和40年以降、10年ごとの節目の年に支給していますが、昭和54年からは、特例的な措置として、それぞれの節目の年の4年後にも、新たに対象となるご遺族に対して支給しています。最も新しい特例措置として、平成21年4月1日から第九回特別弔慰金を支給しています。第九回特別弔慰金は、平成17年4月1日から平成21年3月31日の間において、恩給法による公務扶助料や戦傷病者戦没者遺族等援護法による遺族年金等を受けていた方(戦没者等の妻や父母等)が亡くなるなどしたことにより、平成21年4月1日において前記年金給付の受給権を有するご遺族がいない場合、次の順番による先順位のご遺族お一人に支給されます。≫とあった。

要するに今まで請求したことがなく(実は知らなかった)受給したことのない者には、その資格がないとの由。“”なあーんだ、やっぱり”で終わりである。昭和42年に実父の兄、伯父が受給している。伯父は昭和44年に死亡。つまり昭和50年、60年、70年(平成07年)、80年(平成17年)四回分は筆者は知らなかった。国家や行政は個人にお知らせすることはない。以前にもブログで記述したが、軍人恩給=総務省、遺族年金=厚生労働省、特別弔慰金=地方自治体管轄である。次回は4年後で筆者が生きている保証はない。受給できても額面24万円の国債。1年ごとに貰えるらしい。よく考えれば、その頃は国債に関してはもう国家破産は間違いない。

母親は再婚したのでいずれにも該当しない。“お国のため”と行きたくもない戦争に駆り出され、戦闘行為もなく病死した二等兵の守備兵には国家補償などはない。戦争最前線の激戦地には無縁の作戦を立案し命令し、生き残った多くの大本営の高級将校には、戦後毎年、数百万円の軍人恩給が支給されたらしい。戦前の「富国強兵」を邁進した国家の機構とはそういうものである。靖国神社はそういう人たちの寄付で成り立っているのが事実。

添付は、本土帰還がなった“第2322部隊第二中隊長 陸軍大尉”からの追悼文兼証明書。父は上等兵といっても死んだから二階級特進しただけの二等兵である。中隊長の尉官では100人規模の兵を指揮する。部下の死をこうして知らせてくれたのは、それも上官の責務であっても有難いことだと痛感する次第。これが昭和19年の“インパール作戦”などだったら中隊長も大隊長も連隊長(2000人規模を指揮)さえも死んでいるからである。

20日は、年に一度の短歌大会、22・23日は「湖東三山」のパック旅。来週末までブログお休みします。

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2011/11/16  18:19

中村錦之助  映画TV
筆者は昭和の時代から録画魔である。とは言っても最近、ハマっている水谷豊の『相棒』などは民放で、いいシーンでCMが入る。54分のドラマなら冒頭と終了のCMを除いても正味は45分くらいか。したがって録画終了後にどの番組も見ることになる。生で見るのはニュースだけである。ついぞ見たことは無かったが長年の「水戸黄門」も打ち切りとなり、時代劇はNHKBSだけとなった。単発ではフジテレビで『鬼平犯科帳』のリメイクが年に2度ほど放送されるのみである。東映映画村の大部屋の斬られ役の役者など商売あがったりであろう。どんな時代劇でも1秒か2秒は映る斬られ役の「福本清三」が見られなくなるのは寂しい。

そう遠くない将来、寝たきり?になったら見ようとNHK制作の藤沢周平時代劇、「坂の上の雲」、CSで録画した市川雷蔵もの、昭和史など数百枚のコレクションがある。別にブルーレイ・ディスクでなくても高画質である。今は山田洋次の選んだ映画、100本を録画中。昨年購入したパナソニックの録画機もいくらブルーレイでなくてもHDDがそろそろ満杯である。ダビング10だから10本はダビングできるが、少しづつDVDに移し替えをしないと、HDDが壊れたら元も子もない。5年前購入のシャープの場合、ダビングは一回のみで元画像が消える。それにしても録画機能は隔世の感がある。今は番組表をクリックするだけである。

先日の日曜日・13日に終了した『塚原卜伝』全7本をダビングしようとして最終回だけ見た。主演は「堺雅人」、準主演の「平岳大」は平幹二朗と佐久間良子の息子であるのは知っていた。男女の双子の兄であると云う。父親似でいい俳優になりそうである。ところがある俳優の声が、どうも聞き覚えのある声だった。結論から云えば10代・20代のころは映画を見ることが趣味だったことにある。何となく巻き舌でくぐもった独特のイントネーションは、小学校の頃、親しんだ『紅孔雀』から知っている“中村錦之助”、後の“萬屋錦之助”の声だった。調べたら、まごうかたなき二代目の中村錦之助だった。「卜伝」の父親、卜部(うらべ)吉川家当主・吉川覚賢(よしかわ あきかた)役。

萬屋錦之助はよく覚えている。本来は「美空ひばり」と相思相愛だったが周囲の事情で結ばれなかったこと。萬屋錦之助は三代目・中村時蔵の四男、弟は中村嘉葎雄。次兄が四代目・中村時蔵だった。四代目は、登場すると客席にどよめきが起きたほどの美貌を持った歌舞伎役者。むろん女形である。人気沸騰で多忙を極め、睡眠薬服薬に頼り過ぎ、昭和37年、34歳の若さで亡くなった。筆者はこれを記憶している。現在の中村時蔵は五代目で昭和27年生まれ。二代目の中村錦之助は、五代目の弟だった。つまり叔父の声に似ているわけである。声だけで血筋が解ったのは別に自慢にもならないが、単に歌舞伎役者だけでなく、どしどし映画にも出演して貰いたいものである。『塚原卜伝』は初回からきちんと見ることにする。

画像は二代目の中村錦之助のHPから無断拝借、許されたい。
昭和51年の画像、中央が萬屋錦之助、下右端が二代目の中村錦之助。上段左端が中村嘉葎雄、その右が五代目・中村時蔵。下段は現在の五代目・中村時蔵。四代目に似ている。萬屋錦之助は三度結婚し、淡路恵子との間に二子を設けたが事故死・病死している。

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2011/11/12  22:34

昭和史裁判  昭和史
筆者の「無明庵」の『私解 戦争の昭和史』は遅々として進まない。文章を書く資質があるか、ないかはともかくとして近代史ゆえに、いくら本人が忖度・斟酌しても次々と新史料を知るからである。史料を読み解いて著わされた「昭和史」といった方が正確である。いわゆるマルクス史観・皇国史観の「戦前の軍部絶対悪」と「東京裁判史観」という戦前の多分に国家擁護の論調がある。後者の「国家擁護」という決めつけは少しおかしいが、やはり諸外国から日本は戦争を誘発された意味合いを強調する論考である。筆者はどちらにも傾斜したくは無く、できるだけ事実を知りたいだけのことである。このブログで何度も記述するように、平和と戦争は表裏一体であると考える。平和は「戦争」のないこと、戦争状態では「平和」ではない、至極単純である。戦争も平和も感情論・精神論・運命論に傾きがちだが、先ずは極めて単純な現実・物理・科学を考えて、建前より本音を追及・精査すべきだろうと思う。

世相は、原発、放射能、TPP、沖縄基地、消費税、派遣社員と国内問題は山積しているが、今も昔も内向きの戦いで、外交は少しも論じられないし、他国の争いは政府も国民も無関心に等しい。気が付いたら「尖閣諸島」が乗っ取られたことにならなければいいが…。

筆者は今、四年越しで戦前の「日米対立」「日米交渉」を書き直し、推敲している。内容がお粗末なのは素人だから許されるだろうが、事実の間違いは避けたいものである。そのひとつが、どの昭和史の著書にも必ず出てくるのが昭和15年秋の“神父来日”である。アメリカ・メリノール教会の「二人のジェームス」、ジェームス・ウォルシュ及びジェームス・ドラウト神父である。日米の対立を緩和させようと井川忠雄という人物を通じて近衛文麿に接近してきた。詳細は省くが、直木賞作家・西木正明氏の丹念な取材で、これが真っ赤なウソ、ウィンストン・チャーチルの放ったスパイであることが解っている。つまりイギリスの国益のために日米間をより対立させるための工作に来たのが真相。

添付の著書は昭和氏の専門家、半藤一利氏が検事となり東大大学院教授の加藤陽子氏が弁護人になって四人の重要な政治家をあらゆる史料を駆使して論じる構成。両氏の論調は四人の政治家が日米開戦前後にどう関わったか縦横無尽に語られる。筆者は敢えて松岡洋右を弁護する。木戸幸一は、東京裁判では辛うじて死刑を免れたが、絞首刑になった廣田弘毅より数倍罪が重いのは専門家の多くが指摘している。この著書でも当然である。木戸幸一が戦後32年も生きたのは、生命力だけでは決してない。

廣田弘毅 明治11年(1878)生。総理大臣・外務大臣 昭和23年刑死
近衛文麿 明治24年(1891)生。貴族院議長、総理大臣 昭和20年自殺
松岡洋右 明治13年(1880)生。衆議院議員、外務大臣 昭和21年病死
木戸幸一 明治22年(1889)生。厚生大臣、内大臣 昭和52年病死

当然この著書に出て来ないが、戦後の大宰相・吉田茂は、明治11年(1878)生れで、前記四人と同期・姻戚関係・政治工作などで密接な関係があった。戦前は、軍部から“平和主義者”“英米協調派”として罵られ、疎んじられ隅に追いやられていて何も出来なかった。吉田茂の片腕として戦後活躍した白洲次郎などは戦争中はとっとと東京を離れて農業にいそしんだ。両者とも戦争しか知らぬ軍人を蔑んでいたことは、今では証明されている。

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2011/11/9  20:23

平塚市生きがい事業団  身辺些事
拙宅は、母親が祖父から遺産相続した土地を、更に相続税なしに相続したからだが62坪ある。筆者のように薄給のサラリーマンなら、いくら都市部から離れていても到底購入できない広さである。建て坪が二階建で「簡易コンクリート」だから14坪、車庫、庭の“六畳のプレハブ”、物置を除いても半分の30坪は空いている。そこに梅、蜜柑、柚子、樅の木、青木、ヒバ、木瓜、山椒、棗、千両、万両、どうだん、紫木蓮、ユズリ葉、金木犀、皐月などがある。筆者が購入した樹木は蜜柑だけである。拙宅の前後の家では亭主が庭仕事を苦にしない。したがって実に整った家屋敷である。筆者は庭仕事は殆どしない、悪く言えばほったらかしである。芝生も伸び放題、雑草もたくましい。東側の家との境目は紫木蓮、青木、ヒバで埋められ隣家の窓すらよく見えない。人間には得手不得手がある。母親の実家、農業の血筋は見事なまでに絶たれている。

新築のときに叔父から貰い受けた紅梅は、人間の拳ほどの太さだったが、本日夕方、根元を計ったら何と1メートルを超えていた。同じく新築時に市から贈られたユズリ葉は数センチの幹の小木が今は梅と共に、太幹になって2階建の屋根を優に越えている。「梅伐らぬ馬鹿」のツケはここまで大木になって手に負えない。二日前、拙宅の西側の家で庭木の剪定業者が5人来て庭木を剪定していた。訊けば「平塚市生きがい事業団」のメンバーであると云う。平塚市HPでは「生きがい事業団」とは『高齢者の豊かな経験と技術を社会に役立て、同時に仕事をすることにより、高齢者自身の生きがいを見出していただくことを目的として「高齢者等の雇用の安定等に関する法律」に基づき、設置された公益法人です』との由。

特に梅の木は、もう素人が施せないほど天地左右に伸び放題である。早速、筆者も剪定を申し込んだ。ただし年末に近付いているので依頼が多く、頼んでも来年一月になるという御託宣。どうせ大きな梯子も剪定道具もないのでお任せすることにした。料金は一日六時間、五人が来て57,500円、チェンソー代、大量の枝葉の処分代も含めて65,000円と相成った。因みに造園業者に頼めば、剪定職人五人で10万円、道具代・処分代も含めると15万円にもなるらしい。あらためてそのツケは大きい。利子が膨らんだ借金みたいなものか…。

年内に購入予定だった新パソコン、プリンタ、予算があればだが電話機、デジタル対応のCS放送機器など当分諦めることにした。そろそろ壊れそうなプリンタも剪定あとのやりくり次第となった。駄目で元々である、筆者も「生きがい事業団」に登録することにした。むろんパソコン・印刷関連の仕事しかできない。今では誰でもパソコンは弄れる。そう簡単に仕事など無いだろう。前期高齢者の人生はとても“悠々自適”ではない。筆者は記憶力は良い方である。「100年安心の年金」と云った政党を良く覚えている。安い年金からこれ以上天引きなどあれば「生活保護費」といい勝負である。

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2011/11/3  11:14

HARUKOさん03  パソコン
≪続々≫投稿論
B太平洋戦争と津波・原発事故の類似点
C人間は歴史から何も学ばない。
D「核兵器を持たず・作らず・持ち込ませず」を忘れたのか。
は、長くなるので割愛させて頂き、自分のブログで叙述します。ですが「核兵器を持たず・作らず・持ち込ませず」は、些か問題です。「核兵器を持たず・作らず」は理想論として正しいと思います。が「持ち込ませず」は、小生は最もナンセンスだと考えます。公海は12海里、22q先です。それ以降の公海は核兵器を搭載した原子力空母、原子力潜水艦の航行は自由です。今の核兵器はヒロシマ型の核兵器の数百発の威力があるそうです。そこで誤爆でもあれば、三浦半島や房総半島もひとたまりもありません。「福島原発事故」で真っ先に駆けつけたのはアメリカの原子力空母「ロナルド・レーガン」です。核兵器は置いてきたなどと言ってはいません。

戦争と平和、原爆と原発も、小生は“リアリズム”だと思います。日本の戦争と平和は、感情論・精神論・運命論です。これは間違いです。平和も戦争も原爆も原発もなべて数字・物理・科学の世界です。理想論で平和は維持できません。精神論で「使用済み核燃料棒」は消滅しません。日本国憲法09条02項で軍隊を否定する日本が、防衛予算は毎年4兆円、1兆円はアメリカから武器を買い、殺傷能力の低い武器は堂々と輸出しているのが現実です。沖縄の普天間基地問題も最もタテマエとホンネが交錯する問題です。地政学的に見るなら沖縄は、ロシア・北朝鮮・中国・台湾・ベトナムと放射線状の中心に位置します。駐留するのは即戦力の特殊部隊・アメリカ海兵隊です。ここに核兵器が存在するか、しないかは個人の判断です。あっても無くても潜航する原子力潜水艦を考えれば全く意味のないことです。多くの政治家もマスコミも“見て見ぬふり” “触らぬ神に祟りなし”です。あって欲しくはないと無邪気に信じるのは、社民党の福島瑞穂ぐらいではないでしょうか。

以上、独断と偏見を披歴させて頂きました。

HARUKOさんへの反論・賛成論はここまでである。HARUKOさんの「ブツブツひとりごと」を拝見すると筆者のブログも趣旨は「少数意見」「天の邪鬼論」だから少し語り口は似ているのかも知れない。

B太平洋戦争と津波・原発事故の類似点。
 太平洋戦争と原子力発電所の設置は、「最悪の事態を想定していない」
 大本営も原子力村も「都合の良い情報は流し、都合の悪い情報は隠す」
C人間は歴史から何も学ばず、民主主義は70年間進歩していない。日本人のDNAかも。

BとCは全くその通りで戦前の軍部・大本営と、現在の東京電力・経産省は対応の仕方がそっくりである。都合のいい数字を並べ、あたかもアメリカをやっつけることが出来る幻想を醸し出し、福島原発は、そのうち何とか終息するかのごときものの云い方である。現実は決して甘くない。軍部がなくなって、大日本帝国憲法はなくなって“内閣総理大臣”に権限が集中したのであればそれだけリーダーシップが発揮できる筈なのに、“霞が関官僚”がそのまま「大本営・軍部」と見事なまでに相似形を成している。

年内に「日米開戦への道」「小沢一郎強制起訴」「太平洋戦争と原発」はよく精査して、自分では正論を発信したいと思う。以上三点は、今も昔も庶民には決してよく知らされず、結局騙されているように思う。「TPP問題」「復興増税」「年金と消費税」「円高・産業空洞化」と問題は山積している。つい最近までJR船橋駅前で辻説法をしていた総理大臣に、それら難問が解決できるわけは無い。だからこそ財務省に「おんぶにだっこ」で増税路線まっしぐらである。

添付は、原子力空母「ロナルド・レーガン」。ウィキペディアより拝借。

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2011/11/2  22:19

HARUKOさん02  パソコン
≪続≫@せめて「ドイツの無条件降伏」と同じ頃、「太平洋戦争の敗戦」を決断すべき。

昭和20年04月成立した鈴木貫太郎内閣での明確な敗戦決断派は、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外務大臣、米内(よない)光政海軍大臣。戦争続行派は、阿南惟幾(あなみこれちか)陸軍大臣、梅津美治郎(よしじろう)参謀本部総長、豊田副武(そえむ)軍令部長でした。統帥部(参謀本部は陸軍、軍令部は海軍)は、戦争続行しか考えが及ばない集団です。08月10日、14日の「昭和天皇の聖断」が下されます。これを遅らせたのは簡単に言えば“陸軍中枢部”です。佐官クラスの血気盛んな将校は、終始神がかりでした。多くの昭和史で指摘されていますが「本土決戦」の可能性が高かったのが事実のようです。ドイツの無条件降伏と同時に「敗戦」を受け入れたならと誰しも思うのは当然です。07月26日の「ポツダム宣言」を受諾することも出来ました。然しノラリクラリと日本の決断を鈍らせたのはアメリカ・トルーマン大統領側近です。何故なら07月23日に日本への「原子爆弾投下」を決断していたからです。ホンネでは早い敗戦決断を願いながら朝日・毎日新聞、徳富蘇峰など言論人はタテマエのみで現実から目を逸らし、戦争を鼓舞しました。「鈴木内閣の苦悩の四か月」もこれも推敲中です。原爆投下は当初は“京都”が目標でした。「ここだけは絶対ダメ」という知日派のアメリカ軍人も居たのを知るべきです。当時のヘンリー・スティムソン陸軍長官です。駐日大使だったジョセフ・グルーの助言もありました。

A≪旧日本軍は「桶狭間の戦い」を参考にした≫
という部分は、参考にしたことは確かです。しかし内容は全く違います。これは山本五十六海軍大将が残した言葉です。山本五十六は最後まで「日独伊三国同盟」も「日米開戦」も反対でした。日本の海軍は、アメリカと戦争して勝てる組織ではない、が持論です。しかし悲しいかな山本も海軍軍人です。どうしてもやるなら『結局、桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行うの已むを得ざる羽目に、追い込まるる次第に御座候』(半藤一利著『昭和史』P368 平凡社ライブラリー)の決意を披露しました。真珠湾を想定して鹿児島湾で猛訓練したことも確かです。真珠湾攻撃が許可されないなら連合艦隊司令長官を辞任する、と軍令部へ直訴しました。ですがあまりに博打のような作戦で、大本営から反対されてボツ、と思ったのも事実のようです。許可したのは統帥部海軍・永野修身(おさみ)で「真珠湾攻撃」が現実になってしまいました。昭和15年当時の米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上茂美(しげよし)軍務局長は「アメリカとの戦争などもってのほか」という良識派の軍人でした。16年には主流派から外され、暗殺の対象でもあり“海の上”へ更迭されました。山本五十六は最後まで外交交渉に期待し、宣戦布告も厳命しました。ひそかに大元帥・昭和天皇の開戦反対も期待していたようです。ここも多くの論考があります。

追記
今日も山本五十六海軍大将(死後・元帥)が評価されるのは、終始「日米開戦」には反対だったからである。昭和18年04月18日、山本搭乗の偵察機はアメリカ軍の暗号解読にキャッチされ、撃墜されて戦死するが、確かな証拠は無いが、自殺だった可能性が高いとされる。撃墜されても即死ではなく生きていてピストルで胸を撃ち自ら命を絶った。後世の我々が唖然とするのは、山本の死を確認した海軍・陸軍の兵士も、その後、秘密隠匿の意味で、南方の最前線を送られ、全員が戦死していることにある。それらの兵士に生前接触した新聞記者の伝聞が山本自決を伝えていることになる。この年の秋に“学徒出陣”が始まり、翌19年秋には“神風特攻隊”出撃となって大日本帝国は坂道を転がって行く。大正時代、アメリカの駐在武官を経験した山本はアメリカの国力を十分に認識していた。日米開戦前に「東京は今に焼け野原になる」という山本の予言は的中した。山本五十六の自決は、筆者には「日米戦争を早く終結させろ」という軍部・政治家・世論への無言の警告だったと思う。

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2011/11/1  22:31

HARUKOさん01  パソコン
筆者が定年後、HPを始めた頃、ネット・サーフィンで「短歌」を辿って行き着いたのが文京区播磨坂の「ナガタニ」さん。ナガタニさんは人工透析20数年を頑張っておられる。ナガタニさんのリンクから今、御厚誼いただいているのが、信州・小布施の“みかんちゃん”、横浜の“HARUKO”さん。偶然だが、HARUKOさんの仙台時代、高校?の先生が、今「新アララギ」の選者、三宅奈緒子先生。HARUKOさんも多分、教職でおられたような気がする。HPには「銅像めぐり」「日本史ウォーキング」「ツアーで行ける外国の旅」など多彩。「母が語る20世紀」は秀逸以外なにものでもない。「ブツブツひとりごと」では世相を厳しく断じておられる。筆者が唯一対抗できるのは、昭和史の戦争くらいのものか。「フクシマ原発」に関して反論を投稿、掲載して頂いたことをこの場で感謝申し上げます。したがって自分の文章だから転載と云うのもおかしいが、問題点を提起したのはHARUKOさんである。以下、三回に分けて記載する。

『ブツブツひとりごと 22回』を拝見しました。この文章の中には、たくさんの問題が提起されています。「湘南の暇人」としては昭和史を専門?とするので触発されました。同様の文章をブログに掲載することにもしました。要約すると、
@せめて「ドイツの無条件降伏」と同じ頃、「太平洋戦争の敗戦」を決断すべき。
A太平洋戦争を「桶狭間の戦い」を参考にした。
B太平洋戦争と津波・原発事故の類似点。
 太平洋戦争と原子力発電所の設置は、「最悪の事態を想定していない」
 大本営も原子力村も「都合の良い情報は流し、都合の悪い情報は隠す」
C人間は歴史から何も学ばず、民主主義は70年間進歩していない。日本人のDNAかも。
D「核兵器を持たず・作らず・持ち込ませず」を忘れたのか?

 世界の軽蔑語になった「フクシマ」は割愛させて頂き、以下@〜Dについて私見を披露します。但し多分に独断と偏見ですので、御承知おき下さい。

@≪「日独伊三国同盟と言いながらイタリアは3月にドイツは5月に見切りをつけている。なぜ日本だけは最後まで世界中を敵にして戦ったのだろう。せめてドイツと同じころに見切りをつけていれば、沖縄戦もなかった、私の家が空襲で全焼することもなかった、広島や長崎に原爆が投下されることもなかった、若い特攻隊員の犠牲者もずっと少なかった」と、愚痴っぽくなってきます。≫は、まさにその通りです。小生の父親など昭和20年11月10日の戦病死です。戦後三カ月経過していて、マラリアで動けない二等兵は置き去りにされたのです。まだ戦って死んだ方がマシと云うものです。20年04月30日、アドルフ・ヒトラーが自殺、05月07日、ドイツは連合国に無条件降伏しました。「日独伊三国同盟」に準ずるなら、どうして同時に降伏しなかったのか。この検証は一冊の本になる題材ですので、これも小生のHPで『敗戦の決断は何故遅れたのか』で推敲しています。ひとつ云えるのは、愚かな大日本帝国陸軍の更に愚かな「本土決戦」の準備で「司馬遼太郎」は実戦経験もなく20年05月、満州から栃木県佐野の部隊へ帰還できました。そこでの想定演習でアメリカ軍を迎え打つとき、東京方面から大八車に荷物を載せて逃げて来る多くの人々の交通整理はどうするのか、司馬遼太郎は尋ねました。大本営陸軍参謀は暫く考えた後「轢き殺してゆけ」と言いました。(『司馬遼太郎対話選集6・戦争と国土』P45)むろん戦車隊の話です。この話も長くなるのでここで割愛です。(つづく)

添付はHARUKOさん撮影

前回の解答
 月見里=やまなし(月が見えるのは高い山が無いから?)
 小鳥遊=たかなし(鷹がいないから小鳥が多い?)

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