2011/12/1  22:40

江戸のかほり  身辺世相
二日前の「産経新聞」朝刊に、添付画像のような広告あった。≪江戸のかほり≫とはまた、広告を出す方も、掲載する方も確信犯的な仮名遣いの誤りである。一市民が間違いを指摘しても直すわけはないが…。

どんな国語辞典でも「香り」は現代仮名遣いなら「かおり」、旧仮名遣いなら「かをり」である。遠く源氏物語の時代には、かおりを「かほり」との表記もあるように聞くが、現代では「かおり」「かをり」が正しい。

歌手で現役の銀行員でもあった小椋佳が作詞・作曲したのが“シクラメンのかほり”。布施明の声で大ヒットしたのを記憶している。当時、国語学者や(旧仮名をよく使う)歌人や俳人が直ちに誤りを指摘した。だが小椋佳は少しの言い訳をして指摘を無視した。妻の名が「佳穂里」だからだとの主張。なるほど佳穂里なら、発音は「かおり」でも表記上では「かほり・kahori」だ。したがって旧仮名の間違いを指摘されても小椋桂は「極めて意図的に」これを直さないことになる。なるほど歌詞を読めば、シクラメンが匂うなどとは一言も云っていない。筆者はおおむね花に疎いが、シクラメンは嗅いでも匂わないように思う。ここに小椋佳の周到な計算があったことになるのか。つまり花の匂いが歌の主題でも側面でもないことにある。

ネットで語源を調べると、「かをり」は実は「香+居(を)り」から来ている。つまり「かほり」を香る・薫るに思わせるのは作詞者として正しくはない。要するに自分の妻への「愛の賛歌」らしいが、3番には「暮れ惑う街の別れ道にはシクラメンのかほりむなしくゆれて」という箇所がある。これも“シクラメンの妻”だと言い張るのか…。序でに云えば1番に「真綿色したシクラメンほど清しいものはない」とある。「清々しい」という言葉はあっても「清しい」との言葉はない。やはり「かほり」もそれほどきちんと文法的に計算したものではないように思う。間違いを指摘されても「東大法学部」出身者は、それだけで自分が正しい?と思っているから人の云うことを聞くわけがない。小椋佳の歌は好きでも嫌いでもないが、美空ひばりの「愛燦燦」は良いかもしれない。昭和30年代の演歌の大御所「三橋美智也」を尊敬しているところだけ評価はする。

小椋佳はひとまず置いて江戸時代ならあくまで「かをり」である。蛇足ながら旧仮名では、尚、顔は「なほ」「かほ」となる。単に「かおり」とすればいいものを洒落たつもりか、小椋佳に毒されたのか、山本海苔店には大学の文学部出身者社員が居ない非常に情けない会社だと云う結論になる。前期高齢者の天の邪鬼としては“出れる”“見れる”“目線”“生きざま”など嫌な言葉がはびこっていて大いに気なる。尤も山本陽子は妖艶であっても「山本海苔店」の海苔などは買わないのでどうでもいいことであるが…。江戸時代の人もびっくりだろう。少し短歌をかじる者のたわごととして悪口雑言を許されたい。

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