2012/12/30  20:24

なかにし礼  身辺世相
やはり年齢を重ねると昭和の時代から親しんだ映画俳優や文化人の死去のニュースに目が行く。淡島千景、山田五十鈴、地井武男、中村勘三郎、小沢昭一などの死は悲しい。ことに中村勘三郎はまだ57歳だった。各家庭にようやくテレビが行き渡ったのは、筆者には昭和50年頃だったと記憶する。中村勘三郎は昭和30年生まれだから個人的に白黒テレビの時代から、子供のころから馴染んでいたことになり、一回り下の世代だから余計に唯々勿体ないことである。癌は人間には避けられないが神様はよく人を選んで?戴きたい。

“食道がん”を病んで、先進医療の陽子線治療で生還したのが作詞家の「なかにし礼」。産経新聞11月に3回にわたって詳細が知らされた。略歴を記事から引用させて頂く。昭和13年、中国黒竜江省牡丹江市生、74歳。立教大在学中から訳詞を始め、約4千曲を作詞。作家転身後の平成12年に「長崎ぶらぶら節」で直木賞。舞台の脚本や演出でも活躍。主な小説に「兄弟」「赤い月」。

筆者には『昭和が面白い』半藤一利編(文春文庫)でその出自は知っていた。すなわち「中国満州からの引揚者」であったことによる。内容は詳説しないが、ただ茫然とその内容に驚くばかりである。その書は作家・半藤一利氏を中心に鼎談なのだが、もう一人は数学者の藤原正彦の母親で作家・新田次郎の妻であった藤原てい。読み返してみたが、藤原家も中西家も紙一重の差で生還できた。なかにし礼の父親は、満州で財を成したが帰国直前亡くなった。両親は、元は北海道小樽市に在住していた。「兄弟」で赤裸々に描かれた兄、代表曲「石狩挽歌」はこの小樽が背景になっている。

テレビ朝日系列の昼番組「ワイドスクランブル」のコメンテーターだったが、本年03月05日の放送で「食道がん」を報告、治療のため休業。10月01日より復帰。やはり元気なころより精彩がないのは仕方がないのか。ウィキペディアの検索では、石原裕次郎との邂逅があったらしい。
≪シャンソンの訳詞を手がけていた頃、最初の夫人との新婚旅行中に静岡県下田市のホテルのバーで「太平洋ひとりぼっち」を撮影中の石原裕次郎と偶然出会い知遇を得る。石原に「シャンソンの訳なんてやっていないで、日本語の歌詞を書きなさいよ」と勧められ、約1年後に作詞作曲した作品「涙と雨にぬれて」の原曲を石原プロに持ち込んだ。数ヶ月後、石原プロがプロデュースした「涙と雨にぬれて」がヒットする。≫意外に知られてないが、この曲は自ら作曲もしたデビュー曲で、その後を約束するデュエット曲の名曲でもある。競作でフランク・永井・松尾和子の当時の黄金コンビの歌もある。

以下筆者が好きな代表曲。

◇知りすぎたのね ロス・インディオス 1968年 作曲・なかにし礼
◇君は心の妻だから 鶴岡雅義と東京ロマンチカ 1969年 作曲・鶴岡雅義
◇今日でお別れ 菅原洋一 1969年 作曲・宇井あきら
◇恋の奴隷 奥村チヨ 1969年 作曲・浜圭介
石狩挽歌 北原ミレイ 1975年 作曲・浜圭介
◇時には娼婦のように 黒沢年男 1978年 作曲・なかにし礼
◇ホテル 島津ゆたか 1985年 作曲・浜圭介

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