2013/2/28  21:11

東京家族  映画TV
封切り後、一か月以上も経ってしまったが、やっと『東京家族』を観てきた。平塚シネプレックスでいよいよ日に“2回”の上映になったので、そろそろ上映終了と思ったからである。多分上映のカタログは売り切れと予想されたが、まだ残部は存在した。ブログなどに記述するならこれは必須で尚、余韻を楽しみたいからである。山田洋次監督は、昭和06年生まれ、81歳。丁度、山田監督が松竹に入社した頃の巨匠が「小津安二郎」だった。「東京家族」は『東京物語』(昭和28年・1953・松竹)のリメイク版。東京物語の夫婦の暮らす舞台は、広島の「尾道」から「豊田郡大崎上島町」に変更され撮影された。

NHKの撮影密着取材も録画してあるから、今夜は再度の観賞になる。もともとは2011年12月公開予定だったが、「東日本大震災」によって公開が延期となった。主演の老夫婦の配役を菅原文太と市原悦子から、橋爪功と吉行和子に変更になり、長女役も室井滋から中嶋朋子に交代した。共演は、山田組常連の小林稔侍ほか、蒼井優、妻夫木聡、西村雅彦、中嶋朋子、林家正蔵、風吹ジュン。

東京物語の主役の一人、二男の戦争未亡人役は「原節子」だった。NHKのデジタルリマスター版の原節子は、モノクロ映画だがとにかく美しい。昭和38年に引退、50年を経ている。1920年生だから現在92歳。末子役の「香川京子」が健在なのは嬉しい。「東京家族」はこの戦死者の二男夫婦の設定を替え、妻の死を東京に変更したくらいで同じセリフも随所に出てくる。おおよそのストーリーも解っているし、物語も単純だから淡々と観てきただけで、黒澤明監督映画の盛り上がりのある映画ではない。ただ加齢のせいか涙は止まらない。午前10時上映の映画は十数人だけの観客だった。友達同士の媼のしゃべりが煩かったが、上映後はぴたりと止んだ。が、妻の死の(脳溢血?)場面はすすり泣きが聞こえた。

畏友・なでしこさんには、お勧めできない日常の家族の淡々とした映画である。原作の「東京物語」はカメラ位置が低く、固定化され、セリフの言い回しも更に淡々としている。だが世界の映画監督の投票では、その60年前の「東京物語」が第一位なのは、映画撮影の基本がここにあるからなのか。暇人につき更に両者を比較してみたい。

よく判らない体調不良だが、午前中は何とか運転はできる。足腰に気を遣ったせいか、総合スーパー・オリンピックの駐車券の無料刻印を忘れて200円を払う羽目になった。運転はむしろ走行中の方が安心、信号や発進、ブレーキが危ない。

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2013/2/20  20:43

神田やぶ蕎麦  身辺世相
千代田区神田須田町の「神田やぶそば」が02月19日半焼した。だがそれは表通りから見てのことで、歴史ある蕎麦屋の肝腎の内部・厨房は全焼らしい。今、解っていることは漏電だとの見解。更なる火事の原因が追究されても焼けた歴史的建造物は戻らない。明治・大正時代の木造の建物に現代の最先端の電気的配線なのだから、いくら点検・配慮しても土・日にはたくさんの客が来て、そのたくさんの客を捌いて、従業員の給料を支払い、建造物を保存し、利益をあげるなら大いなる無理があるに違いない。

この「神田やぶそば」の前の脇道を行くと「甘味処・竹むら」「あんこう鍋・伊せ源」、さらに「神田まつや」という蕎麦屋がある。池波正太郎がこよなく愛して通ったのは、むしろ「まつや」ではないのか、池波は「「酒」が好き、甘いものも好き、更に始終、煙草も放さなかった。今、残っている池波正太郎の画像は、殆どが煙草をくわえている。

筆者はその4つの店、全部に行っている。いずれも神田川・昌平橋が近く、勤務先の神田明神下が近い。酒が飲めない体質につき「竹むら」は3度ほど行き“あんみつ”をいただいた。「伊せ原」の「あんこう」なるグロテスクな魚は、好きではない。記憶に残っているのは「やぶそば」の一人前は、なぜか量が少ないこと、「まつや」は東側から入り、西側出口から出る、いわゆるトコロテン方式の客捌きで長居はできない。「江戸」の神田は、食事時、愚図愚図してはいけないのだろう。もっとも江戸前の食べ方は、老人にもいい! 入れ歯不要で、ズーズー落語で見るように飲みこめば時間も掛からない。

三年前の02月01日、このブログで「重要建造物火災」を記述したのを思い出した。≪戦後の大宰相・吉田茂の邸宅があって、そろそろ一般公開寸前の平成21年焼失して。その後、どうなったのか判らない。素人が考えても「失火・漏電・放火炎上」のように思う。その後の詳細な調査・報道はない。更には、同年2009年12月には、小田原市にあった、太宰治「斜陽」の舞台、「雄山荘」が全焼。ここは無施錠で通電も無くこれは放火の様相。神奈川県は藤沢市の「旧モーガン邸」が二度も火災全焼している。≫

この際、失火・漏電云々は別にして「歴史的建造物」は、その景観の保存、電線・ガス・通信など生活ライン、水回り・消火栓などの非常時、定期点検時期・人員など、難しい問題があることは想像できる。江戸城城下、千代田区は「神田○○町」、中央区は「日本橋○○町」と、町名、街並み、建物をいろいろ保存している。建物を維持し且つ定期点検の上、利益も必要では、その努力は簡単なことではない。だが味の維持と建物の保存が優先だとしても、そんなに何度も出かけたい老舗であったとも思わない。アルコールと麺類は好物でない者の感想だが、為念。

添付は平成18年の画像。

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2013/2/16  20:12

中央配置  パソコン
体調不良が改善しないので中々ブログ記述が捗らない。年末に以下の問題を精査していると叙述したが手に着かない。いずれも素人には手に余る問題だが間違って長生きしたら「知らぬ存ぜぬ」では済まない問題。

◇沖縄普天間基地問題・オスプレイ
◇尖閣諸島問題
◇セシウムと放射能汚染
◇福島原発国会事故調査委員会その後
◇東京電力・霞ヶ関経産省
◇首都圏直下地震と自衛隊
◇昭和16年「日米開戦」の真犯人

だが喫緊の課題で「知らぬふり」が出来ないのが「使用済み核燃料棒」だろう。今の世代は、数十年経過すれば死に絶えているからいいが、子・孫の世代には、眼を瞑っていられる場合ではない。体調が改善したら手を付けるとして今、HPの推敲をしているのが「中央配置」。HP作成ソフトは「ホームページビルダー」。作りやすいので「どこでも配置モード」を使用してきたが、これだとパソコン画面では「お気に入り」を外せば左側に寄ってしまう。筆者は、付き合いで「日曜赤旗」を購読しているが、どう考えても左翼より主義主張は、心情右翼。画面が広くなろうと、狭められようと真ん中に配置できるのが、筆者のソフトの場合は「標準モード」。よく見る「平塚市」「東海大学・鳥飼行博研究室」も徐々に“中央配置”に作り変えている。

筆者の場合、既存のページはあと10点、『私解 戦争の昭和史』など既存で推敲不足があと14点。頑張るしかない。

画像は坂東07番、金目観音山門。

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2013/2/8  14:32

信任状捧呈式  カメラ
平成18年秋、所属する短歌会の大会は、浦安市の「東京ディズニーランド」横のホテルで開催。「東京ディズニーランド」はJR「京葉線」の舞浜にある。大会から数週間後、平成18年12月22日は、ホテルの正面を2枚、撮影。まだ十分に足腰が元気だった。それだけのために往復3000円の東京行だった。京葉線に乗るには、東京駅八重洲口地下を延々と西へ歩く。筆者はこれだけでうんざりである。ディズニーランドは、老齢につき、また戦後アメリカの産物でとんと興味がない。東京駅周辺、殊に「丸の内」側は、明治・大正時代の重要建造物があるから最新式のカメラを駆使して探索。戦後の「GHQ」になった日比谷の「第一生命ビル」など精力的に撮影。そこに偶然出くわしたのが「信任状捧呈式」(しんにんじょうほうていしき)と称される儀装馬車列だった。儀装であって「偽装」ではない。工事中であっても東京駅・丸の内口という日本のど真ん中に騎馬隊である。カマラマン?としては天の配剤で随喜の涙?を流した。

当時は『ウィキペディア(Wikipedia)』にも説明がなかった。今では平成18年12月22日には「スウェーデン大使」だったことが「宮内庁」のHPでも公開されている。昨年、春に「スカイツリー」、秋に「赤レンガの東京駅」が数年ぶりに完成。長年通勤で毎日利用した東京駅、撮影したいのはやまやま。その折のページは『最新頁の案内』に、まだある。

その頃、所属短歌会の画像を中心とした『冬雷短歌会行事』のホームページを担当していた。勝手に画像のあるページを作っていただけの話で、実質、茨城県の精神科医の方の労作だった。そのページにリンクしただけのこと。今はこの精神科医は、亡くなられHPそのものも4年を経て削除された。平成18年の大会当時、室内の行事は十分に撮影したが、肝腎の“ホテル正面”を撮影していなかった。その正面の一枚だけの撮影が思わぬ場面に遭遇する。ホテルの名に思い出はあった。「サンルートプラザ 東京」と云い、平成12年頃、友人の娘の結婚式で、その頃、凝っていたデジタルのVTRカメラで一部始終を撮影した。むろん一本の録画番組に仕上げた。「タイトラー」なる字幕を入れるビデオの編集機器もあった。

信任状捧呈式は、日本へ着任した特命全権公使が、派遣国の元首から託された信任状を天皇に提出する儀式。「奉呈式」とも表記される。現在の駐日大使の信任状は、憲法第7条第9号により、天皇が接受。この際の儀式は皇居で行われる。日本へ新たに赴任した国の大使(外交官)は、東京駅から宮殿南車寄までの移動手段として自動車か儀装馬車を選ぶことが出来ることになっている。多くの大使は馬車での皇居移動を選ぶ。

このとき大使の随行員が乗る馬車と警護の皇宮警察や警視庁の騎馬隊を加えた馬車列を編成する。なお2007年から2012年まで行われた東京駅復元工事の際には明治生命館(皇居内堀に面する)からの出発に変更された。新任大使の送迎に馬車を使用する国は、現在では日本の他、イギリス、オランダ、スペインなど、ごく一部の立憲君主国に限られている。捧呈式の内容は「フリー百科事典」参照・引用。画像はウィキペディアに投稿したい。

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2013/2/5  6:52

白金の坂  昭和史
昭和36〜37年、筆者が16〜17歳の頃の話である。日本橋蠣殻町にあった“業界新聞”を配達する小さな新聞販売店で、ここに半年間くらい勤務した。朝05時半から09時までの短い勤務で、当然給料も安かった。蠣殻町までは錦糸町から都電で「水天宮」行の終点で下車、当然始発の電車、往復25円。

日本橋蠣殻町(かきがらちょう)から国道一号線へ出てほぼ港区を回り「業界新聞」を配達してくる。新聞は官報、食料新聞、木材新聞、電気新聞など毎日の新聞は無く、三日に一度、週に一度の新聞もある。部数は少なく多種類で、帳面が無ければ覚えきれるものでは無かった。

コースは港区である。日本橋から国道1号に出て、高島屋前、銀座、新橋、芝公園、田町、高輪、泉岳寺前、桜田通り、白金台、目黒通り、目黒自然教育園、北里大学前、天現寺、三の橋、増上寺前、芝公園。思えば山の手線の内側3分の1を網羅している。

目黒通りの白金の坂は、正確には「日吉坂」と云い、今では考えられないが、あの急坂を当時は都電が上り下りしていた。

 自転車を一度も留めずに業界紙運びし長き白金の坂

今、回想すればよくあんな坂を普通の自転車で上れたものだ。この仕事がいかに過酷で薄給かは、今は問うても詮無いこと。東映映画の「17歳のブルース」なるポスターが貼られていた時代で、当時破竹の勢いの東映映画は「松方弘樹」「北大路欣也」のデビュー作だった。

中学校を卒業して最初の転職で「定時制高校」の二年生だった。いくらか大人になった気分でいろいろな発見があった。芝公園では、今はもう無いらしいが高級中華料理店「留園」が建築中だった。経営者は清朝末期の実業家「盛宣壊」の孫で、文筆家としても知られた「盛毓度(せいいくど)」氏。“リンリン・ランラン”と云う双子タレントがCMを盛んに流していた。盛宣壊(せいせんかい)は清朝末期のエリート中国人。日本の進む近代技術を真摯に研究したらしい。今の中国指導者はこの人に学ぶべきだ。

同じ芝公園にあったのが「日活アパート」。これは今で云うマンション、まだビルらしいビルが無かった時代。ここにも配達があったのか「丹羽富成」「石原慎太郎」の表札もあるのを発見。丹羽富成は東映時代劇のスター「大川橋蔵」の本名。このアパートの経営は、石原裕次郎・吉永小百合全盛の「日活」の経営だったのかどうかは、ネットにも記載が少なくよく判らない。今は新築の雑居ビルらしい。高輪のとある横道に入ると豪邸があった。時代小説の柴田錬三郎邸。「眠狂四郎」シリーズは市川雷蔵主演で「大映」のドル箱だった。

その新聞配達店が現在、あるかどうかは解らない。業界新聞など今は、宅配便で送ればすむこと。当時は、宅配便もコンビニも無い時代だった。都電も軌道のある「荒川線」だけになった。蛇足ながら今をときめく押上・業平近辺には都交通局経営のトロリーバスも通っていた。

画像は長い白金の坂の一部、使用を申請する。

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