2013/2/5  6:52

白金の坂  昭和史
昭和36〜37年、筆者が16〜17歳の頃の話である。日本橋蠣殻町にあった“業界新聞”を配達する小さな新聞販売店で、ここに半年間くらい勤務した。朝05時半から09時までの短い勤務で、当然給料も安かった。蠣殻町までは錦糸町から都電で「水天宮」行の終点で下車、当然始発の電車、往復25円。

日本橋蠣殻町(かきがらちょう)から国道一号線へ出てほぼ港区を回り「業界新聞」を配達してくる。新聞は官報、食料新聞、木材新聞、電気新聞など毎日の新聞は無く、三日に一度、週に一度の新聞もある。部数は少なく多種類で、帳面が無ければ覚えきれるものでは無かった。

コースは港区である。日本橋から国道1号に出て、高島屋前、銀座、新橋、芝公園、田町、高輪、泉岳寺前、桜田通り、白金台、目黒通り、目黒自然教育園、北里大学前、天現寺、三の橋、増上寺前、芝公園。思えば山の手線の内側3分の1を網羅している。

目黒通りの白金の坂は、正確には「日吉坂」と云い、今では考えられないが、あの急坂を当時は都電が上り下りしていた。

 自転車を一度も留めずに業界紙運びし長き白金の坂

今、回想すればよくあんな坂を普通の自転車で上れたものだ。この仕事がいかに過酷で薄給かは、今は問うても詮無いこと。東映映画の「17歳のブルース」なるポスターが貼られていた時代で、当時破竹の勢いの東映映画は「松方弘樹」「北大路欣也」のデビュー作だった。

中学校を卒業して最初の転職で「定時制高校」の二年生だった。いくらか大人になった気分でいろいろな発見があった。芝公園では、今はもう無いらしいが高級中華料理店「留園」が建築中だった。経営者は清朝末期の実業家「盛宣壊」の孫で、文筆家としても知られた「盛毓度(せいいくど)」氏。“リンリン・ランラン”と云う双子タレントがCMを盛んに流していた。盛宣壊(せいせんかい)は清朝末期のエリート中国人。日本の進む近代技術を真摯に研究したらしい。今の中国指導者はこの人に学ぶべきだ。

同じ芝公園にあったのが「日活アパート」。これは今で云うマンション、まだビルらしいビルが無かった時代。ここにも配達があったのか「丹羽富成」「石原慎太郎」の表札もあるのを発見。丹羽富成は東映時代劇のスター「大川橋蔵」の本名。このアパートの経営は、石原裕次郎・吉永小百合全盛の「日活」の経営だったのかどうかは、ネットにも記載が少なくよく判らない。今は新築の雑居ビルらしい。高輪のとある横道に入ると豪邸があった。時代小説の柴田錬三郎邸。「眠狂四郎」シリーズは市川雷蔵主演で「大映」のドル箱だった。

その新聞配達店が現在、あるかどうかは解らない。業界新聞など今は、宅配便で送ればすむこと。当時は、宅配便もコンビニも無い時代だった。都電も軌道のある「荒川線」だけになった。蛇足ながら今をときめく押上・業平近辺には都交通局経営のトロリーバスも通っていた。

画像は長い白金の坂の一部、使用を申請する。

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