2013/7/30  7:08

錦糸町  昭和史
テリトリー東京05 錦糸町
昭和32年04月からの25年間、東京生活の拠点になったのが墨田区錦糸町。スカイツリーで脚光を浴びる墨田区業平、江東区深川など馴染深いが、若い頃の娯楽と行動の原点はやはり錦糸町と浅草。JR錦糸町駅周辺は、今では再開発が顕著で高層ビルも林立、地下には都営の大江戸線も走る。上京時の錦糸町駅は、信州の田舎の駅舎のようで「男はつらいよ」の寅さんが現れるような小規模なものだった。駅の裏側には貨物の引き込み線がありSLが活躍、貨物の集積地!でもあった。駅舎が完成したのは昭和36年。

この近辺は、町名は「江東橋」、明治時代末期は、まだJR総武線もなく農村だった。短歌会「アララギ」の創始者・伊藤左千夫が牛舎を作り“搾乳”をなりわいとしていたのは知る人ぞ知る。明治時代を生きて大正02年に亡くなった伊藤左千夫は、小説『野菊の墓』と共に多くの秀歌を残した。大歌人・斎藤茂吉の師匠である。駅前のロータリーに歌碑がある。

 よき日には庭にゆさぶり雨の日には家とよもして児等が遊ぶも
     ゆさぶる=騒ぐ とよもす=ゆるがす

駅の東側には中学生時代、入り浸った映画街の「東京楽天地」、駅の向こう側には中央競馬の馬券売場、その脇には魚の大規模専門店「魚寅(うおとら)」がある。ここには毎日、両国の相撲部屋から新弟子が魚を買いに来る。駅の北東側は、桜の名所「錦糸公園」、公園の東側、横十間川に近いところにあるのが「松徳硝子株式会社」でグラスを造るガラス工場だった。

今や“うすはりグラス”という少々倒しても割れないグラスは先頃、NHKなどで何度も放映され全国区になった。墨田区の地場産業の雄といってもいい。筆者は中卒後、一年間“住込み”でこのガラス会社に勤務した。冬でもランニングシャツ一枚で過ごせた。夏もランニングシャツ一枚だが流れる汗は体力を消耗する。“塩を舐め”ながらの作業だった。同時に定時制高校にも通っていたから体力が続かず一年2カ月で辞めた。

娯楽の少ない当時、足繁く通ったのは錦糸町駅東側の一角にある江東楽天地、今は東京楽天地。常設映画館は封切館から三番館まで6館ほどあった。正面は江東劇場と本所映画。江東は東宝、本所は外国映画、他に松竹、日活、東映の常設館があった気がする。江東劇場は、歌謡ショーと東宝映画の二本立てが屡々あった。覚えているのは昭和35年秋の「島倉千代子ショー」、この時、島倉は過密日程の疲労で声が出なくなっていた。レコードを鳴らしていわゆる“口パク”だったのか。心無いファンも居て「金返せ!」の声も聞こえた。司会の漫才「晴乃ピーチク・パーチク」が平謝りだった。

筆者は16歳、島倉は22歳。島倉は美空ひばりと並んで歌手として絶頂期。満員で「立ち見」だった。入場料は300円?位だったのか。今では3000円以上だろう。その江東劇場は今は無い。演歌歌手は当時、ここでショーが開催できれば一流の証だった。同じく昭和19年生のジャーナリスト田勢康弘の「島倉千代子という人生」という文庫本がある。

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2013/7/28  13:07

立ち位置  身辺世相
検索すると≪「立場」とは、当人が日々生活し生計を立てている経済上社会上の具体的性を指すのに対し、「立ち位置」とは「当人の意志」によって如何ようにも変え得るような場合を指している。≫とある。どうやら“立ち位置”とは歌舞伎などからきた舞台用語らしい。

年金生活ゆえに筆者には「立場」は、どうも希薄・疎遠になったように思う。最近得つつあるように感じられるのが「立ち位置」。個人の意志で自由に変えられるとは云いながら、拠って立つ基本は変えられない。生い立ちなどを加味できるのではないのか。

皇国史観をゆく「産経新聞」と、そのまさに反対の立場の「日曜赤旗」を購読している。新聞でいちばんよく読むのは「テレビ番組欄」。他は見出しで済ますことが多い。だがその「見出し」だけでその主義・主張は判る。メディアも団体も個人でも、更にその国の「立場と立ち位置」はよほどのことでないと強固で譲ることはない。

「日曜赤旗」の配達・集金する方は、自治会の重鎮で好人物。10分間、二人で参議院議員選挙の総括をした。結論として“重鎮”は日本を支配する勢力は「財界」、筆者は「官界」と、意見が分かれた。だが昔も今も政界・官界・財界を支配する人脈は閨閥で繋がっているのが現実。今、思い返すと東京・下町で少年時代を過ごすと自分の立ち位置は、少々の“舞台装置”が変化しても変わらない。

ここ数年の耳鳴りは治らず、相変わらず耳の奥で「アブラゼミ」が鳴いている。どうしたことか今頃、喧しい蝉が鳴かない。飛躍かも知れないが「地球温暖化」はここにも指摘できるような気がする。突然の大雨で「隅田川花火大会」も途中で中止された。

自宅の車庫で蝉が羽化していた。この蝉は命を全うしたのか。

追記 今日(H25・07・29)拙宅の梅の巨木!でミンミン蝉がいきなり鳴き出した。当たり前のことだがホッとした。

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2013/7/27  18:36

神田神保町  昭和史
テリトリー東京04 神田神保町(かんだじんぼうちょう)
JR「御茶ノ水」西口を降りて南下すると、そこは「神田駿河台下」交差点。辞書で高名な三省堂書店がある。西隣のJR「水道橋」東口を降りて南に行くと「白山通り」と「靖国通り」が交差する「神田神保町」交差点に至る。その駿河台下交差点と神保町交差点までの“へ”の字に曲がる通りが所謂「神田神保町古書街」を成す。古書店舗は、直射日光を避けるため殆ど靖国通りの南側に位置し、北側が書店入口になっている。中学卒業以降は、当然貧乏で一冊10円程度の文庫本の古書が買えたので入り浸った。所謂「社会派推理小説」と言われた松本清張・水上勉・黒岩重吾の初期の本は大抵読んだ気がする。

御茶ノ水駅・東口から「本郷通り」を南下すればそこは「神田小川町」交差点。中途に“ニコライ堂”がある。この交差点近辺には「楽器店」「スポーツ用品店」が多い。この「明大通り」「本郷通り」沿いには明治大学・日本大学など大学・予備校が参集していた。別名“学生街”でもあった。

神保町は古くからの建物が密集しているため、防災性と「土地の高度利用」が課題として挙げられているらしい。ペーパーレスの時代に突入したが、古書は日本人の財産、古書街が消えることはないように思うのが本心。毎年「文化の日」前後に“古本祭”があり、秋の風物詩になっている。

勤務先の近くの神田明神下の「外堀通り」を南に行けば神田淡路町交差点で、ここからも神保町は近い。むろん「学生街の喫茶店」などの歌もあるように学生の憩う茶店・レストラン、さらには入り組んだ路地も多い。「救世軍日本本営」も昔からあって、文化財として貴重で戦争中、米軍が焼夷弾を落とさなかったとの逸話もある。ウソかホントかは知らない。蛇足だが外国人が多く暮らした箱根 and 軽井沢に空襲が無かったのは事実。

「サライ」平成16年21号には「司馬遼太郎」特集があり、井上ひさしの指摘に司馬の古書店街での“資料集め”の逸話がある。≪司馬遼太郎の資料蒐集の徹底さについては、多くの人が感嘆の声を上げている。神田の古書街からある日、ひとつのテーマの本がいっせいに消えるんです。どうしたのかと思うと、司馬先生が今度こういうテーマで書くからと各店に撒を飛ばして、資料がトラックで東大阪の司馬先生の家へ運ばれたあとなんです≫

司馬遼太郎を少し真似して筆者のライフワーク「戦争の昭和史」の一次史料の探索に近々、また神保町通いを再開する。高価なほど史料価値は高いと思う。どこまで本格化して、どこまで読み熟し、どこまで自分の文章に反映できるか、道は遠いし時間も少ない。

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2013/7/26  11:56

門前仲町  昭和史
テリトリー東京03 門前仲町
永代橋際の江東区佐賀町から都バスで二つ東側が「門前仲町」。ここは今は近隣にマンションが林立。江東区西部の中心地で賑わっている。この地域一帯は“深川”と呼ばれる。東京メトロ・東西線、都営地下鉄・大江戸線が通る。筆者が住んでいたころは、大江戸線は無かった。今は、深川不動尊の門前町だが、本来は「永代寺」の門前だった。永代寺は1868年(明治元年)の神仏分離令で廃止された。ほぼ隣接する富岡八幡宮と共に下町散歩の名所。

「永代通り」と「清澄通り」の交差する地点から少し北上すれば「清澄庭園」がある。元禄時代の紀伊国屋文左衛門の屋敷跡で、明治時代には三菱の創始者・岩崎弥太郎が所有した。今は都の管轄。この庭園はしっかりと管理されていて、いつ行っても季節毎の樹木、回遊式庭園が美しい。

昭和46年〜54年、筆者の在住当時は、お昼頃ぶらぶら歩いて門前仲町へ出かけた。深川不動尊入口には甘味処「伊勢屋」があり、甘いもの、お弁当、むすびなどがヤマと積まれていた。むろん2食分購入した。門前の通りには“きんつば(薄皮の和菓子)”や“深川めし(浅利のむき身を煮たものを飯の上に乗せる)”販売の商店があり、今は、下町散策もブーム!で賑わう。

深川は池波正太郎が“東洋のベニス”と命名!したように運河・掘割が縦横に走り、江戸時代は道路の役割を果たした。高度成長時代は「どぶ川」だったが、今は、整備され散歩の眺望にふさわしい水路になっている。画像は、清澄庭園の「涼亭」と「富岡八幡宮」。宝くじでも当たったら水路沿いの「ワンルームマンション」でも購入してもう一度暮らしたい。

門前仲町には小さな思い出がある。フォークグループ「ガロ」のメンバー日高富明のことだった。以下は「学生街の喫茶店」(2010/5/15)の要約再録。

昭和40年代後半は、コンビニなどまだなく食事は、定食を出す「大衆食堂」が主流だった。深川門前仲町交差点から一本南側の路地の角にまことに小さな食堂があった。老夫婦(当時の筆者から見て)二人で営んでいて6人も座れば満員の「みやこ食堂」だった。食堂の壁にフォークグループ「ガロ」の宣伝ポスターが貼ってあった。食堂の親父に訊くと息子が、ガロのメンバーだという。トミーこと日高富明だった。そういえば花束や贈り物を手にした女子高生などが来ていることもあって不思議な光景だった。

ガロは三人グループ。全員がギターとボーカルを担当。当初はロックバンドだった。昭和47年?すぎやまこういち作曲の『学生街の喫茶店』の大ヒット、48年、NHK紅白歌合戦にも出場。グループ解散後、日高はTV番組の作曲などをしていたがロック志向だったらしい。トミーこと日高は昭和61年09月、中央区新川のビルから転落死する、36歳だった。事故死か自殺かは不明だという。今生きていれば還暦を過ぎている。ワイドショーの事故報道で火葬場に向かう車に乗り込む老夫婦の姿があった。親父は「息子はあの世でもギターを奏でているでしょう」と淋しく笑っていた。どういう事情にせよ両親より先に死ぬのはよくない、病気だとしても。数年前、門前仲町を訪れたら、もう「みやこ食堂」は無かった。

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2013/7/20  18:43

永代橋  昭和史
テリトリー東京02
昭和46年から54年まで暮らしたのが「深川佐賀町市街地住宅」でいわゆる公団住宅。昭和46年、友人が申込書を出して29倍の難関を潜り抜けて入居した。頼んでくれた友人は落選。一応喜んだものの居住スペースは「1K」で5畳の居間と玄関の脇に小さめの流し付きでシャワーも風呂も無い。刑務所の独房はトイレがあるからそれ以下。家賃は当初は5000円だった。友人はその後、都心から離れるが千葉県八千代市の2DKへ無抽選で入居した。当時はべら棒な2万円台の家賃だった。筆者の人生の“運”はここで尽きた。

「深川佐賀町市街地住宅」は、昭和37年にできた「乳熊(ちくま)ビル」の3〜7階。元禄初年創業の「ちくま味噌」が本業。乳熊ビルの前にあるのが「赤穂浪士四十七士休息の地」の碑文で日本史ファンに知られている。ここからそう遠くない本所松阪町の吉良邸で本懐を遂げた赤穂義士は高輪泉岳寺に行く前に永代橋際で休息した。ここで甘酒のふるまいを受けた。時は元禄15年12月14日。日本史が好きなのに7年間暮らしていながらあまり興味は無かった。

深川佐賀町は明治・大正時代の食糧倉庫が多かった。むろん隅田川に繋がる運河が縦横にあったからである。公団住宅のビルは、隅田川に架かる「永代橋」の脇にあり、勤務先までは徒歩を加味しても40分だった。昭和47年まで永代橋の上を都電が走った。錦糸町─東京駅間だった。佐賀町から茅場町まで都電で行き、そこから日比谷線で秋葉原へ着く。

 バスは無く秋葉原までの通勤に永代橋を都電に渡りき

錦糸町─東京駅間の都電は、昭和47年廃止。昭和55年から実母と同居することになり、1DKの亀戸に転居した。佐賀町は足を伸ばせば、門前仲町でここは繁華街、深川不動・富岡八幡宮があり「鬼平犯科帳」「剣客商売」の舞台。

追記 佐賀町の「乳熊ビル」は平成27年05月、取り壊しの張り紙があった。

画像はネット画像をお借りした。中央区側から撮影した永代橋と都電。左の建物が乳熊ビル。

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2013/7/16  15:57

神田明神下  昭和史
テリトリー東京01 神田明神下
テリトリー」と称する言葉は、動物学ではその動物の生態的範囲、いわば縄張を指すらしい。最近では営業マンが自分の担当区域を指す言葉にも使われている。てなわけでここでは、人間が自分の暮らす或いは暮らした範囲、過去よく通った、親しんだ範囲に使用してみたい。「テリトリー東京」の第1回は「神田明神下」とする。

東京生活は、昭和32年より昭和57年までの25年間、昭和45年(1970)から平成16年(2004・昭和79年)まで勤務したのが千代田区外神田。地番変更までは「神田金澤町」。東京テリトリーの最初は「神田明神下」、勤務先より歩いて1分が神田明神下交差点。ここは文京区本郷の東京大学方面から下ってきて右折すると大手町、東京駅前に至る本郷通り。左折すれば東京都道452号で不忍(しのばず)の池に至る。神田明神下以東はいわゆる「秋葉原電気街」。

物語の「銭形平次」では、神田明神下に生活拠点があったらしい。神田明神(神田神社)の前は湯島坂、向かいが昔の昌平黌(湯島聖堂)で、その南側が相生坂。神田川の向こうが淡路坂。「男はつらいよ」の寅さんの “売(ばい)” の口上≪四谷、赤坂、麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水≫。その御茶ノ水は高台にあるからしたがって短い坂が多い。東京の坂は、タレントのタモリが執心で“ブラタモリ”という番組もあった。この東京の坂のHPは多い。

神田明神本殿の裏にあるのが「銭形平次」の記念碑。フジテレビで昭和40年代初めから昭和59年、主演・大川橋蔵が死去するまで(888回)続いた。大川橋蔵は、肝臓がんで55歳で亡くなった。昭和30年代の時代劇スターは東千代之介・中村錦之助・市川雷蔵・大川橋蔵で「二スケ二ゾウ」ともてはやされた。市川雷蔵に至っては37歳で亡くなっている。

思えば歴史のある江戸の中心地で34年間働いたことになる。画像は、映画・テレビ各社が建立した「銭型平次」の記念碑と神田明神山門「随心門」。

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2013/7/12  6:21

黒人?大統領  政治
昨年再選されたアメリカ合衆国大統領は、バラク・オバマ。44代で2期目。
1961年生まれだから同年にマリリン・モンローが36歳で不審死している。2年後、ケネディ大統領が暗殺されている。両者ともに犯人はマフィアの仕業と定説化している。

オバマは5年前大統領に選出されたときは“変革”を主張して演説の上手さもあって黒人としての初の大統領になった。アメリカの黒人の割合は10ペーセントらしいのでアメリカも大胆な決断をしたものだと思う。

筆者は、別に黒人差別主義者ではないが、残り90%のなかに白人の割合はともかくとして人材はなかったのかと思う。割合はもっと少ないが保守的な欧州では先ず無理だと思う。日本のレスリングが強いだけでオリンピックから外そうとするくらい欧州では?人種差別?が激しい。筆者に差別主義はないが、プロバガンダとしての中国・朝鮮は悲しいかな着いていけない。

ハワイ生まれのオバマは父親がケニア生まれで真っ黒な肌、母親はミルク色の真っ白な肌であったらしい。両親ともにもう生きていないらしいが白人の母親は大胆な決断だった。黒い肌の大統領が必ずテレビ画面に出てくるのには違和感があった。それを薄めるためのクリントン国務長官だと思った。

最近老人と言われる世代になって「目がおかしい」のかオバマ大統領は「肌が白くなった」ように思う。半分が白人だから有り得るが、手のひらは黒人といえど白いが、手の甲も面立ちもチョコレート色からアジア系民族程度に白くなった。大統領の激務がそうさせるのか、その分頭髪が白くなった。日本の首相と違ってあと三年リーダーの地位にあるのは間違いない。その頃は、もっと白人に近づいているだろう。

肌が白人に近づくころ政治的権力と主張が落ちていなければいいが。2009年、“核兵器縮小”と言っただけで「ノーベル平和賞」を受賞したのがオバマ。日本の歴代総理は核兵器を作る?度胸も気力も更に権力もない。日本政府こそ「ノーベル平和賞」に相応しい!

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2013/7/7  8:52

相生坂  身辺些事
所属する短歌会で出す「短歌文庫」の歌集名は『相生坂』とした。
「あいおいざか」だが、旧仮名表記は「あひおひざか」。

当初、歌集名を「道祖神のある町」としたが、平塚市をとくに象徴するほどの存在でもなく、どうも漠然とした感じもする。だが私の住む神奈川県平塚市西北部には、この道祖神が多い。“どうそじん”“どうそしん”どちらでもよく、神奈川県西部から山梨・長野県に広く分布する。稲作農耕の守り神、あるいは道標、更には“この世とあの世”の境目の意味もあるらしい。用意した画像は捨てがたく、頁の“境目”のカットに使った。

歌集名とした「相生坂」は、20代・30代のときの生活に思い入れがあった。地図の上では、千代田区に突き刺さるようにあるのが文京区の「湯島聖堂」。ここに沿う坂道が、相生坂。神田川を挟んで南側が「淡路坂」。昭和53年から4年間、春先の3か月間、一日おきに東京・町田までスクーリングに通った。30代半ばで「小学校教員免許」を取得しようと思ったからである。外神田の勤務先からJR「御茶ノ水駅」まで速歩で上ったのが相生坂。東京発・高尾行き御茶ノ水駅17時10分までの25分間。よくぞ駆け上ったものでる。

どちらの坂も、今では上るのさえ困難である。御茶ノ水駅を南に下れば神保町、勤務先近辺は「秋葉原電気街」。居住地は、主に墨田区・江東区だった。この御茶ノ水・秋葉原・神田は、私のいわばテリトリーだった。「昌平坂」は、湯島聖堂の東側に今も存在するが、短く細く一方通行。相生坂は淡路坂と対を成していて「外堀通り」の一環である。因みにこの相生坂の真ん中が千代田区・文京区の境界線。

相生坂の画像はネットから拝借。これは朝6時前の画像だろう。外堀通りは常に車の渋滞が現状。2枚目は筆者の画像。ここは昌平橋から「御茶ノ水」まで一気に上がる急坂である。この近辺は「幽霊坂・紅梅坂」「金華坂」「一口坂」と小さな坂が多い。

相生坂西側のアーチ型の橋は「聖橋」。
淡路坂の向こうに見えるビルは「順天堂大学」。

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2013/7/5  18:51

平塚七夕祭  身辺些事
本日07月05日から「湘南平塚七夕祭」が始まった。カメラ好きの“オジサン”としては格好の被写体だったが、昨年06月の「腰椎骨折」で撮影できなくなった。いい画像をゲットするならズームレンズと脚立は必須。今、脚立など乗ったらふらついて転落・転倒は必至。情けないことになった。

毎年、竹飾りコンテストで上位入賞だった「滝口カバン店」は、昨年より竹飾りを止めた。バブル期の頃は、各店、数百万円をかけて、そのきらびやかさを競った。数年前から派手な飾りを始めたのが「呑み屋チェーン」。栄枯盛衰である。間口の狭い「カバン店」は、その製作が、ボランティアが参加していても相当無理していた筈。

平塚七夕は、筆者が小学校1年生の時から始まった戦後復興の産物。今や三大七夕の一翼を担うらしい。バブル期は5日間だったが今は3日間。夜店の“テキヤ”も生活がかかっている。見ているとどの店も結構繁盛している。「綿あめ」「氷水」はもっとも売れる。

数年前からイベントとして開催されるのが「よさこいソーラン踊り」の大会。各チームは猛烈な訓練を重ねたことが判る。そのきらびやかな踊りを撮影できなくなったことは唯、残念。スマートフォンで撮影したものがネットで氾濫するに違いない。画像は平成22年のもの。

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2013/7/2  20:30

昌平橋  身辺些事
体調不良は、一向に改善しないので、この「地球に爪痕」でも残そうと短歌文庫を出すことにした。印刷の折本(おりほん)は常に「4 and 8」、16×8=128頁仕様。元々短歌そのものに才能はないが、更に困ったのは「歌集名」。当初は、若い頃から好きだった観音巡礼を念頭にした『秩父路』。だが巡礼の「納経帳」すら“ノーサンキュー”と言われる短歌上級者も居る。筆者は、秩父でも坂東札所でも勝手に「遍路」のフレーズを使ったが、これは「四国八十八カ所」めぐりのことで間違いだった。

居住地に昔から自然に存在するので『道祖神のある町』としたが、畏友の元看護師には、えらく評判が悪い。「筆者が強情を引っ込めず言うことを聞かない」と一方的に断罪されたが困ったことだ。勤務先に近かった神田川に架かる昌平橋を「昌平橋っていい響きよね」などと言っている。これは昌平橋を一度も見たことが無いからそんなことを言う。

この橋の脇には、汚い公衆便所があり、その脇にはホームレス二人が棲んでいる。汚い橋で有名。とても歌集名にはならない。四十年前、一世を風靡した神田川と同じ。 神田川は、当時どぶ川だった。ここを右折して「御茶ノ水駅」への上りの坂道が「淡路坂」、この方が歌集名になる。ただ淡路坂の歌は一首もない!奈良・東大寺の「春日野をとぼとぼ歩く」はある。

ここまでの記述で、お判りのように自分の短歌を自慢する気は毛頭なく個人の記録の意味合いが濃い。短歌の達人は漢字の振り仮名を嫌う。然し短歌サークルに留まった自己満足は良くない。筆者の短歌は報告、説明が多いと言われるので、これは反省する。だが短歌そのもの以外の説明・振り仮名は否定すべきではないように思う。筆者の場合、歌集には烏滸がましく個人の小さな記録に過ぎない。

正面が「昌平橋」、上の高架は総武線。その上のビルは「医科歯科大学」。下の画像は逆方向から撮影して目的は3本の電車。手前は「東京メトロ」、つい最近まで「帝都高速度交通営団」なる厳めしい名前だった。黄の電車・総武線の下にわずかに見えるのが「昌平橋」。一枚目は万世橋から西を見る。二枚目は「聖橋」から東方向を見る。今はこの「神田川」を行くクルーズがある。

富士山も昌平橋も遠くから見るに限る。傍へ行くと粗が目立つ。

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