2013/8/29  10:34

浅草  昭和史
テリトリー東京08 浅草
金龍山浅草寺は、坂東三十三観音13番の霊場。14番が、横浜の弘明寺で15番がいきなり群馬県だから、浅草寺を1番、2番弘明寺にして鎌倉へ行くべきとの地理上の順番を優先する説もある。事実、関西方面から坂東札所へ来る人は、ここを起点とすることが多い。鎌倉の1番・杉本寺は駐車場すらない。2・3番も同じ、とにかく鎌倉は狭い。発願が源頼朝だから鎌倉が起点なのは仕方がないが33カ所のうち08番まで神奈川県、飛んで14番が弘明寺となる。この経緯は解らない。ともあれ源氏政権が基礎の基礎。関東武士が本家の「西国33ヶ所」へ行かなくてもいいようにしたのがホンネ。

死しておおむね20年、時代小説御三家は司馬遼太郎、池波正太郎、藤沢周平。池波正太郎作品「鬼平犯科帳」の主人公・長谷川平蔵の役宅は江戸城・清水門に近い今の毎日新聞社付近。江戸城周囲などの名所は「鬼平」の随所に出てくる。その一つが浅草寺に程近い言問橋(ことといばし)の袂にある「待乳山聖天」(まっちやましょうてん)。“良縁良福を求めて祈願すれば必ず成就する”“夫婦仲が良くなると”との言い伝え。境内の中のあちこちに見られる大根と巾着。根の途中から二つに分かれている大根と巾着は「待乳山聖天」のシンボルとなっている。

東武浅草駅は、浅草松屋のビルの中にあり今は「スカイツリーライン」と名称変更されているが元は東武日光線、浅草から都心へ出るのは地下鉄しかなかった。だから一時は浅草は“陸の孤島”よろしく若者には見捨てられた?都内のローカルと受け止められた。蛇足だが、浅草─上野間は、戦前にできた地下鉄なので地面から一番浅いところを走る。だからエスカレーターはない。

今では「スカイツリー」で潤い、つくばエクスプレスも歓楽街「浅草六区」横に地下駅があって都心と繋がる。浅草の裏通りなど汚いイメージだったが、外人観光客など増えて筆者が青春を過ごした50年前と違って雑多な歓楽街を脱して歴史のある東京の下町散歩の雄となった感がある。

画像は浅草寺宝蔵門。

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2013/8/27  4:53

夢は朝ひらく  身辺世相
一世を風靡した演歌歌手・藤圭子が62歳で投身自殺。悲しい現実だ。35歳の元マネージャーのマンションからの投身。ネットで検索すると、藤圭子が、その若者から介護を受けていたらしい。鬱病で白髪、見る影もなく痩せ衰えていたらしい。ワイドショーでは「判を押した」ような画一的報道。自社の保存映像とインタビュー、芸能番組担当の解説。ことの核心には何も触れていない。藤圭子は、浪曲歌手の父・三味線瞽女の母に生まれ、。旅回りの生活だったらしく昭和42年、一家で上京、墨田区錦糸町近辺で“流し”の生活を始めた。

ドスの効いた声は、地声に加えて旅回りで鍛えられたもののようだ。上京して林家三平の一家が面倒を見ていたのは初耳だった。昭和30年代の大物演歌歌手・三橋美智也の女性版のようなサクセスストーリーだった。

川端康成が生前、会いたいと言っていたのに自殺してしまったこと。恩師の作詞家「石坂まさを」が、最近病死したことなどが遠因だろう。吾が子・宇多田ヒカルが歌手として成功していたのも安心材料だったかも知れない

夢は夜ひらく」はたくさんの歌手が歌っているがやはり藤圭子の歌唱力がいちばんだ。筆者の場合、どうも夜は早く寝るので朝が早い、朝の涼風の中に身を置くと体調不良はいちばん和らぐ。“夢は朝ひらく”と言ったところ。合掌。

以下は筆者の歌、本年06月に亡くなった所属短歌会の方の眼に止まった。

 起き抜けに枕元の緑茶を飲み干せば声に出さねど「ああ生きてゐる」

むらさきの薔薇は、気品・誇り。

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2013/8/26  8:31

大いなる忘却  身辺些事
先日猛暑のなか、エアコンの冷房さえ機能が弱められるほどだったが、シネプレックスへ出かけ、いちばん早い上映の(09・30)「少年H」を見た。原作は、戦後の価値観ありき、で著述されたらしく、多分にフィクションらしく“興ざめ”だった。ほんとうは宮崎駿監督のアニメ映画『風立ちぬ』が見たかった。

『風立ちぬ』は、喫煙シーンが多く“禁煙学会”から注文がついたらしい。
≪映画「風立ちぬ」に喫煙シーンが多いことを、NPO法人「日本禁煙学会」が問題視、スタジオジブリに対し、タバコの描き方に配慮を求める文書を送った。「未成年の観客も多く影響も大きい」と指摘、インターネット上では賛否両論の書き込みが広がり、学会には「表現の自由」「作品に文句をつけるな」といった苦情が数件寄せられた。 学会は文書で、作品で主人公の教室や職場など喫煙シーンが「数え上げれば枚挙にいとまがない」と批判。肺結核で寝込む妻の手を握りながらたばこを吸う場面については「夫婦の心理を描写する目的があるとはいえ、他の方法でも十分表現できたはず」とした。未成年の学生がたばこを友人にせがむ場面もあり、同会の作田学理事長は取材に「未成年者の喫煙を助長する。過去の出来事とはいえ、子供たちへの影響は無視できない」と非難した≫

喫煙に害があるのは喫煙者も知っているし、あくまで個人の責任だから他人がとやかく言う問題ではない。NPO法人がいかなるものか知らないが、現在の価値観で戦前を批判する典型的な例かも知れない。教育TV『達人達』、文春07月号でも宮崎駿・半藤一利の対談がある。堀辰雄「風立ちぬ」+「ゼロ戦」戦闘機設計者の「堀越二郎」を描いた宮崎駿の昭和史のアニメ映画。個人の視点から太平洋戦争の批判であることが解るし、喫煙シーンなどで問題を矮小化するのは、はっきり言って「お笑い草」である。

先日、地上波で放送された昨年の高倉健主演『あなたへ』は、保険金詐欺の話だ。日本の保険協会が「保険金詐欺」を助長するとクレームをつけた話は聞かない。ヘビースモーカーの原作者・宮崎駿氏に助言するなら話は解る。シリアでは化学兵器で無辜の庶民を殺すのが現実、のどかな極東の島国、日本を表す典型例だった。NHK『夫婦善哉』では、主演の森山未來が煙草を深く吸い込んで吐いていた。これは演技ではない。早くNHKにクレームをつければいいのに!

 炎暑には時々あるが首傾ぐ小さなお世話、大いなる忘却

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2013/8/22  10:42

腰椎圧迫骨折  身辺些事
teacupのブログで数年前からご厚誼頂いている「なりひら」さんが“腰椎圧迫骨折”で10日間入院との由。ブログも2週間ほど休むとのことではなはだ気がかりである。

なりひらさんは、数年前脳梗塞を患い、右手に後遺症が残り杖歩行で半身不随、左手だけで旺盛な記事・投稿を展開されている。大手化学メーカーの管理職だそうで、杖歩行でも出張される。宝塚市在住だから、東京へも来られるらしい。その出張中の転倒骨折であるらしい。経緯は判らないが大事でなければいい。そういう筆者も「腰椎圧迫骨折」である。圧迫された骨は、元通りにはならない。多分これからは杖歩行でも腰部にコルセット装着は必至、たいへんだろうがリハビリに頑張ってほしい。もうお孫さんもいるし、HPの交遊もあるから、元気を出す理由ははっきりしている。

前回投稿の『少年H』は、どうやらフィクションであるらしい。フジテレビで美術担当だった妹尾氏が、自分の境遇と聞いた話を単に組み合わせたらしい。戦後の価値観ありき、で著述されたのは本人も否定できないらしく、甚だ“興ざめ”だ。戦後でしか知り得ないことを、当初反戦姿勢と描いていたらしく作家は本当のようなウソを書く典型か、原作を読んでいないのが救い?!

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2013/8/20  18:17

少年H  映画TV
久し振りに映画を観て来た。水谷豊・伊藤蘭夫妻共演の『少年H』。原作者は妹尾河童(せのおかっぱ)。作者の戦争経験の話。「H」とは本名・肇(はじめ)の意味。

自律神経を病んでいると、この猛暑・炎暑の中は映画館へ行くのが一苦労。朝08時、太陽がまだ空気を暖めないうちに出発、エアコンで車内を十分に冷やしてからである。朝09時半、上映の「少年H」を大人しく待つ。むろん冷房完備のホールだ。何とか見終えて帰宅する時間は、正午前。猛烈な暑さで車内の冷房は吹き飛ぶほど。何とか運転ミスも無く帰還できた。朝09時半上映では観る人もないだろうと思っていたがざっと30人は居たから、この時間としては上出来。

この夏、観たい映画が重なった。『風立ちぬ』『終戦のエンペラー』いずれも戦争関連。「風立ちぬ」は10時半、「終戦のエンペラー」は14時半の上映、後者2作品はカタログで済ませた。とくに見たかったのは「終戦のエンペラー」だった。近衛文麿役は、中村雅俊でどう演じるかに興味があった。

監督の降旗康男は、前回『あなたへ』もあり、今は巨匠と謂われる存在。スタッフがTV朝日の『相棒』シリーズの面々ではやりにくかったのではないか。クライマックスは当然「神戸空襲」だから物語としては平凡。空襲で死ななかったのは不幸中の幸いだ。戦後の闇市でのシーンでは大人の豹変ぶりをもっと描いても良かったと思う。

むろん畏友なでしこさんは、この戦争三部作は見ないだろう。『風立ちぬ』の堀辰雄、ゼロ戦、アニメに興味があれば話は別。いずれにしても体調不良は自己責任、よくないのは当然。

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2013/8/18  12:10

マッチポンプ  身辺些事
08月15日の「靖国神社参拝問題」が毎年、問題になるようになった切っ掛けは、いつの頃か知らなかったが『週刊新潮』に経緯が記されていた。やはりと言わざるを得ない結果だった。

それは朝日新聞のキャンペーンだった。昭和60年「中曽根康弘内閣」の公式参拝を連日、社説などで非難するものだったらしい。それまで中国や韓国は殆ど無関心だったのは驚くべき事実。太平洋戦争のA級戦犯が靖国神社に合祀されている事実が発覚したのが昭和54年、当然それらも無関心だった。

つまり朝日新聞が「靖国問題」との紛争の火種を提供したことになる。自分たちの主義・主張を正当化するために“手を代え品を代え”日本政府を貶めるのを徹底した。まさに中国・韓国の出先機関のようになった。

だがこの新聞社の「立ち位置」を考えれば仕方がないのを容認すべきだ。戦前の昭和06年の「満州事変」から20年の終戦・敗戦まで徹底的に日本軍部の手先になって対米戦争を煽りに煽ったからである。国民世論が沸騰するのは当然の理。謂わば「過去の汚点」を少しでも薄める行為の顕れ。メディアが立ち止まって「待てよ」と考えないのは昔も今も同じ。新聞はその程度のもの。

昭和13年「ヒトラーユーゲント」(ナチス親衛隊)を朝日新聞主催で呼び、北原白秋に作詞までさせてドイツを賛美、日米対立戦争を渇望した。新聞は煽り立てた国民の「不買運動」が怖い。この新聞社は完全に“マッチポンプ”(自分で火を点け、火を消すこと)。新聞は公器ではなく、商売だ。

遍く染みわたっている東京電力の協力金はメディアに及び「福島原発」の汚染の真実は多分、最大公約数的非難に近いだろう。日本も中国同様、国力が衰微してゆく。それと同様、靖国神社も衰微するのは論を待たない。多分そう言う自分がいちばん先に衰微したりして…。

画像は市ヶ谷方面から撮影した靖国神社。

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2013/8/16  13:29

ワンパターン  身辺些事
3年前の07月、拙宅の西隣の「スーパー」の駐車場から出てきたおばちゃんが、直進してきた女性の軽自動車にぶつけられてピクリともしなかった。多分大怪我だろうが、その後の消息は知らない。昨日15日は、今度は幼い女児が飛び出したところを拙宅前の北側から来た軽自動車にぶつけられた。

どすんと大きな音がして「ぎゃあ」との泣き声は、幼児ならではのこと。意識はしっかりしていて多分軽傷だと思うが、やはり救急車は7分くらいはかかる。ぶつけた運転手の壮年の男は逃げることは無かったが、落ち着いてはいてもかなり動揺していた。筆者が「ぶつけた車が悪い」と言えば「お前は黙ってろ!」と恫喝された。筆者はもともと従順で大人しい!ので、あとは眺めるだけ。

スーパーの出口での事故は、これで4〜5回目。このことを5人の警察官の一人に言うと、これも前回と同じく、駐車場の出口の問題は、警察の管轄外とのワンパターンの回答。この先は高齢化社会、必ず高齢者が今度は被害者だろう。予測されても、警察も自治体もスーパーも何の予防もできないのが日本の末端の秩序。

08月06日〜15日までの夏のセレモニーもワンパターンで変わらない。中国・韓国の反発も同じ。メディアの「戦争特集」番組もワンパターン。日本の新聞社なのに、有力新聞が、中国の出先機関のような主義・主張も、たとえ“鉄面皮”と断罪されても懲りないし変わる筈がない。

体調不良で猛暑のなか運転もままならず、見たい映画の“シネプレックス”へも行けない。こんなとき見たい映画は重なる。「終戦のエンペラー」「風たちぬ」「少年H」。いずれも戦争・昭和が主題。とにかく体調不良は自己管理の問題。満身創痍、小心翼々、無常迅速、因果応報、自己責任。

画像は3年前の画像で直進している車は関係ない。小さい赤点が出口。

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2013/8/14  7:24

崖の上の“ヘニョ”  身辺些事
30年以上も前、JR錦糸町駅北側に住宅展示場が設置されていた。旭化成へーベルハウス、積水ハウス、大成パルコン、ダイワハウス、ミサワホーム(アイウエオ順)などだった。

結果としてこの中の一社を選んで、神奈川県平塚市の現住所に自宅を建設。言えることは、ある社の営業主任が素早い対応をしたからだけである。母親は、祖父から62坪の敷地を拝借、二年後に遺産相続した。母親の死後、さらに筆者が相続税無しで相続。土地代込みだったら小さな印刷会社勤務の筆者に家は建たない。

住宅金融公庫5.5%、厚生年金事業団は6.0%の利子で1200万円のローン。35年払いで最終的には2800万円、母親が22年目で死んだので以後、富士銀行にローン先を代え2200万円で支払い完了。13年縮めて600万円浮いた勘定。母親存命ならまだ支払っていたことになる。

築30年経つと家の方々が痛むが、本人も痛むのは計算外!だった。今、腰椎圧迫骨折で「要支援」認可を待っている。これが完全な“お役所仕事”さまざまな質問、検査、手続きを要している。それも医師、自治体、介護施設、建設会社、地域支援センターと入れ替わり立ち代わり。

崖の上の木に掴まり、「落ちそうだから助けてくれ」と言っているのに「今、関係者と相談しますから少々お待ち下さい!」てな按配…。

建築会社へ「手すり工事」「トイレ修理」序に!に外装工事を頼んだら、頼みもしない、目地工事・雨戸塗装、雨樋交換など追加してきた。正直な筆者は、手の内をさらけ出してお願いしているのにお構い無し。葬式代の預金にまで侵入して総額225万円。筆者の予算は165〜175万円。貧しいとそう簡単に死ねないことに相成った。

営業主任が足場の敷設に3トン車搬入で04人の交通誘導員を頼むから!と言い出したのに驚いた。交通誘導員もタダでは済まない。ここまで負担させられては適わない。外装工事は当面無期延期して地元の業者を探すことにする。大手のプレハブ建設の諸子よ、今できる工事の利益追求一直線は新たな信頼を生まない。

営業とは顧客との人間関係の構築だよ!反省すべし!? 「崖の上のヘニョ」に石をぶつけてはいけない。ともあれ人間、貧乏はよくない…。

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2013/8/10  13:53

日本橋  昭和史
テリトリー東京07 日本橋
印刷機二台在りたる日本橋のモルタル家屋は更地となりぬ
活版の文選・植字を習ひゐし親方老いていづこにあらむ
バッグ一つ本数冊持ち住込みし吾を迎へたり南京虫が

昭和38年12月から4年間勤務した印刷会社も住込みだった。丁度20歳前後、ビートルズが日本公演(1966)をした翌年、業平橋のアパートを借りた。この会社を後年、訪問したら既に更地になっていた。親方すなわち社長は、父親の「梅毒」が遺伝していて歩行困難者だった。だが運転はできた。俳句の名人で「読売俳壇」で最優秀賞など受賞していた。

小さなモルタル家屋は、鰹節「にんべん」の借地だった。道路三本北側が「東京駅八重洲口」で、当時「日本橋三丁目」は「日本橋通り(とおり)三丁目」との町名だった。今では「通り」がとれて単なる日本橋。都バスの停留所には「日本橋通り三丁目」が残っている。

以下は未知の方からのメール<2009/10/19>の再録・要約。
≪茨城県に住むTH(昭和37年生まれの47歳・男性)と申します。何故、唐突にメールさせていただいたかと言いますと、実は私の父が日本橋室町にあった林商会に勤めていたからです。この会社のことについて、お店の印象やどんな場所にあったのかなど何か知っていることがあれば教えて欲しいと思っております。どんな些細なことでも構いません。よろしくお願い申し上げます。ちなみに父は昭和38年の「鶴見列車事故」で亡くなりましたので、あなたがカメラを買われたときには会社にはいませんが、林商会がどんなところだったのか、知りたいのです。悪い話でも何でもいいです。父の軌跡を知っておきたいのです。≫

「父親を知らない人生」は筆者がいちばんよく判る。それが「戦争の昭和史」など駄文を重ねている動機でもある。筆者は「林商会」のあった場所だけは知悉していたので丁寧に返信した。林商会は今でいえば「ヨドバシカメラ」「ビックカメラ」の類のカメラの量販店だった。日本橋室町の交差点の東北側角にあった。今は「林商会」もなく「ミノルタカメラ」も無い。「ミノルタSR1」は、昭和42年、筆者が初めて購入したカメラ。もう使えないが捨てられずにいる。当時はカラーフィルムさえ贅沢だった。給料が毎月3万円のころ、このカメラも3万円くらいした。むろん1カ月3000円の月賦払いだった。

画像は、日本銀行本店(日本橋本石町)・日本橋交差点。

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2013/8/7  7:27

墨田区業平  昭和史
テリトリー東京06 墨田区業平
昨年03月22日、「東京スカイツリー」を記述した。
≪筆者が中学入学時、昭和32年上京。以後、多期間過ごしたのが墨田区、戦後12年目で漸く敗戦から町が復興し始めた時で汚い街だった。墨田区・江東区の運河は臭く、小さな町工場の稼働で耳煩く、風呂は無くトイレが共同で6畳一間だけの民間アパートが犇いていた。昭和20年03月のアメリカの大空襲で最も酷い被害だったのが、これも墨田区・江東区。墨田区押上・業平など筆者の記憶では灰色のトーンで、貧しい人々が暮らす街だった。あれから50年、時は流れて随分押上・業平が脚光を浴びて面映ゆいばかりだ。東武日光線の浅草から隅田川の鉄橋をゆるゆる超えた最初の駅『業平橋』が「とうきょうスカイツリー駅」に変更された。だが平安時代初期の歌人・在原業平(ありわらのなりひら)に由来する「業平橋」の名をも変えるのは如何なものか。過去を消し去るような按配だからである≫

 住吉町横川錦糸町業平橋逃れし街の臭ひも忘れじ
 大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ 寺山修司

小生の最初の歌は、この寺山の歌のパクリ。他にも秀歌が多い。寺山の歌は故郷・青森をデフォルメした歌が多い。才人である。

昭和50年代までは、東京下町ではコンビニも宅配便も無かった。自分で口にするものは、自分で作るか、定食屋に行くしか無かった。要所要所に定食屋があって野菜・魚・肉屋・乾物屋と小売りの店も各町にあった。墨田区では駅から押上まで錦糸町・太平町・横川橋・平川橋・業平橋と続いた。今では錦糸・太平・横川・業平。国が豊かになるに従って、六畳一間の民間アパートは無くなり、食堂はレストラン・コンビニが増えた。灰色の街・業平は明るくなった。

 鉄片を打ち抜くプレス機の連続音耳に残れり業平の街
 灰色は「冷たき色」と師のこゑを憶ひ起せり来し方思(も)へば

業平の6畳一間に居住していた時は、隣室は創価学会の信者で「お題目」の聞こえて煩かった。その頃知り合った友人が来て「般若心経」「歴代天皇」「徳川将軍」「北条政権」「百人一首」などを対抗措置として声を上げた。奇妙に気の合う酒の飲める友人と下戸の筆者のコミュニケーションで単なる“記憶競走”だった気もする。般若心経・歴代天皇・徳川将軍は大体諳んじている。

添付は吾妻橋の浅草側より。

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