2013/10/31  10:08

週刊新潮  身辺些事
つい先日、筆者の旧勤務先の先輩から電話があり20年前の上司、製版課長が亡くなったとの知らせだった。昭和09年生まれだから79歳、これを知らせてくれた人も先輩で同年生まれ。この方は元気である。昔の印刷会社勤務の旅行会で本年は「石垣島」へ行ってきた由。腰椎骨折の筆者には「お呼びでなかった」のは止むを得ない。どうやら一昨年の北海道「函館・小樽・札幌三日間」が最後となったようだ。平成08年の「四国周遊の旅」より10回ほど参加した。パック旅が勃興したのはその頃だったように思う。

亡くなった元・上司が定年・退社になったころ活版印刷が終焉となった。この元・上司で思い出すのが“週刊新潮”。なにしろ昭和31年の創刊以来、20年間漏らさず購入・保存したらしい。廃棄したらしいが、今あったら創刊号から100号くらいまでは古本の値段がつくかも知れない。

最近、これぞ国民栄誉賞・文化勲章に相応しい作歌・山崎豊子が亡くなった。文化勲章には一度も読んだことのない「田辺聖子」、茶の湯の千家の「分家」などが受賞していて基準が解らない。松本清張や山崎豊子は多分にいわゆる「反体制」だから問題外なのだろう。

週刊新潮08月29日号から山崎豊子遺作『約束の海』連載され始めたばかりだった。旧海軍士官の父親と海上自衛隊の息子の話だそうで期待大だった。ともあれ20回が著わされているらしいので単行本発行が待ち遠しい。

山崎豊子の膨大な著作で頭を過るのが昭和53年、TV放映された田宮二郎の『白い巨塔』。教授を筆頭とした病棟回診など、このドラマが初めてだったような気がする。購入してあるが読んでいないのが『不毛地帯』。大本営参謀が描かれているらしいが、特定のモデルはいないと謂われる。だが昭和史に興味があれば誰でも想起するのが平成19年、95歳の天寿を全うした瀬島龍三。関西の一商社を一流にのし上げた。瀬島は、大本営のあらゆる“不都合な部分”を黄泉の国へ持参した。

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2013/10/28  16:49

パリ講和会議  昭和史
またまた近代史の話で申し訳ない。今、戦争の昭和史「日米対立」を3年越し推敲・改訂中。松岡洋右は別名“昭和の悪役”、方法を間違えたが「日独伊三国同盟」により日米戦争を招いたとの結論は酷である。これに邁進した外務省官僚と安易な愛国心に訴えたメディアの責任は重い。英語力があって、アメリカを知悉する軍人・政治家は遠ざけられていた。歴代総理で英語力ナンバーワンの齋藤実(さいとうまこと)(30代首相)、高橋是清(20代首相)は二・二六事件で暗殺されていた。

今の96代内閣総理大臣は安倍晋三、母親は岸洋子、同名の歌手がいる。56
・57代首相・岸信介の長女、61・62・63代首相・佐藤栄作は実弟、佐藤栄作の妻は従妹の佐藤寛子、佐藤寛子の母親は旧姓・松岡藤枝、昭和15年に就任した外務大臣の松岡洋右の実妹。岸・佐藤兄弟の義理の伯父になる。因みに財務大臣・麻生太郎の母方の祖父は吉田茂。吉田茂の妻は、元内大臣・牧野伸顕の娘。牧野伸顕は廃藩置県で著名な大久保利通の二男。

1919年・大正8年、欧州が舞台となった第一次世界大戦の処理で「パリ講和会議」が開かれた。日本はサイレントパートナーと呼ばれた。直訳では傍観者、米英仏の三首脳には、日本は当時の5大国だが、本音は「口を差し挟む権利はないのだよ」との、あからさまな揶揄だった。この全権代表が、西園寺公望(12・14代首相)と牧野伸顕。随員が近衛文麿、重光葵、有田八郎、吉田茂、松岡洋右。生きた英語を駆使する松岡は、活躍した。この時の内閣は原敬(はらたかし)(19代首相)、外務大臣は内田康哉。原は2年後暗殺される。内田は最も長期間、外務大臣を経験したが有能な官僚だったから…。

前列左から3人目・松岡洋右、6人目・重光葵、8番目・吉田茂、中段右から10人目・近衛文麿、前列折目の右側が全権代表・西園寺公望、左が牧野伸顕。

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2013/10/25  8:58

青いケシ  パソコン
筆者が、HPを始めたころネット上で知り合ったのが長野県伊那市に居られる「信州伊那の自遊人」さん。194○年生とあるから小生とほぼ同世代。

現在は写真・運転・盆栽などが趣味らしい。以下紹介するように画像は常に鮮やかで、何より撮影地は信州・長野を網羅している。好きなものは「ビール、魚介類、寿司」とある。止めたものが一日60本の喫煙」、これは文句なく尊敬する。偉そうに筆者は、世相を偏見・独断で通しているが禁煙が難しい。禁煙しているとアルコールは一切受け付けない体質だから“味覚糖・龍角散のど飴”などを口にする。共によくないのは自明。

「信州伊那の自遊人」さんの類い稀な大自然の画像を紹介する。
http://www.valley.ne.jp/~a-chuko/ 第二展示室

信州の雪景色・桜・紅葉・寺社・石仏等。とにかく必見。

◇御嶽山燃ゆ 2008 木曽郡王滝村
天空の里・日本のチロル2009・2010
 南信州旧上村(現飯田市)遠山郷「下栗の里」。
◇不揃いの仲間たち 水芭蕉 2010 信州木祖村
銀河の青いケシ 2010 木曽郡王滝村
 霊峰御嶽山の四合目、標高約1500mに在る「おんたけ銀河キャンプ場」。
◇神秘に輝く秋 2011 信州木曽郡王滝村
◇部奈石仏 2012 下伊那郡松川町
◇冬の一景 2013
◇彼岸花の咲く頃 2013

青いケシの画像使用は、以前承諾を得ている。このケシは自生。

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2013/10/21  18:17

半藤一利・昭和史  昭和史
日本史・歴史と言うには生々しいが「昭和史」に意図的だが興味を持ったきっかけは、専門家・半藤一利(はんどうかずとし)氏の存在。長年の友人が紹介してくれたのが『日本史が楽しい』『昭和史が面白い』。共に2000年・平成12年、定年の平成16年以前だった。短歌を嗜む!ので「万葉集」の項目があった。後者は、統帥権・二二六事件・東京裁判・日米開戦・学徒出陣等々。昭和史だから大相撲・紅白歌合戦・水泳までこれも多彩。半藤一利氏と関係者二人の鼎談。これは対談より内容が濃いのではないか。当事者の証言は貴重。

再読・三読するとまさに現代史だが“目からうろこ”だ。満州から朝鮮半島を南下しての≪「引き揚げ」修羅の記憶≫は凄い。藤原てい(新田次郎の妻・藤原正彦の母)、作詞家・なかにし礼の実体験は壮絶地獄・阿鼻叫喚。引き揚げで祖国に戻れず亡くなった人は多い。なにしろ軍部・行政が庶民を捨てて、我れ先に逃げ出したからである。為政者の裏切りはここが原点か…。

半藤一利氏は『日本のいちばん長い日』で知られる。氏は、現役ばりばりの文藝春秋の社員だった。太平洋戦争の関係者の多くが存命している時の30数人の座談会の記録もある。『日本のいちばん長い夏』(文春新書)。半藤氏は軍事評論家・伊藤正隆の史料集めに関わったのがきっかけ、更には自分自身も“東京大空襲”で墨田区中川に落ち、少年の半藤氏は、どこの誰だか判らない大人に首根っこ掴まれ引き上げられ、九死に一生を得ている。昭和3年生、長生きして昭和史を発掘してもらいたい。NHKに出演多数。

昭和の戦争を追求する?筆者の私のバイブル的書。こうしたジャンルでベストセラーになった『昭和史 戦前・戦後』(平凡社ライブラリー)は更に名著。

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2013/10/18  21:12

墨田区立・錦糸中学  日本史
09月13日に「テリトリー東京 番外編・墨田区石原」と記述した。昭和32年、中学入学時、都内に居住したのは横川橋、墨田区石原の「錦糸中学」に登校。戦後12年だ、校舎は「東京大空襲」で焼け残ったのか、3階建の3階部分は荒れたままだった。卒業後、錦糸公園に隣接する「松徳硝子株式会社」から社会人生活は、スタート。定時制高校に通いながら業界新聞配達、東京瓦斯アルバイト。住み込みの印刷会社は数社を経験。

中学時代、授業の休憩時間、仲良く校内で下級生の女生徒を物色して?3階より眺めていた。その仲間の“○木保之”とは連絡を怠り音信不通になった。全ては自己責任。錦糸中学のすぐ近辺に居住していた別の友人の名をヤフーの検索にかけたら「石原町四丁目」の商店街のなかにあったのにはびっくりした。もう中学の級友には、この世で会えないと思っていた。

先日の宣言通り、筆者の短歌文庫『相生坂』が完成して、これをいきなり送ってみた。50数年ぶりの連絡になる。何と「けんもほろろ」どころか文庫送付後、二日目に電話があった。50年の時を隔て、昨日のように“○木保之”の電話と、不定期の「同窓会」開催をも教えてくれた。これも何と12月01日に、JR新小岩近辺で同窓会開催で「即出席」の返事、あれよあれよの展開。“鳩が豆鉄砲を食った”ような按配でもある。やはりどなたか中心のメンバーの数人がいて、その努力のたまものである。自分の人生の空白の部分がいきなり埋まったのにはただもうびっくりだ。50年以上前の級友であれ感謝あるのみ。

添付は昭和32年04月、中学1年入学時の画像。戦後12年目。

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2013/10/14  11:37

平成25年・短歌大会  身辺些事
昨日10月13日は、年に一度の所属短歌会の大会。

昨年06月の“腰椎圧迫骨折”で月一度の例会も欠席していたが畏友の計らいで出席した。畏友とは有り難きもの、東京都郊外から高級車で平塚まで“お迎え”に来てくれ、都内の江東区東陽町まで2時間弱。ホテルを予約してくれた畏友も有り難きこと。

大会には長崎雲仙の老人ホームからをはじめ、大阪、新潟、高山、福島、茨城・栃木県からと皆さん夫々宿泊しての参加だった。湘南に住む筆者の体力低下を反省することしきり。

昨年、東京駅の再構築が完成、東京スカイツリーより、こちらの方が撮影したかった。大会は午前中だけの出席で失礼し、タクシーで東京駅丸の内側へ移動、20分撮影、我が家へ到着は16時30分。

持参したデジカメは「オリンパス590UZ」、高層建築は、内側に倒れるように映る。邪道だがフォトショップエレメンツで補正した。昔のフィルムカメラだったらどう映ったのか、どうも記憶にない。むろん高層マンションすら無かった。

テリトリー東京は、神田明神下・永代橋・門前仲町・神保町・錦糸町・墨田区業平・日本橋・浅草で計8回、あとは秋葉原と東京駅。秋葉原は様変わりしている。東京駅も家族連れで大賑わいだった。

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2013/10/9  13:26

栄枯盛衰  身辺些事
何処も同じなのか、筆者の周辺の地域の半径1キロメートル!の中に「コンビニエンス・ストア」が5軒あった。この10年内に2軒が閉店・閉鎖した。「スリーエフ」と「am/pm」だった。他に「サークルK」が二軒あり、「セブンイレブン」がある。am/pmは、今は「ファミリーマート」に吸収されたらしい。

板東札所・金目観音のすぐ近くにあった「三河屋豆腐店」が、いいものを売っていたが本社の投資失敗で破産。その跡地に出来たのが「ローソン金目店」ここは、交通の要所で駐車場も10数台駐車可能で開店の日から結構繁盛している。その呷りで閉店に追い込まれたのが、県道沿いにあったのに「セブンイレブン南金目店」。まだ確かめていないが閉店らしい。

云えることは近所に学校があって文房具などが売れること。一番大きい要素は、ワゴン車であってもバックして車の位置を変え、県道・市道へ出られることだと思う。小さいコンビニでもこれは必須の要素。ネットで検索した範囲だが本部のロイヤルティは40%だと言うから、とにかく売れなければ話にならない。セブンイレブンは採算が見込めない四国・東北には無いらしい。こことローソンは全国で競争だ。ローソンは当初はダイエー系だったらしい。

コンビニは、立地ではなく「車の出し入れ」と「また来る」リピート次第だと思う。ローソンの紙パックの緑茶は不味い。だがサークルKは、緑茶はいいが、最小の大きさのコカコーラは置いてない。

添付は金目観音本堂。聖観音に栄枯盛衰は無。

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2013/10/6  13:21

冬雷短歌文庫16  日本史
所属短歌会の「短歌文庫」シリーズで、筆者の初めての歌集『相生坂』を発行した。07月07日に、その経緯を詳しく記述した。そのとき相生坂の画像はネットから拝借したが、自分自身では「相生坂」の画像は無いので、その横の“湯島聖堂”にした。ここを無理して撮影に行っても、朝早くでないと車の渋滞を撮影するだけになる。相生坂は「あいおいざか」、旧仮名では「あひおひざか」。

添付の画像では、苗字を隠した。本名を名乗るとteacupのブログで有名人?になっても困るからである。因みに母親が再婚した満5歳までの苗字は、戦死した実父の「櫻井」。父親が「正徳」だったので伯父が命名した。母親が旧姓に戻して再婚すると、30数年も前に死んだ人の永遠の養子で、家庭裁判所へ訴えても無駄。“婚外子”が憲法違反との最高裁判所の判断が出たが、民法は、戦争被害者の「養子解除」の規定などどこにも無い。

学徒出陣で有名な昭和18年、二等兵として戦地に送られて病気で打ち捨てられ帰還できなかったのが筆者の父親。可哀そうなのは学徒・特攻隊員だけではない。多くは映画「母べえ」に描かれたように輸送船が沈められ戦地へ着く前に“海の藻屑”になった。またまたしつこい愚痴になった。

自分史としての意味合いが濃い「相生坂」。むろん自費出版。戦争の歌は一部です。まあ読んでみるか、との奇特な方が居られれば月曜日以降「クロネコメール便」で発送・寄贈します。郵便番号・住所・名前をメールでお知らせください。メールアドレスは、「湘南の暇人・MAIL」からお願いします。電話番号は無用です。知人・友人にはこれも月曜日以降です。クロネコメール便は、安価ですが、2〜3日かかります。

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2013/10/3  15:38

日米開戦への道06-3  昭和史
日米開戦への道06-3 東條英機03

東條の二つ目の誤りは東京裁判でのこと。ウエッブ裁判長(オーストラリア)の質問に東條は「臣民が陛下のご意思に背いて何かなすことなど考えられぬことであります。いわんや日本の政府高官においてをや!」と証言して裁判官、検事たちを驚かせた。“出来レース”を演出するキーナン首席検事は慌てた。日米戦争の公的な許諾は、あくまで昭和天皇。キーナンは、人を通して東條に、後日訂正するように指示した。正直ゆえに東條も「天皇は戦争に反対だった」と慌てて弁明した。

つまり連合国に君臨するマッカーサーの意向で“昭和天皇訴追”はあってならなかった。日米戦争開始の張本人「参謀本部」「軍令部」の大本営を(天皇が頂点)を裁けずに戦争の事務方の「陸軍省」からキーナン検事は、生贄を出す方針だった。馬鹿正直な東條はシナリオを理解しているのに思わず喋ってしまった。東京裁判の関係者全員が本音を隠したタテマエを知っている筈。東條が改めて否定して一件落着した。その証拠に陸軍中将でありながら軍務官僚の武藤章が絞首刑になった。

東條をはじめとする軍務官僚は「墨で書かれた半紙一枚の事務処理」において優秀だった。戦争最前線の実情は書きようがない。正確な情報は無いし、あっても隠した。清廉潔白な指導者など役に立たないのはいつの時代も同じ。

最前列左は梅津美治郎参謀総長(終戦時)、右は荒木貞夫陸軍大将、梅津の後ろが東條。右縁は佐藤賢了軍務課長。後ろ左は木戸幸一内大臣。

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2013/10/1  13:45

日米開戦への道06-2  昭和史
日米開戦への道06−2 東條英機02
東條は、今の価値で数10億円の陸軍機密費を私することなく、愛人を囲うわけでなく清廉潔白だった。陸軍中野学校の創始者で陸軍省軍務局の岩畔豪雄(いわくろひでお)は、赤坂通いが派手で自分の周囲から遠ざけた。自分の家の女中さんの手を握っただけで自分の甥を殴りつけた。世田谷区用賀の粗末な木造家屋に子供7人の円満な家庭を築いていた。戦後アメリカの「戦略爆撃団調査チーム」は、そのあまりの質素な生活を容易に信じなかった。

陸軍内の事、その日の出来事は必ずメモ、週末にはそれを人事・機構等項目別にメモし直す。論理明快・数字も正確た。だが悲しいかなそれは陸軍内のことに終始した。東條は、帝国陸軍に関しては生き字引のような存在だったが、海軍・世界情勢・ハーグ条約(捕虜扱い)、中国に関する「九カ国条約」、大正時代の「ワシントン条約」、昭和初期の「ロンドン条約」など外交は知らなかった。日米開戦時の世界情勢さえよく知らず、戦後の「東京裁判」で訴追検事を呆れさせた。

この昭和前半の「帝国陸軍軍人」の鑑のような人物は生涯、二つの誤りを犯した。昭和天皇の「英米との戦争には反対の意向」を判っていても、開戦を阻止できなかった。陸軍・海軍の中枢部、朝日・毎日新聞などメディアの催促、世論の昂揚を交わしきれなかった。東條は中国戦線での20万人の戦死者・英霊に申しわけないと大陸からの撤兵を終始拒んだ。組織の論理で拒めなかったのが実情。だから終戦時には、筆者の父親を含めて一桁多い310万人の戦死者を出した。“日米開戦への道”における東條の役割は低い。だが結果として昭和天皇の「非戦」の意志を貫徹できなかった罪は重い。

とどのつまりは「欲しがりません!勝つまでは」の精神論ではなく「戦争など出来ない国力」の物理論でもなく、戦争・戦死の最前線は実感することなく“事務処理”としか捉えられなかったことになる。今の“福島原発事故”における経済産業省の高級官僚と同じ。

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