2014/4/28  18:38

更新114  パソコン
本年05月末発行の『冬雷』06月号誌上に筆者の特別詠20首が載る。拙著『相生坂』で評判?が良かったのは次の歌。
 住み込みの印刷工の吾れ配達へ佃の渡し自転車ごと乗りき
これは昭和38年の18歳〜19歳の時の経験。その場所、中央区佃・月島を再訪・探索した。運河・掘割・街並みに昭和の面影はあった。その時の画像を使用しつつ半年ぶりにHPのページを更新した。114回目

再訪・取材は03月28日。東海道線で東京駅着、杖を突き八重洲口通路を上がればそこは国道15号(東海道)交差点。最初の裏道が昔の日本橋通り三丁目。今は“通り”がとれて単なる日本橋三丁目、都バスのプレートのみ残る。そこから湊町の「渡し跡」までタクシー、佃大橋へは杖突き歩行だった。

この年、アメリカ大統領ケネディの暗殺、舟木一夫の「高校三年生」、黒澤明監督の「天国と地獄」、吉展ちゃん事件、プロレスラー力道山が刺殺された。

以下はこの時に詠んだ25首の中の自選5首。

 五十年経ちても渡しのスクリューに勢ふ波は眼裏(まなうら)にある
 杖突きて佃大橋渡るとき河岸に見ゆる白木蓮の花
 川沿ひの側道歩き大橋を潜れば杖突く音の谺す
 追憶の散歩にあれど何か得し思ひのなくて運河見てゐつ
 舫(もや)ひ船動かざるまま朽ちてゆく月島の堀割小波もなし

画像は東京駅八重洲口発の最初の都バス停留所。

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2014/4/26  22:17

山本五十六01  昭和史
山本五十六(1884・明治17年―1943・昭和18年)を語るとき、今日でも度々取り上げられるのは、その洞察力の明快なことにある。細かい経緯は省くとして日露戦争に従軍したこと、その後の米国駐在武官などで早くからアメリカの国力を知悉していたことに拠る。

◇1905年(明治38年)日露戦争日本海海戦にて戦傷。
◇1919年(大正08年)ハーバード大学に留学。
◇1925年(大正14年)米国在勤帝国大使館附武官
◇1929年(昭和04年)ロンドン軍縮会議に海軍側専門委員。
◇1933年(昭和08年)ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側首席代表。
◇1936年(昭和11年)永野修身海相に引き抜かれ海軍次官に抜擢。

当初ロンドン軍縮会議では海軍の立場上、軍縮に反対したが、後、世界的な軍縮会議の決定に従い所謂「海軍条約派」の意志を貫く。反対派は所謂「艦隊派」である。日露戦争の勝利以来の伝統的な漸減邀撃(ぜんげんようげき)作戦を“金科玉条”とする。つまり太平洋を渡ってくるアメリカ艦隊に対し、駆逐艦や潜水艦などの小部隊で襲撃を繰り返して戦力を減らす。最後に日本近海で待ち受け、戦艦を中心とした主力部隊が艦隊決戦で勝負をつける作戦。

第一次世界大戦処理の「パリ講和会議」(1919・大正08年)の頃は、山本はアメリカ駐在。デトロイトで車社会を知ることになる。山本が航空機を意識するようになるのは、駐在武官経験あとの大正時代末期。むろん近代国家の総力戦に他ならない「第一次世界大戦」を知ったことだろう。その頃は民間経済も軍事力も石炭を炊く「蒸気船」が主流だった。航空機など陸海軍軍人さえもよく知らない。山本の主要な発言を知ると、そのことが良く解る。

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2014/4/21  21:49

窓際の軍人  昭和史
戦前の日本の軍人で最も取り上げられるのが山本五十六海軍大将。軍人なのに日米戦争反対だったのだから戦後、脚光を浴びて当然。いわゆる「A級戦犯」の戦争責任者と比較される。真珠湾攻撃は「騙し討ち」ではないとの論考は多く、その通りだが、その“死に様”は多くの研究者も謎としている。

◇太平洋戦争の失敗・100のポイント 保阪正康・PHP文庫 P130
◇山本五十六 半藤一利 平凡社ライブラリー P439

確かな自殺の証拠は無い。普通の戦死ならその状況を殊更隠す必要はないように思う。新潟県立長岡高校の先輩・後輩の間柄である作家・半藤一利氏でさえ「い号作戦」の状況を見るべく最前線の偵察行動は、無謀としている。当時の日本の南方最前線における行動を、アメリカ軍が暗号解読してキャッチしていたのは今では判っている。これを当時の山本が気づいていたかどうかまでは不明。だが前年の「ミッドウェイ海戦」の惨敗は、山本の責任になる。だから戦争の早期終結の模索は確かだと思うし状況は自死を物語る。

昭和史の読みすぎ?でもある筆者には、海軍大臣が山本五十六、陸軍大臣が永田鉄山だったら日米戦争は起こらなかったと思う。永田鉄山は、昭和10年「相沢事件」で惨殺され、山本は暗殺を恐れた周辺の人物が、海軍中枢の行政・軍令から離れた連合艦隊へ追いやった。「戦争をしてはならない」と考えた軍人・政治家の多くは暗殺されるか、窓際部署へ強制移動させられた。

月末の仕事です。しばらくお休みします。画像は近所のフラワーパーク。

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2014/4/18  22:09

海軍甲事件  昭和史
71年前の昭和18年04月18日、当時の大日本帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六(やまもといそろく)海軍大将は、南方・ラバウル基地を飛び立ち、米軍機に撃墜されブーゲンビル島に墜落、戦死した。「海軍甲事件」が正式名称。筆者は19年生まれだからその前年のこと。以下は3年前のブログ再録。

今日も山本五十六海軍大将(死後・元帥)が評価されるのは、終始「日米開戦」には反対だったからである。山本搭乗の偵察機はアメリカ軍の暗号解読にキャッチされ、撃墜されて戦死するが、詳細は今も謎。自殺だった可能性も指摘される。撃墜後、生きていてピストルで胸を撃ち自ら命を絶ったとも言われる。後世、唖然とするのは、山本の死を確認した海軍・陸軍の兵士も、その後、秘密隠匿の意味で、南方の最前線に送られ、全員が戦死していることにある。それらの兵士に生前接触した新聞記者の伝聞が山本自決を伝えていることになる。この年の秋に“学徒出陣”が始まり、翌19年秋には“神風特攻隊”出撃となって大日本帝国は坂道を転がって行く。

大正時代、アメリカの駐在武官を経験した山本はアメリカの国力を十分に認識していた。日米開戦前に「東京は今に焼け野原になる」との山本の予言は的中した。山本五十六の自決は(アメリカ軍からは暗殺)は、筆者には「日米戦争を早く終結させろ」との軍部・政治家・世論への無言の警告だった。

陸軍の機構・組織のことだけしか知らない東條英機が総理大臣であれば、世界の大勢など無頓着で都合のいい数字を並べて昭和天皇に上奏していた。それが理路整然としていたから天皇に信用されていたことになる。騙したつもりがないから余計に始末が悪い。東條には山本の戦死は何の意味もない。その秋に「学徒出陣」で多くの若者を死に追い遣った。

画像は昭和16年12月08日の真珠湾攻撃(日録20世紀1941・講談社発行)

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2014/4/17  23:51

増田宗太郎  日本史
韓国の執拗な“日本批判”が気になるので記憶にあった福沢諭吉の「脱亜論」を思い出した。福沢は朝鮮改革派の朝鮮人を支援したことも解った。金玉均(キンギョクキン、キムオッキュン)は、一時福沢宅に匿われたが、李氏朝鮮の宗主国・清にわたり捕えられ殺され晒し首にされた。頑迷固陋な朝鮮半島に近代化など無理で教育者の福沢諭吉でさえ見放した。

その福沢を検索して大分県中津市留守居町の「福沢諭吉記念館」を知った。一万札の肖像画だから教育者・啓蒙家・慶応大学創始者であることは知っている。「学問のススメ」でも名高い。この検索で知ったのが増田宗太郎(1849生)。福沢の再従兄弟でもある。この増田が福沢の暗殺を狙ったこともあるらしく読んだことはないが『福翁自伝』に記述されているらしい。≪明治03(1870)年に帰省した福澤の暗殺を企てた。増田宗太郎は、西洋かぶれの諭吉を暗殺しようとしたが、諭吉は来客と朝まで酒を飲んでいた為、果たせず、その後意見を変え、上京して逆に福澤家に寄宿しながら慶應義塾で学んだ。明治10年に西南戦争が起こると旧中津藩士族たちを率いて参戦、西郷軍に合流して城山で戦死≫増田は28歳で戦死。惜しい人物だと思う。眉目秀麗だった。

「西南戦争」はウィキペディアでA4用紙40枚、読むだけでタイヘン。要するに改革派の大久保利通が政府軍を率い、天皇の名代に有栖川宮熾仁を担ぎ、守旧派に担がれた西郷隆盛は鹿児島で死ぬ。西郷こそが旧島津藩の本流だった。だが「廃藩置県」で明治天皇が日本統一の「殿様」になり、新政府の格下でも大久保に政府軍と近代兵器を握られたら大西郷でも勝ち目はない。岩倉も木戸も、そのころ病死?していた。

西郷主導の「征韓論」は朝鮮を征服するものではない。“征く”は遣韓論が正しい。ここで「脱亜論」に繋がる。日清・日露戦争は明治時代前半の人物に触れないと到底理解し難い。画像は福沢諭吉記念館(大分県中津市)の旧居。

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2014/4/16  19:20

小野田寛郎  身辺世相
今年になって旧帝国陸軍軍人・小野田寛郎(ひろお)氏が亡くなった、91歳。小野田氏は40年前の昭和49年、フィリピン・ルバング島で発見されて帰還した。太平洋戦争など忘れかけている日本の世相に衝撃だった。陸軍中野学校出身で軍人らしい軍人の出没は、その2年前の「穴倉」に潜んで居た横井さんより衝撃の度合いが違った。

一年後、小野田氏は日本を去ってブラジルに行く。日本の「平和主義」か「軍国主義」かのイデオロギーの尺度が嫌になったからである。小野田さんが言う靖国神社は「靖国神社で会おう」と約束して死んでいった仲間が合祀されている。現在の価値観で単純に誹謗することに我慢できなかった。単純な平和主義は、単純に戦前を否定する。国家の命令で任務に就いた軍人に、今も権力の一翼であるメディアはただ事実を報道するだけで、記者は斟酌する近代史の知識がなく正否の尺度が無かった。靖国神社は、強烈な教義を持つ宗教施設ではない。カソリックでさえ問題視しない“超宗派”の存在。「千鳥ヶ淵」はあくまで墓地だ。中国・韓国は靖国神社を墓地と言ってはばからない。

NHK・BS放送『生き抜く、小野田寛郎』(2005年、DVDに録画)の感想は又の機会にするが、小野田氏のインタビューの受け答えは淡々として太平洋戦争を理解するのに貴重。このとき取材した作家が戸井十月、65歳と若いが、平成25年病死している。最初に向う見ずにジャングルに分け入って小野田氏を発見した冒険家・鈴木紀夫は昭和61年、38歳でヒマラヤで遭難死した。

奥さんの町枝さんは、押しかけ女房。ブラジルで牧場経営を決意した小野田氏と兄のところへ町枝さんが押しかけた。“へんな女”に小野田兄弟は途方に暮れたのが事実。玄関前で、寝袋で寝るというのを可哀そうだからと家の中へ入れてあげた。そこは男と女、二人はできてしまった。29年間で現地のフィリピン軍人、警察官を○○人射殺!した小野田氏、妙齢の女性には甚だ弱かった。漆黒の闇夜でもルバングとブラジル、軍人と普通人、全然意味が違うが。

米紙ワシントン・ポスト(電子版)は01月17日、日本時間16日に死去した元陸軍少尉の小野田寛郎さんの評伝を大きく掲載した。戦中戦後の30年間潜伏してジャングル生活をした小野田さんを「多くの日本人にとって忍耐・忠誠・犠牲といった戦前の美徳を体現する存在だった」と好意的に伝えた。

日本の拠点・小野田自然塾事務所は中央区佃。存続は協議中。合掌。

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2014/4/13  22:23

脱亜論  日本史
週刊誌記事を多用?するここのところの記述では、韓国のいわゆる“イチャモン外交”に触れざるを得なかったが、いまひとつ真意が解らなかった。大掴みだが少し「事大主義」を理解した。一万円札でお馴染みの福沢諭吉だが、あまり興味は無かった。万札に縁が無いからか? 今頃、福沢の「脱亜論」を読んだ。著述が1885年だから明治維新からたった17年しか経過していないのに、福沢諭吉は「悪友を謝絶する」と明快である。悪友とは朝鮮・中国のこと、ただそれが130年後の現代も正鵠を射ていてこれが今頃見直されるのも改めて脅威。「脱亜入欧」は、虚飾で福沢は「脱亜」で、入欧とは言っていない。

原文は1000字、漢字カタカナ文だから読みにくい。だが単語の拾い読みでも主旨は理解できる。≪西洋文明東漸、嘉永の開國、東洋孤島の獨睡、儒教主義、脱亞、亞細亞の固陋、亞細亞東方の惡友を謝絶≫

逸早く近代化を決意した19世紀の日本は、当時の李氏朝鮮と清国を憂えた。アヘン戦争以来の西欧列強の、それが真の侵略の危機が迫るのに李氏朝鮮は政争に明け暮れ末期的症状だった。福沢は自主独立の朝鮮開化派を物心で援助する。だが福沢の努力も水泡に帰す。したがって福沢は李氏朝鮮も清国も「脱亜論」を以て両国への決別を決意。まさに明治時代、最大の言論人だったことが解る。画像は国立国会図書館蔵を拝借。

それが又、見直されるのは、軍事的脅威がますます顕著になる共産党独裁の中国、まさに「大に事(つか)える」韓国の現状。北朝鮮と対立するのに韓国の外交方針は摩訶不思議。北朝鮮の体制崩壊に「目をそらす」二国の同床異夢でもある。それは日本の政治体制にも波及している。集団的自衛権、秘密保護法、国家安全保障会議も本来は要らない。覇権国家を目指す中国、核兵器開発に邁進する北朝鮮、先祖帰りで中国にすり寄り永久反日の韓国。北方領土を返さないロシア。変な国と対峙しなければ憲法改正も必要ない

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2014/4/10  22:27

風が吹けば  日本史
≪風が吹けば桶屋が儲かる≫は慣用句。以下は要約。由来は江戸時代。@大風が吹いて土埃が立つA土埃が目に入り盲人が増えたB盲人は三味線を購入する(盲人の職)C三味線に猫皮が必要D猫の減少で鼠が増えたE鼠は桶を囓るF桶の需要で桶屋が儲かる、といった按配。

これに従えば筆者の父親が戦死した“太平洋戦争”の張本人は徳川家康ということになる。良くも悪くも徳川家康は265年の江戸時代の鎖国を招いた。薩長の島津藩・毛利藩は「関ヶ原の戦い」から徹底的に疎まれ265年雌伏した。だからこそ明治維新は、江戸時代のマグマの爆発になった。今も「徳川家」は存在して18代目は徳川恒孝(つねなり1940生)。明治維新は265年の“イジメ”の帰結とも云える。転じて薩長の跳梁跋扈の原因は徳川ということになる?

元文藝春秋編集長の作家・半藤一利氏は、昭和を貶めた陸海軍の軍人を追求している。良い軍人の山本五十六は新潟、米内光政は盛岡出身。悪い軍人は殆ど「薩長」出身。昭和の軍閥の最大の責任者は山口県出身の山縣有朋だった。半藤氏は東京大空襲で墨田区の中川に転落。どこの誰とも知れないオジサンに首根っこを掴まれて引き上げられ九死に一生を得た。日米開戦の責任者・薩長の軍人には恨み骨髄だ。半藤氏は向島出身で江戸っ子

だが近代明治の基礎を作った西郷隆盛は旧島津藩。割愛するが西郷亡きあとは大久保利通・桂小五郎・伊藤博文など薩長出身者と岩倉具視。むろん江戸幕府を倒して明治政府を作った理由を半藤氏は知悉している。歴代の総理大臣はダントツで山口県出身8人、鹿児島3人。62人の総理大臣は薩長土肥で15人。筆者の「論理の飛躍」のある程度の証左にもなる。西郷、大久保、木戸、岩倉の死で残り者に福が来た。下級武士の山縣有朋が軍部を創設、太平洋戦争に繋がる統帥権の元祖になった。「責任者出て来い」となる。

言いたいことを言っていると「月夜の晩だけじゃないぞ」とは友人の助言。だが“くノ一忍者”には襲われて?みたい好奇心はある!

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2014/4/8  23:42

有栖川宮熾仁  日本史
単純に日本史探訪が趣味なら、戦国時代、幕末、奈良時代が定番。日本史の教科書程度の知識から脱して司馬遼太郎の『関ヶ原』を読むと書き手の司馬が石田三成の弁護人を標榜するから謀略の限りを尽くして天下人となった徳川家康は嫌いになる。つまり265年の日本の“鎖国”が良いか悪いか、は問題だが結論として家康が滅ぼさないまでも広島の毛利家と鹿児島の島津家が、日本の果ての長州、薩摩に押し込められた。幕末にその隔絶が爆発して勇躍、徳川家を滅亡させた。歴史に“たら・れば・イフ” は詮無いが、石田三成が島津の意見を取り入れ、関ヶ原で徳川家康陣営に夜襲を仕掛けていたなら家康は滅び東軍は負けていたことになる。徳川の江戸時代は無いことになる。

経緯は割愛して「鳥羽・伏見の戦い」に完全勝利した薩長軍は見事な迄に近代化に苦労する。「廃藩置県」は、薩長の大久保利通・木戸孝允(桂小五郎)の意見対立を明治維新の横綱・西郷隆盛が調停。二人は幕末では下級武士。「一君万民」思想の成功で「廃藩置県」を見届け、西郷の命令か、明治04年(1971)岩倉使節団が訪欧。むろん近代化を急ぎ欧州の政治制度を学ぶため。岩倉具視(ともみ)は公家出身、大久保・木戸と共に伊藤博文が同行。この4人が明治新政府の元祖。この頃、中国・韓国など国そのものが無い。

江戸初期の「後陽成(ごようぜい)天皇」の時代から朝廷の和歌・書道の補佐役だったのが有栖川宮家。明治維新前後は幟仁(たかひと)・熾仁(たるひと)の親子。幟仁は書の達人、熾仁は西郷を滅ぼす?ための(西南戦争・明治10年)新政府の総大将なのは知っていた。だが「鳥羽・伏見」以後、徳川勢力を一掃するための東征の総大将だったのは今頃知った。熾仁は婚約者、和宮親子(かずのみやちかこ)を奪われた!復讐?だったのかも知れない。和宮が徳川家茂に嫁いだのは有名。婚約者を奪われれば怒るのは当然!

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2014/4/5  22:16

月島再訪  身辺些事
住み込みの印刷工の吾れ配達へ佃の渡し自転車ごと乗りき

上記の歌は、短歌人生15年のなかで結社の多くの人が褒めてくれた。尤も褒める歌が少ないのでこの歌に収斂されたのが実情。なにゆえか今月投稿の「特別詠20首」の要請に応募した。日常詠20首は簡単に詠むことは叶わないので、自分でテーマを決めた。そこで上記の歌を元に“月島再訪”になった。

03月27日は降雨で中止、翌28日決行。東海道線で東京駅着、杖を突き八重洲口通路を上がればそこは国道15号(東海道)交差点。最初の裏道が昔の日本橋通り三丁目。旧勤務先の小さな町工場は疾うに無く6階建ての貸しビルだった。ワンフロア10坪の仕様。「鰹節にんべん」の所有で今は知らない。家賃22万円で借りる会社があるのか。月島の初めは、江戸時代の「佃島」。鬼平犯科帳に石川島人足寄場も出てくる。明治維新以降、富国強兵でどんどん埋め立てられ「月島」になる。50年前の昭和38年は、東京五輪を翌年に控え着々と今で言うインフラが整えられていた。東京駅付近からは月島へは永代橋か勝鬨橋へ共に大回りになる。「佃の渡し」は廃止され佃大橋ができた。

アメリカ大統領ケネディの暗殺、舟木一夫の「高校三年生」、クレージーキャッツの台頭、黒澤明監督の「天国と地獄」は衝撃的。それを真似たのか、吉展ちゃん誘拐事件もあった。暮には何とプロレスラー力道山が刺殺された。

昭和の時代、存在した「石川島播磨重工業」の跡地は高層マンションの林立。高所に弱い小生は家賃無料でも遠慮したい。人間が住むのには地べたに接していなければと思う。人間死ねば土に還るのだから、それまでは高層のビルに、の考えも納得できる。画像は石川島播磨重工業の跡地のリバーシティ

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