2014/5/17  23:00

ある軍人の死  身辺些事
筆者の私が平成16年まで勤務して定年を迎えたのがJR「秋葉原」駅に程近い小さな印刷会社。何年か前、日本橋から上野に延びる中央通りと神田明神下通りが交差する通称「秋葉原電気街」交差点付近で“秋葉原殺傷事件”なる陰惨な事件があって多くの若者の命が断たれた。筆者の定年後のこと。

丁度10年を経過して縁が切れたと思っていたが、小生が居たころの後輩から連絡あったので16日の葬儀に参列した。亡くなったのは旧勤務先の社長だった。大正04年生で99歳、白寿だった。昭和天皇の弟宮・三笠宮崇仁親王と同齢。昭和11年、78年前の二・二六事件をリアルタイムで知る人だった。

司馬遼太郎が「私は不覚にも大正時代に生まれてしまった」と嘆いたように男女ともに「大正時代」に生を享けた者は、戦争をするために生まれてきたようなもの。社長が十代で始めた印刷会社は、デジタル時代で筆者の定年後、縮小を余儀なくされたが、古い得意先は離れないらしい。だから「印刷機2台」の会社になっても倒産しない。大きな印刷物は“下請け”に頼めばそれで済む。

筆者より3歳年長の社長の長男の方が、すい臓がんで49歳で早逝。つまり今は、社長の孫が後を継いでいる。葬儀場は、社長の思い出の多い神田川沿いの千代田区万世会館だった。川の向こう側は、昨年新たに開店した商業施設「マーチエキュート神田万世橋」。旧万世橋の駅舎が商業施設になった。それまでは子供に人気の「交通会館」だった。今は規模が大きくなり埼玉県に移行した。その向こうが神田須田町で「神田藪そば」、鮟鱇鍋の「いせ源」がある。

添付は社長が出征したときの寄せ書き。戦火を潜り抜けて生き抜いてきたから生命力は賞賛する。寄せ書きの35人は本人より遥か前に亡くなっているだろう。大正・昭和・平成を生きた旧神田金澤町を生きた人物だった。

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