2014/5/21  21:23

第一委員会  昭和史
『あの戦争は何だったのか』(保阪正康・新潮新書)に日米開戦の“黒幕”が指摘されている。この種の本にしては、新書形式も相まってベストセラーになった。だがどんな本にもイチャモンを点ける人が居て、疑問符を尤もらしく宣うHPがある。それらは概ねいわゆる「自虐史観」で、チャーチル・蒋介石・ルーズヴェルトに追い込まれたからとの結論に至り、そこに何も触れられていないのが“怪しからん”となる。保阪氏は、昭和の時代、3000人もの軍人・関係者から聞き取りをしているから迫力が違う。つまりそれらの情報・諜報を軽視したのは、エリート軍人ゆえなのだからそれを見抜けなかったのは、海軍軍人が“間抜け”だったとの結論になる。つまり追い込まれた軍人の方が罪が重い。

その黒幕だが、日米開戦へ誘導したのは海軍中枢の「第一委員会」の軍人。海軍省の軍務局、軍令部の作戦課が当時のエリート。軍務局は岡敬純、石川信吾、作戦課は富岡定俊、神重徳。いずれも長州・薩摩出身。それらの海軍軍人が横断的に組織した。東京裁判では、岡はA級戦犯だったが禁固刑で済んだ。これら軍人は、みな伏見宮という皇族の軍令部総長の威厳を使ったことで知られている。山本五十六は、日独伊三国同盟締結を海軍の立場で画策した石川信吾を名指して非難した。だが上司の永野修身、米内光政ですら阻止できなかった。最後まで反対したら暗殺されていたと米内は戦後述懐。

山本が近衛首相に「初め半年や1年は暴れてご覧に入れます。しかし、2年3年となっては全く確信は持てません。日米戦争回避に極力御努力を願います」と言明。山本は、やれば負けるのが当然の戦争には奇策しかないと判断した。疲弊しきっている国力に、海軍伝統の漸減邀撃作戦などは話にならなかった。巨大戦艦の戦いが主流だった当時、航空機による攻撃などでは前代未聞。しかし山本は、緒戦で敵に大打撃を与え、戦争を早期に終息させることで日本が生き残る一縷の希望を見いだし、真珠湾攻撃の作戦に賭ける。

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