2014/5/30  19:23

鈴木貫太郎  昭和史
昭和史の専門家・半藤一利氏が高く評価するのが昭和天皇の“聖断”を引き出した海軍大将・鈴木貫太郎。04月18日に戦死したのが山本五十六、04月17日に病死した(昭和23年)のが鈴木貫太郎。だから半藤氏の思い入れがある。まだ太平洋戦争の責任者が多く存命した頃の昭和38年に関係者を一同に会しての座談会『日本のいちばん長い日』は好著。大宅壮一名義だった。

昭和19年、漸く辞任したのが東條英機、後継の小磯国昭は陸軍の序列だけで総理大臣になった。ここでは記述しないが大日本帝国憲法では総理大臣は単なる筆頭格の大臣。昭和天皇の希望では元・総理大臣の海軍大将・米内光政だった。なにしろ最初から日米開戦に反対だったからである。天皇の思惑でも米内といえど陸軍は御しきれない。そこで「鈴木頼む」と懇願されて77歳の年齢で総理大臣に就任したのが鈴木貫太郎。昭和20年04月07日。

経緯は拙文「私解 戦争の昭和史・敗戦の決断」がある。昭和20年08月14日、内閣・大本営連絡会議では3対3で意見が分かれた。そこで鈴木は誰もが文句を言えない昭和天皇の聖断を仰いだ。後年の今、云えるのは鈴木の老練な作戦勝ちであり、昭和天皇との阿吽呼吸の連携プレーとも云えた。

戦争終結派
総理大臣・鈴木貫太郎、外務大臣・東郷茂徳、海軍大臣・米内光政
◇戦争続行派
陸軍大臣・阿南惟幾、参謀本部総長・梅津美治郎、軍令部長・豊田副武

鈴木貫太郎は二・二六事件で狙撃され瀕死の重傷を負った。夫人「たか」は昭和天皇の乳母だった。育ての親でもある鈴木は、息子のような若い昭和天皇(当時44歳)のためにぬ覚悟で敗戦に導いた。結末を判っていて阿南陸軍大臣は鈴木に詫び、翌15日に割腹自殺、陸軍のクーデターを防いだ。

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