2015/8/1  22:48

土下座 and 号泣 02  昭和史
≪05月24日未明、東京はまたもB29群562機により焼夷弾3600トンの大空襲を受け、25日夜にも500機が来襲、永田町、霞ヶ関をはじめ「山の手方面一円殆んど全滅」の被害を受けた。三宅坂の参謀本部も燃えたが、折からの烈風にあおられて火焔がお濠を越えて宮城内にふり注ぎ、正殿を含む六千坪余の宮殿のほとんどが焼失した。26日早朝、まだ赤黒い焔が見える宮城に向かって、濠の前に立ちつくす和服姿の老人がいた。宮城を拝してはハラハラと涙を流していつまでも動こうとしない。米内海相の姿であった。木戸に「人柄があまり淡白」といわれた米内も、皇居炎上を目の前にして、自分から終戦の口切りをする決意を固めたらしい。≫(「重臣たちの昭和史」P383)

米内光政(よないみつまさ)は海軍大将、昭和14年、第37代内閣総理大臣。半年間の在位の実情は割愛。ただ東條英機内閣のあとの小磯・鈴木内閣では海軍大臣となって終戦に導いたことは確か。昭和20年05月、本当に「宮城を拝してはハラハラと涙を流した」が事実かは解らない。前記の著者・勝田龍夫は、西園寺公望の秘書・原田熊雄の娘婿。米内光政は文化勲章受章者・阿川弘之の海軍軍人三部作(山本五十六・井上成美)によって良心的軍人の評価は高い。でもそれは、基本はフィクションでもある。幼いときの綽名“グズ政”は、そのままと指摘する史家・評論家も多い。「昭和天皇独白録」で天皇の覚えめでたき軍人だったのはこれは確かだ。

昭和20年11月、いわゆる「ハルノート」の最後通告があって日米開戦を避けきれない総理大臣・東條英機は、天皇の外交重視、戦争回避の心情を知りながら殆んど打つ手は無かった。真珠湾攻撃の前日12月06日の深夜、東條は首相官邸の家族用の部屋で皇居に向かって号泣した。号泣は慟哭だった。(『東條英機と天皇の時代』P349)自分で解決できないだらしなさを自覚したのか、陸軍大将・総理大臣をして泣くのである。東條英機が帝国陸軍の組織に忠実な人物だったことは、司馬遼太郎始め多くの作家・専門家が指摘する。もうひとつ云えば戦争をする大局観・政略は解ろうとせず、御前会議で決まったこと(結論として天皇の真意を忖度できず)は必ず実行することが第一義で、ブレーキの無い自転車バックギアがない車だった。

東條英機が12月06日深夜“皇居に向かって慟哭した”とは捏造だ、というネットでの書き込みもあるが、そこまでアメリカ謀略史観に凝り固まることも無いのではないか。前記の著者・保阪正康氏は延べ3000人もの軍人・政治家に相対し数々の証言を導き出した。総理大臣が泣いた、との証言は東條の夫人・カツの告白。そんなことはないと言うなら東條夫人は大嘘つきになる。

前記のように外交交渉決裂が戦争に突き進むことになる。東條英機の思想と行動は常に天皇が念頭にあった。だが陸軍組織の官僚意識が優先、視線が国民に向かうことは無かった。米内は当初から日米戦争には反対だったし、日本海軍壊滅のあとは終戦へと舵を切った。米内、東條共に皇居に向かって泣いたが、その根底には対米認識に決定的な差異があった。戦争は精神論で始まり現実論で終わる。

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