2016/3/10  23:10

三月十日  昭和史
昭和20年03月10日に「東京大空襲」があった。10万人が死んでいる。5年前のこのブログの記述を又も再録。

≪米軍は大正12年の「関東大震災」を詳しく研究、どうしたら東京市民を大量殺戮出来るかを入念に考えた。B29爆撃機320機、投下爆弾38万発、1783トンでは「木と紙と土」でできた建物の下町は計算通り効果的だった。

広島・長崎の原爆、この大空襲も昭和26年の「サンフランシスコ講和条約」で不問に付された。卑怯の汚名未だ晴れない「日本海軍真珠湾攻撃」は、昭和23年の「極東国際軍事裁判」通称東京裁判で不問に付された。これを追及するとルーズベルトの暗号傍受の経緯が明らかになるからである。その大空襲を指揮したカーチス・ルメイ米国陸軍少将に何故だか東京オリンピック開催の頃、日本国政府は「勲一等旭日章」を与えた。

大空襲でも救世軍のある神田、神田神保町、ニコライ堂、皇居は意図的に避けたとも云われている。筆者は何度も口にするが、戦争はリアリズムである。「欲しがりません勝つまでは」などの掛け声は小学生でも言える。日本を屈服させるまでは容赦のなかったアメリカ政府、負けた戦争を早く止められなかった日本政府の罪は重い。犠牲者は庶民である。≫

空襲の実態は五年前と違い、今では、インターネットで簡単に情報が手に入れられる。以下参照。
≪米軍の日本空襲で40万人の市民が犠牲、66の都市が焼き払われた。当初は航空の機工場など軍事目標への爆撃が中心だった。昭和20年には、無差別爆撃に米軍は方針を変えた。日本空襲の方針は、産業と生活の基盤を破壊し、日本人の戦意を砕くことだったが空襲は大都市だけでなく、地方都市にも次々におよぶようになった。≫

司馬遼太郎・松本清張は、戦後、大衆文学の両横綱ともいえる存在。作品は勿論多くのエッセイ集、対談集、ノンフィクションがある。更に言えることは、その文学の根底には太平洋戦争がある。もっと言えば両者ともに招集・参戦していることにある。松本清張は中卒の学歴だから二等兵。司馬遼太郎は幹部候補生として戦車学校に配属された。この文豪二人が生き残ったのは天の采配、偶然が作用した。

満州事変はともかくとして日中事変はあきらかに無謀、昭和12年の関東軍の専行、それまでの20万人戦死者を無駄にしないがための目的が、強引な日中戦争(盧溝橋事件)開始、一桁違う310万人の戦死者を出した。更に無謀な本土決戦思想が“不幸中の幸い”で、司馬遼太郎は、栃木県佐野市の戦車隊に配属されて帰国、終戦になる。松本清張は昭和19年末にニューギニア戦線に送られる筈が、民間から調達した輸送船すら多くが沈められ、南方戦線への輸送船枯渇で、海没を免れる。ということは、昭和18年以降、学徒出陣を始め、多くの日本の若者が命を絶たれた。司馬遼太郎・松本清張のような才能ある人物が多く存在したのは明らかだ。

添付画像、後列左側が司馬遼太郎。

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