2016/10/31  23:28

哀悼 伊藤桂一  身辺世相
戦前の陸軍のことを知るために辞書代わりにしている本は何冊もある。
その一つが添付の本。

10月29日、伊藤桂一氏が亡くなった。99歳。天寿を全うされたと思う。
昭和37年「蛍の河」で直木賞受賞。芸術院会員。
中国本土を詠った短歌も多い。

このブログの「インパール作戦」はあと4回。推敲しつつ記述している。
戦前の陸軍大学を出たエリート中のエリートが、しでかした拙劣な作戦。2ヶ月で6〜7万人が戦病死。大半は軍人ではなく徴兵された末端の兵士だった。当時のビルマのジャングルで人間が死ぬと白骨化したのはたった3日だった。ジャングルの蛆虫は凄かったらしい。玉砕に近いこの作戦の責任者は戦後、軍人恩給で不自由なく暮らした。

読解にしても、したり気に思われても語り継ぐ人間がいてもいいのではないかと思う次第。完成次第、ロンドン在住のマクドナルド昭子さんに知らせる。

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2016/10/29  21:16

インパール作戦 小論06U  昭和史
兵棋(へいぎ)演習02
◇昭和18年12月22日 メイミョウ15軍司令部
 第15軍司令官 牟田口廉也
 南方軍参謀副長 綾部 橘樹(稲田正純は10月転出)
 南方軍後方担当参謀 今岡 豊
 ビルマ方面軍参謀長 中 永太郎

「後方補給は無理」との物理的判断をした小畑・稲田は遠ざけられた。稲田の後任が綾部橘樹で南方軍のいわば先輩。南方軍のトップは寺内寿一、参謀総長・杉山元の先輩である。綾部は、上司の言う事を聞く人選だったに違いない。参照・引用した参考書を読んで素人でも判ることが、いちばんの問題は、第一線で指揮する司令官が、兵棋演習でも合同会議にも参加していないことだ。戦場で指揮するのは、師団長の筈。その師団長が打ち合わせに呼ばれず、師団の参謀長だけとは何を意味しているのか。18年12月の兵棋演習は作戦決定の会議、19年01月の最後の会議は発令後の打ち合わせだった。


≪三師団長の思想は、不可能を可能とすることが軍人の本務と信じている牟田口中将には不快だった。牟田口中将は師団長たちを避けた。柳田師団にたいしては、しばしば柳田中将を通じないで、自分と同タイプの参謀長田中鉄次郎大佐に直接指示を与えた。一月末、メイミョウの第十五軍司令部で最後のインパール作戦兵棋演習が開かれたとき、集められたのは参謀長、作戦主任参謀たちで、三人の師団長は呼ばれなかった。このため、戦闘責任者の師団長が、軍司令官の意図も作戦内容も十分に納得しないで戦場に臨むという、致命的な欠陥をもたらした。この一点だけでも、インパール作戦の失敗は予告されていたといえる。≫(『太平洋戦争 下』P142)

最後の「インパール作戦10 事実と情実」で筆者の見解!を述べるが、1918年(大正07年)に終戦となった第一次世界大戦が分岐点だと思う。これ以降に陸軍大学を卒業した軍人には「国家総力戦」での物理的・具体的な輜重を見る目が多少はあったと個人的には推察する。書かずにはいられなかった、この作戦の戦記は多い。詳しい戦闘の実際と戦病死の実態はここでは割愛する。問題は、兵棋演習すら拒否された実際の指揮官の行動である。

繰り返すが師団長はみな反対、その作戦を3週間で片づけると言いきっていたからである。その先はどうするのか、恐らく司令官も師団長も予想できなかったのが正解か。日本軍の不幸を象徴しているのが、方面軍・15軍の司令官コンビと3人の師団長の差だ。師団長は英米をよく知り、補給も武器・弾薬もお粗末な(昭和19年01月)状況から勝ち目はないと判断した。師団長は現場の指揮官、兵士の生死を左右する。輜重・兵站を重要視するのは当然だ。31師団では準備段階で、先ずは現地調達した牛の訓練だった。牛馬が動けなくなれば、それを屠殺して食糧にすればいいとの牟田口の命名は「ジンギスカン作戦」だった。日本の昭和史・戦争史のどこにも出てくるフレーズだ。

◇第33師団(弓)柳田元三(陸士26期)
詳しい戦況は省くがインパール作戦の主力は33師団。ビルマ北西部から北上する。相対するのは第17インド師団。地図で見るだけだがインパールは100km先である。首尾よく北上して、そこで何をするのか、師団長は戦略を考える立場にない。柳田元三の詳しい軍歴は解らないが、いわゆる恩賜の軍刀組、若い時から欧州・中国大陸を経験したから戦略を合理的に考える理知的軍人だったのだろう。先ずは航空と補給だった筈。史料を用いて児島襄の『太平洋戦争 下』に詳説されているが、“統制前進”だった。作戦開始から僅かで作戦中止を表明。04月、最前線に赴いて牟田口は、柳田を罵倒した。防御は考えない攻撃のみの戦法は、必勝信念の精神論そのものだった。だが誰もが逆らえないのが19年04月だった。じじつ33師団の緩い前進でイギリス軍が態勢を立て直したらしい。でもそれは結果論だ。その時、撤退の判断もできた筈だ。

◇第15師団(祭)山内正文(陸士25期)
日本の陸軍軍人を象徴しているのが山内正文。陸軍大学では首席、同期の綾部橘樹も首席らしいが首席は一人。どちらにしても山内は中学出だった。陸士・陸大出でも陸軍幼年学校卒業ではないことで傍流だった。昭和13年、アメリカ大使館付武官を経験。結論としてアメリカの工業力をよく知る軍人は、遠ざけられた。「アメリカは侮れない」などと言おうものなら弱腰と断罪された時代だ。この山内率いる第15師団は中国の戦場から移動させられた。稲田正純の考えかどうかは解らないが、南方軍によって昭和18年後半にビルマの横、タイに控置された。「そこで待ってろ」ということなのか。ここの事実も詳らかでないが、理由は何とでも言える。編成されて間の無い15師団が“鵯越”の奇襲戦法を取るかも知れないからとは信じられない。輜重の問題よりも作戦全体の説明がなく、準備期間の短さは、作戦の徹底できぬ南方軍の言い訳だろう。南方軍のあるのはビルマではなくてベトナムのサイゴンだった。

◇第31師団(烈)佐藤幸徳(陸士25期)
目に見える形で「抗命」として牟田口に反旗を翻したのは佐藤幸徳。19年03月に行進を開始していて牟田口の命令通りコヒマまで進出した。再三、物資の補給を打電したが完全に“空手形”だった。先ずいちばんにイギリス軍を翻弄した31師団だからこそ04月上旬に、早くも持ちこたえるのは物理的に不可能と悟ったに違いない。多くの識者が“名将軍”と指摘する31師団兵団長・宮崎繁三郎(陸士26期)は「左突進隊」。コヒマに至るウクルルから南下してサンジャックでの戦闘は58連隊史に詳しいがここでは割愛。この戦いは03月下旬のこと。04月には約束した弾薬・食料が届かなかった。イギリス軍の鹵獲で戦ったのである。それも限度があった。この佐藤幸徳の撤退の詳しいことは「8回目」に記す。

師団長三人は理知的・合理的判断なのは、戦後の今、判明していること。だが帝国軍人なら上部の命令を拒否することはできない。事態は師団長の懸念通りになりつつあった。進軍して多くの兵隊を死なせることが確実だから撤退を決意したのだろう。

『名将 宮崎繁三郎』豊田穣 光人社NF文庫
『兵隊たちの陸軍史』伊藤桂一 新潮文庫

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2016/10/23  20:28

インパール作戦 小論06  昭和史
兵棋(へいぎ)演習
兵棋演習は、状況を図上・机上において想定した上で作戦行動を再現して行う軍事研究。作戦を研究するために、地形や敵情についての定量的なデータを踏まえながら確率を活用しつつ状況を再現する。参謀本部や軍令部或いは実戦部隊において、作戦計画の立案や分析などの研究のために行われた。(『フリー百科事典・ウィキペディア』)時系列でインパール作戦の会議を記述すると長くなるので、昭和18年03月27日、「ビルマ方面軍」を設置したあとの二度の兵棋演習の人物と内容をみることにする。その二度の兵棋演習を挟んで、兵団長合同会議など何度も作戦会議が行われている。ただし指揮官の師団長が呼ばれていないのが問題。

◇昭和18年06月24日 ラングーン ビルマ方面軍司令部
 方面軍司令官 河辺正三
 第15軍司令官 牟田口廉也
 ビルマ方面軍参謀長 中 永太郎
 ビルマ方面軍参謀 片倉 衷(ただし)
 南方軍総参謀副長 稲田 正純(まさずみ)
 大本営参謀本部参謀 竹田宮恒徳王(つねよしおう)

≪第15軍は牟田口構想をそのまま持ち込み、これに基づき演習が実施される結果となった。演習実施後、これを統裁した方面軍側の中参謀長から所見が開陳され、牟田口構想は危険が多いとされ、より慎重で確実な方面軍の案が提示された。─「牟田口構想は持てるだけの弾薬・糧秣でもって、チンドウィン河を渡り、道なきアラカン山系を突破し、食が尽きたら、奪取したインパールの糧と輸送力を活用して南方から補給するというまことに虫のいい、獲らぬ狸の皮算用である。そんなことは1942年の春ならできたであろうが、今や着々と反攻の準備を行っている敵を前にしては甚だ無分別だ。─牟田口構想には弾力性がない。今回の攻勢はビルマ防衛の一手段であって、本格的なインド進攻作戦ではない。その辺の心づもりが根底から欠如している≫(日本の戦争指導におけるビルマ戦線)

この演習はビルマ方面軍司令官以下、第15軍の司令官、参謀も全員参加した。更に上級の南方軍、大本営からも参謀が参加した。主に「アラカン山脈を横断する形の地理的観点と物理的な後方補給」から難色を示した代表的軍人が前記4人。帰国した武田宮から報告されて真田穣一郎 (陸士31期)参謀本部第一部長も「むちゃくちゃな案」だと感想を述べた。だが参謀本部総長自身は作戦の具体的なところまではタッチしていないから当時の考えは解らない。結論は情実人事優先で作戦は発令される。この段階では、インド東北部のアッサム侵攻は断念させるつもりで一応聞いて置くことにしたのか。

昭和18年03月、ビルマ方面軍、第15軍が新設されている。指揮するのは河辺正三(かわべまさかず)中将、恩賜の軍刀組でエリートだった。陸軍大学同期に東條英機、本間雅晴、今村均がいた。単純に比較すれば2歳年長の東條は総理大臣だが、陸軍大学では同期、いかに東條が“劣等生”だったかが解る。ここで「盧溝橋事件」以来の河辺・牟田口コンビが復活する。方面軍の司令官・河辺の「最後は自分が判断を下すので、それまでは牟田口の積極姿勢を尊重せよ」との主張に現場の司令官は従わざるを得ない。その根拠は様々に指摘されているが、物理的判断ではなく陸軍中央から左遷された者同士の精神的なものだっただろう。『失敗の本質』では作戦の意思決定が、合理的判断ではなく組織の“間柄”だったと断罪している。

兵棋演習での方面軍・中参謀長(陸士26期)の判断、稲田(陸士29期)の見解は「インパール作戦はやり方を変えないかぎり、やらせないとの方針」はここでは変更がなかった。だがそれは更に無謀な「インドアッサム地方」への侵攻を断念させるべき前段階のものでインパール作戦そのものの完全否定では無かった。河辺は、牟田口には唯一の味方だった。“聞く耳持たず”は、第15軍を確実に支配して「何を言っても無駄」の空気が醸成されて行く。このインパール作戦を著わす書には、間違いなく取り上げられるのが輜重の専門家・小畑信良第15軍参謀長だが、後方補給は困難との見方は変わらず、たった二ヶ月で解任されている。こうした措置では誰もが本音を言えなくなる。前述の如く小畑は内容を確認するつもりでの田中新一への意見具申は、統帥を乱したとのことで牟田口の逆鱗に触れた。ノモンハン事件の取材で戦後、司馬遼太郎に非難されたのが稲田正純だが、少しくその学習効果はあった。18年10月の解任まで終始、この作戦に反対した。

次回は昭和18年12月22日の兵棋演習を取り上げる。

◇参考書
『戦争史研究国際フォーラム・日本の戦争指導におけるビルマ戦線─インパール作戦を中心に』荒川憲一 防衛省防衛研究所

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2016/10/21  21:36

インパール作戦 小論05U  昭和史
輜重・兵站 戦史紹介and引用
鹵獲(ろかく)という言葉がある。≪戦地などで敵対勢力の装備品(兵器)や補給物資を奪うこと≫とある。インパール作戦では20日間の食糧と弾薬を所持していくことが命令されたわけだから20日間で“作戦は終了”だった。積極攻撃は勝利しか考えなかった。日本軍が敗退することは牟田口廉也という指揮官の頭には無かった。なにしろインパールの遙か先のインド北部アッサムに侵攻することも大本営や南方軍にあったようだ。戦争最前線では当然、鹵獲も計算に入っていた筈だ。でなければ「チャーチル給与」などという言葉も生まれようがない。河辺正三と牟田口廉也には、戦う兵士のための物理的計算は為された形跡すら無い。帝国陸軍最悪のコンビだ。精神論と願望だけでは戦争に勝てない。精神論と願望だけでは恒久平和などない。

≪各人は背嚢のうしろに紐をつけて、これをうしろの者がにぎって歩き、暗黒内の行軍を可能にしたのである。絶壁をたどる道を眠気いっぱいで歩いているときだった。ほとんどが歩きながら眠っていた、というより眠りながら歩いていたと思う。大隊副官のうしろを歩いていたはずの私は、思わず左足を絶壁外に踏みこんでしまった。絶体絶命、身にあまる重荷をせおっていた私は、そのままの姿できり立った絶壁を背にして、すべり落ちていった。壁面にはえる植物を夢中でつかまえようとあせるのだが、重い体重のため、ささえるだけのものはない。どんどん速度を増していき、全高一〇〇メートルもある崖の三分の二も落ちたところにあった大岩で、身体が半回転して頭が下になった。「もうダメだ」と感じた瞬間に、意識をうしなった。しかし、つぎの瞬間に私は谷川の中に落ちこみ、無意識のまま谷川からはいだしていた。谷川の水深が、幸いに腰を没するていどで、しかも頭部から落ちこんだはずなのに、頭部に負傷はまったくおっていなかった。これらすべてが、ほんの一瞬の出来事で、当然死ぬべき遭難でありながら、一命をとりとめることとなつた。ようやく我にかえつた私は、ふと落ちてきた方角を見上げると、はるか上の方に懐中電灯の光が三つ四つ、下の方を照らしてホタルのように見えた。≫
真実のインパール』P42

≪私たちがズブザ橋梁の爆破を命ぜられて先行する以前は、この砲兵隊の連中と相前後して行動をともにしたものだ。だが、チンドゥィン河を渡河して山岳地帯に入り、アラカンの峻峻が行く手をはばむようになると、野砲を牽引する馬がつぎつぎとたおれ、とても前進は不可能な状態となり、野砲は置きざりにされた。野砲がだめとなれば、山砲が最大の火器である。解体された山砲もしばらくは駄馬によって搬送されたが、やがてこれらの馬も、たおれてゆき、兵隊による臂力搬送がはじめられた。こうなると兵も下士官も将校も、階級差などはなかった。全員が一丸となっての常力搬送は、さながらお祭りのミコシの観を呈した。分解をした砲身、車輪などの部分を、何人かでかつぎ上げる。そして勇ましいかけ声をかけるのだ。ワッショイ、ワッショイ≫
烈兵団インパール戦記 陸軍特別挺身隊の死闘』P14

≪昼ごろのことである。私の機関銃の銃身に、いきなりふわりと白い物が落ちてきた。敵陣のみ目を奪われていた私は、低空で飛来した敵輸送機ダグラスにはまったく気がつかなかったが、いろとりどりのパラシュートが、渓を挟んだ西側の山腹斜面をゆうゆうと落下しているではないか。彼我の第一線が余りにも接近しているため、その半数以上がわが方に落下して、兵たちは思わぬチャーチル(英首相)給与の恩恵に浴して大喜びであった。さっそく陣内に引きずり込んで中味を確かめたことはもちろんで、茶色の麻袋の中には一斗缶が四コ、その一つずつにパン、ミルク、チョコレート、タバコ、缶詰、バター、それにブランデーまでぎっしり入っていたのには驚き、かつ喜んだ。同じ兵という立場で命の奪い合いをしていながら、何という違いであろう。それにひきかえ自分たち日本兵の糧食は、三、四百年前の戦国時代の兵糧よろしく、岩塩に焼き米で、激しい兵の口腹を満たすに決して充分な量とはいえない。それでもだれ一人として不服を口にする者はなかった。チョコレート、そしてバター……土ひくく這う硝煙の下、兵たちはそれをむさぼり、自分の全細胞が歓喜にわななくような感激の一刻を、その口中に味わった。≫
インパール 烈兵団重機関銃中隊の死闘記』P42

≪モウコ軍やカウボーイが自分たちも馬に乗って、平原の牛の群れを追いたてるのとは訳がちがう。丘陵地帯のせまい難路を一列縦隊の強行軍である。ビルマ牛は隊列をきらい、強行軍をきらった。たえず列から離れようとし、歩速が速すぎると立ち止まり、草があれば食べようとして兵士たちをてこずらせた。すべて夜行軍であった。日本軍に制空権がないためである。ビルマには第五飛行師団がいたが、飛行場はビルマ全土で百五カ所もあるのに、所有する戟闘機は約百機にすぎなかった。反対に敵のインド東部航空軍は四百八十機を持ち、ほかに爆撃機二百機を動員して、ビルマ各地を爆撃していた。ことに昭和十九年に入って、敵は航続力の長いビューファイターとライトニングの長距離戟闘機を配備したため、活動範囲が広くなり、ビルマ奥地の制空権は完全に敵のものとなっていた。≫
インパール兵隊戦記 歩けない兵は死すべし』P33

≪高度が上がるにつれ、道の両側の木は背丈が低くなり、トゲのある灌木に変わった。せまい道は、体力の強い者も弱い者も、一列縦隊で同じ歩速でのぼらなければならなかった。どんなにつらくても、小休止の号令がかかるまでは足を止めることは許されない。ビルマ牛のように坐り込む者は、弱者のラク印を押されて半人前として軽蔑され、古参兵には「飯も半分にしろよ」と、いやみを言われるのが輸送隊である。新兵にはつらい作業であった。農家の出身者や内地で労働していた者はもちこたえたが、都会育ちや金持ちの息子などは、辛抱しきれずに坐り込んだ。すでにマラリアにかかっている者もいた。軍医の診断をうければ重労働は免除されるが、弱者と言われるのをきらい、病気を隠して荷物を運んだ兵士もいた。…結果は死を早めた。≫
『インパール兵隊戦記 歩けない兵は死すべし』P54

『真実のインパール』平久保正男 光人社
『烈兵団インパール戦記 陸軍特別挺身隊の死闘』斎藤政治 光人社NF文庫
『インパール 烈兵団重機関銃中隊の死闘記』上村喜代治 光人社NF文庫
『インパール兵隊戦記 歩けない兵は死すべし』黒岩正幸 光人社NF文庫

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2016/10/20  21:15

インパール作戦 小論05  昭和史
輜重・兵站
輜重(しちょう)=軍隊の食糧・被服・武器・弾薬など、輸送すべき軍需品の総称。
兵站(へいたん)=軍事装備の調達、補給、整備、修理および人員・装備の輸送、展開、管理運用についての総合的な軍事業務。

結論から云えば、日本の無残な戦争の結末は、現実・物理・科学を軽んじたからだと思う。エリート軍人は、戦術・戦闘を中心に学んだ。戦争の勝利で国が富んだ過去があるので戦って勝つことを中心に学んだ。軍部もそれを要求した。陸軍士官学校・陸軍大学を卒業し、更に一期50人のうち10%の5人が恩賜のエリート軍人で、それゆえ選良意識が独断・秘密・隠蔽の組織になっていった。それが子供でも判りそうなのに日米戦争へ導いて結果、日本を奈落の底へ落した。

負け戦がない近代史とは、相手が弱小、局地戦であることの実態を自覚しなかったことになる。つまりある意味、軍事的には運が良かった。明治維新を経験した軍人・政治家は戦略・政略を常に考えていた。こうした人たちが悪いと云えば悪いが、その後の軍人は、指揮官としての戦術・戦闘のみを教え込まれ戦略・政略には目をつむった。欧米の優れた工業製品に思考が及ばず、物理的な武器・戦闘機・戦車などはなおざりになった。極東の島国・日本は「富国強兵」は目標で、実態は「貧国弱兵」、戦闘最前線の戦術のみ求められたから、本当は行軍の武器・糧秣がいちばん重要なのに、これらの専門家を教育・訓練することを怠った。第一次大戦の欧州は日本から遠かったというしかない。「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々蜻蛉も鳥のうち」は、輜重・兵站は軽んじていた証拠。白兵の歩兵が中心だった。なにしろ日露戦争当時の「三八式歩兵銃+銃剣+手榴弾」で世界を相手に戦争をした。負けるに決まっている。

その補給や情報無視の作戦は、様々な「昭和史」の本で指摘されている。
≪牟田口は過敏な神経の持ち主で、日頃から持ち歩いている鞭で自分の幕僚さえ叩くような男だった。そのためもあって、部下は意見を述べることを控えていたと言われる。したがって、補給手段の強化といった進言も、一人として言い出す者がいなかった。そしてそれが、数万人という餓死者につながったのである。陸軍の場合、常に「兵隊がいて、小銃と弾さえあれば戦争はできる」と考えていたようである。そしてまた、歩兵の突撃によってすべての敵を圧倒できると信じていた。この考え方は、太平洋戦争でもまったく変わっていなかった。日清、日露戦争の勝利さえ、冷静に分析すればそのすべてが薄氷の上を歩くようなものであった事実が理解できたはずである。倣り高ぶった陸軍首脳は、それに気づかず前線の兵士に無用な犠牲を強いていた≫
(『日本軍小失敗の研究』)

日本の軍隊が日露戦争以来の「白兵突撃主義」だったとは理解できるが「エリート軍人が、それに気づかなかった」との指摘は軍人には優しすぎる。「知っていて改善することをしなかった」が本当だろう。作戦という戦術・戦闘は軍人の基本だが、その重要な物理的な要素「戦争に勝つ装備」には関心が無いというより優秀な軍人が就任しない仕組みでもあった。軍人は最前線の兵隊を人間として扱うのでなく、戦術上、いくらでも補充できるモノとしての存在だったようだ。でなければ「神風特攻隊」などの発想は生まれない。

以下は一人の兵隊が背負い、携帯する装備。
≪費用の問題も当然あるにはあったのだろうが、日本陸軍には、強力な戦車、装甲車を揃えての機甲戦術、あるいは自動貨車(トラック)を大量に使用した機動戦術を採用しようとした努力も、また本格的に研究しようとした痕跡も見られなかった」「日中戦争に駆り出された歩兵は、40ないし60kgの荷物を肩に、連日行軍しなくてはならない。これは召集されたばかりの二等兵も同じであった。昭和10年頃の日本の成人男性の体格の平均は、身長160センチ、体重55 kgといったところだ。本当にこれだけの重量の装備を持ち歩いたのかという疑問も生ずる≫
(『続・日本軍小失敗の研究』)。

◇三八式歩兵銃3・9 kg
◇銃弾120発、銃剣1挺、手榴弾2発、擲(てき)弾筒・小型の迫撃砲)の砲弾5発、合計約10kg
◇鉄帽(鉄かぶと)、皮製の剣のさや、銃弾入れ2個、兵器の手入れ用具一式、小型シャベル、ガスマ スク、合計約10 kg
◇食糧、米7日分6kg、乾パン、缶詰、味噌、醤油、合計約8kg
◇衣類の予備、地下たび、水筒、飯食、携帯テント、洗面具、筆記用具、これを入れる雑嚢(リュックサック)合計8kg。これだけで約40 kgである。夏ならこの程度で済みそうだが、冬ともなれば、毛布2枚、厚手のコート、携行燃料なども持っていかなくてはならない。加えて二等兵は、銑弾の予備(約60発)、擲弾筒の砲弾の予備(5発、1発の重さは800グラム)を持たせられたのである≫
(『続・日本軍小失敗の研究』)

これが平地での基本である。インパール作戦の司令部では、インパールまでを平地でしか計算しなかった。これでは戦争に行くのではなく自殺する準備と思われても仕方ない。日本軍が局地的にそれまで勝利したのは装備が手薄な中国大陸でのことだ。NHKの「インパール作戦」の映像を見ると物資を運ぶ水牛はやせ細っている。これはビルマの水田耕作用の牛で川幅600mのチンドウィン川、3000m級のアラカン山脈には通用しなかった。目的地に着くまでに殆んど死んだ。むろん兵士も同様だった。

筆者は、定年後に山形県の山寺・立石寺を登った。900段強の石段がある。途中の休憩所・山頂に飲み物を売っている。平地では100円のジュース類が200円を超えていたように思う。屈強な若者が、たくさんの飲料水を背負子に載せて前屈みで上るのを見た。70kgの体重なら同量の物を運んだのか。今、こんなことを思い出している。

戦前の陸軍兵士がすべて屈強だとしても自分と同量の物資を背負い、関東から岐阜を経て北陸金沢の距離を行進した。それも川幅600mの河を渡り、2〜3000mの山を20日間で行く。しかも戦闘も交える。撤退で90%の兵士が亡くなったが、往路でもかなりの犠牲者が出たのではないか。それにしても後年、素人が思うには、インド北部に行って仮にイギリス軍を駆逐したとして、何の目的だったのか。20日間の食糧しか“持参”しないのに、そこから一体何をしようとしたのか。インドはイギリスの植民地で広大である。「インパール作戦」が、武器も貧弱、食料も無、目的の無い戦争を象徴している作戦だったことは間違いない。

NHKの「インパール作戦」の映像を静止画にしたもの。当時はアナログ。

◇参考書
『日本軍小失敗の研究』三野正洋 光人社NF文庫
『続・日本軍小失敗の研究』三野正洋 光人社NF文庫

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2016/10/17  22:31

インパール作戦 小論04  昭和史
大日本帝国陸軍
今も昔も日本という国は“レッテル貼り”は変わらない。だからここに大日本帝国陸軍と書けばそれだけで好戦的ととられかねない。だがこのインパール作戦が現実的になる頃は、陸軍は300万人もの人員に膨れ上がっている。日本という国の劣勢は、即席の兵士で補おうとして、じじつそうしたから国内経済を顧みられず貧民国家に突き進む。武器・戦車・戦闘機などは、短期間ではできないが、兵士はいくらでも補充できた。この戦前の“兵舎列島”に触れることなく今の尺度だけで平和を主張しても空しい。

したがって過去の戦争の具体的な経緯を少しでも知れば、それだけで平和への理想、願望を語ることの基礎になる、と考えるのがこのブログの骨子。インパール作戦の「抗命」、司令官、ビルマの位置などに触れた。今回はその帝国陸軍の組織・人員を記述したい。戦前の軍部は全て“悪”と云ったら筆者の前の世代は悪人だらけになってしまう。

明治維新からの日本の近代は、単に「富国強兵」が頭に浮かぶ。昭和時代に入ってからの陸軍の人員は『昭和の歴史3 天皇の軍隊』によれば1931・昭和06年には20万人、昭和10年代には100万人を超える。日米開戦後は210万人、学徒出陣の頃の18年には290万人に膨れ上がった。終戦時は何と500万人で本土決戦のための“根こそぎ動員”だった。ここまでになると国家総動員が叫ばれた昭和12年に比べても陸軍だけを責められないが、国力を生むのは経済であることを全く軍部は考えなかった。狂気というしかない。

陸軍の基本中の基本は、中隊で100人規模、小隊は50人、分隊は10人、夫々指揮官がいる。中隊の指揮官は陸軍大尉。大隊は500人規模。この大隊に三つに砲兵隊、工兵隊などが組織されて連隊になる。これが3000人規模で指揮官は陸軍大佐。この連隊が5〜6隊で師団となる。師団は15000人〜20000人。師団長は中将だった。ビルマ戦線の守備を強化するのに昭和18年03月に「ビルマ方面軍」が新設された。ここが悲惨な結果となる分岐点だった。先に記述した縦の組織と軍人が問題になる。

◇ビルマ方面軍司令官 河辺正三中将(陸士19期)
第15軍 牟田口廉也中将(陸士22期)
 第15師団師団長 山内正文少将(陸士25期)
 第31師団師団長 佐藤幸徳少将(陸士25期)
 第33師団師団長 柳田元三少将(陸士26期)
第28軍 桜井省三中将(1889・陸士23期)
 第2師団、第54師団、第55師団
第33軍 本多政材(まさき)中将(1889・陸士23期)
 第18師団、第56師団、第53師団
 独立混成24旅団 林 義秀中将(1891・陸士26期)

佐藤幸徳の指揮する第31師団は、更に5つの連隊に分かれる。マクドナルド昭子氏の父親は、浦山泰二氏で山砲兵第31連隊、後に日英和解運動に尽力された平久保正男氏は第58連隊(連隊長 福永転(うたた)陸軍大佐)の見習士官だった。いちばん先に「コヒマ」を攻略したのが宮崎繁三郎陸軍少将(陸士26期)率いる歩兵団だった。インパールから30km東北のサンジャック、そこから更に西北のコヒマまでは、60km、多分、道無き道で、素人考えでも一連隊3000人、2週間の行軍は、今日では想像だにできない。

陸軍の序列をみるとき、インパール作戦の場合、格好の軍人がいる。田中新一(陸士25期)中将で昭和17年の「ガダルカナルの戦い」で民間の船舶を増量するように陸軍省に要求した。作戦は参謀本部だが、装備・用兵は行政側の陸軍省。東條英機側近の佐藤賢了軍務局長と殴り合いになり東條総理を「バカヤロー」と面罵した。結果、報復人事で戦争の最前線へ飛ばされた。これも結果、日米開戦時の東條と軍務局の武藤章は東京裁判で死刑。田中は、ビルマ軍崩壊の後、本土決戦のため帰還。昭和51年まで生きた。だからわざとそうしたとも云われている。

昭和18年04月、愈々インパール作戦が現実味を帯びたとき、小畑信良(陸士30期)少将は15軍参謀長で輜重・兵站の現実を進言した。参謀はスタッフで司令官ではない。牟田口廉也は“必勝の信念”だから現実は考慮しないし聞く耳を持たない。小畑は田中新一に相談した。田中は参謀本部の第一部長のあと、北ビルマ第18師団長だった。小畑は輜重・兵站のスタッフなので田中は公式的にこれを拒否した。一応師団長会同で牟田口に翻意を求めているらしいが、ここで田中の本心は解らなくなる。参謀本部のトップの時は、作戦遂行で陸軍省と喧嘩もするが、最前線の司令官では統帥(上下関係)を重んじる。陸軍大学では硫黄島の戦いの栗林忠道と同期だった。田中新一は、この戦争の先が見えていたものと筆者は思う。

次回は、その行軍の実態。

◇参考書
『あの戦争は何だったのか』保阪正康 新潮新書
『昭和の歴史3 天皇の軍隊』大江志乃夫 小学館文庫

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2016/10/14  23:09

インパール作戦 小論03  昭和史
インパールとは
インパールとはインド東部にある。作戦の展開はビルマ(今のミャンマー)の西部だった。因みにビルマは日本の1・8倍の国土を持つ。イギリス軍駐屯のコヒマは、更に50キロ北部。司令部があるメイミョウ、兵站基地(物資・食料)はマンダレーで、そこから500キロ以上はある。東京と関西の距離か。ビルマのタイ国境の細長い地域を省くとマンダレーはビルマのほぼ中央。今なら高速道路で素人でも二日で到着が可能だろう。しかし当時のマンダレー・インパール間は、川幅600メートル、水深3メートルのチンドウィン河という大河を越えなくてはならず、しかも両岸は切り立った断崖。そこを超えてもアラカン山脈は2000〜3000メートル級の山々。湿地・沼地も多く道路も曲がりくねって細い。しかも兵士は徒歩の行進だった。

連合国が蒋介石の国民党軍・重慶軍に軍事物資(食糧・薬品・武器)を供給しており、ビルマを通り中国へ向かう。その援軍のルートを遮断するのが目的で且つイギリス軍を叩く?のも目的だった。そもそもこの作戦が計画されたのは確かな史料は無いらしい。昭和17年が明けてから難なくビルマを占領したので日本軍は、終始イギリス軍を舐めきっており、ビルマ・インドの独立という大義名分もあったのではないか。

ここでは現代史専門の詳細な軍事的考察は無理ゆえに、所謂“目線”を、戦う兵士の実態を知る限りに於いて著わしたいのが本心。百科事典のお世話になることもなくインターネットに適切な指摘があった。この作戦の困難さを、吉川正治(陸戦史研究普及会)は次のように説明している。

≪「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパ−ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は、軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は、甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は、小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg ─60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。このように移動手段がもっぱら徒歩だった日本軍にとって、戦場に赴くまでが既に苦闘そのものであり、牛馬がこの峻厳な山地を越えられないことは明白だった。まして雨季になれば、豪雨が泥水となって斜面を洗う山地は進む事も退く事もできなくなり、河は増水して通行を遮断することになる。≫(『フリー百科事典・ウィキペディア』)

05で紹介するのは、一人の兵隊が携帯する、背負う物理的重量が50キログラム。夫々の駐屯地からインパールまで20日間の行軍を命じられた。司令部はビルマの地形の高低差は、殆んど計算外だったことにある。命令が発令され行軍が開始されたのは昭和19年03月08日。約一ヶ月後には日本軍の敗色が疑い無いものになる。20日間の食糧と弾薬しか無い。公式の撤退は07月初旬だ。90%の兵士が亡くなったのは物資・食料の枯渇するという物理的事実だった。

それにしても前年(昭和18年)04月に真珠湾攻撃の英雄・山本五十六は戦死している。陸軍上部の参謀本部は、その事実は知っていた筈である。事項で紹介する師団長は、理性的軍人と云われた。山本五十六元帥が戦死したあとの敗色濃い、18年秋の「学徒出陣」もある。無駄な作戦と十分自覚していたに違いない。ところが命令系統が3年違うだけで上官の命令には一切抗えない仕組みになっていたのが日本の軍隊。師団長に限らずこの作戦のその移動・行進という物理的現実を計算して否定しても実力で阻止できる機構に無かった。牟田口廉也の“必勝の信念”は全ての理性を踏みにじった。誰もが言っても無駄が結論だったらしい。

前述のNHKの番組にもインタビューに応じた丸山静雄(朝日新聞従軍記者)は、軍部のエクスキューズ(言い訳)を淡々と述懐していた。丸山は、15軍司令部で牟田口に会っている。ただし丸山自身が栄養不足でやせ衰え、皮膚病に罹患、半病人だった。その丸山が、敗軍の将軍の牟田口を哀れんだ。撤退が始まった19年07月の頃だった。

◇参考書
『インパール作戦従軍記』丸山静雄 岩波新書

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2016/10/12  22:18

インパール作戦 小論02  昭和史
牟田口廉也(むたぐちれんや)
誰も戦争が好きな人は居ない。平和がいいに決まってる。その平和だが、専門家でも素人でも口にすることは、正義・理想・願望で、戦争の実態と真実を踏まえることは躊躇するようだ。殊に昔の太平洋戦争などは関心を寄せるだけで、眉を顰められるだけだ。過去の戦争に関心を寄せるのは、むろん自分の父親が戦争の犠牲者であること(実父は昭和20年11月中国広東省で病死、インパール作戦とは無縁)。自分が生まれたのは偶々昭和19年06月だということ。日本の軍部の最も拙劣な戦争として今でも語られるのが「インパール作戦」。6万人も兵士がビルマで白骨となったのが19年05月〜07月であること。その実態と原因を探れば、それがいちばんの説得力のある平和論を導き出すと勝手に思う次第。

昭和19年03月、帝国陸軍は、三個師団を編成してインド東部のインパールを攻略する作戦に出た。当時のインドはイギリスの植民地。昭和16年12月のアメリカハワイの真珠湾を海軍が攻撃したのと同時期、陸軍はシンガポールを攻め落とし、間もなく東南アジア、ビルマ全土を掌握した。日米開戦以前から日中戦争は泥沼だった。それから二年、国民政府・蒋介石を援助する連合国のいわゆる「援蒋ルート」を遮断する作戦が、インド東部のインパールの地のイギリス軍攻撃だった。ビルマの戦いはインパール作戦だけでは決してない。ここでは割愛。

当時、イギリスは東南アジアの植民地統治に安穏としていて日本軍に敗れたが、態勢を立て直し反撃の作戦を構築しつつあった。後述するがジャングルに覆われるビルマの地形を合理的に考えた「空挺団」を主力とした物量作戦だった。日本は、南方の戦局悪化で作戦変更、ビルマ方面軍が設置され、第15軍の司令官が変わる。その昭和18年03月までは司令官は飯田祥二郎(陸士20期)だった。牟田口廉也の先輩だが、河辺正三の後輩。当初飯田は(21号作戦)、複雑・困難な地形から反対した。当時は、牟田口さえ反対した。ビルマ方面軍が新設され牟田口が司令官になると状況は大きく動く。ここが決定的な分岐点だったのは専門家が等しく指摘する。

起案は違うが、この作戦を強行したのが牟田口廉也、明治21・1888年、出身は佐賀県。上司の司令官は河辺正三(まさかず)58歳。牟田口廉也の経歴を見ると陸軍大学を卒業した後は、大正07・1918年から18年間、一貫して参謀本部に勤務した陸軍官僚だったことにある。それが昭和11年・1936年より満州国関東軍へ転出させられた。つまり陸軍内部の抗争の“皇道派”と擬せられたことにある。二・二六事件は皇道派が起こしたもの、粛清人事だった。以後、中央に戻ることは無かった。後述するが中央に戻りたいがための強引な作戦を指揮したことが今や明白になっている。(この皇道派vs統制派の対立は割愛、中央を追われたことは高木俊朗・半藤一利氏の指摘)

飯田祥二郎陸軍中将が転出してからは、インパール作戦の委細を知るのは牟田口だけになった。つまり当時の18軍司令官、牟田口は「実行困難」と言った。それは誰もがそう思ったようだ。だがその認識は動く。昭和18年03月「ビルマ方面軍」が設置され、15軍は牟田口が就任する。牟田口は「21号作戦」は、飯田の私案だと思っていた。南方軍・大本営の指示なら違うと物理論を凌駕して組織の論理が優先することになる。軍司令部がメイミョウに出来て作戦は現実味を帯びてゆく。むろん上位の南方軍、大本営の意向とそれに応える牟田口の功名心だった。

牟田口廉也の性格をここで分析するほどの知識をもたないが、激情型の“必勝信念”で戦争最前線の作戦を緻密に計画・実践できない云わば戦闘を知らない官僚的軍人だったようだ。だから5月以降の雨季までの限定的で短期の作戦を計画した。だから補給無視、消極を排し勇猛果敢に攻撃するという具体的・科学的な裏付けの無いものになった。結果は、無残な敗戦で、指揮官の罷免、解任、更迭という命令で責任を逃れた。

当初から多くの指揮官・参謀はこの作戦に反対した。それを許したのは、上位の南方軍、参謀本部だから全ての責任は牟田口にあるわけではない。昭和12年の日中戦争開戦の元の「盧溝橋事件」も、最初の一発は牟田口だった。結果論だが「戦局の泥沼」「ビルマの泥濘」を象徴する軍人ということになる。これも解っていることだが、牟田口廉也は戦後、昭和41年まで生きた。無惨な作戦の責任を執ることなく、執らされることも無かった。作戦終了後、上位のビルマ方面軍・河辺正三は大将の位に昇進さえした。それが陸軍人事だった。無惨な結末は伏せられていた。

インパール作戦が発令される昭和19年時点の陸軍
◇大本営参謀本部総長   杉山  元元帥(陸軍士官学校12期)64歳
◇南方軍総司令官     寺内 寿一元帥(陸軍士官学校11期)65歳
◇ビルマ方面軍司令官   河辺 正三中将(陸軍士官学校19期)58歳
◇第十五軍司令官     牟田口廉也中将(陸軍士官学校22期)56歳
第15師団(祭)師団長 山内 正文少将(陸軍士官学校25期)53歳
第31師団(烈)師団長 佐藤 幸徳少将(陸軍士官学校25期)51歳
第33師団(弓)師団長 柳田 元三少将(陸軍士官学校26期)51歳

昭和史のあらゆる書を読んでも、誰も評価しない軍人が居る。そういう軍人はなぜか、戦後も生き延びている。シベリアに抑留しソ連との密約で知られる瀬島龍三、数々の拙劣な作戦で知られる服部卓四郎・田中新一・辻政信、多くの死者を出していながらフィリピンから台湾へ逃げた冨永恭次、戦争をやりたくて仕方がなかった海軍・第一委員会の石川信吾等々。ここに牟田口も当然追加される。

◇参考書
『昭和の名将と愚将』半藤一利・保阪正康 文春新書
『指揮官と参謀─コンビの研究』半藤一利 文春文庫

馬上が牟田口、手前が河辺。

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2016/10/11  22:45

インパール作戦 小論01  昭和史
馬鹿の4乗
数年前にこのブログで「インパール作戦」を記述した。昭和の太平洋戦争の一作戦に拘りを持つ筆者の聊かの嘆きだった。太平洋戦争の拙劣な作戦が陰惨な結末をもたらしたと慨嘆した。今回はもう少し踏み込んで日本の戦前の大日本帝国陸軍という組織とその作戦の起案・推移を知りたいだけのこと。一市民が過去の戦争の一部を知悉したにしても個人の生活には殆んど前向きではない。平和と戦争に対する考えは、今も昔も常識・尺度が異なるが単純化されるのは同じ。巻末に記述したいのは軍人と一般兵士は違うということ。軍人は戦うことが職業、戦前は、徴兵を拒否できない一般兵士が多く死んだことを言いたい。インパール作戦はそれを最も象徴しているということ。今は、一般市民はもちろん自衛隊員ですら戦いは拒否できる。

昭和19年「インパール作戦」に参戦、今も90歳代で存命の兵士がいる。ただ残念ながら認知症で老人施設にて暮らしている。その兵士を父に持つマクドナルド・昭子さんとインターネットでの交流が8年前に始まった。戦後、商事会社丸紅に勤務、天命として日英和解運動に邁進してこられた平久保正男氏(2008・4死去、88歳)が居られた。イギリス・ロンドンに在住された。そのあとを継いで昭子氏は、「ビルマ作戦協会」会長として今も頑張っておられる。そのインパール作戦に於いて帝国陸軍で初めて“抗命”として本にも著わされているのが、佐藤幸徳陸軍中将。作戦開始後、一ヶ月、物資の補給がなく、迷うことなく全員玉砕を拒否、撤退を決意した。そのお陰で命を救われた兵士は多い。佐藤幸徳を偲んで、その記念碑が山形県庄内町にある。『論壇』の阿部賢一氏の記事でその記念碑を知った。10年前、メール交換し、記念碑の画像使用の許可を得た。

昭子氏が自分の父と同じくインパール作戦に参戦した平久保正男氏と邂逅されたのは、必然。平久保氏は丸紅で機械類を英国に輸出していた。昭和58年、退職されている。平久保氏が経験された「インパール作戦」の実態はついては後述する。

マクドナルド・昭子さんとは、この記念碑から交流が始まった。今もこの方はロンドンで貿易・英語教育などで多忙。昨年09月、丸ノ内・丸善でお会いした。先日、新聞記事のご案内があり、その産経新聞は読んでいた。改めて拙文「戦争の昭和史・インパール作戦の一考察」を読み返した。やはり何度、読み返しても昭和史に注目する読解文の域を出ない。そのHPの全面書き直しをしつつ読解でも、その核を為す部分を抽出して「インパール作戦・小論」を10回に分けて記述したい。すべては筆者自身の注目点の再録に過ぎない。先ずはその端緒である。

太平洋戦争の本の中に、司令官が自分の所属位置から、上級を指して“馬鹿の4乗”という記述があった筈だと思っていた。それは昭和15年9月の「日独伊三国同盟」について会談した4人だと思っていた。すなわち近衛文麿の荻外荘(てきがいそう)に集まった近衛文麿首相、外務大臣・松岡洋右、陸軍大臣・東條英機、海軍大臣・吉田善吾。これは誤解だった。

TV録画は主流だったVHSテープがDVDに変わりつつあり、尚、徐々にデジタル時代が訪れていて“アナログ”テープはデジタルへダビングを余儀なくされた。平成5年放送のNHK『ドキュメント太平洋戦争』6本は、デジタルVTRデッキのHDDの“空き”へ移行させるべくダビングを開始した。アナログからは、高速デジタルダビングはできない。つまり50分番組は50分間掛かる。そこで発見したのが『ドキュメント太平洋戦争・責任なき戦場 インパール』の番組だった。このシリーズは、角川文庫の「太平洋戦争 日本の敗因」6冊に文庫化されている。だがここではその「馬鹿の4乗」のナレーションはカットされていた。これでは2年余も解らなかったわけである。

昭和19年、帝国陸軍の「インパール作戦」に撤退命令を出した佐藤幸徳陸軍中将は、戦後の叙述で≪大本営・総軍(南方軍)・ビルマ方面軍・第15軍の「馬鹿の4乗」がインパールの悲劇をもたらした≫と言った。はっきり太平洋・大東亜戦争時代の指導者を「馬鹿」と記述した。それをNHK番組が紹介した。6万人の戦死者、それも大半が病死、餓死、自殺だった。文庫では、その時の命令を下した「司令官・河辺正三(かわべまさかず)」「牟田口廉也(むたぐちれんや)」の遺族の了承を得て両者の日記が引用されている。日記は防衛庁戦史室に収められていてなかなか閲覧できぬものらしい。これでは河辺・牟田口両家の悪口は言えなかった筈である。

この小論は、以下の5冊を参照、殆んどの項目はこれを基本文献にしている。何れも手に入りやすいものばかりだ。『失敗の本質』は日本の組織論としてロングセラーになっている。

『太平洋戦争 日本の敗因4責任なき戦場インパール』NHK取材班 角川文庫
『失敗の本質・日本軍の組織論的研究』戸部良一他 中公文庫
『太平洋戦争 下』児島襄 中公文庫
『昭和陸軍の研究 下』保阪正康 朝日文庫
『抗命』高木俊朗 文春文庫

それではインパール作戦とは? 牟田口廉也なる軍人とは?は次回。

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2016/10/8  23:13

またインパール作戦  昭和史
先日、ロンドン在住のマクドナルド・昭子さんからメールを頂いたので拙文の「戦争の昭和史」を読み返した。断っているように筆者のHPの記事・ブログの記事は、読書感想の域を出ない。でもインターネットで「インパール作戦」を検索すると9番目に出てくるのが、小生の雑文にして駄文。

どこまでも素人の文章には限りがある。言い訳に過ぎないが三度目の書き直しを決意した。そもそもの書き出しの動機は、NHKの放送「太平洋戦争 日本の敗因4 責任なき戦場 インパール」だった。放送は平成05年、角川文庫に6冊がまとめられたのが二年後の平成07年。

文庫ではカットされていたが、放送にはあった“馬鹿の4乗”。司令官の31師団・佐藤幸徳陸軍中将が命令に逆らって撤退した。戦後、記述した書に、上位を指して侮蔑・嘆息した言葉。此処は佐藤幸徳の著述が強調されたから本当だ。文庫ではカットされていた。

そこを中心に文章を書く時、「おんぶに抱っこ」の按配で引用したのがその角川文庫、中公文庫のベストセラー「失敗の本質」も使用、これは日本特有の組織論。戦記物で著名な児島襄の「太平洋戦争」も参考にした。

インパール作戦は3師団が動員されている。一師団は2万人以上の規模。多くの昭和史の著書で語られている内容の核となっている部分を抽出して書いただけに過ぎないので、素人でももう少し踏み込みたい。なにしろ7〜8万人が動員され、結果として6〜7万人が戦死・戦病者である。

太平洋戦争の事実に無関心なのはどうこう言えないが、平和願望の一念から軍事的事実に蓋、正義と理想とで過去を一切暗黒の世界としか見ず、あまつさえ無から有を捏造するのは感心しない。関心のある者に無関心なのもいいが、現実を無視した平和論は、昔の四字熟語、神州不滅・必勝信念などを思い出す。絶対平和などは存在しないと思うが。

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