2016/11/30  20:00

電子辞書  身辺些事
広辞苑が搭載されている電子辞書を買った。今度はカシオ。最初は小鳥の声が聞こえるシャープ、二度目もカラーで見られるシャープの電子辞書。だがこれとて調べたら2009年製だった。だから故障して仕方がないか。電器店で見てもらったが完全な故障ではなく液晶部分に問題があり、つまりは画面が出てこない。修理代は新品の電子辞書の値段らしい。

三代目はカシオ製、消費税込みで27000円だった。これは充電しなくてもいいタイプで単三アルカリ電池2本を使用、開ければ電源が入り、蓋を占めれば電源オフとなる。ろくに調べもしないが、短歌に親しむ者には必需品。

序にスマートフォンを注文してきた。今、携帯電話を持っているが、これはあまり使わない。あくまで緊急用だ。この携帯電話は“ガラケー”というらしく日本独自のものらしい。これまでの携帯電話番号が使えるらしい。最初が日本テレコム、今のがNTTドコモ、又、ソフトバンクテレコムにする。

筆者にはポケモンだかバカモン?は必要ない。電話・メール・ネットが見ららればそれで良し。あくまで緊急用だ。テレビも見られ、画像撮影もOKらしい。毎月5、6000円は掛かるらしいが、さて。

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2016/11/28  17:33

ひっこめ  身辺些事
今、お隣の韓国では朴槿恵大統領の退陣デモが伝えられている。任期はまだ一年半あるのだからどういう意味なのか、寂しい女性の大統領には、個人的な友人があったのは、当選したころに解っていた筈。客船事故のときの空白の7時間を引用・紹介しただけなのに、産経新聞の記者は、在宅起訴された。それが今頃、問題になっているのは何なのか。

大手財閥の海運会社は倒産、サムソンもどうやら破綻寸前、もうロッテ叩きも終息しそうだ。日本と経済・防衛が密接なのに、一度も来日しない韓国大統領になるらしい。この国では大統領経験者は、辞任後おおむね悲惨な結末になる。その点、日本の元総理は優雅だ

日本では逆に総理大臣のときには評判が悪くても、辞任後15年も経つのにメディアに露出する元総理もいる。思わず“ひっこめ”と言いたくなる。小渕恵三は「覚めたピザ」とアメリカに言われても何とか首相の座を熟していたが、現職で脳梗塞で倒れた。そのあと密室政治から生まれたのが森喜朗総理大臣、辞任直前は13パーセントの支持率で多分、歴代最低?だろう。

昭和12年生で今、79歳、東京オリンピックの2020年まで東京オリンピック組織委員会会長の職に留まるのか、今上天皇は、論議が判れるが、生前退位を望まれている。無私の精神は、森元総理にはとんと関係ないらしい。なにしろ日本は「神の国」などと言った。“神神が在す国柄”が解っていない。

早稲田大学雄弁会出身ならしゃべりは旨い。総理大臣になりたくてもなれなかった政治家(加藤紘一)、なれるのに断った政治家(伊東正義)も居れば、棚からボタモチの政治家(菅直人)もいた。

目が引っ込んでいるこの元総理には“ひっこ目”と言いたい。ラグビーが好きらしくて身体は重いが、言葉は軽い。政治家の悪口を言っていると、多分風邪はなかなか治らない。今日はこれにて。

わが家では、柚子が手間をかけないせいか、実があまり生らず、葉が枯れた。蜜柑は何もしないが、7個実をつけた。

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2016/11/22  20:40

秋の風邪  身辺些事
72年も前の戦前の軍事作戦を10数回、記述。
これはこれで内容にある程度踏み込んだから、意義があると思うが、愚かな軍人をやり玉に挙げたにしても今の世のなか少しも前向きなことはない。
多分、その愚かな軍人の霊の意趣返しか、呪われて風邪を引いた。

13日・第二日曜は例会、帰路、有楽町駅前の三省堂で新書を物色しているときにせき込む男が居た。多分コイツが犯人だ、正直にバイキンを戴いて、せき込むと下腹部までひびくインフルエンザ??に罹患。有楽町の若い男は良くない。立ち読みの隣は女に限る。ただ女性は近代史・昭和史などは物色していない!

本日クスリが切れたので明日もう一度服薬を希望したのだが、明日が祝日なのを失念していた。早く寝るに限る。月末の仕事が到着、しばらくブログを休みます。

秋のばらで、フレンシャム。

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2016/11/21  17:14

インパール作戦 小論10 参考書  昭和史
1 馬鹿の4乗
01『太平洋戦争 日本の敗因4 責任なき戦場インパール』NHK取材班 角川文庫
02『失敗の本質・日本軍の組織論的研究』戸部良一他 中公文庫
03『太平洋戦争 下』児島襄 中公文庫
04『昭和陸軍の研究 下』保阪正康 朝日文庫
05『抗命』高木俊朗 文春文庫

2 牟田口廉也
06『昭和の名将と愚将』半藤一利・保阪正康 文春新書
07『指揮官と参謀─コンビの研究』半藤一利 文春文庫

3 インパール
08『インパール作戦従軍記』丸山静雄 岩波新書

4 大日本帝国陸軍
09『あの戦争は何だったのか』保阪正康 新潮新書
10『昭和の歴史3 天皇の軍隊』大江志乃夫 小学館文庫

5 輜重・兵站
11『日本軍小失敗の研究』三野正洋 光人社NF文庫
12『続・日本軍小失敗の研究』三野正洋 光人社NF文庫

5 輜重・兵站02
13『真実のインパール』平久保正男 光人社
14『インパール 烈兵団重機関銃中隊の死闘記』上村喜代治
 光人社NF文庫
15『烈兵団インパール戦記 陸軍特別挺身隊の死闘』斎藤政治
 光人社NF文庫
16『インパール兵隊戦記 歩けない兵は死すべし』黒岩正幸
 光人社NF文庫

6 兵棋演習
17『戦争史研究国際フォーラム・日本の戦争指導におけるビルマ戦線─インパール作戦を中心に』荒川憲一 防衛省防衛研究所 ウェブサイト

6 兵棋演習02
18『名将 宮崎繁三郎』豊田穣 光人社NF文庫
19『兵隊たちの陸軍史』伊藤桂一 新潮文庫

7 奇襲作戦
20『昭和史』半藤一利 平凡社ライブラリー

8 佐藤幸徳
21『インパール作戦 下』陸戦史研究普及会 原書房
22『太平洋線の現場がわかる本』相馬栽 星雲社

8 佐藤幸徳02
23『インパール作戦』磯部卓男 丸ノ内出版
24『昭和史の軍人たち』秦郁彦 文春文藝ライブラリー

9 白骨街道
25『日本の歴史25』林茂 中央公論社
26『ドキュメント太平洋全史・下』亀井宏 講談社文庫

10 事実と情実
27『歴史と風土』司馬遼太郎 新潮文庫
28『日本軍と日本兵』一ノ瀬俊也 講談社現代新書

10 事実と情実02
29『一下級将校の見た帝国陸軍』山本七平 文春文庫
30『大日本帝国がよくわかる本』太平洋戦争研究会 PHP文庫

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2016/11/20  10:14

インパール作戦 小論10U 終  昭和史
事実と情実02
インパール作戦で100人中91人が死んだ。数少ない生き残りの兵士は、敵は英軍でなく@に司令官(牟田口廉也)Aにマラリアと蚊Bに飢餓、Cにやっと英国・インド軍だったと言う。

先年、ロンドンのマクドナルド・昭子氏の質問のなかで、あれほど無謀な作戦なのに、どうして第31師団を始め、第一線の兵士は頑張れたのか?は、少数意見だが筆者の回答がある。陸軍の基本は中隊だ。中隊長は陸軍大尉クラス、口も聞けない上官ではない。100人ならば老若男女合わせて一つの共同体“ムラ”なのではないか。3分の2は、女・子供・老人だ。成人男子は、その村を維持する構成員だ。同じ釜の飯を食い、軍隊で苦楽を共にし、生死を共にすれば「良い悪い」は別にして紐帯が発生するに違いない。軍隊の人間関係はここが原点だろう。まして連隊は各地方の成人男子を基礎にしている。稲作農耕民族の村落共同体は日本人のエネルギーの源泉だ。31師団58連隊は新潟県高田出身が多い。

日米開戦前の「項目別検討会議」では「日本は勝てない」という結論が出ていた。霞が関の官僚の摸擬内閣が昭和16年春、出した結論はアメリカには「始めは勝利する作戦もあるが、長期戦になれば必ず負ける」という結論が出ていた。まさにその通りになった。猪瀬直樹氏が『昭和16年の敗戦』で詳説している。

開戦責任は、三すくみだった。日中戦争が日米戦争になるので海軍の出番である。ところが海軍は「アメリカとの戦争は勝てない」と解っていた。陸軍も非公式に「アメリカと戦争して勝てない」と思っていた。陸軍の高官・武藤章陸軍中将は、海軍に非公式に「海軍は勝てない」と言ってくれ、と頼み、海軍・岡敬純(たかずみ)海軍少将は「正式には言えない」「戦争は総理大臣が決めること」と突っぱねた。近衛文麿総理は「陸軍が中国大陸から少しでも撤兵してくれれば」と言い、陸軍大臣の東條英機は「それは出来ない」と、開戦責任すら誰もが「言い出しっぺ」になりたくはなかった。それが始まってしまったのは情報・外交を無視した内部事情そのもので昭和天皇の思惑などより内側の軍人官僚の論理がすべてに優先した。

≪いろいろな原因があったと思う。そして事大主義も大きな要素だったに違いない。だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。何かの失敗があって撲られる。「違います、それは私ではありません」という事実を口にした瞬間、「言いわけするな」の言葉とともに、その三倍、四倍のリンチが加えられる。黙って一回撲られた方が楽なのである≫(『一下級将校の見た帝国陸軍』P303)
山本の指摘は正鵠を射ている。上官の命令は「天皇の命令で絶対だった。上官の考えに疑問があっても逆らう言葉は閉ざされていたのである。一兵卒でなく上級将校でも上官の命令は絶対だった。緻密な作戦と周到な準備を具申すれば「弱腰」とされ口を封じられた。

以下は作戦終了間際の牟田口廉也の訓示
『日本軍というのは神兵だ。神兵というのは、食わず、飲まず、弾がなくても戦うもんだ。それが皇軍だ。泣き事を言ってくるとは何事だ。弾がなくなったら手で殴れ、手がなくなったら足で蹴れ、足がなくなったら歯でかみついていけ……」

この人は狂人ではなかったのか。人間が手足をもがれたら噛みつくことはできない。当時30代と若い15軍参謀の藤原岩市に牟田口廉也は「これだけ多くの部下を殺し、武器を失ったことは司令官として腹を切ってお詫びしなければならない。貴官の腹蔵ない意見を聞きたい」と言った。藤原参謀は書類整理の手を休めず応えた。

昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません。司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりは致しません。心置きなく腹を切って下さい。今度の作戦の失敗はそれ以上の価値があります」(『抗命』P278)“切腹”を止めてくれると思った参謀は止めてくれなかった。

牟田口廉也は昭和20年、東京に戻り陸軍大学の校長になった。上官の河辺正三は大将になった。撤退を決めた佐藤幸徳は、「師団長発狂す」と精神障害者にさせられ予備役になった。そうしないと作戦失敗は上部に及ぶ。佐藤が言った「バカの4乗」は責任を問われる。山内正文は現地で病死した。柳田元三は関東軍に転出されてソ連に抑留され昭和27年現地で病死した。

不確かな情報だが、牟田口廉也を暗殺する計画もあったらしい。だが牟田口は昭和41年まで生きた。

山形県庄内町、乗慶寺、佐藤幸徳将軍追慕の碑 阿部賢一氏提供

◇参考書
『一下級将校の見た帝国陸軍』山本七平 文春文庫
『太平洋戦争がよくわかる本』太平洋戦争研究会」PHP文庫

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2016/11/19  15:03

インパール作戦 小論10  昭和史
人事と情実
◇「インパール作戦」が発令された当時のビルマ方面軍
大本営参謀本部 参謀本部総長 杉山  元元帥(陸軍士官学校12期)
南方軍総司令官        寺内 寿一元帥(陸軍士官学校11期)
ビルマ方面軍司令官      河辺 正三中将(陸軍士官学校19期)
第十五軍司令官        牟田口廉也中将(陸軍士官学校22期)
第十五師団(祭)師団長    山内 正文少将(陸軍士官学校25期)
第三一師団(烈)師団長    佐藤 幸徳少将(陸軍士官学校25期)
第三三師団(弓)師団長    柳田 元三少将(陸軍士官学校26期)

◇「インパール作戦」開始後(昭和19年5〜7月)の罷免された軍人。
南方軍総参謀副長 稲田正純少将(陸士29期)昭和18年10月解任)
第十五軍参謀長  小畑信良少将(陸士30期)昭和18年05月解任
第十五師団(祭)師団長 山内正文少将(陸士25期)昭和19年06月解任
第三一師団(烈)師団長 佐藤幸徳少将(陸士25期)昭和19年07月解任
第三三師団(弓)師団長 柳田元三少将(陸士26期)昭和19年05月更迭

◇「インパール作戦」に関わりのある陸軍軍人(昭和19年時点、階級は20年)
寺内 寿一 65歳(1879)陸士11 陸大21 山口 南方軍司令官 元帥
杉山  元 64歳(1880)陸士12 陸大22 福岡 参謀本部総長 元帥
東條 英機 60歳(1884)陸士17 陸大27 東京 総理大臣 大将
河辺 正三 58歳(1886)陸士19 陸大27 富山 ビルマ方面軍司令官 大将
飯田祥二郎 56歳(1888)陸士20 陸大27 山口 第15軍司令官 中将
牟田口廉也 56歳(1888)陸士22 陸大29 佐賀 第15軍司令官 中将
秦 彦三郎 54歳(1890)陸士24 陸大31 三重 参謀次長 中将
富永 恭次 52歳(1892)陸士25 陸大35 長崎 陸軍次官 中将
宮崎繁三郎 52歳(1892)陸士26 陸大36 岐阜 31師団 兵団長 中将
佐藤 幸徳 51歳(1893)陸士25 陸大33 山形 第31師団長 中将
田中 新一 51歳(1893)陸士25 陸大35 北海道 33軍第18師団長 中将
山内 正文 53歳(1891)陸士25 陸大36 滋賀 第15師団長 中将
柳田 元三 51歳(1893)陸士26 陸大34 長野 師団長 中将
中 永太郎 51歳(1893)陸士26 陸大36 北海道 ビルマ方面軍参謀長中将
久野村桃代 51歳(1893)陸士27 陸大37 高知 第15軍参謀長 中将
田副  登 51歳(1893)陸士26 陸大36 熊本 第5飛行師団長 中将
綾部 橘樹 50歳(1894)陸士27 陸大36 大分 南方軍参謀副長 中将
稲田 正純 48歳(1896)陸士29 陸大37 鳥取 南方軍参謀副長 中将
片倉  衷 46歳(1898)陸士31 陸大40 宮城 ビルマ方面軍参謀 少将
真田穣一郎 47歳(1897)陸士31 陸大39 北海道 参謀本部作戦課長 少将 
小畑 信良 47歳(1897)陸士30 陸大36 大阪 第15軍参謀長 少将
藤原 岩市 36歳(1908)陸士43 陸大50 兵庫 第15軍参謀 中将

ある作戦の軍人の序列を記述すると個人的にも解ることがある。それは「第一次世界大戦」が1918年・大正07年に終了していることにある。折しも「陸軍大学」卒業は“30期”、もののみごとに牟田口廉也と佐藤幸徳を分けている。つまり単純に考察すれば佐藤幸徳以後は“近代戦争”を熟知しなくても、その一端は知っていた筈と忖度・斟酌する。ヨーロッパでは「20世紀の戦争」と言えば、“第一次世界大戦”で第二次世界大戦ではない。ドイツでもフランスでも数百万人の単位で若者が戦死している。佐藤幸徳から小畑信良まで、インパール作戦が下達されるのは、47歳から51歳に集中して軍人として分別があったと勝手に解釈する。情報が乏しくても一般人よりは遥かに、近代戦争の残酷さを判っていた筈だ。それ以前の軍人は「日露戦争」の“薄氷”の勝利、すなわち「白兵・突撃」から脱却できなかった。三八式歩兵銃と手榴弾の肉弾戦だ。インパール作戦とは、これは更に個人的考察だが、情実人事の“成れの果て”だと思う。物理・科学に思いが至らない古い軍人の精神論・運命論に終始した結果である。じじつ近代的な兵器など望むべくもなかった。

この1918年は「シベリア出兵」があった。総理大臣は寺内正毅(18代)だが、山口出身だから山縣有朋の影響もあった。シベリア出兵に深く触れないが、南方軍の寺内寿一の父親だった。親子で変な戦争に関わった。多くの識者が何のための作戦だったのか疑問符をつけている。シベリア出兵で7人に一人が梅毒に罹患した。何をしに参戦したのか。

昭和10年、相沢三郎に惨殺された永田鉄山、終始東條英機を軽蔑した石原莞爾が予備役に追われていなければ、好き嫌いだけで人事を弄んだ東條英機の台頭は無かったはずだ。だから昭和19年には参謀総長にも就任、陸軍大臣・総理大臣も兼ねた。つまり自分の気に入った軍人官僚をはべらせた。この独裁者はアメリカ軍の空襲は、高射砲の角度は考えていなくてもいい、「精神力で撃ち落とす」と学生に訓示した、東京大学の学生は失笑した逸話が残っている。

戦車兵だった司馬遼太郎は、日本の好い加減な戦車について嘆いている。『歴史と風土』(P79)には「師団」について的確な評価を書いている。
≪昭和前期の日本陸軍の論理は歩兵においてもおなじであった。たとえば師団という大きな組織があった。親補官である陸軍中将を師団長とする大組織で、歩兵二個旅団を中心に騎兵、砲兵、工兵、輜重兵などの協力兵種をもつ独立の戦略単位である。ところで日本の参謀本部の作戦思想は「師団と名をつけた以上どの国の師団もみなおなじである。なぜならそれはそれは師団である」という考え方が基調になっていて、これでもって昭和14年のノモンハン事件という対ソ戦もやり、昭和十六年以後の対米戦もはじめた。ソ連や米国の師団は日本の師団と名称こそおなじだが、火力や磯動力の点で内容ほまるでちがったものであり、とくに太平洋戦争をはじめた1941年の段階ではその差が懸絶してしまっていたが、しかしそれでも日本の参謀本部の作戦は、こんにちともなればちょっと信じてもらえないかもしれないが、「師団は師団である以上万国共通」という一大フィクションのもと樹てられ、遂行されたのである。≫員数さえそろえば師団は同じで、敵国(イギリス)の武器・装備・食料を考えなかった。

イギリス軍は空輸で、弾薬・機関銃・ライフル・食糧・水・アメリカ製の缶詰・ミルク・砂糖・衣料・医薬品・ガソリン・オートバイ・自転車・ジープなど豊富に備えた。日本軍には絶対無いトイレット・ペーパーまで用意された。これでは戦っても勝てない。英軍のウインゲート空挺団のことは稿を改める。

参考書
『歴史と風土』司馬遼太郎 新潮文庫
『日本軍と日本兵』一ノ瀬俊也 講談社現代新書

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2016/11/18  9:47

インパール作戦 小論09  昭和史
白骨街道
≪決死の突撃も山頂を奪うことは出来なかった。三大隊の突撃部隊は悉く敵陣内に斃れ、九中隊長奈良中尉、十中隊長長浜中尉以下が全員戦死した。─四月二十三日、奈良中尉指揮の九中隊と、長浜中尉指揮の十中隊全員が、死を決して日没後行動を開始しました。敵の意表を衝くため、イヌの高地側面の断崖にはしごをかけてよじ登り、一挙に突撃を敢行すべく、中隊長を先頭に次から次へと崖を登ったのでした。しかし僅かなはしごで二個中隊全員が登り切るには、予定よりかなり長い時間がかかりました。全員登り切ったころには夜がしらじらと明けていたのです。早くも敵の発見するところとなり、十字砲火を浴び、戦友はバタバタと倒れていきました。奈良、長浜両中隊長は、軍刀をかざして鬼神の如く敵陣に斬り込み、壮烈な戦死を遂げられたのです。南中隊員も中隊長に遅れじと突撃し、敵の砲火の中に全員戦死しました。
 戦後、英軍の資料を見ると、コヒマの戦闘で一番苦しかったのはイヌの高地の防衛戦闘であり、その中でも三大隊の戦った弁務官宿舎附近の戦闘を、最大の激戦としております。これも、今は亡き勇敢なる戦友の武勲が、そうさせたのにほかならないのです。イヌ高地の総攻撃に失敗して、五十八連隊の戦力は大きく失われた。中隊長以下全員が死傷したのが、四個中隊もあった。その他の中隊でも、中隊長以下、数名または十数名になっていた。≫(『抗命』P156)

≪4月に入ると、食糧は輸送部隊のところにさえ来なくなった。輸送に使っていた馬の馬糧が尽き、馬はガリガリに痩せ衰えていった。山砲の弾薬の搬送も人間が行なうようになった。大砲の重い弾を一人2発を背負って、山道を前線まで歩いていくのである。そんなやり方では、前線での激しい戦闘に、弾薬が間に合うはずはなかった。そのうち傷病兵が続出し、それらの兵士を担架で後方の野戦病院へ運ぶ作業に追われるようになった。山道での担送はつらい仕事だった。やがて担ぎ手の兵隊も疲弊し、バタバタと病いに倒れていった≫(『太平洋戦争 日本の敗因4』P174)

≪敗走は悲惨をきわめた。「靖国街道」と呼ばれた道端に息もたえだえに横たわる負傷兵の眼や鼻や口にはウジ虫がうごめいていた。のびた髪の毛に集まった裏白なウジ虫で白髪のようになった兵士が、木の枝に妻子の写真をかけて、それをおがむように息絶えていた。水を飲もうと沼地に首をつっこんだ兵士がずらりと行列のまま白骨となり、頭髪だけが水草のように泥水にただよっている光景や、ばっくりあいた腿の傷に指をいれてウジをほじくりだして食う兵士、泥に埋まったまま「兵隊さん、兵隊さん、手榴弾を下さい、兵隊さん」と呼びかける兵士の姿がそこにみられた≫(『日本の歴史25』P353)

一点目の引用は、31師団、58連隊の激闘の一部だ。コヒマ高地、いわゆる三叉路高地での戦闘、ひとことで云えばこれは肉弾攻撃で玉砕した。04月18日、鹵獲の燃料が大爆発して作戦は頓挫した。二点目の引用は、インパールまでの山道の行進の実態。三点目は撤退の兵士の阿鼻叫喚の事実。ジャングルの雨季の蛆は、一人の兵士を三日で食い尽くした。

31師団の23000人の兵士は大河のチンドウィン川を渡り、剣呑なアラカン山脈を越えて来た道を戻った。昭和19年05月には、もう牛や馬も死に絶えている。多くの糧秣・武器は自分で運んだ。保存していた糧秣は奪われ補給は無し、鹵獲も底を付いた。コヒマからフミネまではジャングルの中の100q、90%の兵隊が死に“白骨街道”となった。

15軍司令部は、ビルマの軽井沢といわれるメイミョウにあった。先述したがメイミョウは、日本で云えば仙台、インパールは岐阜、コヒマは金沢。昭和19年一月元日、メイミョウの日本料亭の芸者が呼ばれ15軍司令部は、ドンチャン騒ぎになった。軍の車を使ってメイミョウの街を行進した。牟田口を始め軍の幕僚は、作戦が許可された喜びに酔いしれた。半年後、悲惨な結末になると思う軍人は居たのかどうか。居たにしても誰も自分に責任はないと思っていた。

画像は「イヌ高地」の惨状。緑豊かな地形だった。多くの日本兵は戦車でひき殺され埋められた。

『日本の歴史25』林 茂 中央公論社
『ドキュメント太平洋戦争』亀井 宏 講談社文庫

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2016/11/17  17:12

インパール作戦 小論08U  昭和史
佐藤幸徳U
映画監督で作家の高木俊朗氏は、陸軍映画報道班員として従軍している。戦後はフリーの記録映画の監督になった。『陸軍特別攻撃隊』(菊池寛賞受賞)と共に「インパール作戦」4部作では、この悲惨な戦争を知らしめた先駆者的存在。このうち第31師団(通称・烈)を取り上げた『抗命』では、師団長・佐藤幸徳を中心に著わした。それも昭和41年発行だから以後の様々な著作は、これに影響されている。NHKの「太平洋戦争日本の敗因4」もここから多く引用されている。この作戦の云わば古典的名著で知ったことが多い。驚いたことに牟田口廉也が存命中にNHKで「インパール作戦」の放送があったらしい。そこでは牟田口は言い訳ばかりだった。国立国会図書館に本人の生の声の録音も残されているという。放送は昭和40年07月のことだからVTRは無いだろう。それを見た生き残りの兵士から大いなる反論が始まったようだ。この『抗命』の著書は、翌41年だった。

総軍という「南方軍」はシンガポールにあった。司令官は、寺内寿一(陸士11期)65歳で、父親が寺内正毅という大正時代の総理大臣、典型的な軍人官僚だろう。植民地だったイギリスを簡単に篭絡したにせよ、一年半経過したビルマはイギリス軍が物理的に盛り返してきた。後述するが、それは空挺団で飛行機による物資の補給と現地のインド軍の攻勢だった。それを察知して「ビルマ方面軍」隷下に15軍が組織された。陸軍の人事と予算は陸軍省、戦術と作戦は「参謀本部」だった。

これを決めたのが陸軍省の次官・富永恭次(陸士25期)、総理大臣にして陸軍大臣の東條英機(陸士17期)のイエスマンだった。富永の詳説は避けるが昭和20年の“敵前逃亡”はよく知られている。ビルマ方面軍と15軍の人事の理由はよく解らない。陸軍の定期異動は、現場に関係ないらしい。だからいわゆる「ウ号作戦」のインパール作戦を知るのは牟田口廉也(陸士22期)だけになった。ここが悲劇の発端になった。

二・二六事件の原因の陸軍の抗争は、もうそこで牟田口と佐藤幸徳(陸士25期)が対立していた。盧溝橋事件とシンガポール攻略は牟田口と上官の河辺正三(陸士19期)が関わっていた。15師団の山内正文(陸士25期)は優秀な軍人でアメリカをよく知るが、陸軍幼年学校は出て居らず傍流、最後まで作戦には反対するが、病身で更迭される。33師団の柳田元三(陸士26期)は俄か仕立ての師団で根本的にこの作戦は反対。これも作戦撤退中の昭和19年05月後半に罷免される。

輜重の小畑信良(陸士30期)は牟田口に罷免され、南方軍の稲田正純(陸士29期)は、東條英機に遠ざけられ、佐藤と陸士で先輩・後輩だったビルマ方面軍参謀長の中(なか)永太郎(陸士26期)、やたらに配下を怒鳴りつけるビルマ方面軍参謀の片倉衷(陸士31期)は、最後の兵棋演習では、作戦の賛成に回った。何が何でも作戦を強行する牟田口廉也の勢いを止められず、寺内寿一、参謀総長・杉山元(陸士12期)、総理大臣・東條英機に逆らえない。作戦の内容・物理的な弾薬や糧秣は無視された。「ビルマのジャングルは青々としている、食料に困るなどは考えられない」が牟田口の見解だった。事実は多くが餓死した。

昭和19年05月中旬、第五野戦輸送司令官・高田清秀(生・陸士、調査中)少将が来た。糧食・弾薬補給は不可能と告げた。◇小型自動車は不足、雨季で道路事情が悪化。◇15軍の命令はでたらめ。◇車は兵力輸送に使い無い。無理を承知でも命令を出せばそれで実行しない責任を現場に押し付けられる。(『抗命 インパールU』P167)

現場を視察した秦彦三郎(陸士24期)参謀次長は、作戦成功見込み無しを大本営に報告した。総理大臣・陸軍大臣・参謀総長を兼務した東條英機は怒るのみで作戦続行を命じた。この命令で撤退が一ヶ月遅れた。ビルマのジャングルで6万人が餓死・病死したが、この東條の“悪あがき”が無ければ命を落とさずに済んだ兵士も多かったに相違ない。

陸軍の組織のことしか解らない東條が作戦を命令する参謀総長をも兼ねた。戦局悪化のリアリズムを承知しないのだから話にならない。昭和19年07月に東條内閣は崩壊するが、フィリピン・サイパン島の全滅が原因だった。ビルマの惨状は、報告されても理解できなかったのが真相だ。

中央が牟田口、右端が佐藤幸徳。左端は柳田元三。

◇参考書
『インパール作戦』磯部卓男 丸ノ内出版
『昭和史の軍人たち』秦郁彦 文春文藝ライブラリー

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2016/11/14  21:47

インパール作戦 小論08  昭和史
佐藤幸徳
自分のHPの「戦争の昭和史」で太平洋戦争のインパール作戦を、取り上げたのは、佐藤幸徳の“バカの4乗”という戦後の著書での指摘だった。新潮新書の『バカの壁』は関係ない。それも文庫には無いが、元のNHKの放送にはあったとは、何だか逆ではないかと今では思う。いろいろな昭和史・戦争の著作では「佐藤幸徳陸軍中将」に触れる部分はかなり多いが、多くがその“抗命”を評価するものの、根回し無しの無断撤退で犠牲者も多かったとの指摘もある。このブログの記述は、その詳しい撤退作戦の実態を紹介するのが目的ではないので、分析の指摘は割愛する。戦後の回想でも、あくまで牟田口廉也の拙劣な作戦を糾弾した指揮官の事実を知りたかった。当時、独断撤退・命令拒否は抗命であって軍人としてはしてはならぬこと、自分で軍法会議も辞さない覚悟に大いに興味を持ったのが筆者の偽らざるところ。

今では、佐藤幸徳よりも31師団の「歩兵団」長・宮崎繁三郎少将のほうが名将の誉れが高く、豊田穣によって一冊の本にもなっている。佐藤もいわゆる陸軍の対立における統制派、皇道派では、前者の立場、牟田口の方が、皇道派だったらしいが、なぜか統制派の長に祭り上げられた東條英機に受けが悪かったのは佐藤幸徳。東條は、自分に逆らわない佐藤賢了や富永恭次を重用した。戦争最前線に常に居た佐藤幸徳は戦う兵士の武器・糧秣が念頭にあるのは当然だ。佐藤師団長は、参謀本部勤務などより部隊勤務が長く、豪放磊落で上位には忖度はなくきちんとモノを言う性格だったらしい。

佐藤は陸軍幼年学校、陸士卒、陸大は大正10年(1921)に卒業、参謀本部で「戦史課」の経験もある。ここが戦争の事実と理想を学んだとも思われる。だが軍人は、所詮は「承詔必謹」、インパール作戦にはあくまで反対だが、作戦決定には従わざるを得ない。だから準備命令にも従った。でもそれは作戦開始後も補給・兵站が確実なことを信頼したからに相違ない。じじつ31師団は、コヒマまで侵攻してみせた。だがもうそこでは04月上旬で20日間の糧秣は尽きている。再三、物資の補給を打電したが完全に“空手形”だったのは前述の通り。≪佐藤師団長は作戦開始前、15軍司令部に「俺は命令されたことは必ず完遂する決心である。その代りコヒマに出てからの補給を実現してもらいたい」と強く申し入れていた。≫(『太平洋戦争 下』P151)

コヒマの壮絶な戦いは、いわゆる「三叉路高地の戦い」として多くの著書で解っている。ヤギ・ウマ・ウシ・サル・イヌと名付けたイギリス・インド軍の陣地で戦った。ここでの戦いは、最後は、今で云う玉砕の中隊が多かった。最後のイヌ高地は、5月に入り断念した。04月17日・18日にイギリス軍の補給が届いて、日本軍は退却を余儀なくされた。鹵獲のガソリンのドラム缶が爆発、日本軍撤退の原因になった。鹵獲の消失を不運というネットの記事もある。

先に宮崎支隊のインパール方面への転用に関する軍命令を拒否して以来、佐藤中将は師団長独自の考えで行動しようとすでに腹を決めていた。五月中、下旬の急迫した戦況に処して、師団長の思索は、ただどうすれば師団の壊滅を避け、戦力の温存が図れるかの一事に集中されていた。師団の戦力の保持は五月末が限度である。師団長は五月中旬三差路高地の失陥後、後退の決意を固めたようである。その企図をいつ軍に報告するか、過早に電報すれば軍から止められることば必至である。師団長は、後退行動開始の一遍間前すなわち五月二四、五日ごろと内定した。(注佐藤中将の回想)
(『インパール作戦 下』P96)

コヒマから撤退を開始した烈(31師団)兵団は後方陣地ウクルルに後退、コヒマにかなりの糧秣を残しておいたが、他の師団にとられて無かった。師団単位の横の連絡は無かったことになる。さらに50キロ南方のフミネに戻ることにした。このとき第15軍参謀長の久野村桃代(とうだい)中将(1893・陸士27期)がやってきた。久野村は、小畑信義が更迭されたあとの第15軍参謀長。佐藤は会う必要はないと断った。いわゆる子供の遣いと同じで牟田口の意向を言うのみだった。久野村は佐藤と同年齢だが陸軍大学では後輩、こうなると素人でも判ることだ。佐藤は、作戦遂行を完全に断った。

中央が佐藤幸徳師団長、右へ宮崎繁三郎兵団長、福永転(うたた)第58連隊長。

◇参考書
『インパール作戦 下』陸戦史研究普及会 原書房
『太平洋線の現場がわかる本』相馬栽 星雲社

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2016/11/10  18:09

また11月10日  身辺些事
定年までの勤務先は秋葉原、通勤をしなくてもいい年齢になると首都圏の交通事情は途端に疎くなる。また覚えようとしない。何がびっくりしたかと云えば東海道線の東京駅発着が無くなったこと。神奈川県から行けば高崎線直通とかで東京の次は上野になる。秋葉原に停車しないのは如何なる計算か。

昔、中央競馬の中山競馬場、府中の東京競馬場に入り浸っていたころ、総武線西船橋から南武線府中本町まで武蔵野線が出来た。秋葉原からつくばエクスプレスもできた。多くの私鉄も東京メトロ、都営地下鉄と繋がって湘南に住む老人には首都圏への交通事情は縁遠いものになった。ひとつ知っていることは、品川からの以西の京浜急行と上野から以東の京成電鉄は、レールが広軌道で、都営地下鉄で繋がったこと。

昨日は義弟の納骨・一回忌で武蔵野線吉川美南まで行った。新松戸からの乗り換えで拙宅から三時間。駅から墓地までの距離は杖突老人には堪えた。自分の死去後は妹と義弟に始末してもらおうと考えていたら義弟に先に死なれた。諸行無常、生者必衰の理あり、神は無常だ。

 高倉健森繁久彌森光子吾が父も逝きし十一月十日

本日11月10日は筆者の実父の命日、昭和20年のこと。これは短歌としては単なる報告で短歌会での評判は悪かった。添付の画像は、ブログで何度も使用したが、二等兵の実父の上官が部下の兵隊の戦病死を、戦後知らせてくれたものもの。以下は通称らしい。

肝第三三二二部隊第二中隊長 陸軍大尉 渡邊辰彌

正確には「独立歩兵第二二二部隊第二中隊」らしいが生き残った軍人の戦史はない。類推するとネットには「独立歩兵第二二二大隊第四中隊会 千葉県 独立歩兵第8旅団 肝3322 南支」とあるからこれが該当する。中隊は100人規模で指揮官は陸軍中尉、大尉ならば大隊で500人規模の筈。おそらく中尉も戦死していたのではないかと思う。

南支は今の中国山西省か広東省。尉官クラスの軍人は、戦争最前線の指揮官、一般市民の兵士の生死を左右する現場の責任者だった。二万人規模を率いる師団長は多くが評価されている。いけないのはその上のいわゆる司令官だった。当時の司令官は、おそまつな政略に左右される中将クラスだから物理的な一般兵士の生死は後回しにして組織の存続に終始した。そういう連中は生き残って手厚い軍人恩給で暮らした。戦争の責任を痛感、自決した軍人もいるがそれは僅かだ。

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