2017/4/6  22:38

エッセイの昭和09  昭和史
対談 天皇日本史』(山崎正和 文藝春秋 昭和49年11月刊行 四六判、9ポイント43字×17行×248頁)は、著者が39歳の作品。
柔らかい個人主義の誕生』(山崎正和 中央公論社 昭和59年05月刊行 四六判 9ポイント43字×15行×214頁)。

著者は昭和09年生、現在83歳。京都大学文学部卒、劇作家・評論家・大阪大学教授・文化功労者。前記・後記いずれも活版印刷で印刷されていて、後記の著書は正直に言って買っただけの本。当時は筆者にとり、旧仮名表記なので「消費社会の美学」のサブタイトルにしても難解で、目次を見ただけの本だった。前記の本は、繰り返し読んだが、今、司馬遼太郎との対談は、今更ながら歴代の主な天皇の再確認で興味深い。著者の39歳の時だから、取り上げられた9人以外の天皇はおろかいわゆる“天皇制”に通じていたと思う。翌年昭和50年は昭和天皇が訪米している。

司馬遼太郎の指摘は、大久保利通が暗殺されていなければ、陸軍の山縣有朋が重きをなす事はなかった筈で、日露戦争後の日本の体制は違ったものになっていたと指摘する。つまり政治家と軍人の差異だ。つまり近代化の普遍性を云う大久保が暗殺されたことで、小粒の山縣有朋が台頭、軍部の専横を招いたとの指摘。司馬遼太郎は、晩年大日本帝国陸軍の「統帥権」を追及して止まなかった。終戦間際の本土決戦という無謀な作戦で満洲から日本本土に引き上げていて結論として“九死に一生”を得ていたのが事実。

昭和49年は、筆者の私には06月に30歳代に突入した頃で、江東区深川の小さな公団住宅に住んで居た。印刷現場は、写真植字が普及しつつあったが、まだ活版印刷が主流。個人向けのワープロが普及してくるのは昭和50年代半ばのこと。出版は百科事典・文学全集・美術全集などが花盛り。これらも活版印刷が主体。印刷会社は、正規の社員、臨時工、その仕事だけを引き受ける“投げ”もあった。文学全集などを製版すれば、現場は膨大な鉛の原版が生まれる。重版なら複製版も必要、一定期間その仕事だけを引き受ける「流れの職人」が居た。それを意味も知らず“投げ”と呼んでいた。建設現場の大工さんの感覚か。彼らは、仕事はできるが、酒とギャンブルが好きだった。

03月にルバング島で小野田寛郎少尉が発見され帰国。08月に米ニクソンが辞任。10月には立花隆の「田中金脈の研究」が出てほどなく辞任に追い込まれた。衝撃的だったのは08月の東京丸ノ内の「三菱重工爆破事件」で白昼、多くの人間が巻きまれた。当時は、再び生まれ故郷の神奈川県平塚市に居住することになるとは思わなかったが、平塚市の県営住宅で「ピアノ殺人事件」が起きた。騒音に敏感だったとは言え次女・長女・母親の順で三人を刃物で殺害した事件は記憶に残る。その死刑囚はまだ執行されていないらしい。

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