2019/1/31  17:31

インパール 慰霊と和解の旅路16  昭和史
マクドナルド昭子氏近況02

最近では戦後生まれの三世代が接触して来る場合が増えており、ドキュメンタリー映像を作りたいとの要望が数件生まれています。 又いつかは大きなスケールのビルマ戦とインパール作戦、特にコヒマの激戦に関しての国際映画をプロデュースする企画を立てたいとも希望しています。日本の公平なる立場を表現するには国際映画にしなくては効果がありません。先ず、英語で脚本を作るのが先行するでしょうね。

長くなりましたが希望は豊富にあります。 どれも日本の英霊達や戦争体験した私の父達の苦労を労い、名誉を復活させたいと言う夢があります。先立つものは…とかでいつも自費で活動するには限界があり、本音は非常に疲れ果てているのが現状です。愛国心を持ち日本の国の名誉の為とビルマ作戦協会の会長となって10年が経ちました。日本の国からは何も助成金が出ません。 しかも私は戦没者の遺骨収集の活動にも協力やアドバイスを行なっています。

体力、精神力、経済力もう限界に近く、今年もコヒマ、インパール方面とデリーにも再訪するようにと要請があります。どうなることやらです。
                    ◇◇◇
添付は「サピオ」2017・09月号
1982生の評論家・古谷経衡(ふるやつねひら)は、若手の評論家。韓国に行ったこともない人が韓国経済崩壊を言い、チベットに行ったこともない人がチベットの悲劇を言い、『失敗の本質』を座右の書とする人がインパールを地図でしか知らない政治家の“座学”と非難する。コヒマへ“道なき道”を四駆の車で訪問した現実をルポルタージュした。放置されたままの日本人兵士が眠るコヒマの現地の在り様を仔細に記述した。筆者などは明らかに座学そのものだ。

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2019/1/30  15:35

インパール 慰霊と和解の旅路15  昭和史
マクドナルド昭子氏近況

近況ですが、NHKの協力活動で相当疲弊してしまい、昨年一年(1918)は殆ど休養が多かった気がします。にも関わらず、色々な日・英・ミャンマー、ASEANの公的機関からイベントやレセプションの招待を受ける機会が多く、ビルマ作戦協会のPRも行なっています。秋に海上自衛隊の練習艦「鹿島」と軍艦が世界周遊航海をしていて、曳航のポーツマス軍港にも寄港しました。 その記念行事に正式招待を受け、多くの多国籍海軍のキャプテンなどとも出会え、歓談する機会も得られました。日英の安全保障関係では非常に親密な関係が築かれており、日英同盟の復活のような雰囲気があり、非常に友好関係が深くなっています。日英戦争和解の達成団体として非常にこの関係を改善した意義は大きいものと改めて実感する思いがあります。

現在、日本の山形県とインパール・コヒマ地域を農林産業の分野で繋げたいと言う考えがあります。インパール、マニプール州では昨年夏、農科学産業専門のカレッジが創設され、理事会全員一致で私は外国の顧問に選出されてしまいました。コヒマ、ナガランド州に関しても、そしてアッサム地域も含めて、中国の「一帯一路」世界戦略の向こうを張り、この三洲に対して日本とASEANが協力して、インフラ整備を行い、経済発展を狙う計画を主張しているところです。 これに英国が加われば理想的な状態になるでしょう。

この考えを現地で発表していましたが、シンガポールからアッサム出身の学者がコンタクトして来ました。彼も私と全く同見解を持っていて、下記の本を年末に出版しました。このバックカバーの推薦文の一つに私のコメントも記載されています。

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2019/1/30  9:40

インパール 慰霊と和解の旅路14  昭和史
NHK「慰霊と和解の旅路」制作と撮影

インド訪問をした前後一年間はNHKの番組制作でビジネスを休止していました。あの制作に関わる前は、承諾するのにかなり悩みました。左傾化しているNHK放送局の運営者幹部の影響がある事を懸念していましたので、色々と条件をつけました。

第一に、戦争反対論、戦争罪悪論、日本の戦争を単純な表現で証言者達から「戦争反対」、「戦争はしてはいけません」。等を言わせるようなシナリオ又はインタビューをしないこと。事実をありのままに表現させること。インパール作戦は軍の決裁権のある戦略参謀本部の幹部将軍達の責任であり、軍の仕組みが現在の大企業のあり方に共通している点を視聴者達大衆が、気がつくようにして欲しいこと。日本社会の組織論を軍組織と照らし合せて観賞できるようにもして欲しいこと。

番組を通して何を学ぶかは受け手次第で判断が出来るように、事実を偏向歪曲しないこと、等です。実際に「戦慄 インパール作戦」の方は、インテリの層から、今の日本社会組織や会社組織、ブッラク企業に酷似しているとの反響が得られました。いつの世も人間の心理は変わらないものなのだろうと深く考えてしまいます。

NHKBS放送のタイトル
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2019/1/29  16:14

インパール 慰霊と和解の旅路13  昭和史
浦山泰二中尉02

●ビルマのジャングル地帯でインパールに向かう途中、開かれた高原を通ら無くてはならず、英軍の低空飛行で機銃射撃があり、何十人と倒れました。 父は弾が身体の両側をかすめ、耳元にも飛んでくる弾にも当たらなかった不思議を語っています。隣の戦友達は弾に当たってバタバタと倒れるのにです。
●白骨街道でコレラにかかった時は、木陰で休もうと軍刀を土に建て、木に寄りかかり意識が朦朧としていた時に、上級士官であった軍服を見て、隣の連隊が野戦病院まで担いで、ペニシリンを打って助かった。
●マラリアは殆どが狂い死に、崖から飛び降りて自害するケースが殆どだったそうです。父は現地の激辛カレーを食べて大熱を出し、心臓が強かった為、マラリア菌が殺菌されて生き抜けたそうです。
●ビルマへの撤退路でチンドウイン川を渡る時、多くの兵士達は病気と飢餓で体力は消耗、殆どが濁流に流されて溺れ死にするか、河岸で行倒れそのまま亡くなったケースが山程だったそうです。 運動神経が発達していた父は川で溺れていた多くの兵隊を助けたそうです。 運良く日本に帰還された方々は父に毎年お酒が送られて年賀状には命の恩人と書かれてあったのを思い出します。
                  ◇◇◇
筆者註(ウィキペディア「インパール作戦」引用)
≪「この作戦が如何に無謀なものか、場所を内地に置き換えて見ると良く理解できる。インパ−ルを岐阜と仮定した場合、コヒマは金沢に該当する。第31師団は、軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(長野の西40km、2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は、甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m・駒ヶ岳2966m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は、小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg ─60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えば凡その想像は付く。後方の兵站基地はインドウ(イラワジ河上流)、ウントウ、イェウ(ウントウの南130km)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。このように移動手段がもっぱら徒歩だった。≫

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2019/1/29  12:52

インパール 慰霊と和解の旅路12  昭和史
浦山泰二中尉

この写真は2015年、世界中で戦後70周年記念行事があり、東京の英国大使館から招待を受け、イギリスから、私とRoy Welland(ロイ・ウェランド)氏(実際にコヒマのテニスコート激戦地で生還した。)を同行して、老人養護施設で暮らしている父を連れ出して、もう一人大阪にお住まいだった木下幹男氏(元泰緬鉄道の鉄道技術員)を私が誘ってこの3名とが画期的な握手を交わしました。このニュースは英米共に海外のニュースとして沢山の新聞に記事になりました。

1944年5月31日、コヒマ西方で58連隊が守備していた5120高地が英印第7師団の猛攻を受け、陣地にて奮戦状態となった。この時玉砕を決意した守備隊長白石道康大佐の告別電により、佐藤はコヒマ放棄と主力の撤退を独自に決断し、病兵1500名の後送を指示、部下の宮崎繁三郎少将に遅滞戦闘を命じた。(ウィキペディアより)

私の父、浦山泰二31(烈)師団、31連隊、第2大隊山砲獣医少尉(後中尉に昇格)はこの5120高地付近のメレマと言う丘から組み立て式山砲で向かい側敵軍陣地に向けて大砲を撃っていました。父はいわゆる戦闘と言っても銃撃戦で相手との距離が近い場所では無かったのですが、しかしながら空からの銃撃、四方からの大砲撃、空爆で戦友の殆どを失っていますので、闘わなかった訳ではありません。上述してあります通り、白石道康大佐に玉砕決意で父はコヒマ中心地に向かう時でした、撤退命令を受けたのは。父はこのように紙一重で九死に一生を得て何度も命が助かっています。

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2019/1/28  17:15

インパール 慰霊と和解の旅路11  昭和史
コヒマ08 終 山間部

マクドナルド昭子氏から提供された、日本とイギリスの激戦地コヒマの画像は、これにて終ります。次回よりビルマ方面軍・第15軍・31師団で生還された浦山泰二中尉と、今の日英和解運動に力を注いでおられる「ビルマ作戦協会会長」の昭子氏の活動報告を掲載します。

この植物は日本軍が日本から持って来て植えていたものだそうです。コヒマの食べ物は非常に辛いので胃腸消化の効果があるそうです。森の中の石塔はお墓ではなく、亡くなられた人の記念碑、慰霊碑だそうです。

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2019/1/28  9:05

インパール 慰霊と和解の旅路10  昭和史
コヒマ07 佐藤幸徳中将の作戦本部

この小屋は佐藤幸徳中将(第15軍・31師団司令官)の作戦本部です。作戦本部は二ヶ所あったと聞きましたが、現存している方に案内して貰えました。 こちらの方は副本部だそうで規模は小さいのだそうです。

日本軍は、コヒマの中心地にある英軍の拠点を攻略することは出来ませんでしたが、三方を囲む周辺の山間部と高台、山の頂上等を制覇しています。激闘を繰り返したのは、コヒマの中心地にある英軍の駐屯地と言うか、日本軍の攻撃移動がコヒマ方面まで及ぶと予想されなかった為に守備は殆ど手薄状態でした。ご存知だと思いますが、インパールも日本軍は占拠出来なかったのです。インパールとディマプールを攻略することによって、チャンドラ・ボースはインド国民を独立宣言で奮い立たせ、英国の全てを追い出す計画だったそうです。

実際に、このビルマ戦、インパール作戦、コヒマに激戦に非常に詳しい戦争史専門の、Robert Lyman氏は(私の友人)は、NHKインタビューでもあの作戦がもし成功していたら、インドを支配していた大英帝国としての歴史はとんでもない事になってしまっただろう。 コヒマの戦いは英国陸軍史上でウォータルの戦いを上回る最大なる戦いであったこと。 東のレーニングラード包囲戦と言われた戦争の動向を好転する転換期地点であった。 コヒマの戦いの重要性を本にした内容が多く出ています。

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2019/1/27  16:11

インパール 慰霊と和解の旅路9  日本史
コヒマ06 山間部

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2019/1/26  20:58

インパール 慰霊と和解の旅路8  昭和史
コヒマ05 展望台

各村に展望台になる石垣で出来て円形の台があります。集落として此処で会議が行われたり、多民族からの襲撃に備えたりする警備の塔でもあります。此処を日本軍も展望台に利用したそうです。石垣の展望台を追加します。

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2019/1/22  20:00

インパール 慰霊と和解の旅路7  昭和史
コヒマ04 山間部
「インパール慰霊と和解の旅路」は18回を予定。
12〜13回が昭子氏の父・浦山泰二中尉のこと。以後、昭子氏の活動・主義・主張を掲載します。
                    ◇◇◇

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◇日本語学校
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◇昭子氏を警護する兵と養蚕を生業とする家
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