2019/2/28  23:21

赤坂の坂2  身辺些事
陸軍の若手将校がクーデターを計画、蹶起したのが二・二六事件だがもう80数年前のことで関係者も死没、風化している。筆者が辛うじて暗記していたのが「アンクリイソムラ」。首謀者の陸軍将校の4人だった。アン─安藤輝三、クリ─栗原安秀、イソ─磯村浅一、ムラ─村中孝次。何れも将来、陸軍大学に学び陸軍の指導者になる陸軍士官学校を卒業した陸軍大尉クラスの将校だった。

昭和11年頃は、“昭和恐慌”の真っ盛りで、都会の一部を除けば、日本列島すべからく貧民だった。この若手将校は地方出身者が多く正義感が溢れ、いわゆる「皇道派」の急進派だった。餓死する東北農民が増えるのは“君側の奸”に原因があると高級将校に吹き込まれた。天皇の取り巻きの政治家、財閥、言論人を排除して「昭和維新」を敢行することだった。

総理大臣・岡田啓介は難を免れたが、大蔵大臣・高橋是清、内大臣・齋藤実、総理秘書官・松尾伝蔵、教育総監・渡辺錠太郎が殺害された。当時30代だった昭和天皇が激怒したのは内大臣・齋藤実殺害と共に侍従長だった鈴木貫太郎が襲撃されたこと。夫人の鈴木たかは昭和天皇の幼少時の乳母で、鈴木夫妻に育てられている。天皇は当時も政治に口出しできない立場だったが鎮圧を命じて三日間の事件は終息した。鈴木は一命を取りとめた。

赤坂の坂を探訪中、薬研坂の近くに高橋是清記念公園があって再訪しようと思う。三分坂の頂上がTBSテレビの裏手になる。一ツ木通りから赤坂通に曲がるあたりにビルが林立する。複合施設に「赤坂サカス」がある。サカスは「桜を咲かす」から来ているらしい。なおローマ字表記「akasaka Sacas」は逆から読むと「坂・坂・坂・坂」になるらしい。ツマラナイ語呂合わせだ。

添付は円通寺坂。

クリックすると元のサイズで表示します
0

2019/2/27  23:42

赤坂の坂  身辺些事
本年04月号の短歌誌の文字データ作成の目処が付いたので三日前に東京港区の赤坂を探訪した。これも短歌誌作成の一環で各欄のカット画像を6点ゲットするため。目的地の赤坂は、江戸幕府開府の頃の江戸城の南西に当たり、昔の江戸村は、まさに坂の多い地域。新橋から赤坂見附へ、帰路は赤坂5丁目からタクシーで新橋まで移動。赤坂へ来たのは足腰の丈夫な20代の頃だから記憶は薄れていた。

往復のタクシーの運転手は、この赤坂近辺に警官が目立ったので筆者に、その訳を訊いてきた。皇居周辺のどこかで今日は「天皇在位30年記念」が行われている筈と答えた。夜のニュースでそれは濠端の国立劇場なのを知った。現天皇も84歳、随分衰えている感じがした。

赤坂見附交差蕗から西へ行き東宮御所のある赤坂御用地に沿う片側4車線の国道がいわゆる246、青山通り。赤坂御用地に弾正坂の横が豊川稲荷東京別院、246の向こう側は羊羹の「虎屋」。不覚にも赤坂御用地沿う歩道には横断歩道が無かった。杖突老人の筆者は休み休み歩道橋を越えた。歩道橋を降りたところが薬研坂の入口。大胆にも246に停車していた無人のベンツは違法駐車のレッテルが貼られていた。

昨日は2月26日、二・二六事件のあった日。83年前のことだから関係者は100歳を超えている。この薬研坂入口の少し行ったところが二・二六事件で命を落とした元総理の高橋是清を記念した公園があるのを帰宅してから気付いた。この事件のことは過去2回記述した。文藝春秋03月号に新資料発掘の記事が出ている。解説の半藤一利氏は東大卒の江戸っ子。長州(山口県)出身の帝国陸軍と序に今の安倍晋三総理が大嫌いな人物。添付は三分坂(さんぷんざか)と報土寺。雷電為右衛門の墓がある。

クリックすると元のサイズで表示します
0

2019/2/21  21:13

揃いました  身辺些事
寒い季節は猛暑より強い筈だったが、寒さにも弱くなった。とりわけ2年前から肺気腫の診断が下ってから肺機能が確実に衰えたように思う。朝、起きてからポストの新聞を取りにゆくとき冷たい空気を吸うとゴホン、ゴホンと咳き込む。空気を吸う力も吐く力も年々衰微していると大病院の医師のご託宣。

このまま推移すればいよいよ酸素ボンベを引き摺る老人の仲間入り。晩年の植木等、桂歌丸がそうだった。齢をとると新聞の社会面の訃報欄が気になるが、有名人の訃報を悲しんでばかりは居られない。本日NHKの「ゴゴナマ」の出演者宝田明は84歳、現役のミュージカル俳優だ。80歳代の俳優・歌手が元気なのは嬉しい。

短歌結社も高齢化の時代、どんなに歴史があっても短歌の月刊誌を発行するには発行人の体力と財政面の裏付けが必要。所属短歌結社より歴史がある短歌会が廃刊になった。そこで活躍されて居た多くの歌人が冬雷短歌会に入会された。幸か不幸か文字データ作成の筆者の仕事が増えた。メール投稿に無縁な会員の三人の選者への文字原稿が本日揃いました。来週半ばまでブログを休みます。添付は本日午後撮影のマンサク。

蔵書63 講談社現代新書04

◇0445『いかに生きるか』森有正 昭和51年
◇0447『日本人の仲間意識』米山俊直 昭和51年
◇0465『「無常」の構造』磯部忠正 昭和51年
◇0478『日本文化の死角』小松左京 昭和52年
◇0483『日本人<殻なし卵>の自画像』森常治 昭和52年
◇0490『知的創造のヒント』外山滋比古 昭和52年
◇0495『「間」の日本文化』剣持武彦 昭和53年
◇0500『タテ社会の力学』中根千枝 昭和53年
◇0505『日本語の表情』板坂元 昭和53年
◇0507『家族の文化構造』川本彰 昭和53年
◇0512『戦後の日本』加藤周一+R・P・ドーア 昭和53年
◇0560『ユニークな日本人』G・クラーク・竹村健一 昭和54年
◇0597『日本人論の系譜』南博 昭和55年
◇0641『まなざしの人間関係』井上忠司 昭和57年
◇0852『ハイテク情報を読みこなす』森谷正規 昭和62年
◇0865『テレコム社会』井上宏 昭和62年
◇0874『はじめてのクラシック』黒田恭一 昭和62年
◇0946『クラシックの名曲・名盤』宇野功芳 1989年
◇1543『日本の軍事システム─自衛隊装備の問題点』江畑謙介 2001年
◇1599『戦争の日本近現代史』加藤陽子 2002年

クリックすると元のサイズで表示します
0

2019/2/18  22:52

団塊の世代  昭和史
昨日、故堺屋太一氏の葬儀があった。政財界・文化人の多くの参列者があったようだ。通夜には総理大臣も参列している。通産官僚時代には昭和45年の「大阪万博」のプロデュースもしている。退官のあとは旺盛な知識で作家として多くの作品を残した。筆者には『日本とは何か』(1994年・講談社文庫)は繰り返し読んだ。自然横溢な四季という気候風土、島国という地理的風土がもたらした稲作農耕を淵源とする国民性を豊富な史料で解説。今も「日本人論」のバイブルとしている。堺屋氏と言えば「団塊の世代」の名付け親。昭和21年ごろ多くの生き残り兵士が帰国したからだが、昭和22年〜24年生の人口が突出していることを指摘した。

この団塊世代は多くの作家・文化人を輩出している。宮本輝・ノーベル文学賞候補の村上春樹、北野武、鳩山兄弟など。先頃亡くなった橋本治は23年生、“大”のつく流行作家ではなかったが、日本の古典に通暁している知識人だった。「止めてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている、男東大どこへ行く」のポスターが有名。同じく昭和23年生の連城三紀彦(2013年没)も隠れたファンの多い美文の直木賞作家だった。連城は7冊の文庫本を所持。「宵待草夜情」を読み返していた。なぜか明治時代・大正時代に詳しく抒情あふれるものでミステリー作家の域を超えていた。太平洋戦争で亡くなった才能のある若者の生まれ変わりとも思えて、その才能は勿体ない。

蔵書63 講談社現代新書03

◇0352『「気」の構造』赤塚行雄 昭和49年
◇0355『官僚の構造』藤原弘達 昭和49年
◇0363『種田山頭火─漂泊の俳人』金子兜汰 昭和49年
◇0367『家族とは何か』青井和夫 昭和49年
◇0372『日本語のこころ』渡辺昇一 昭和49年
◇0378『たべものと日本人』河野友美 昭和49年
◇0382『塩の道』平島裕正 昭和50年
◇0385『精神の危機─病める現代人に向けて』平井富雄 昭和50年
◇0387『日本人の周辺』加藤秀敏 昭和50年
◇0396『「うき世の」思想─日本人の人生観』橋本峰雄 昭和50年
◇0401『ふるさと考』松永伍一 昭和50年
◇0403『日本人の発想』神島二郎 昭和50年
◇0406『日本的思考の原型─民俗学の視角』高取正男 昭和50年
◇0408『動詞人間学』作田啓一+多田道太郎 昭和50年
◇0410『日本人の言語表現』金田一春彦 昭和50年
◇0413『超越者の思想─神と人との出会い』会田雄次 昭和50年
◇0424『律令制の虚実』村井康彦 昭和51年
◇0432『日本近代二百年の構造』謝世輝 昭和50年
◇0436『知的生活の方法』渡辺昇一 昭和51年
◇0438『日本人の心情心理』荒木博之 昭和51年

クリックすると元のサイズで表示します
0

2019/2/16  23:09

戦争未亡人  昭和史
新元号が愈々いわゆるカウントダウンの段階。「平成」は30年だ。ざっくばらんに男女の寿命を90年とすれば、一世代は30年となる。面倒なので今年を昭和94年にすれば30年前は、筆者は45歳。母親を養育し年間100万円のローン支払いに明け暮れていた。60年前は15歳で昭和34年。その昭和34年は上京後3年目で中学3年生だった。丁度今上天皇が挙式した年。

このブログに書き込みをしてくれるE氏は36年生というから昭和56年頃が東海大学の学生だったことになる。筆者とは17歳違い。そろそろ定年を意識する年代だろう。筆者の昭和36年は、定時制高校2年生、柏戸・大鵬が横綱昇進、日活の人気俳優・赤木圭一郎が事故死した。映画・演歌が全盛だった。

E氏が指摘した金目駅交差点脇の「宮田屋」は(いき出版の画像)雑貨屋で戦後からずっと営業していたように思う。当時はコンビニもスーパーも無い時代、魚は魚屋、肉は肉屋、雑貨は雑貨屋、文具は文具屋、八百屋と米屋は無かった。何故なら昔の中郡金目村の大半は専業農家だった。

E氏の言う「宮田屋」の女将さんは多分「キヨ」さんと云い、筆者の母親と小学校の同級生。キヨさんは倅に先立たれたあと店を畳んでどこかの施設に入所したらしい。生きていれば大正7年生、101歳になる。共通するのは戦争未亡人であること。母親のクラス会名簿をみると男性の三分の一は戦死。幕末から明治時代に排出したエリート軍人が昭和の戦争を起こし、大正時代に生を享けた者がいちばんの犠牲者だった。司馬遼太郎をして「私は不覚にも大正時代に生まれてしまった」と嘆いた。

筆者の母親は再婚して義父が個人破産。貧乏になる為に再婚したようなもの。キヨさんは亡き亭主の弟と再婚、精神薄弱児が生まれたと聴いている。同級生の男性は無論、女性の仲間も多くが戦争被害者だ。一時代が過ぎたので母親もキヨさんも、この告白を許してくれるだろう。当時「戦争反対」などと言ったら非国民と罵られた時代。徴兵を拒否できない仕組みになっていた。そうした筆者の上の世代を安易に批判するのは、筆者の一回り下の世代。今の価値感の正義・理想など通用しない時代だった。

戦前の日本は、70%が農林漁民、90%が貧民だったことを知るべき。貧しければ正義も理想も人権も無い。貧しさから逃れるための追い込まれた戦争だった。だが始めたら終わりがある筈。何故引き際を考えなかったのか。軍人・政治家・言論メディアは責任が重い。為政者に騙された国民にも聊かの責任がある。だがいま戦争を“絶対悪”と切り捨てて戦前を批判することほど容易いことはない。人間が選ぶことのできない時代の運命を批判するのは長閑で傲慢でしかない。

クリックすると元のサイズで表示します
3

2019/2/13  23:43

続 新元号  身辺世相
一月元日に04月01日発表の新元号は、頭文字が安倍晋三首相の“ABE”なのではないかと予言した。すなわち過去に使われたものでも書きやすく、覚えやすいものが基本。A─安、B─文、E─永・延、G─元、K─久等々。明治─M、大正─T、昭和─S、平成─Hは基本的に無い。

だがここに来て韓国の大統領、国会議長の“”なので多分無い。「安文」などとしたらむこう100年は、韓国は非難する。この国は「反日・卑日・侮日」が国是。あまり関わらない方がいい。韓国経済はいま崩壊寸前らしい。経済の中身を吟味しないで「最低賃金」を設定するという暴挙。財閥さえも若者を採用できない体たらく。

新元号は小学生でも書けるA─安、E─永、G─元、K─久あたりか。

蔵書63 講談社現代新書02
◇0275『好奇心と日本人─多重構造社会の理論』昭和47年
◇0276『人間の思想の歩み』山崎正一 昭和47年
◇0278『日本文化の構造』梅棹忠夫・多田道太郎編 昭和47年
◇0280『日本文化と世界』梅棹忠夫・多田道太郎編 昭和47年
◇0283『日本文化の表情』梅棹忠夫・多田道太郎編 昭和47年
◇0284『魏志倭人伝─東洋史上の古代日本』山尾幸久 昭和47年
◇0293『日本人の意識構造─風土・歴史・社会』会田雄次 1972年
◇0294『卑弥呼の謎』安本美典 昭和47年
◇0297『本はどう読むか』清水幾太郎 昭和47年
◇0299『生きるということ』水上勉 昭和47年
◇0300『適応の条件─日本的連続の思考』中根千枝 昭和47年
◇0301『哲学の復興』梅原猛 昭和47年
◇0302『神と祭と日本人』牧田茂 昭和47年
◇0320『日本人の行動様式』荒木博之 昭和48年
◇0324『美について』今道友信 昭和48年
◇0330『須弥山と極楽─仏教の宇宙観』定方晟 昭和48年
◇0337『日本の女帝─古代日本の光と影』上田正昭 昭和48年
◇0342『日本の地名』藤岡謙二郎 昭和49年
◇0343『現代若者気質』加賀乙彦 昭和49年
◇0351『古代日本の都─歴代遷都の謎』八木充 昭和49年

クリックすると元のサイズで表示します
0

2019/2/7  22:36

落合陽一  身辺世相
最近何かとメディアを賑わしているのがAI技術。人工知能という意味。日本では少子高齢化とか介護とかで人間にとって代わるものとして期待されているらしい。日本から始めてアメリカ、ドイツなどの先端技術を盗み取って?兵器製造、宇宙産業を急速に伸ばしたのが中国。「一帯一路」なる構想で地球の半分くらいの覇権を握りたいのが中国。中国の急成長は「スパイ防止法」すらない政治小国・経済大国・日本のお蔭だろう。

BSの「深層ニュース」とか有働由美子の「ニュースゼロ」に出演の頻度を増しているのが落合陽一。筑波大学出身でAIなどハイテクノロジーに詳しい。この人物と気鋭の政治評論家!三浦瑠璃の対談を読んでいると横文字が多く最新の学問と英会話の出来ない筆者にはチンプンカンプン。

昭和の時代、アサヒビールの辛口生ビール「スーパードライ」のテレビCMの初代キャラクターに起用されたのが落合信彦。信彦は昭和17年生。昭和34年当時、都立両国高校定時制に学び昼間は墨田区錦糸中学で図書室に勤務していた。筆者の中学3年間は杉山一雄先生。落合信彦は杉山先生の国語の読み書きのテストなど採点していた。両国高校卒業後は奨学金でアメリカの大学に学んだ。

経緯は省くがインテリジェンス・諜報に詳しく著書は多数。長男の陽一は筑波大学に学んで今は教授。信彦の兄・秀彦はアメリカ在住の空手家。陽一は今夜も「深層ニュース」に出演している。

クリックすると元のサイズで表示します
1

2019/2/3  16:22

慰霊と和解の旅路 終  昭和史
インパール作戦<TBSブリタニカを参照>
第2次世界大戦中の日本軍のインド進攻作戦の名称。1944年3月6日、牟田口廉也中将指揮下の第 15軍が、ビルマからチンドウィン川を渡って、二手に分かれインパール、コヒマを目指した。日本軍には、チャンドラ・ボースのインド国民軍が参加した。日本軍は6月 22日まで、インパールを 88日間にわたって包囲したが、20日間の糧秣・武器は底を尽き、補給は皆無、第 31師団長佐藤幸徳中将は撤退を決意、33師団柳田元三中将も作戦中止を上申。日本の戦線が伸び切ったとき、イギリス・インド軍の W・スリム中将指揮下の第 14軍は攻撃に転じた。空軍による豊富な物量を投じて日本の全軍を壊滅させ、インパールの防衛に成功した。イギリス・インド軍の死傷者は18000人に対し、日本軍は、戦死または行方不明22100人、戦病死 8400人、戦傷者約30000万人と推定される損害をこうむった。この作戦の失敗は、のちにビルマ防衛戦の全面的崩壊をもたらした。
                    ◇◇◇
およそ太平洋・大東亜戦争の負の遺産としての司令官はこのインパール作戦の牟田口廉也中将が最右翼。東京裁判では7人の絞首刑を含む28人がA級戦犯。牟田口は東京裁判では多くの日本兵を死なせて連合国へ貢献!?したので何の罪にも問われなかった。

中央の作戦本部に採用されなかった焦りから勲功欲しさに牟田口の現実を無視した作戦が強行された。インド東部とビルマ西部の雨季までの作戦で20日間の食料と弾薬のみで、兵士が独り20〜50キロを背負い、道なき道を行軍した。戦闘最前線の兵站(へいたん 食料・武器の調達)は全く無視された。隷下の31・15・33師団の師団長は理知的で全員が反対だった。だが上官の命令は絶対服従で逆らえない仕組みだった。軍人なのだから戦争そのものを拒否できる筈もない。31師団の佐藤幸徳中将の言う“バカの4乗”がこの作戦を許可・実行した。この馬鹿とは大本営(参謀本部)、南方軍、ビルマ方面軍、第15軍のこと。

◇参謀本部 杉山 元陸軍元帥は昭和20年09月ピストル自殺
◇南方軍 寺内寿一陸軍元帥(寺内正毅首相の子)は昭和21年病没。
◇ビルマ方面軍 河辺正三(まさかず)は終戦間際に大将。昭和40年病没。
◇第15軍 牟田口廉也陸軍中将 昭和41年病没。

“敵”と戦う最前線の兵士は当初から物理的に勝算の無い作戦だった。牟田口は必勝の信念のみの精神論一辺倒の軍人だった。哀れなのは職業軍人でない一般兵士。愚将の命令でジャングルを行進、肉弾戦を強いられ、90%以上が犠牲、しかも大半が病死・餓死だった。その遺骨は収集されないまま、今もビルマのジャングルに埋もれている。前述のように愚将ほど長生きしたのが日本の軍人の戦後だった。しかも軍人恩給はたっぷりだった。

筆者の知る「インパール作戦」は若手の評論家・古谷経衡の言う“座学”の読解に過ぎないが、物理的事実に基づかない願望論と数字が物語る現実論の区別はつく。(終)

添付はインド東部ナガランド州コヒマのイギリス軍墓地。
クリックすると元のサイズで表示します
0

2019/2/2  9:16

インパール 慰霊と和解の旅路18  昭和史
インパール 慰霊と和解の旅路 終

チャンドラ・ボース率いるインド国民軍の民族構成を見ると理解できるようにその大多数はいわゆる普通イメージする色の黒いインド人、英軍から捕虜になって寝返り日本軍に参加したセポイ兵、プンジャブ民族等インド本土出身の兵隊達で、インド人はヒンズー教、ナガランドはキリスト教で人種も違い、インド人は1000年も昔からナガランドやアッサム地方、マニプール王国までも侵攻して来たと言う歴史背景があり、インドとは一線を引いているのです。インド兵達は現地人を当然差別していますから、協力をするのに躊躇していました。

又インド軍と日本軍の兵士達は全く別々に分けられており、実際に兵士同士が日常交流する事は出来なかったようです。寝食共にせず区画を作って駐屯していたのですから、日本兵達も全く戦況を把握するのは困難だったと思われます。民族の違いの実情とは、実際に現地に行って聞き出さないと理解出来ない歴史的背景と複雑な民族の事情が存在しています。

今まで過去7年間、実際に現地と私とが繋がるようになってその基盤が出来、ビルマ作戦協会の支部が出来ました。 名称を「第二次大戦インパール作戦ファンデーション」と変更、飛躍的な発展を遂げました。この経緯があって2014年から日本大使館が「インパール作戦」の重要性を認識し始めたのです。

私は国際電話で何回もこの意義をデリーの日本大使館に訴えていました。当初は「そんな雲をつかむ様なお話は…ねえ?」と素っ気なく非協力的であったのを今でも思い出します。外交官の資格を持って、何故インドにとって「インパール作戦」の歴史的重要性を知らないのか? 何度も激怒して電話越しに訴えていたのです。当然今では全く180度変更していますが。このような事情は殆ど知らない、知られていないでしょうが、結果的に私が描いた図式通りに進んでいるのです。

これはやはり、何万人と戦地で亡くなられて忘れられていた日本軍の英霊の招きであろうと私は感じています。(終)

添付はインド独立の英雄マハトマ・ガンジーとチャンドラ・ボース
クリックすると元のサイズで表示します

                    ◇◇◇
本年早々送られてきたインドのナガランド州・コヒマの画像紹介、マクドナルド・昭子氏のここ数年の活動報告は今回で終了です。「慰霊と和解の旅路」NHKBS1の放送の半年後、認知症であられた昭子氏の父・浦山泰二中尉(第31師団31連隊)は平成30年・2018年01月、96歳で亡くなられました。思えば九死に一生を得た浦山泰二中尉が帰還したからこそ昭子氏が生まれた。筆者の愚妹と同じ昭和26年(1951)生。
0

2019/2/1  9:59

インパール 慰霊と和解の旅路17  昭和史
ビルマ作戦協会

私は実際に多くの激戦区に行くことが出来たのは、ビルマ作戦協会の和解活動をしていると言う日英両国の戦争体験者同士が始めた唯一無二の団体であり、その二世代である私が2代目の会長として、第三国も含めた和解と相互理解を深めることの重要性を直接州知事に訴えたからです。 その理由と国際的意義を理解されたから、VIPとして正式に招待され、警察の武装部隊のガードを付けて頂けたのです。マニプール(36種族)もナガランド(16種族)も戦後、州が対立し紛争が続いていたこと、また種族間でも武力闘争の紛争が今でも続いているのです。

私の訪問ニュースを新聞で見たと、このナガランドの地下組織のレジスタンスグループで武力闘争の親玉が部下を連れて私に会いに来てホテルで会合を持ちました。ガードマンの隊長からも危険だから会って行けないと制止されたのを断り私の責任で意思を通してホテルロビーで会うことが出来ました。

多くの事情を知ることが出来たのは何らかの意味がある気がします。日本人が知らないインド国民軍のこれらの地域の動向は、私の印象では全く日本人が思っているのとは相違していました。

クリックすると元のサイズで表示します
0


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ