2020/9/12  16:47

先輩の死  身辺些事
昭和55年、筆者の私が35歳のとき、正社員として入社したベテランの職人と付き合いが始まった。あれから40年、その大先輩の方が08月14日亡くなったと知らせが来た。小生より10歳年長で、昭和09年生。86歳でクモ膜下出血だった。お酒の大好きな人だった。最近の手紙では、ガンの手術を二度したという。面倒見のいいこの人物は、活版職人時代から続く「若竹会」の代表。常に10数人の会合があって池袋集合だった。これに加えさせて頂き、およそ20回ほどパック旅行に参加した。本来は“無尽の会”で毎月、何某かの資金を積みたて、旅や宴会の費用に充てた。今でも地方では頼母子講などがある。

昔の活版印刷の現場は、文選工、植字工、印刷工、鋳造工、鉛板工、解版工などに分かれていた。解版は女性の仕事、腕のいい職人は、建設現場の大工のように臨時工として現場を渡り歩いた。昭和40年代は大手の凸版印刷、大日本印刷などが毎日、新聞で募集していた。昔どの家庭にもあった「百科事典」「文学全集」は、これらの職人の技。週刊誌・月刊誌も彼らの仕事で、概ね賃金の高い“臨時工”だった。今では鉛の活字の印刷は殆どなくなり名刺・カードなどに限られ続けられている。

渡り職人は、腕はいいが“飲む・打つ・買う”のヤクザな者が多かった。先輩はそれを断ち切り、賃金は安いが正社員の道を選択したのは賢明。酒は好きだがギャンブルもせず、色町にもいかない。逆に小生が誘って柳青める浅草千束へ案内したこともある。

先輩は8人兄弟で双子の弟も居た。その弟も早く病気で死んでいる。先輩の長男は専門学校を出てコンピュータの専門家。足の少々悪い女性と職場結婚。その長女、先輩の孫は、静岡大学を卒業したという。大酒のみの先輩と下戸の小生、よく付き合いが続いたもの。小生が42歳の厄年、右膝を骨折、三ヶ月入院したことがある。遠くから態々三度も見舞にきてくれた。感謝のみである。若竹会は4人となって解散らしい。未亡人に連絡して墓参はしたい。いずれ小生も遠くないうちにそちらへ行く。その時は此の世と変わらぬお付き合いを願いたいものだ。合掌

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