2021/3/25  21:04

03年03月ネット歌会  昭和史
所属短歌会では昨年04月からコロナ禍で例会は休止。パソコンを操作できる会員20名弱で「冬雷ネット歌会」を挙行。これは逆に首都圏に住まない会員も参加できるから一長一短がある。仙台、福山、カナダの会員が参加して一人2首の歌を鑑賞・批評できる。筆者の応募した03月号の2首は以下の通り。更に鑑賞してくれた方の書き込みの要約を添付する。

吾が父の死に様の推移を三尺の和紙に認め呉れし陸軍大尉
最後の二行小さき文字の楷書にて読解を依頼す書家の歌人に

会員SM氏女性
陸軍大尉が書状として丁寧に書いてくださったのでしょう。そのことの感謝、亡き父への思い、最愛の父の命を奪った戦争とはどういうものだったのか、─。「三尺の和紙」という言葉も歌の中で時代を感じさせる重みがありますね。
二首目 その書状の最後の二行は楷書であっても、現代では使われない漢字だったのでしょうか。
会員MH氏男性
「三尺の和紙」の長さに感謝の意を強めていると思います。沖縄戦で多くの民間人を手榴弾自殺に追い込んだ将校が生き残り、その塹壕の様を得意そうに語るのを見て腹立たしく思いましたが、この歌のような思いやりのある軍人もおられたことは賞賛すべきことと思います。
会員NS氏男性
これは先の太平洋戦争で徴兵され戦病死なされた父君の当時の状況を、上官が遺族宛に知らせてきた手紙のこと。戦場という劣悪な環境で病気になれば助かるものも助からず棄兵の道を辿るほかなく、戦死者のうち病死・餓死が多くを占めているということは記録が語っています。この歌では「死に様」のひと言に思いが籠められていると思います。
会員TA氏男性
2首目の最後の二行「小さき文字の楷書にて」で、三尺の和紙の構成が分ります。かな交じりの草書体、最後は意を伝えたく小さな楷書の文字で2行ほど。真相・実情を知りたく更に解読をと、気迫が伝わり来ます。
会員NK氏女性
陸軍大尉の三尺の中身を読むことは、作者にとっては、大事な父のことを知る重要な仕事だったと思われます。作者という人間のアイデンティティに関わることでもあったと思います。
会員NT氏男性
一首目:やはり具体的な「三尺の和紙」に生き証人となった。元陸軍大尉の誠実さが伝わってきます。「和紙に認め呉れし陸軍大尉」は、本来は「和紙に記せる陸軍大尉」などでしょうが、作者に認知させたという意で「認める」という言葉をどうしても使用したかったのだろうと感じました。
会員MK氏男性
Nさんの評文から一首目の作品の読みを誤読された様に思う。四句「和紙に認め呉れし」の処です。此処は同じ漢字ですが「和紙に認め(したため)呉れし」です。和紙に書き記してあると言う事です。確かなところはどうでしょうか。

以下は小生の感想への返信文。これも要約。
今回もたくさんの鑑賞有難うございました。─やはりN氏のように若い現役のサラリーマン、太平洋戦争のことなど興味を持て!?が、まず無理ですね。M氏の指摘の通り、これは「認め」(したため)です。これも上官の仕事。
ここで戦争の是非は避けて、中隊(100人規模)の司令官は尉官クラス、陸軍士官学校を出ているエリートで、部下の死は上部へ報告、遺族に通知するのも仕事でした。陸軍幼年学校、陸軍士官学校は13歳から7年、兵棋演習は当然ですが、剣道・柔道・書道・ドイツ語・ロシア語は必須。戦前のエリート軍人は和紙に候文も心得ていたようです。

二首目は選者のKY氏にお願いしました。有難いことです。
二文字ではなく「営」の正字「營」であり“集中營”となります。敗戦後、撤退の行軍の中途「集中営」を設営、戦死者の慰霊祭を敢行したらしいです。
上官は路傍の花を押し花にして持ち帰り「単カード」にして送ってくれました。昭和21年、小生は満2歳、ここまですると陸軍大尉の性格が解ります。正に「死に様」の詳しい報告と追悼です。「生き様」という昨今の言葉は基本的に間違いだと思います。

「営」の正字読み解かれをり駐屯地の慰霊祭ゆゑの集中營≠ニ知る

クリックすると元のサイズで表示します

最後の2行
尚同封の押花は、去る十二月四日廣東集中營に於いて御部隊慰霊祭の獻華(けんか)に候故、御佛前に御俱(そな)へ被下侍(そばに置いてくだされたく)候

クリックすると元のサイズで表示します
0

2021/3/22  23:14

戦争論推敲再開  昭和史
本年02月になって畏友の死があり、子息より喪中ハガキめく葉書で父親の死を知らせて来た。50数年ぶりに同窓会で再会、爾来平成26年から昨年まで7年間、濃密なメール交換などが始まった。01月31日の心臓発作での死よりこのやりとりを20回に亘りこのブログに記述。畏友は、毎日小生のブログを点検していたらしい。

友人も期待?していた筆者の拙論「天邪鬼の探索考 戦争の昭和史」は、今、中途半端に滞っている。「初めに」「後書き」は別にして10章、17項目ある。中身は多くの書の読解だが、2章に残された史料を披瀝。そこから戦争の実態を敷衍するだけの論考。未完成(赤字)の5点の記述を再開した。だが後半の「陸軍ななぜ支持されたのか」「昭和天皇に責任はあるのか」「太平洋戦争の結末」「あとがき」は無論、ステレオタイプの平和論、人間性善説の立場はとらないのでいささか難問。06月になれば喜寿77歳、ここまで生きれば人間として十分だが、やはりホームページ作成の楽しみは死ぬまで続けたい。平成20年代、スマホが主流になるまでホームページ閲覧名簿など大いに交流があった。そういう人たちは80歳を超え、ほとんどリタイアした。

目次・はじめに
1 短歌反論の反論
2 一市民への徴兵 独立歩兵第8旅団 肝3322部隊
2-2 ある陸軍上等兵の死
3 日本とアメリカはなぜ戦争をしたのか
 @日米対立の芽 大正時代の分岐点
 A日米開戦への道─ポイントオブノーリターン
 B日米間対立 松岡洋右の誤算
 C日米間交渉 近衛文麿の計算
 D日米間衝突 木戸幸一の打算
4 日米開戦に反対した人はいたのか
5 「昭和天皇独白録」にみる日米開戦の責任者達
6 帝国陸軍は何をしたのか
 @インパール作戦の現実
 A東條英機という軍人首相
 B東條英機の人間周囲
7 帝国陸軍は何故支持されたのか
  昭和12年〜16年の世相

8 敗戦の決断は何故遅れたのか
9 昭和天皇に戦争責任はあるのか
10 太平洋戦争の結末“紙の上の戦争”
あとがき エリート軍人の頭脳


クリックすると元のサイズで表示します
0

2021/3/15  21:08

新パソコン  パソコン
後期高齢者を超えたのに又、新パソコンを購入した。先月、ある夜、パソコンがインターネットに繋がらないことになった。慌てて昔のノジマ電機の知己の店員さんに来てもらって事なきを得た。昔、設定した貰ったモデムだかルーターだかの接続の不具合で、これは直ぐに治った。だが小生のパソコンは、ディスクトップが昔の「ウインドウズ7」、ノートパソコンは「ウインドウズ10」だった。それぞれ平成20年頃、26年頃と記憶している。だがもう「ウインドウズ7」は故障しても対応は完了しているとの由。

パソコンでまだ未完成の「天邪鬼の探索考 戦争の昭和史」を残しているのでペーパーの印刷は高価で預貯金から予算は困難。己の亡き後、10年くらいは残せるディスクを研究、保存しようと思案中。思い起こせば「ウインドウズ95」が発売されたのが、平成07年。そこでやっと庶民がアイコンを駆使して書類・ホームページ作成などが可能になった。

筆者の記憶はウインドウズの前のマッキントッシュ。マシンとプリンタで40万円もした。3年間、年賀状の70枚づつの印刷、一枚2000円の勘定で早とちりもいいところだった。ウインドウズXP、ビスタ、セブンとソニー・NECなど机上のパソコンは、この15年、何度か買い替えた。

ノジマ電機の元社員はパソコンのプロ、電気関係の資格を取得しているらしく今は工務店勤務。マシン、ハード、マウスなど夫々購入して基本ソフト、フォトショップ、筆ぐるめ、ホームページビルダーなどをインストールして貰った。1Fのディスクトップ、2Fのノートパソコンは無線で繋がっている。だがそれまでの使い方と少し違っていて苦労しているが、このブログ作成はノートパソコンで使える。写真印刷の「Eフォト」が消失していてまた来て貰うことになる。

二枚目の画像がここ7年間愛用の富士通のノートパソコン。

クリックすると元のサイズで表示します

クリックすると元のサイズで表示します
1

2021/3/9  9:45

畏友 追悼20 終 浅草  身辺些事
当初のガラケーから始まった畏友・増田邦昭とのメール交換は80回前後に及ぶ。その中から20回に厳選して、主に畏友から送られた画像を中心に徒然日記を構成した。亡くなる5日前の拍手のコメントが最後になった。これは「迷惑メール」(2020・01・26)の記述だが、小生の添付画像はその日の午前中、拙宅の2階の居間から撮影したものだった。年明けから暫くは、北陸は豪雪だが太平洋側は好天が続き、富士山に冠雪は殆どなく“青富士”だった。畏友はその5日後に帰らぬ人になった。驚天動地、茫然自失だった。

≪木更津です。いつも見事な富嶽の姿。羨ましい限りです。木更津からは昔は見えたようだ。富士見通りと言う通り名や富士見町と言う町が今でも残っている。晴れた風の強い日に木更津港から横浜の奥に見える。貴方のブログのような大きな富士の姿はありません。(2021/1/26 9:54)≫

畏友と連絡が密になったのは2014年・平成26年、明けてすぐ、先ずは同窓会で再会する切っ掛けになった墨田区石原の錦糸中学とその校庭の裏側にある級友が営む喫茶店を訪問した。スカイツリーを撮影後、都営地下鉄で浅草へ移動した。中学時代、悪ぶっていた級友が今では真面目な喫茶店のマスター。同行の畏友が中学時代、堅物の読書家の雰囲気だったのだが、今は仕事に恋に知識欲、色欲旺盛なだいぶ破天荒な行動力ある人物に化けていた。

畏友は上記のコメントから5日後、多分、心臓麻痺の突然死だった。2021年01月26日で最後になった。ほぼ毎日ブログの記事を読んでくれ2回に一度はコメントをくれた。平凡な言葉だがこれからは只々寂しい限りだ。

畏友、追悼は20回、今回で終了。電話でのやりとりの中で生き残った方が、先に死んだ方へ墓参する約束だった。暗黙の了解で、筆者の私が当然、先だと思い、墓地と墓碑を知らせておいた。世の中思い通りにはいかない典型だ。遺児に問い合わせをするが、納骨が終了したら千葉県市川市の墓地へ墓参する。友よ!待たれよ!

クリックすると元のサイズで表示します
0

2021/3/8  15:29

畏友 追悼19 子規庵  身辺些事
短歌誌のカット画像の取材で平成26年07月27日、鶯谷の「子規庵」(近代俳句・短歌の創始者・正岡子規終焉の地)を訪問。この前後に同窓会があって畏友と連絡が密になった。2014年・平成26年、明けてすぐ浅草をメインに、錦糸中学校庭の裏側にある級友が営む喫茶店を訪問、そこから直ぐのスカイツリーを撮影、久し振りに浅草行きとなった。以下は小生の畏友へのメール

邦ちゃん元気。毎月第2日曜日は短歌会の例会。江東区豊洲行き。去年(平成25年)は07月10日、今年は11日に猛暑到来。小生腰椎圧迫骨折より遥か前から自律神経失調症。循環機能が衰え猛暑では脱力感が顕著。去年は3か月間30℃越えだった。東京行きは気分不良で早めに帰還。17日の台東区根岸の撮影は無報酬だが殆ど義務で小生の矜持となっている。体力旺盛なるさなえちゃんに疎まれるも良し。女性は10年後の未来に想像が及ばないらしい。家賃8万円の支払いが続くわけもないのに。(短歌会の会員・茶の湯の師匠に促され50代半ばの病院の清掃婦(外部委託の専門職)を紹介されていた。いわば70代を越えてからの見合である。)毎月15日締切の投稿歌やっと完成した。これから推敲して明日送付。夜は昨日録画した池上彰の番組を見て北朝鮮の研究。米ソ冷戦の産物。

畏友は70歳を超える小生の見合話を興味津津だった。結論として70歳の見合は不成立。年金とて少なく今更結婚などできない。間に入った茶の湯の師匠・歌人の面子を軽んずることは出来ず、一度東京駅地下の「銀の鈴」でお会いしたが、小生が杖突老人で当初から多分、先方にその気はなく、筆者の私が先方を忖度、丁寧な手紙で別離を言い、半ば自然消滅となった。

この年の秋にスマートフォンを購入、それまでいわゆるガラケーを使用、パソコンに文字を入力、これを自分のケータイに送付、そこから畏友のスマホなどに送信していた。『坂の上の雲』で注目された正岡子規は、台東区根岸の里が終焉の地。子規の≪柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺≫の俳句は、知られているが、この根岸で詠まれた短歌も一首、諳んじていた。

 隣にも豆腐の煮ゆる音すなり根岸の里の五月雨の頃

クリックすると元のサイズで表示します
0

2021/3/8  15:21

畏友 追悼18 木更津行  身辺些事
重複するが、このブログは畏友との再会後のメールの遣り取りだが2020年から2014年へ遡っている。19は、小生の短歌誌カット画像の取材で平成26年07月27日に鶯谷の「子規庵」(近代俳句・短歌の創始者・正岡子規終焉の地)訪問の経緯。畏友との厚誼が始まったのが2014年・平成26年、明けてすぐ翁、二人で浅草をメインに、級友が営む墨田区石原の喫茶店訪問。そこから直ぐのスカイツリーを撮影した。

この時の畏友のメール(2015・12・21)は、昔の職場の同窓会の経緯。このメールに添付画像はなく、今回は小泉千樫の生家のある南房総市見学のあと畏友のアパートを訪問したときのもの。畏友の描いた油絵を添付する。畏友は知識欲旺盛、これから古文書読解の崩し字を学習したいと言っていた。小生と逆、スマホに詳しいが、パソコンの画像加工は出来ず、画像の保存を伝授。あとは昔話に終始した。

さて昨日は、新企画OB会。またまた幹事。滅多に参加しなかった。もと上司、最後は役員まで上り詰めた。彼に対する怨みやら何やらで大変な状況になった。こっちは、感謝すらあった人ゆえ、まあまあ昔の話は…流してなんて言っても 口から泡を吹かんばかりだったり、怒りで入れ歯を飛ばし、文句を言われてた当事者をはじめ、全員で床に這いつくばり入れ歯探し。たまたま当方持参のLEDライトで発見。さすが幹事だとの称賛の嵐。入れ歯は3メーター先の通路がわに落ちていた。よくもまあそんなに遠くへ飛ばしたものだと皆んなで大笑いし、揉めごとは収まった。とにかく70過ぎの爺いやババアの集まりとはそんなもんだ。

1か月前、同じ店、同じ時間帶、同じ幹事でやった錦糸中学校クラス会。やはり70爺いやババアだったが、全く違う。広告代理店勤務、出た大学は、早稲田法学部、中央法学部、明治商学部、東京学芸大学教育学部…その差が理屈ぽく、とにかく疲れた一日だった。新年の木更津来訪は2月半ば辺りがいいな。それでは、又。

クリックすると元のサイズで表示します
0

2021/3/7  10:53

畏友 追悼17 伊豆行  身辺些事
この新年のメールの前年は身内の葬儀が2件、同窓会も2度挙行して写真を撮ったので参加者夫々に3点ほど送った記憶があり、所望されて価値観を同じくする「東映映画、高倉健」のDVDを送付した。2014・H26年に高倉は83歳で死去していた。この頃、畏友はすこぶる元気で筆者の私も下戸だが喫煙していた。畏友も小生も前年古希を迎えていた。まだ“死”のイメージは薄い。

2016・01・09伊豆
新年明けましておめでとう!! レターパック昨夜受取りました。ありがとうございます。要返却の指示通りにします。

さて、当方恒例の佐原巡行…
1/4 木更津〜佐原〜東関道〜首都高〜東名〜厚木小田原道路〜真鶴道路〜熱海〜伊東〜大室山〜シャボテン公園〜富戸(泊)
1/5 富戸〜城ヶ崎海岸〜下田〜爪木崎、野水仙、アロエの花群落〜下田公園〜寝姿山ロープウエイ〜下田・大賀茂 (泊)
1/6 下田〜東伊豆町、熱川バナナわに園〜ビーチライン〜真鶴道路〜小田原厚木道路〜厚木〜東名〜横浜町田〜首都高横浜新道〜高速湾岸線〜ベイブリッジ〜川崎浮島〜アクアライン〜海ほたる〜館山道〜東関道〜香取インター〜帰宅
1/7 佐原〜市内最大の初詣寺院、真言宗観福寺〜成田山新勝寺〜佐原帰宅
1/8 佐原 畑手伝い〜木更津帰宅

なにせ元の彼女!?と車で伊勢に行ったのは2000年。伊豆半島一周したのは2002年。今回ほぼ13年ぶりの東名チャレンジ。道路は変化ないが…シャボテン公園、城ヶ崎海岸の歩道、寝姿山山頂公園、下田公園の変貌。更には錦糸中学校・林間臨海学校以来の石廊崎の立派な遊歩道。全ての有料施設は貧乏臭くなく高額な入園料金。

これからは、クラブツーリズムで行くことに決めた。木更津帰宅後もはや50代の体力では無かった事を痛感し後悔して…。全走行距離980キロ。運転は近場にと固く思った。今日一日、背中と腰が痛くてゴロゴロとテレビ。高校サッカー準決勝、母校國學院大学久我山と青森山田高校の試合を観戦。久我山が勝利。決勝戦はあさって。あさっては初出勤。どうしようかと悩むところだ。そんなかんやで今年の正月は走り去った。

クリックすると元のサイズで表示します
0

2021/3/6  16:42

畏友 追悼16 佐倉歴史博物館  日本史
今回のブログ(2016・01・30)の最後に記述されているが、畏友は、知的好奇心は旺盛だった。多少油絵の趣味もあった。同級生でセミプロの女性画家も居た。前年2015・平成27年は06月に同級生の画家・有尾美奈子氏の「朱葉展」が例年、上野の東京都美術館で開催され、見学がてら9人ほどで懇談。11月22日に同窓会を開いた。これは14人が参加、JR錦糸町駅駅前の多目的ビルの5階。丁度西側のビルがJRAの錦糸町馬券売場、「マイルチャンピオンシップ」でグレード1のレース。多少のプラスになった。全員錦糸中学の出身だがギャンブルに興味は無かったようだ。

この時も出席していたのが仁平勝之氏。クラスで常にトップの成績、早稲田大学出身で弁護士だった。この仁平氏が昨年(2020年)、癌で亡くなっている。いろいろ逆算すると30歳当時、昭和50年頃、司法試験を突破していた。小生は、平成27年は08月、義兄が肺腺癌で他界、秋の同窓会直前には実妹の亭主、義弟が白血病で死んだ。69歳だった。

昨夜帰宅しましたら貴君からの封書が届いていました。ありがとうございます!! 本当によく撮れています。夏の美奈子作品展、晩秋のクラス会…だんだん参加者は減少傾向で。ま、色々あるだろうし。それにしても海老原清子氏は若い!72才には見えない。生活感を感じさせない雰囲気。

毎日、鴨川まで元気に通勤。本日はひさしぶりの休み。やることが山積だ。
@ボールペンの替え芯
Aぽん酢、ビール、豚肉、蒟蒻、牛蒡、ガンモ、生揚げ、コーヒー焼酎用のアイスコーヒーボトル10本
B中華飯店で飯を食べながらそこの社長と販促の打ち合わせ
C歯医者5時予約。
Dテレビ…アジアサッカー選手権決勝、日韓戦観戦。

愛の伝導活動は…2/2〜2/5佐原。今回のテーマは佐倉の歴史博物館、2/7までの展示…幻の夷酋列像展、北海道博物館と流失したフランスの博物館のものを一挙に展示。同時に、描いた松前藩家老・蠣崎波響と松前藩の幕府に対する思惑、アイヌ一揆の平定始末…かなり興味深いものと期待している。来月は大阪展示でもう小生存命中は観覧不可能だ。

佐原から佐倉まで東関道で30分。じっくり知的好奇心を刺戟しに行って参ります。帰り道またまた成田山へ寄って鰻でも食べようかと思案中。

クリックすると元のサイズで表示します
0

2021/3/5  14:30

畏友 追悼15 この花は  身辺些事
このメールは2016年03月19日。畏友の追憶の時代、小生も当然当時56歳、その2年前の平成10年に短歌会に入会した。定年の6年前で「冬雷短歌会」の歌誌は勤務する印刷会社の仕事だった。畏友の家族構成は息子一人、孫三人を知らされていたが、この頃、細君は存命だったのか。畏友の両親のこと、父親の勤務した墨田区の大企業、精工舎の社宅は離れていたと思われるし、両親はどこに住んでいたのかも知らない。当然畏友自身も定年前、両親の面倒も見ていた筈。前回も記述したが“花の名”をよく訊いてきたが、この花を何と解答したのか覚えていない。「3月のピンクの花」で検索を試みた。ハーデンベルギアとあった。黄泉の国でも咲いているのか、訊きたい!?ものだ。

久しぶりです。毎日鴨川へ通勤。今日は雨休み。今は相撲観戦、琴奬菊の綱取り場所…はたして。最後の日本人横綱は確か若乃花だったと記憶。2000年の大阪場所から16年経った。

16年前の自分は…56才。2000年・平成12年は、母が亡くなった年で真ん中の孫の男の子が生まれた年。彼は4月で中3。随分と昔のことだ。愛の伝導活動にも油がのっていた頃。二股で多忙を極めていた。この年は車で下北半島・大間やら伊勢やら黒部なんかへも行って…今は、そんなに無謀なことはスルーしたい。さて、添付の花の名が判らない。庭の持ち主も判らんとのことだ。是非とも調べて連絡をお願いします。それでは また。

クリックすると元のサイズで表示します
0

2021/3/4  22:34

畏友 追悼14 佐原大祭  日本史
常に何らかの仕事をしている畏友だったが、交遊の再開した7年間の初めの平成26年でさえ既に69歳だった。当然年金暮しであった筈だが、小生が知るだけで「生命保険の勧誘」「冠婚葬祭の会社」、つい最近が北海道の回転ずしのチェーン店の下働きだった。細々とした年金暮らしで、ホームページの作成、ネットサーフィンと短歌作成の日々を送る小生には、積極的な仕事熱心の自分とは違うエネルギーを持った友人で少しく眩しかった。もう年齢的には後期高齢者、不摂生な20〜30代の日常活動は改めるべきで、取り敢えず仕事の無いときには、昼間からビールを飲んで湯に浸かるのは良くないと忠告したが守られなかったようだ。75歳を過ぎれば家族以外の忠告には耳を貸さない。年上だった細君はだいぶ前に、乳癌乃至は子宮癌で亡くなったことは聞いていた。

積極的だったのは1Kのアパートの周囲の空いている土地への耕作だった。B型と想像するが、この野菜作りは熱心だった。毎日無為に暮らしている私には、自分で調べることはせず、花の名を訊いてきた。歌詠みは樹木・花の名に詳しいと思ったのか。この時の花は、6弁のピンクの花で、ネット検索、サフランモドキと答えた筈。以下2016・07・17のメール全文。

おはよう、07/15の佐原・夏の大祭を見に行って来ました。300年続いている祭り……世界遺産に申請中。圧巻は角を曲がる際の「“の”の字回し」「小判回し」だ。山車自体3トン、囃子方、その他が12〜13人上に乗っている。その山車をかじを切り、車輪を持ち上げる。大変な操作だ。街並み散歩も実にいい。

玉絞りの胡麻油を購入。高いけど香りと風味が良い。その胡麻油で作ったラー油も。二層焼きの車麩も購入。佐原は伝統の職人技の食品も数多い。本日は2時間半起床。明後日、最近知り合った女性が泊まりに来るのではないか??と部屋中の掃除、ビールの空き缶、紙くずを始末し、家庭菜園。苗床の枝豆の苗を畑に植え込み、雑草むしり、トマトの蕾にトマトーン、小さい実にカルシウム補給剤を散布。今は休憩のビールタイム。8時に鴨川へ向かう。添付の花の名を教えて下さい。じゃあ また。

クリックすると元のサイズで表示します
0


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ