2010/8/16  23:36

靖国神社問題  昭和史
このブログを今年になってから、丁寧に投稿していただく宝塚市の「なりひら」様には感謝申し上げたい。

なぜA級戦犯が合祀されて昭和天皇・今上天皇さえ参拝できなくなったのかは、ウィキペディアの「靖国神社問題」、筆者の「無明庵」の「靖国神社考」を読んでいただきたい。そのなかから、問題点を抜き出してみる。昭和60年代、宮内庁長官「富田朝彦メモ」によって発覚した。昭和天皇の述懐である。

<私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡(洋右)、白取(白鳥)までもが、
筑波(藤麿)は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ>


<A級戦犯14人を合祀した当時の松平永芳宮司の主張は「政治的には日本とアメリカその他が完全に戦闘状態をやめたのは、サンフランシスコ講和条約を発効した昭和27年4月28日だ。つまりこの間は国際法では日本は戦闘状態にあったのだ」と考えで、こと松平宮司に関していえば極東国際軍事裁判を戦時下における政治的行為の一種とみなしているらしく、A級戦犯は戦場での死と同じで「昭和の殉難者」であるということらしい。この考えは30年経ても靖国神社に一貫して踏襲されている。いわゆる皇国史観とはこういうことらしいのだが、昭和天皇から内々に「参拝はできませんよ」との意向が示されたにもかかわらず無視したのは、私は間違いなく本末転倒だと思うし、昭和天皇の意向に逆らってまでもA級戦犯を合祀した理由はいかなるものなのか。私にはそうした極端なイデオロギーは理解できない。そこには、昭和30・40年代の旧厚生省の旧軍人グループの思惑、日本遺族会の思惑、靖国神社の最高責任者の宮司の思惑がトライアングルを形成していてことが進んだらしいのである。このへんの経緯はたいへん複雑怪奇でここでは敢えて触れない。>

つまりは今は憲法上「靖国神社」は寄付金だけで運営されているので多額の寄付金を呉れる遺族会を無視できなかったらしい。しかし筆者はA級戦犯が分祀されるのは時間の問題だと思う。

なりひらさんは「後世に語り継ぎたい戦争の記憶」をページにされている。かなりの労作である。7項目にそれぞれ投稿を試みたい。画像は昭和53年以前に分祀されていた祠。

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