2010/10/3  21:44

近衛文麿  昭和史
またまた「昭和史」の話で申し訳ないが、日米開戦前に三度も組閣した「近衛文麿」と云う政治家がいる。日米開戦が避けられないとみるや、さっさと総理大臣の座を投げ出した無責任で軟弱なお公家さん政治家とされている。GHQへ出頭する前日、青酸カリで自殺した。

筆者「無明庵」の中の「私解 戦争の昭和史」は、逐次書き直し・推敲しているが、概略は十分に記述できる自信はある。が、核心の部分になるとなかなか難しい。拙論「第三章」の「日米対立」「日米交渉」は全面的に書き直しているが、筆者の考えるポイント・オブ・ノーリターンは昭和15年秋に締結された「日独伊三国同盟」で、もうこれは完全に元に戻すのは困難な締結だったと思う。

このほど購入したPHPの新書判の大きさだが、『近衛文麿の戦争責任』は、随分と思いきった指摘で、近衛は「共産主義者」だったいう主張。近衛の主宰した「昭和研究会」は、確かに尾崎秀実(ほつみ)のようにリヒャルト・ゾルゲと通じて共産主義を渇望した人物もいた。他にも昭和史に名を連ねる西園寺公望の子息、五・一五事件の犬養毅の子息や学者も仲間だった。

同時に筆者は『われ巣鴨に出頭せず』(工藤美代子著)も読んでいるが、こちらは近衛は軟弱でもなく、日米開戦を避けようとしたという全く逆の主張である。きちんとした読後感は又、別の日にするが、前者の著者・中川八洋(やつひろ)は昭和20年生まれの学者。「鬼畜米英」という言葉が日米開戦前から言われていた(実際は19年)などという明らかな間違いがあり、近衛文麿の長男の「文隆」が、なぜ昭和31年までソ連に抑留され、帰国直前に病死(処刑の疑いもある)したのか、の説明がない。だったら平成19年、95歳まで生きた大本営参謀・瀬島龍三はどう評価・説明するのか…。

確かにアメリカ・イギリス・日本の軍部にまでコミンテルンが侵入していたのは事実だろうが、日本に共産主義革命をもたらそうとした張本人だったとは、それは状況証拠だけの裁判のようなものである。推測や思い込みだけなら何とでも言える。もう一度最後まで読むが、その価値はあるのか…。

クリックすると元のサイズで表示します
2

トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ