2011/8/16  18:02

日米開戦への道01  昭和史
外務大臣・松岡洋右

「日独伊三国軍事同盟」を推進した第一人者は、「松岡洋右」。昭和15年(1940)07月22日に成立した第二次近衛文麿内閣で、近衛に請われて外務大臣に就任した。内閣成立直前の07月19日、近衛が、松岡、陸軍大臣・東條英機陸軍中将、海軍大臣・吉田善吾海軍中将を別宅「荻外荘」(てきがいそう)に招いて行った「荻窪会談」で、松岡は、軍部になびいている外交のリーダーシップを強く要求。自らの強い信念とそれまでの大人しい外交に大いに不満を持っていたからである。結論から言えばその唯我独尊的な“松岡構想”の思惑が外れ失敗に終わることになる。

昭和15年・16年頃の「日米間対立」「日米間交渉」は、筆者の「私解 戦争の昭和史」で現在詳しく推敲している。ここでは先に10人ほどの政治家・軍人などの重要点を列挙すると、それが「日独伊三国軍事同盟」だけでなく太平洋・大東亜戦争の≪ポイント・オブ・ノーリターン≫ともなる。

松岡洋右は、明治13年(1880)、現在の山口県光市室積に生まれる。生家は≪今五≫(今津屋五郎左衛門)と謂う廻船問屋の四男だった。≪今五≫は幕末の長州藩の下級武士のスポンサーで高杉晋作や山縣有朋などを支援していた。父親が事業に失敗し破産したこと、父親の親戚が渡米して成功を収めていたことなどから13歳で渡米する。だが留学とは名ばかりで苦学してオレゴン大学法学部を明治33年(1900)に卒業する。母親の健康状態悪化などを理由に明治35年、九年振りに帰国。直木賞作家で元読売新聞記者の三好徹氏によれば、帰国せず東部のコロンビア大学、ハーバード大学に学んでいれば、松岡の「二流のトラウマ」はなく、日本の近代史は変わっていたかも知れないと云う。後年、松岡が元勲・山縣有朋に「今五」の倅であることを告げると山縣の別荘・目白の椿山荘(ちんざんそう・文京区関口)に招かれ上座に置かれてもてなしを受けたと云う。筆者はもうこの時から松岡は長州出身の選良意識が芽生えたのではないかと想像する。

松岡はアメリカ西部の二流大学夜間部出身だが頭脳は極めて優秀、明治37年(1904)に外交官試験に首席で合格した。このことはまだ明治時代末期なのに、もうすでに≪東大法学部卒・いわゆる各省庁のキャリアが主流≫を、松岡は感じ取っていた。キャリアは頭脳優秀だが、現実の外交には、松岡には、ひ弱で役立たずに思われた。その矛先をひとり挙げれば、戦後、昭和20年10月より半年間だが総理大臣にも就任した幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)である。幣原は大正時代末期から何度か外務大臣に就任。妻は三菱財閥創始者の岩崎弥太郎の娘だった。東大法学部卒・華麗な閨閥で、イギリス勤務のときは本場で英語の個人レッスンを受けた。流麗な英語を駆使し、“欧米協調外交”を展開する幣原には、松岡は欧米流の外交官を真似しただけの「鹿鳴館」もどきにしか映らなかったと思う。

ここでは近代史で知られている松岡洋右に関する事項を4点に絞る。

@大正08年(1919)からの「パリ講和会議」には、随員だが報道係主任として派遣され、サイレント(沈黙・おとなしい)の日本政府のスポークスマンとして英語の弁舌で力を発揮。初代総理大臣・伊藤博文の息子により紹介され、同じく随員であった近衛文麿とも出会う。近衛は全権代表の西園寺公望の将来を託した単なる随員だった。この会議には戦後の総理大臣・吉田茂、外務大臣になった有田八郎・重光葵(しげみつまもる)もおり、吉田茂の岳父・牧野伸顕(まきののぶあき)も代表の一人だった。

A満州鉄道勤務のあと政友会の衆議院議員であった松岡は、昭和06年(1931)01月(満州事変が勃発するのは09月)、濱口雄幸(はまぐちおさち・昭和05年11月、「特急つばめ」に乗るために東京駅に来たところを狙撃される。翌年死亡)内閣の幣原喜重郎外務大臣による「欧米協調外交」を批判した。その演説で有名になったのが「満蒙は日本の生命線」なるフレーズ。満州事変以降よく使われたスローガンになった。たとえば「龍角散」のキャッチコピーに引用され「咽喉は身体の生命線、咳や痰には龍角散」がそうである。濱口雄幸の暗殺はその後、五・一五事件の犬養毅、二・二六事件の高橋是清・斎藤実両元首相の暗殺とエスカレートする。総理大臣暗殺が戦争をもエスカレートさせたことは十分立証されている。

B昭和06年(1931)の「満州事変」の後、国際連盟は「リットン調査団」を派遣、その報告書が09月に提出。ジュネーブ特別総会での採択を待つ。松岡は同総会に日本の首席全権として派遣された。その類まれな英語での弁舌で12月08日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。「十字架上の日本」と解釈できる内容。演説自体は絶賛の拍手を浴びる。だが翌年02月24日、行われた総会で「満州国は認められない」との報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=タイ)の圧倒的多数で可決。松岡は予め用意の宣言書を朗読して退場。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を決意する文言はないが、昭和07年03月08日に日本政府(斎藤実(さいとうまこと)内閣)は、脱退を決定(同27日連盟に通告)。翌日の新聞には『連盟よさらば/連盟、報告書を採択、わが代表堂々退場す』の文字が一面に大きく掲載された。満州事変以降は、新聞・雑誌メディアは、ナショナリズム一辺倒だった。とにかく「満州事変」より新聞は大いに売れたのである。傷心して帰国した松岡は逆に「英雄」として迎えられた。演説のあと、ジュネーヴからの帰国途中にイタリアとイギリスを訪れ、ローマでは独裁体制を確立していたムッソリーニ首相と会見。紙数の関係で詳細は省くが、アメリカ・オレゴンに寄り、東洋の少年・松岡をも分け隔てなく接して育ててくれたオレゴン時代の大恩人ベバリッジ夫人の墓を詣で、墓を造り直してもいる。

C第二次近衛文麿内閣で20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰。重光葵(駐イギリス特命全権大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、「革新派外交官」の白鳥敏夫を外務省顧問に任命。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させた。このいわゆる「松岡人事」は、ことの是非はともかく今でも歴代外務大臣では最低の大臣として記憶されているらしい。このあとの日米開戦通告の遅れなどは殆ど「外務省中枢」のサボタージュと云われている。今も昔も役人人事はする方もされる方も国益は無視である。

「日独伊三国軍事同盟」は昭和15年(1940)09月27日成立し、松岡は翌年昭和16年(1941)03月13日、同盟成立を名目としてドイツ・イタリアを歴訪、ヒトラー・ムッソリーニと首脳会談を行い大歓迎を受ける。帰途モスクワに立ち寄り、04月13日には「日ソ中立条約」を電撃調印。シベリア鉄道で帰京する際には、スターリン首相自らが駅頭で見送り、抱擁しあうという場面もあった。松岡ならずとも有頂天になるだろう。この訪欧の最大の眼目が、スターリンとの会談だった。いわゆる松岡の外交構想は、「大東亜共栄圏」(このフレーズも松岡が公人としては初)の完成を目指し、ソ連と「不可侵条約」を結んでいるドイツと共に“ユーラシア枢軸構想・四国連合構想”を完成させ、米英との勢力均衡を土台にして、アメリカ・ルーズヴェルト大統領と日米交渉をすることだった。

だが帰国する前に正規のルート以外で「日米交渉」が行われていた。結論として松岡の「四国連合構想」も、外務省のサボタージュで浮き上がっている海軍大将・野村吉三郎駐米大使らの「日米交渉」も米国国務長官コーデル・ハルには、信用できないと相手にされなかった。独ソ戦争が勃発すると松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して「対ソ宣戦」することを閣内で主張したりする。近衛文麿や軍部の「南部仏印進駐」を閣内で一人だけ強行に反対した。近衛は07月16日内閣総辞職し、松岡外相を更迭した上で第3次近衛内閣を発足。唯我独尊の松岡も「南部仏印進駐」が対米英戦争の原因となることを察知していた。それが証拠に訪欧時にヒトラーに何回となく催促されたイギリス植民地の「シンガポール攻略」だけは拒否していた。

松岡は、自分がアメリカへ乗りこんで決着させる日を夢見ていたが、昭和16年12月06日、「日米開戦」を知り「三国同盟は、僕一生の不覚であった、死んでも死にきれない」と周囲に漏らし涙を流した。外相更迭の頃から「結核」に倒れて昭和20年、敗戦の頃は別人のように痩せ細っていた。A級戦犯容疑者として連合国GHQの命令により逮捕されたが、結核悪化のため極東国際軍事裁判法廷には一回しか出席できなかった。昭和21年06月27日、東大病院で病死、66歳。辞世の句は「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉(よみじ)」。すべて日本的なるものへの決別の意味もあり、臨終のわずか数時間前、カトリックの洗礼を受けた。洗礼名は「ヨゼフ」。

筆者は、松岡洋右は学歴・閨閥に関係なく能力のみで、当時サイレントにあった日本の外交の舞台に踊り出て、本音で日本の立場を考慮したことを評価する。失敗に終わったが、今も昔も日本の外交官は、エリート意識の強い官僚で、していることとしたらマニュアル通りで情報・諜報に関しては北朝鮮にも劣る。当時の外交官は、世界の情勢を把握しているのに軍部に逆らえない役立たずだった。少なくとも松岡は、それを打破しようと己の能力に賭けた。

実妹・藤枝の子が「佐藤寛子」、寛子は従兄の佐藤栄作と結婚。栄作の兄は岸信介。義理の甥の二人は東大法学部卒。戦後、兄弟共に総理大臣になったのは、むろん松岡は知る由もない。最後に病床を見舞ったのは若き佐藤寛子・佐藤栄作夫婦だった。

主要参考書
◇『松岡洋右』 三輪公忠 中公新書
◇『松岡洋右─夕陽と怒濤』 三好徹 人物文庫
◇『日米開戦への道・上』 大杉一雄 講談社学術文庫
◇『フリー百科事典・ウィキペディア』

2列目右側が松岡、左から2番目が東條英機。

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