2011/8/20  19:31

日米開戦への道02  昭和史
総理大臣・近衛文麿
前回、ポイント・オブ・ノーリターンは「松岡洋右」を取り上げたが、私見を添えるのを忘れていた。末尾に記したのでご案内します。このシリーズ、必ず末尾に筆者の天の邪鬼の私見を述べてみたい。尚「ポイント・オブ・ノーリターン」は、題名が長いので訂正します。

「日独伊三国同盟」が締結されたときの政権は「第二次近衛文麿内閣」である。ここでは近衛文麿とはどんな人物で、どういう風に「太平洋・大東亜戦争」に加担したのか、述べてみたいのだが、およそ近代史・昭和史の書物に「昭和天皇」と「近衛文麿」は出てこない書は無い程の政治家である。近衛文麿に関する重要事項を列挙しただけで長文のブログ記事になってしまうので、昭和史において避けて通れない事項は「見出し」にとどめ、「暗殺されても仕方がない」と覚悟した昭和16年09月の“アメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルト─近衛文麿、頂上会談”を考察することにする。

近衞文麿(このえふみまろ)は、明治24年(1891)生れ─昭和20年(1945)12月16日、GHQ出頭命令当日の深夜自殺。出自は遠く藤原鎌足まで遡る。平安時代の「藤原忠通」がはっきりした祖先だが、天皇家を「近く」に居て「衛(まも)る」ところから、近衛姓を名乗る。いわゆる五摂家の筆頭格である。ただ江戸時代上期に近衛信尹(のぶただ)に子が無く107代・後陽成(ごようぜい)天皇の第4皇子を養子にする。つまり近衞家の第30代目当主だが、後陽成天皇の12世子孫にあたる。

全体の行数で詳細は控えるが、ミュージカル『異国の丘』の主人公・近衛文隆は長男。終戦間際、中国大陸に居てソ連軍に捕まりシベリアに抑留され、昭和31年帰国寸前病死。誰が考えても粛清である。次男通隆は、近衛が青酸カリ自殺したとき隣室に居て防げなかった。大正12年生まれで元東大教授、健在である。次女・温子(よしこ)は23歳で早世するが、秘書でもあった熊本細川藩末裔の細川護貞との間に二人の子を成す。長男は平成05年、79代総理大臣に就任した細川護熙、次男は護輝。忠てる(火+軍)と改名して近衛家を継ぐ。妻は三笠宮家の長女・やす子(宀+心+月)。長男の忠大(ただひろ)は、「宮中歌会始」などで朗詠する姿が見られるが、近衛文麿の曾孫になる。「近衛家の戦争」(平成16年放送・録画)を見たが、曾祖父に貌がよく似て居て同じく英会話も堪能である。同時出演の日系五世が、日本語が喋られないのは情けないことではある。(忠てる・やす子は“文字化け”のため)

近衛文麿は、第三次まで内閣を組織するが、とくに二・二六事件のあとの4年間に総理大臣を任され、国家予算の70パーセントを費消する軍部を最後まで抑えきれなかった。本人にしてみれば「天皇の次に偉い自分の云うことは誰もが承知する」と安易に考えていた。この点が評価の分かれるところだが、日本の軍国主義者連中は、中国本土の「関東軍」のように昭和天皇・大元帥の「日米避戦」の思惑さえ無視した。今日では出先機関の暴走は「関東軍」と揶揄される。日本の軍人は「軍事攻勢が富国」を最後まで信じて疑わなかったことになる。

◇大正07年(1918)に、論文「英米本位の平和主義を排す」を執筆。
◇学習院中等科時代の木戸幸一(内大臣)・原田熊雄(西園寺公望秘書)と友人となる。
◇昭和08年(1933)政策研究団体「昭和研究会」発足。「ゾルゲ事件」の尾崎秀実(おざきほつみ)も参加していた。
◇昭和12年(1937)06月04日に、元老・西園寺公望(さいおんじきんもち)の推薦で、第1次近衛内閣を組織した。就任時の年齢は45歳。
◇昭和13年(1938)01月11日、御前会議でドイツの仲介による「トラウトマン工作」を参謀本部が求める方針だった。しかし関東軍の暴走を止められず、近衛は01月14日に和平交渉の打切りを閣議決定、01月16日に「爾後國民政府ヲ對手(あいて)トセズ」の声明を国内外に発表、講和の機会を閉ざす。
◇昭和15年(1940)07月22日に、第2次近衛内閣を組織。09月23日、北部仏印進駐。09月27日に「日独伊三国軍事同盟」を締結。
◇昭和16年(1941)07月18日に、第3次近衛内閣を組織。07月28日に「南部仏印進駐」を実行。これに対するアメリカの「対日石油全面輸出禁止」等の制裁により日本は追いつめられる。09月06日の「御前会議」で「帝国国策遂行要領」を決定。アメリカ、イギリスに対する交渉期限を10月上旬に区切り、要求が受け入れられない場合、アメリカ、オランダ、イギリスに対する開戦方針が決定される。
◇昭和20年01月、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を上奏、戦争の早期終結を唱えた。

近衛文麿政権末期の昭和16年09月06日の「御前会議」が最も重要で、近衞はようやく日米首脳の頂上会談による解決を決意し、駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーに極秘のうちに会談を申し込む。腰の重い、なにごとも決意できないでいる近衛にも「日米開戦」が現実味を帯びたことを認識したに違いない。事態が切迫していることを察知したグルーは、直ちに首脳会談の早期実現を要請することを本国に知らせた。だが、このあと度々叙述することになるが「マジック」という暗号解読で日本の軍事的、政治的方針などアメリカ本国ではとっくに承知していたことになる。

日本政府は陸海軍の随員、郵船会社の「新田丸」の徴発など、近衛文麿の命を賭した計画の「近衛書簡」をアメリカ側に提出した。ところがこの内容がアメリカのメディアに洩れてしまう。天の邪鬼を気取った筆者のような素人でも、どう考えてもこれはアメリカ政府の意図的な情報流失としか考えられない。情報が伝わった日本のメディアと右翼、世論までもアメリカと戦わずして屈服するのか、と非難轟々となるのは自明の理。今では殆んど理解されないが、当時は「日米非戦」など非国民以外なにものでもなかった。右翼KYが「新田丸」に乗るため横浜港へ出向く近衛文麿一行を、多摩川にかかる六郷橋に爆弾を仕掛けて暗殺する計画が事実あったらしい。あとは軍部を説得できない近衛は辞任するしか方法は無かったことになる。

近衛文麿の遺書・評価・その人となりのエピソードは次回にする。
エピソードには、近衛文麿の性格を表す記述が「昭和史」の書には多々ある。

この項の参考書
◇『近衛文麿─「運命」の政治家』 岡 義武 岩波新書
◇『あの戦争になぜ負けたのか』 半藤一利・保阪正康他 文春新書

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