2011/9/8  22:21

日米開戦への道04  昭和史
駐在ドイツ日本大使・大島浩

「日独伊三国同盟」成立(昭和15年09月27日)のときの駐在ドイツ日本大使は来栖三郎(くるすさぶろう)だが、実質は大島浩(おおしまひろし)だった。むろん三国同盟の推進者は、気宇壮大ともいえる世界戦略の持ち主の外務大臣・松岡洋右だったが、ことドイツに関しては最大の助言者は大島浩をおいて他にない。資料も少なく調査不足だが、当時の外務省は、軍部の圧力もあったのか英米協調派よりドイツ・イタリアとのいわゆる「枢軸派」が主流を占めていたらしい。昭和13年当時の「第一次近衛内閣」のイタリア特命大使だった外交官の白鳥敏夫は、昭和15年当時は外務省顧問だった。枢軸派は、大島と白鳥が大いに関係しているに違いない。「悪いのは英米」というメディアとそれを素直に信じた世論で、政治家も外交官も英米協調派は隅に追いやられていたのは間違いない。昭和16年「真珠湾攻撃通告の遅れ」などは、今では外務省英米派のサボタージュと疑われて久しい。

白鳥は元々外交官出身だが、大島浩は陸軍軍人である。明治19年(1886)生、陸軍士官学校は明治38年(1905)18期、陸軍大学は大正04年(1915)27期卒業。極東国際軍事裁判(東京裁判)で刑死した東條英機は大島より02歳年長である。だが陸大卒は同期である。つまり勉強は東條より大島の方が優れていたことになる。蛇足だが「陸士」20期卒と云えば、ほぼ明治20年生まれという事実がある。筆者は昭和史の本はだいぶ読んだが「大島浩」を主人公にした本は見当たらない。だが「日独伊三国同盟」に関する著書では必ず名前が出てくる。おおむねアドルフ・ヒトラーに魅せられた、日米開戦においては責任の重い軍人大使だった。誤ったドイツ情報を日本の軍部に伝えていたからである。東京裁判の判決では、この大島浩と開戦時の海軍大臣だった嶋田繁太郎、内大臣・木戸幸一の三人は≪5対6≫という評決で辛うじて絞首刑を免れた。インドのパル判事さまさまである。

昭和30年に巣鴨プリズンを出所。以後、数々の誘いを断って沈黙を守った。言い訳をしなかったのは評価するにしても、ドイツ敗戦で逃げたときにオーストリアで連合国によって身柄を拘束され、日本に送還途中ニューヨークのホテルで所持していた日記や機密文書を水洗便所に流したと云われるが、これは卑怯な振る舞いである。だが大島が日本本国へ送ったドイツ上層部に関する秘密電報はすべて連合国に暗号解読されて、その情報が英米の作戦に有利に働いたというから申しわけないが「お笑い草」である。さらにそれはアメリカ公文書館に残っている筈である。

大島は岐阜生まれ、育ちは東京、幼少期より、在日ドイツ人の家庭に預けられ、ドイツ語教育とドイツ流の躾を受けたという。駐在武官となって初めてドイツに赴いてからは、ドイツ人青年に付いてドイツ語を習い、ドイツの方言で歌を歌うまでになるという徹底したものだったからドイツ語、ドイツ文化は、大島の人生そのものだったようである。因みに陸軍士官学校の必修外国語はドイツ語・ロシア語である。陸大卒後の大正10年(1921)以降は、殆どベルリンに駐在、昭和の初めの1926年頃からすでに勃興しつつあったナチス党上層部との接触したのは想像できる。詳しい経歴は避けるが昭和09年(1934)名実ともにドイツ駐在武官に登用される。同時期の駐在イギリス特命全権大使で親英米派であった吉田茂とは対極を成した。その頃からナチス外交部長のリッベントロップと接触。むろん完全にドイツに取り込まれる。

昭和13年、軍人としては予備役(退職)となるが同時に駐在ドイツ日本大使になる。昭和14年の「独ソ不可侵条約締結」で一旦大使は辞任するが、「日独伊三国同盟」締結後、すぐに駐在ドイツ大使に復帰。大島が陸軍中央と提携、枢軸外交実現のために奔走し、ナチス党総統アドルフ・ヒトラーの信任をも得ていたことが決定的だった。「日米開戦への道」は大島の偏ったドイツ情報が多いに働いている。こうした日本人のドイツへの傾斜の理由は、半藤一利氏の指摘は鋭い。日本人とドイツ人の性質が良く似ているのだと言う。「堅実で勤勉、几帳面で組織愛に満ち、頑固で無愛想、単一的民族国家(ドイツはゲルマン民族)なので団体行動、規律、遵法精神に満ち、教育水準は高くよく働く」(「昭和史」P245)

司馬遼太郎の指摘は更に的確である。≪日本がドイツに傾斜したのは国造りの真最中の明治04年(1671)プロイセン軍がフランス軍を破ってからである。その時からドイツ参謀本部の作戦能力の卓越性を学び、法学・哲学・音楽・憲法までもドイツ傾斜が進んだ。統帥権のもとに昭和前半を壟断する陸軍は、一種の国家病だった。…「当時の陸大出でドイツ留学しない軍人は有力な部員・課員になっていない」とドイツ偏重の情実を指摘。近代国家建国の時に一種類の文化を注入すれば薬物中毒になるのはその後の日本が雄弁に物語っている。ドイツ文化そのものに罪はなく、ドイツを買い被っている軍人は多いがドイツをよく知っている人は居なかったと紹介している。(「この国のかたち03」P20)≫大島浩はさしづめ薬物中毒から最後まで抜けきれなかった。

大島浩という陸軍出身のドイツ駐在大使は、世界のなかの日本の国益は考えられず、ドイツとヒトラーが大好きな、さながら“ドイツおたく”だったのではないかと思う。なぜなら日本が昭和16年12月08日「真珠湾攻撃」が成功して欣喜雀躍しているとき、ドイツ軍精鋭部隊は猛吹雪のなかモスクワを目の前にして撤退を余儀なくされる。ドイツ情報が緻密であればナチスドイツ崩壊の序章を知らぬわけは無い。大島も日本軍部も見て見ぬふりだった。

これも蛇足ながら戦後、晩年の大島浩は、筆者の住む平塚の東隣の茅ヶ崎市に在住。平塚市には近衛文麿内閣秘書官の富田健治、西隣の大磯町には吉田茂が晩年を過ごし、ある時期、木戸幸一も滞在した。

◇参考書
『昭和史』 半藤一利 平凡社・平凡社新書
『昭和の歴史05 日中戦争』 藤原彰 小学館文庫

画像は昭和16年04月、松岡洋右の訪欧時、ドイツ軍を閲兵する。中央、右手に帽子を持つのが大島浩、右側の杖を持っているのが松岡洋右。

クリックすると元のサイズで表示します
0

トラックバックURL

トラックバック一覧とは、この記事にリンクしている関連ページの一覧です。あなたの記事をここに掲載したいときは、「記事を投稿してこのページにお知らせする」ボタンを押して記事を投稿するか(AutoPageを持っている方のみ)、記事の投稿のときに上のトラックバックURLを送信して投稿してください。
→トラックバックのより詳しい説明へ


teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ