2011/9/17  23:36

日米開戦への道・余話02  昭和史
昭和史の中で宮崎龍介・柳原白蓮の夫婦と云えばどうしても柳原白蓮(やなぎわらびゃくれん)の方が有名である。殊に白蓮は、華族令嬢の歌人、三度の結婚、三度目は不倫とくれば、今日であれば多分テレビの「ワイドショー」が放っておくわけはない。また今日でも白蓮を主題にした小説も多い。

ここでは昭和史のある分岐点で登場する宮崎龍介(みやざきりゅうすけ)が何時、何に関わったか述べてみたい。昭和12年(1937)07月07日、「盧溝橋事件」が起こり、いわゆる日中全面戦争が始まった。この愚かな事変を起こしたのは、筆者の『無明庵』で述べているが、今でも太平洋・大東亜戦争で最も愚かな軍人として誰もが異存ない「牟田口廉也(れんや)陸軍中将」である。

昭和12年06月04日、多くの人々に期待されて第一次近衛文麿内閣は発足。だがこの近衛の不運な生涯を象徴するように07月に「盧溝橋事件」が起こり、08月には「第二次上海事変」が起こる。近衛が終生、戦争を欲して無かった傍証は数々あるが、暴走する関東軍や陸軍を止められなかった事実と、毅然とした態度が無かった事実も証明されている。ともあれこの昭和12年は二・二六事件の翌年で、陸軍では粛清された「皇道派」に代わって「統制派」という勢力が勢いを増し、ついには日米戦争にまで突き進む。日中戦争を終わらせようとしたドイツの駐華大使「トラウトマン工作」もあり、何より当時の軍事作戦を担当する「参謀本部」は「満州事変」の当局者・石原莞爾(最終的には陸軍中将)が作戦第一部長、参謀本部次長は多田駿(はやお)陸軍大将で、中国国民党軍・蒋介石と最後まで交渉するつもりで日中戦争不拡大の態度だった。尚、当時の参謀本総長は皇族で閑院宮載仁(ことひと)親王。

中国革命の父・孫文(そんぶん)は、宮崎龍介の父・滔天(とうてん)や近衛の父・篤麿(あつまろ)が支援者で、日本に逃れて来た時には「横浜中華街」に匿ったこともある。蒋介石は孫文の弟子である。当時は、参謀本部は中国戦線拡大反対、陸軍省中枢部は、杉山元(はじめ)大臣以下強硬派だった。この頃の日本・中国国民政府・アメリカ・ドイツの関係は国益・人間共に複雑多岐である。一つ云えることは、近衛文麿の「昭和研究会」「陸軍省軍務局」などにソ連・コミンテルンがすでに浸透しつつあったことは、些か調査不足だが事実のようでもある。なにしろ中国全土で日中戦争が拡大・継続すればいちばん得するのはスターリンでしかない。まだこの頃、日米間は対立していない。

本来は、近衛文麿・蒋介石会談が望ましいが陸軍が承知しない。近衛は旧知の“宮崎龍介”を密使として、和平協議のために中国を訪問させようとした。これには石原莞爾も応援していた。だがこれに反対する陸軍が憲兵隊を使い中国に渡ろうとする宮崎を神戸港で逮捕した。この経緯については謎が多く詳細は不明。近衛は、これを秘密にしたのか、杉山元に了解を執ったのか、聞いたのなら杉山はどう解釈・行動したのか。この陸軍大臣は、日米開戦時の昭和16年には「参謀本部総長」で昭和天皇の怒りを買っている。近衛の「頂上会談構想」は早くも挫折したが、ここで粘り強い態度を示していないのが“お公家様”と云われる所以。杉山の陰に近代史に名を残さなかった梅津美治郎(よしじろう)が居たことは確実である。東條英機など梅津の下っ端である。

宮崎龍介は、明治25年(1892)生まれ。東京帝国大学法学部卒で、大正・昭和期の新聞記者・弁護士・社会運動家だった。華族令嬢の歌人・柳原白蓮と知り合うのは、吉野作造が主宰する黎明会の機関誌であった『解放』の主筆となってからである。執筆者の一人で、九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門の後妻となっていた伯爵・柳原家の令嬢・あきこの許を取材に訪れた際に経緯は判らぬが恋仲となる。≪あきこ(火+華→“文字化けのため”子)≫

柳原白蓮は、明治18年(1885)生まれで宮崎より7歳年長である。大正天皇の生母である柳原愛子(なるこ)の姪に当たり大正天皇の従妹になる。明治天皇妃の昭憲皇太后には、病弱で子は出来なかった。あきこは明治33年、14歳で結婚、15歳で「北小路功光」を出産。だが早期に離婚して実家に戻る。明治41年、東洋英和女学校(現・東洋英和女学院高等部)に入学、佐佐木信綱に師事「心の花」に短歌を発表。明治44年、27歳で、52歳の九州(飯塚市)一の炭坑王として財をなし、政友会の代議士でもあった伊藤伝右衛門と再婚させられた。生活に何も不自由は無かったが、複雑な家族構成に悩まされる。伊藤家には伝右衛門の兄弟、子供、愛人、親の兄弟などたくさんの人間が同居、数十人の使用人もいた。全く異質な人間関係の懊悩、苦悩のなか、あきこは、ひたすら歌に託す他は無かった。大正04年、処女歌集『踏絵』を自費出版。号を「白蓮」とした。彼女は歌人として名が知られるようになり、大正三美人とも云われた。他の二人は調査不足である。

白蓮は、春秋2回の上京の機会に龍介と逢い、龍介の子を宿す。姦通罪のあった男尊女卑のその頃、不倫は命がけだった。大正10年、白蓮は上京した機会に姿を消す。二日後の「大阪朝日新聞」は≪筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪≫と報じた。内容は「同棲十年の良人を捨てて、情人の許へ走る」というもの。当時も女性週刊誌的発想の記者がいたことになる。同日の大阪朝日新聞夕刊には白蓮名義で≪私は金力を以つて女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別を告げます。私は私の個性の自由と尊貴を護り且培ふ為めに貴方の許を離れます≫という公開絶縁状が掲載された。

だが絶縁状の公開は大きな社会的反響を呼び、当時の世論は「白蓮」を激しく非難。白蓮は男児を出産した後、断髪し尼寺に幽閉の身となる。だが生涯、文盲であったらしい伊藤伝右衛門は人間の器が大きかったようだ。家族・親戚が白蓮を攻撃することを禁じ、白蓮を話題にすることも許さなかった。更に白蓮が正式に再々婚するまで生活費を仕送りし、以後は結婚しなかった。昭和22年、88歳没。筆者は、伊藤伝右衛門は経営手腕が優れていても文学的素養は無いゆえに、逃げられた若い女房にむしろ畏敬の念を持ち、誇りにさえ思っていたのではないかと察する。

その後、白蓮は龍介と正式に結婚、長男を伴い親子3人の生活が実現。大正14年には長女が誕生。龍介は結核の病気から回復して、その後、弁護士として活躍。長男・香織は昭和20年08月11日、鹿屋(かのや)で戦死。何と終戦04日前で不運としか言いようがない。そのことが戦後は平和運動に参加、熱心な活動家となる。昭和36年、緑内障で両眼失明、龍介の介護のもとに歌を詠みつつ暮す。昭和42年、81歳で死去。スキャンダルの末、没落した実家・柳原家を後目に晩年は平穏で幸せな生涯であったと云う。宮崎龍介は4年後の昭和46年、後を追うように心筋梗塞で死去。78歳。

福岡県飯塚市に「旧伊藤伝右衛門邸」が、平成18年、飯塚市有形文化財に指定された。むろん柳原白蓮の足跡もある。訪問した人のブログに掲載されていた白蓮の歌。

 大自然のちからのまへに人の子はなにをか思はむたゝ祈るへき
 花さきぬちりぬみのりぬこぼれぬと我しらぬまに日へぬ月経ぬ
 そのときのなみだとおもふ大ぞらのくものあゆみのめにとゞまれば
 おびただしく落下すつるや父母のありしむかしのおほろ夜の月
 小鳥きてかたみにくちをふくみあふみちあふれたるよるのしずけさ
 原爆のみたまにちかふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ

読みにくいので勝手に漢字変換してみた。これはタブーだが、あくまで自分のため。筆者は所属短歌会で最も上達しない部類である。だが、さすがに白蓮の5首目は宮崎龍介との結婚が叶い平穏な生活が始まった昭和に入ってからの歌だと解る。

 大自然のちからの前に人の子は何をか思はむただ祈るべき
 花咲きぬ散りぬ稔りぬ零れぬと我知らぬまに日へぬ月経ぬ
 そのときの涙と思ふ大ぞらの雲のあゆみの眼に留まれば
 おびただしく落下すつるや父母(ちちはは)のありし昔のおぼろ夜の月
 小鳥きてかたみに口を含み合ふ満ちあふれたる夜の静けさ
 原爆のみたまに誓ふ人の世に浄土をたてむみそなはしてよ

◇参考書
宮崎龍介 『昭和陸軍の研究・上』 保阪正康 朝日文庫
柳原白蓮 『フリー百科事典・ウィキペディア』

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