2013/8/7  7:27

墨田区業平  昭和史
テリトリー東京06 墨田区業平
昨年03月22日、「東京スカイツリー」を記述した。
≪筆者が中学入学時、昭和32年上京。以後、多期間過ごしたのが墨田区、戦後12年目で漸く敗戦から町が復興し始めた時で汚い街だった。墨田区・江東区の運河は臭く、小さな町工場の稼働で耳煩く、風呂は無くトイレが共同で6畳一間だけの民間アパートが犇いていた。昭和20年03月のアメリカの大空襲で最も酷い被害だったのが、これも墨田区・江東区。墨田区押上・業平など筆者の記憶では灰色のトーンで、貧しい人々が暮らす街だった。あれから50年、時は流れて随分押上・業平が脚光を浴びて面映ゆいばかりだ。東武日光線の浅草から隅田川の鉄橋をゆるゆる超えた最初の駅『業平橋』が「とうきょうスカイツリー駅」に変更された。だが平安時代初期の歌人・在原業平(ありわらのなりひら)に由来する「業平橋」の名をも変えるのは如何なものか。過去を消し去るような按配だからである≫

 住吉町横川錦糸町業平橋逃れし街の臭ひも忘れじ
 大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ 寺山修司

小生の最初の歌は、この寺山の歌のパクリ。他にも秀歌が多い。寺山の歌は故郷・青森をデフォルメした歌が多い。才人である。

昭和50年代までは、東京下町ではコンビニも宅配便も無かった。自分で口にするものは、自分で作るか、定食屋に行くしか無かった。要所要所に定食屋があって野菜・魚・肉屋・乾物屋と小売りの店も各町にあった。墨田区では駅から押上まで錦糸町・太平町・横川橋・平川橋・業平橋と続いた。今では錦糸・太平・横川・業平。国が豊かになるに従って、六畳一間の民間アパートは無くなり、食堂はレストラン・コンビニが増えた。灰色の街・業平は明るくなった。

 鉄片を打ち抜くプレス機の連続音耳に残れり業平の街
 灰色は「冷たき色」と師のこゑを憶ひ起せり来し方思(も)へば

業平の6畳一間に居住していた時は、隣室は創価学会の信者で「お題目」の聞こえて煩かった。その頃知り合った友人が来て「般若心経」「歴代天皇」「徳川将軍」「北条政権」「百人一首」などを対抗措置として声を上げた。奇妙に気の合う酒の飲める友人と下戸の筆者のコミュニケーションで単なる“記憶競走”だった気もする。般若心経・歴代天皇・徳川将軍は大体諳んじている。

添付は吾妻橋の浅草側より。

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