2015/5/6  18:42

原節子02  昭和史
原節子主演の映画では、何と言っても戦後の今井正監督作品『青い山脈』(昭和24年)、小津安二郎監督作品『東京物語』(昭和28年)が有名。東京物語は山田洋次監督が「東京家族」というオマージュを製作した。後者は、原節子は英語教師の役、蛇足だが共演の池部良が31歳で高校生を演じた。戦後すぐ昭和21年の黒澤明監督作品『わが青春に悔なし』も評価が高い。

戦後を代表する日本の映画監督は、黒澤明小津安二郎と言ってもいい。黒澤明の「七人の侍」は、とくに説明の必要もないし世界の映画界に影響を与え、リメイク版も製作された。今でも映画ファンのナンバーワン。小津安二郎の「東京物語」は、2012年、世界の映画監督358人が選ぶベストワン映画。

この黒澤明と小津安二郎に気に入られ多く主演した俳優が原節子。当時の映画界では才能よりデビューしてからの年・本数の秩序が厳然と存在した。いきなり抜擢したのはドイツの映画監督アーノルド・ファンク。ではなぜファンクなのか、ファンクを選んだのは川喜多長政。川喜多は、映画輸入業者として成功していた。陸士・陸大卒で日露戦争に従軍した軍人、川喜多かしこは妻。当時海外の映画を輸入して評判になっても、逆に日本の映画など輸出しようにもドイツでは見向きもされなかった。当時のドイツ人の印象では、日本人は黄禍論のままで“黄色い肌の眼鏡をかけた醜い猿”、女性は“蝶々夫人、芸者”。

原節子主演『新しき土』は完成するが、ドイツ人の製作する日本映画を企画したのが川喜多本人となっているが、これは本人の回顧録に書かれているからが理由らしい。真のプロデューサーは“ドクター・ハック”ことフリードリヒ・ハック(1885─1949)。結論を言えば『新しき土』によって、日本はナチス・ドイツの巧妙な策略に乗せられ、英米を敵に回す序章になった。映画製作と「日独防共協定」がリンクしているのは明白。昭和12年06月の近衛文麿内閣から日本は知らぬうちに坂道を転げ出した。

添付は「わが青春に悔なし」、大河内傅次郎、原節子、三好栄子。

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